翌朝、あたし達が宿を発(た)つ頃には、もうフリードの姿はなかった。
明け方早くにドヴァーフに向けて一人旅立ったらしい。
アキレウス達が納屋からクリックルを連れてくるのを宿屋の前で待ちながら、あたしはガーネットと彼の話をしていた。
「フリード、一人で大丈夫なのかな。魔物(モンスター)の数が増えてきているのに……目的地が同じなんだから、あたし達と一緒に行けば良かったのにね」
「あぁ、大丈夫、大丈夫。アイツ、ああ見えて実はかなり強いのよ。並の魔物じゃてんで相手にならないわ。それに、ばあちゃん達が近くの町で待っているんだろうし……」
事もなげにそう言い切ったガーネットの言葉に、あたしは目を丸くした。
へぇ、意外! 綺麗でほっそりした印象の男(ひと)だったけど……。
「人は見かけによらないものなんだね」
そう言うと、彼女はちょっと肩をすくめてみせた。
「その代名詞みたいなヤツね。ナメてケンカを売ってきたゴツい男達が、何度ヒドい返り討ちにあったことか……。容赦ないのよねー、ホント」
「へ、へーえ」
ガーネットがそう言うくらいだから、ホントにヒドかったんだろうなぁ……。弓の名手って言っていたけど、体術もかなりのものなんだ。
そんなフリードが弟子兼ボディーガードを務めるガーネットのおばあさん-----ゼンおばあさん。いったいどんな人なんだろう?
フリード以外にも何人かお供の人がいるみたいだし。ドヴァーフには旅行で行っているって前に聞いたけど、パトロクロスのお父さんのラウド王とも知り合いだし、実はとてつもなくスゴい人だったりするのかな。
「うちのばあちゃん? ちょっと白魔法の使える、旅行好きのただのばーさんよ。魔法の上達には実戦あるのみ! って、自分の旅行に弟子の人達を付き合わせてんの。ボディーガード代わりにねー。いい年して子供みたいに何にでも首を突っ込みたがるから、付き合わされる方は大変だと思うわ」
ははぁ……その環境でフリードは強くなったのか。
「実戦ともなれば、強くなるしかないからねー。弱けりゃすぐ死んじゃうし。みんな死に物狂いよ」
さらっと怖いコト言ってるなー……。
「かなり苛酷な修行だね……」
「まぁね。今のあたし達もそれに近いものはあるけれど……」
言われて初めて気が付いた。
あたし、それ、地でいってるじゃん!
「フリードも、ものスゴく努力してきたんだね……」
急に実感が湧いてきて、しみじみとした口調になってしまった。
「そうねー、努力したと思うわよ。昔はアイツ、チビでやせっぽちで、ホーント弱っちくてさー。女の子みたいな顔しているから、近所の悪ガキによくイジメられてて。そのたんびに、あたしがかばってあげていたのよねー」
ガーネットは少し遠い目をしながら、懐かしそうにそう呟(つぶや)いた。
「それが今ではあんなんなっちゃって。昔はケンカでも何でも、ぜ〜んぶあたしの方が強かったのに。人って、変わるモンね」
小さかった頃の二人の姿を思い浮かべて、あたしはちょっと笑った。
「ガーネットの方が強かったの、何だか想像できるなー。今もある意味、ガーネットの方が強いような気がするけど」
「アイツ、中身が子供のままなのよ。本能に任せて動いている時があるし……。特に女の子の前だと」
女の子の前……。
「ねぇ、フリードってさ、女の子の前だといつもあんなカンジなの?」
「そうよ。いっつもあんな」
「ガーネットもあんなふうにされたコトあるんだ?」
「まっさか! ないない、有り得ないって!」
ガーネットはそう言って盛大に吹き出すと、大げさに手を振ってみせた。
「フリードの方がひとつ年上だけど、アイツにとってあたしはお姉さんみたいなモンなのよ。冗談でもそんなコトしたら殴られるのが分かってるから、絶対にしてこないわ」
「そう……なの?」
「そうよ。懐(なつ)いているってカンジでしょ?」
確かに……そういう雰囲気ではあるけど、フリードがガーネットに対して抱いている感情は、それとはちょっと違うんじゃないかな。
他の女の子達とは差別化しているっていうか……大事にしているような気がする。
「それよりさー」
そんなことを考えていたあたしの顔を覗き込むようにして、ガーネットはきらーんと目を輝かせた。
「オーロラと、アキレウスよ。“まほろばの森”での話を聞いた限り、何だかとってもいいカンジじゃない。あたし的には、攻めるなら今! って気がするのよね。これから彼の故郷ドヴァーフだし、ねぇねぇ、どう攻めていく?」
「攻める、って……」
急に話を振られて、あたしは赤くなった。
「いや……別に、考えていないけど……」
「照れてる場合じゃないでしょー。アキレウスとの距離を縮めるいい機会じゃない。今まで知らなかった彼のことを知る、いいキッカケになるかもよ」
うー、そりゃそうだけどさー。
「あんまり悠長に構えていると、脇から出てきた女にかっさらわれちゃうわよ。アキレウスみたいなタイプは、ハッキリ言ってモテるんだから!」
うっ!
痛いところを突かれて、あたしはぐっと言葉に詰まった。
「あたしみたいに、とは言わないけど、オーロラはもっとアピールしていかなきゃ! “好き”っていうオーラを出していくのよっ!」
「オ……オーラぁ?」
乙女モード全開でアキレウスに好き好きオーラを送っている自分の姿を想像して、あたしは軽い眩暈を覚えた。
む……無理っ! きょとーんとしたアキレウスの顔が目に浮かぶよ〜!
そこへアキレウスとパトロクロスがクリックルを引いてやって来た。
「準備はいいかー?」
「あ……うん、いいよ!」
ドキッとして振り返ると、アキレウスはクリックルの喉元をなでながらこんな言葉をかけているところだった。
「今日も頼むぜー」
そんな彼の姿を見ているだけで胸がきゅーんとしてきて、あたしはそっと自分の胸元を押さえた。
うわ……ヤバいなぁ。さっきまであんな話をしていたせいか、今日はやたらアキレウスが眩しく見える。
バランスの取れた長身に、月光を紡いだようなアマス色の髪、精悍(せいかん)な顔立ちを際立たせる、野性的に輝く、翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳-----。
そうだよね……こんなのいたら普通、女の子が放っておかないよね。
っていうか、あたし、そんなにアキレウスのこと知っているわけじゃないし……知らないだけで、実はドヴァーフに彼女とかいたりして。
そこまで考えて、あたしは自分の勝手な想像に落ち込んでしまった。
うわ、それ最悪。有り得ないとは言い切れないだけにイタイっ!
そんな妄想を振り払うべく一人頭を振っていると、アキレウスが不思議そうな声をかけてきた。
「何やってんだよ」
「べっ、別にっっ」
思わず声をうわずらせてしまうと、彼はイタズラ小僧みたいな顔になった。
「時々妙な行動取るよな、オーロラって。邪念でも振り払ってたのか?」
「えっ!?」
ドキーン、と心臓が音を立てた。
-----その通りだなんて、まさか言えないッ!!
「なっ、何言ってんのっ、クリックルの手綱なんか握ってみたいかなー、なんて、そんなコト考えてたりしてっ」
とっさに口を突いて出たあたしのでまかせに、アキレウスは目を丸くした。
「へぇ……やってみる? 別にいいけど」
「え゛え゛ッ!?」
「アストレア城でパトロクロスから馬の乗り方を習ってただろ? ここに来るまでにも何回かクリックルに乗る練習していたし……いい機会だからやってみなって。数はこなした方が絶対上手くなるから」
た、確かにパトロクロスに馬の乗り方は習ったけど……時間もなくて二回教わっただけだし。クリックルでも応用が利くって言われたから、休憩を利用してチャレンジはしていたけど。
何だか、とんでもないことになってきちゃったぞ。
「大丈夫……かな」
ぽそっと自信なさげに呟くと、パトロクロスが太鼓判を押してくれた。
「オーロラはけっこう筋(すじ)がいいから大丈夫だと思うぞ。後ろにアキレウスも乗っているわけだし……何にしろ、乗らないことには上達しないからな」
そっ……か。アキレウスが一緒に乗ってくれるから、大丈夫か。
パトロクロスのその言葉でちょっと安心したら、俄然(がぜん)やる気が湧いてきた。
よーし! 元々、その為にパトロクロスに習ったんだもんね。
やってみるかっ!!
-----ということで。
思いもよらずクリックルの手綱をとることになったあたしだったけど、やってみたら意外とスムーズに乗りこなすことが出来た。
クリックルがよく調教されていて頭がいいことも大きかったんだろうけど、普通に走らせている分には問題なし。
あたしってば、本当に筋がいいのかも!?
「なぁーんか、違和感のある光景ねー、オーロラがアキレウスを後ろに乗せて走っているなんて」
並走するクリックルからガーネットが声をかけてきた。
「へへー、新鮮でいいでしょ。楽しいっ」
そう答えるあたしの後ろでアキレウスが笑った。
「本当にけっこう上手いぜー。やるじゃん」
「ホント!? 嬉しいっ」
やったね、アキレウスにほめられちゃった!
「何といっても教え手が良かったんだな」
パトロクロスは満足げにうむうむと頷くと、後ろのガーネットを振り返った。
「ガーネットもたまにはどうだ?」
「えー? パトロクロスが後ろから抱きついてくれるならいいけどー」
そう返されて、パトロクロスはすぐ赤くなった。
「だっ、誰が抱きつくかッ」
「じゃあイヤ〜」
ぴったりとパトロクロスの背中に頬を押し当てて、ガーネットが首を振る。
「やっ、やめろッッ」
鎧(よろい)を着ているわけだし、そうダメージはないと思うんだけどなー。
そんなことを思いながら見慣れた光景を眺めていると、思い出したようにガーネットが口を開いた。
「あ、そういえばフリードがさー。ドヴァーフでもしまた会えたら、今度はみんなともっと話したいって言ってたわよ。今回は時間がなくて、ゆっくり話せなかったから-----って」
その言葉に、ピク、とパトロクロスが反応したように見えた。
あたし達には何も言わないんだけど、パトロクロス、ガーネットのこと意識し始めているみたいなんだよね。本人がそれを自覚しているのかどうなのかは微妙なんだけど。
「……他には」
ぼそっと呟いたパトロクロスの声に、ガーネットが少し身を乗り出した。
「何? パトロクロス」
そう尋ねる彼女に、彼は少し言いにくそうにしてこう聞いた。
「……他には、何か言っていなかったのか」
「え?」
「いや……何でもない」
赤くなって正面に向き直ったパトロクロスを見て、ガーネットは大きな茶色(ブラウン)の瞳をキラキラと輝かせた。
「パトロクロス、もしかして……妬いているの!?」
「な゛っ……」
「嬉しいッ!!」
ぎょっとして振り返るパトロクロスの腰に、満面の笑顔を浮かべてガーネットが抱きつく!
「バッ、違っ……はっ、離せーッ!!」
ぎゃあ〜っ、と上がるパトロクロスの悲鳴を聞きつつ、あたしとアキレウスは溜め息をもらした。
「ちょっとは進歩……しているのかな?」
「どうなんだかなー……」
神のみぞ知る……ってトコかね? あたし的には、とってもお似合いの二人なんだけどなぁ……。
あたし達の頭上を複数の影がよぎったのは、その時だった。
! 魔物(モンスター)っ!?
見上げると、人の頭ほどの大きさもある、巨大な蜂の魔物があたし達目がけて急降下してくるところだった。
きゃあっ!
「ジャイアントビーか!」
舌打ちして、アキレウスはあたしにこう指示した。
「オーロラ、このまま真っ直ぐ走れ! オレがやる!」
「う……うんっ!」
頷いて、あたしはクリックルが真っ直ぐ走るよう制御することだけに努めた。っていうか、それだけでいっぱいいっぱいで、他に何かする余裕なんてなかったんだけど。
こうなる可能性を忘れていたよ、わーん!
「はっ!」
不気味な羽音を唸らせて襲いかかるジャイアントビーを、アキレウスが一刀のもとに斬り伏せていく。
「もうっ、何なのこの数の多さはっ!」
「まったくだな!」
ぼやくガーネットとパトロクロスの言う通り、倒しても倒してもジャイアントビーの数は減る気配がない。
「仲間を呼んでやがるんだ……キリがないな」
いまいましげに吐き捨てて、アキレウスは大剣を構えた。
「飆風(ひょうふう)-----……」
「クエェェーッ!!」
彼が技を繰り出そうとしたまさにその刹那(せつな)、突然クリックルが暴れ始めて、あたしは思わず悲鳴を上げた。
「きゃあッ!?」
何!? どうしたの!?
「しまった! 刺されたか!?」
アキレウスが体勢を立て直しながら叫ぶ。
どうやら、死角にいたジャイアントビーがクリックルを刺してしまったみたい。
恐慌状態に陥ったクリックルは、けたたましく鳴きながら、もの凄いスピードで暴走を始めた。
きゃあぁぁぁーっ!!
「とっ……止まって……落ち着いてぇーっ!!」
あたしは何とかクリックルをなだめようと試みたけど、完全に制御不能状態。にわか仕込みのあたしの腕ではどうすることも出来なかった。
「オーロラ、しっかり掴まってろ! 落ちるなよっ!!」
叫びながら、アキレウスは片手で手綱を掴み、追いすがるジャイアントビーを振り向きざま斬り捨てた。
「くっ……このスピードで、片手で大剣(コイツ)を扱うのはキツイか……!」
アキレウスの愛剣、ヴァースは大剣。本来は両手で扱う代物だ。普段ならまだしも、暴走するクリックルの上じゃ……!
目の前の光景を見て、あたしはハッと息を飲んだ。
「アキレウス! 前っ……!」
すぐそこに、森が迫っていた。
「! 伏せろっ!」
彼が叫んだ次の瞬間、あたし達を乗せたクリックルは、猛スピードのまま木立の中へと突っ込んでいった。
「きゃあーッ!」
無数の枝葉が凄まじい勢いで目の前に迫ってくる。それらに体当たりしながら、なおもクリックルのスピードは緩まない。
きゃあっ、木! 木! ぶつかっちゃう!!
「くっ……!」
アキレウスの絶妙な手綱さばきで何とか激突をまぬがれた次の瞬間、バランスを崩したクリックルの背から、あたし達は勢いよく放り出されていた。
「きゃっ!」
「うわっ!」
どしーん、と地面に転がったあたし達に、追ってきていたジャイアントビーが襲いかかる!
「-----ッ!」
アキレウスはとっさに腹筋を使って上体だけ起こすと、素晴らしい反射神経でジャイアントビーを一刀両断にした。
どうやら、これが最後の追っ手だったみたい。
それを確認したあたし達は、一気に全身の力が抜けていくのを感じた。
「はぁ〜っ、助かったぁ……」
「どうなることかと思ったぜ……」
深く息を吐いて顔を見合わせたあたし達は、その時になって初めて、お互いの顔がひどく近くにあることに気が付いた。
仰向けで肘を立てた状態のあたしのすぐ頭の上に、上半身だけ起こしたアキレウスの顔があった。
あ……。
いつかのデジャヴが頭の中をよぎった。
ローズダウンの王宮で-----そういえば、これに似たようなことがあった。
あの時は、真っ赤になった顔をアキレウスに笑われて、完全に遊ばれちゃったんだっけな。
けれど今、彼の顔は笑ってはいなかった。
至近距離で、翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳が、静かにあたしを見つめている。
一瞬その顔に見とれていたあたしは、ハッと我に返り、慌てて顔をそらして起き上がった。その時、右手の小指にチクンとした痛みが走った。
「痛っ……」
振り返ると、すぐ背後に棘の鋭い植物があった。どうやら起き上がった拍子にこれに当たってしまったみたい。
棘には硬めの産毛のようなものがビッシリと生えていて、その産毛が小指の腹に刺さってしまっていた。それを抜くと、ぷっくりと血が一滴(ひとしずく)、にじみ出てきた。
「コイツが刺さったのか」
アキレウスはそう言うと、あたしの手を取り、おもむろにその小指の先を口に含んだ。
え。
突然の出来事に反応できず硬直するあたしの前で、アキレウスは二・三度きつく傷口を吸うと、吸い出した血を地面に吐き捨てた。
なっ……ななっ、なっ……。
「コイツはケラールっていう植物で、棘の先に微量な毒素を含んでいるんだ。死ぬことはないけど、放っとくとけっこう腫れる。そうならない為の、応急処置」
「あ……そ、そうなんだ……」
バクバクと壊れそうになっている心臓を抑えつつ、動揺しまくりながら答えたその瞬間、
「クエッ」
きゃっ!
横合いから大きなくちばしがにゅうっと現れ、あたしは思わずビクッとしてその闖入者(ちんにゅうしゃ)を見上げた。
ク、クリックル! ビックリしたぁっ……。
心臓が飛び出しかねない勢いだったあたしとは対照的に、アキレウスは何事もなかったかのようにクリックルに歩み寄ると、そっとその首筋をなでた。
「転倒した衝撃(ショック)で我に返ったか……オーロラ、他にケガはなかったか?」
「え……あ、うん……平気」
おしりがちょっと痛かったけど、あとは平気。生い茂る草がクッション代わりになってくれたみたい。
「アキレウスは?」
「オレも平気。……ここを刺されたのか」
クリックルの左足の付け根辺りを調べながらアキレウスが言った。
そこだけ、藍色の羽毛が血で変色して、黒光りしている。
その傷の痛々しさに、あたしは胸が痛くなった。
「ゴメンね……あたしがもうちょっと上手かったら、こんなふうにならなかったかもしれないのに」
申し訳なく思いながらそのくちばしに触れると、クリックルはまんまるい黒い瞳を瞬かせて、クエッ、と短く鳴いた。
「そう気にするなってさ。傷はそんなに深くなさそうだし、血も止まり始めている。ガーネットが来たら治してもらおう……大丈夫だよ」
「……良かった」
ホッと息をつくあたしに、アキレウスはちょっと笑いかけた。
「初心者にしては上出来だったよ。普通に走っている分には問題なかったし、後は経験だな。もう何回か乗ればかなり上手くなるんじゃないか?」
「ホ、ホント? ホントに?」
あたしは藍玉色(アクアマリン)の瞳を見開いて、アキレウスを振り仰いだ。
「パトロクロスも筋がいいって言ってただろ? 自信持てよ」
「う……うんっ!」
我ながら単純だと思うんだけど、嬉しくて嬉しくて、満面の笑顔になった。
頬を染めて一人拳を握りしめ、喜びをかみしめていると、その様子を見ていたアキレウスが、掌であたしの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「? 何?」
「……いや、何となく」
「アキレウス、オーロラー!」
その時、森の中に入ったあたし達を追って、パトロクロスとガーネットが駆けつけてきてくれた。
「大丈夫か?」
「あぁ、何とか」
二人に手を上げてアキレウスが答える。
「ただクリックルがジャイアントビーに刺されて……ガーネット、診(み)てくれるか」
「……あぁ、ここね」
ガーネットはクリックルの傷の様子を見て取ると、回復呪文を唱え始めた。
「これでよし! 毒には冒されてなかったし……もう大丈夫よ」
ホッ!
安堵に胸をなで下ろしたあたしの隣で、ピクッとアキレウスが顔を上げた。
「どうした? アキレウス」
尋ねるパトロクロスに、シッと唇に指を当ててこう呟く。
「何か聞こえる-----」
「え?」
彼にならって耳を澄ますと、かすかに人の声のようなものが聞こえてきた。
子供……? ううん、女の人……の声……?
助けを求めている-----!?
「こっちだ!」
叫んで、アキレウスが駆け出した。
「あ、ちょ、ちょっと!」
クリックルの手綱を持って、あたしも慌ててその後を追おうとしたけれど、こんな木立の中じゃ、クリックルに乗ることも出来ない。
「ガーネット、先に行ってくれ。ケガ人がいるかもしれん」
「分かったわ!」
パトロクロスに促されて、ガーネットがひと足先にアキレウスの後を追った。
「よしオーロラ、私達も急ごう」
「うん!」
クリックルの手綱を引きつつ、生い茂る木々の間を縫うようにして、あたし達が現場に着いた時には、アキレウスが崖から落ちかけていたらしい女の子を無事引き上げたところだった。
浅黒い肌に、金色の瞳。瞳と同色の髪を頭の後ろの高い位置でひとつに結い上げ、そのまま垂らした、あたしと同い年くらいの女の子。革製の軽量の鎧を身に着けている。
膝から足首にかけて深い切り傷を負っていたけれど、ガーネットに魔法で治してもらって、彼女は涙ぐみながらお礼を言っていた。
「もぅ本当に本当にダメかと思ったァ〜、本っっ当にありがとう」
「こんなところに一人で何しに来ていたんだ? オレ達がたまたま通りかかったから良かったけど、危ないじゃないか」
「そうよー、ホントにたまたまだったんだから。あなた、相っ当運がいいわよー」
アキレウスとガーネットにそう言われて、彼女は苦笑いした。
「あたしもそう思うよ。ここへは薬草を取りに来ていたんだけど……あ、あの崖のトコに生えてるヤツね。いつものことだから、気が緩んじゃったのかなァ。足踏み外して、その拍子に笛まで落としちゃってェ、あんた達が来てくれなかったら、ホ〜ント死んじゃうトコだったよ。ヤバイヤバイ」
軽い調子で肩をすくめてみせると、彼女は傍らに落ちていた銀の鎖(シルバーチェーン)のついた笛を拾い上げ、それを首にかけた。
いつものこと……?
あたしと同じく、アキレウスもそこが気にかかったらしい。
「いつも、こんなところに一人で来ているのか?」
「そうだよ」
あっけらかんと答える彼女に、ガーネットが目を丸くした。
「どうやって? 近くに町なんてないし、あなた馬やクリックルも連れていないじゃない」
「へへー」
彼女はイタズラっぽく笑うと、首にかけた笛を手に取り、それを吹いてみせた-----け、ど。
あれ? 音が……しない?
「超音波笛-----」
あたしの隣でパトロクロスがそう呟いた、次の瞬間-----風が、動いた。
突如生まれた気流に、顔を上げたあたしの目に映ったものは-----……。
「!!!」
驚きのあまり、あたしはとっさに近くにいたパトロクロスにしがみついてしまった。
「オ、オーロラ……」
ピキッ、とパトロクロスの身体が硬直する。
あ、ゴメン! でっ、でも……これは仕方がないと思う! 誰だってビックリするって!!
巨大な翼を羽ばたかせて、突然翼竜が舞い降りてきたんだから!!
アキレウスとガーネットも息を飲んで、目の前の光景を見つめている。
「あたしはガゼ族のイルファ。“竜使い(ドラゴンマスター)”だよ。この笛を使って、竜(ドラゴン)を自在に操ることが出来るんだ-----そこの彼はこの笛のコト、知っていたみたいだけどね」
そう言って、イルファはパトロクロスにウィンクした。
「あんた達は命の恩人だよ、本っっ当に感謝している。今は何もお礼するようなモノがないけどォ-----」
彼女はそこで言葉を区切ると、スッと腕を伸ばしてアキレウスの頬に触れ、そして-----彼の唇に、軽くキスした。
え゛。
虚を突かれて固まるあたし達には全く気が付かない様子で、彼女はガーネットの頬にも同じようにキスすると、
「これはあたしの気持ち! 今度あたしの村に来てよ、たァーくさんお礼するからッ! ドヴァーフの王都のず〜ッと西の森ン中だよ、ぜぇったい来てッ! じゃあねェ〜ッ」
とびっきりの笑顔でそう言い残して翼竜の背に飛び乗ると、嵐のように去っていってしまったのだった。
「…………」
後に残されたのは、呆然としたあたし達四人と二羽。
え……え、えぇ〜ッッ!? 何それぇ〜ッ!? な、何でアキレウスだけ、ほっぺじゃなくて口なのぉッ!?
「……まいったな。オレがパトロクロスだったら死んでるぞ」
ぼそっと呟いたアキレウスの言葉にパトロクロスが耳ざとく反応した。
「そういう例えはやめんかッッ」
す……すっっごいショック……。
痛恨の一撃を受けて人知れずよろめくあたしの肩を抱き、ガーネットが耳元で囁く。
「オーロラ、今のは事故よ、事故っ!」
「じ……?」
「そう、事故よっ! 当人同士の気持ちがこもってなければ、何の意味もないんだからっ!」
確かに……アキレウスはもちろん、イルファの方にも恋愛感情みたいな気持ちは全くなかったんだろうな。名前すら聞かずに行っちゃってるワケだし……。
で、でも、そういう理屈とかじゃなくって、単純に二人がキスしちゃったっていうのがすっごいショックで……。
「ガゼ族、か-----人の耳には聞こえない、超音波を出す笛を用いて、竜を操る一族がいると耳にしたことはあったが-----……まさか、ここで相見(あいまみ)えることになるとは思わなかったな」
「ドヴァーフの王都のずーっと西の森の中、って言ってたわね。アキレウス、知ってる?」
ガーネットにそう聞かれて、アキレウスは軽く首を振った。
「噂程度には聞いたことあるけど、詳しいことは……ガゼ族は確か、警戒心が強いことで有名な部族で、外界との接触は極力避けるような生活をしているって話だったが……」
「そうなの? あのイルファって娘(こ)は、そんなふうに見えなかったけど……」
視線を地面に落としながらそう言うと、彼は肩をすくめてみせた。
「何にでも例外はあるってコトじゃないか? 冒険者達の間では、謎に包まれた部族ってんで、昔からちょっとした話題になっているんだ。オレも見たのは初めてだよ。近くで見るとスゲーよなぁ。あんな笛ひとつで、竜を操ってんだもんなー」
「確かにそうそう見れるものではないな。そういう意味ではジャイアントビーの襲撃もある意味ラッキーだったか……な、アキレウス?」
含みを持たせた言い方で、パトロクロスがニヤリと笑う。
「何だよ」
アキレウスは珍しくちょっと赤くなると、ふてくされた表情でこう呟いた。
「あんなのちょっと挨拶されただけだろ。……そろそろ行こうぜ、日が暮れちまう」
踵(きびす)を返して歩き出した彼の後を追って、あたし達も歩き出した。
「な〜んか、嵐みたいな娘(こ)だったわねー」
「ん……」
隣を歩くガーネットに頷き返しながら、あたしは右手の小指を見、そして前を行くアキレウスの背中を見た。
今は、まともに彼の顔を見ることが出来そうになかった。
ともすると、彼の唇に目が行ってしまいそうで……。
小指に残るアキレウスの熱が、イルファとの残像が、あたしの胸にチリッとしたものをかきたてる。
切なくて、愛しくて、狂おしい-----それは、恋というものに飲み込まれていきそうな、予感。
今まで覚えたことがないその感覚に少し怖いようなものを感じながら、あたしはクリックルの手綱を握る手に力を込めた。
どんどん大きく育っていくアキレウスへの想いが、いったいどこまで募っていくのか-----先の見えない嵐のような、そんな予感に、あたしはそっと心を震わせたのだった。