Beside You 3

03


 カーラがガラルドの部屋を訪れたのは、夜もだいぶ更けてからのことだった。

 しばらく彼の部屋でカーラが来るのを待っていたフユラも自室へと戻り、今この部屋には彼しかいない。

「ずいぶんと遅かったな」

 そう投げかけたガラルドに対し、戸口に佇んだカーラの返答は事務的だった。

「申し訳ない。仕事が立て込んでいてな……部屋へ入っても?」

 ガラルドが無言で中に招き入れると、カーラは後ろ手にドアを閉めた。枕元のカンテラが照らし出す薄暗い部屋の中で、怜悧な光を湛えたカーラの灰色の瞳がほんのりと輝いているのが分かる。彼女も素性を隠すつもりはないようだった。無駄なことと悟っているのだ。

「こんなところで『同胞』に会うとはな……」

 カーラは物憂げに呟いた。

「こっちの台詞だ。まさかあんな胸糞悪(わり)ぃ野郎に雇われている物好きな同胞(ヤツ)がいるとはな……なんであんな野郎に雇われている?」
「その胸糞悪い輩にお前も雇われた口だろう。頭が悪いのか? しかも今は、お前の言う物好きな同胞の指揮下に置かれた身のはずだが?」
「あぁ? てめぇ、ケンカ売ってんのか!? オレは金の為に一時的に雇われてやっただけだ! 誰が好き好んであんなクソ野郎に仕えるか!!」

 カーラは小さく鼻を鳴らし、ガラルドをいなした。

「雇われていることに変わりはないだろう。結局、生きていく為には金が必要になる。私も、お前もな……人間にも魔人(ディーヴァ)にも属さない、だが、魔人のようには生きられない……ならば不本意だろうが何だろうが、ひっそりと人間の側で共生していくしかない。だいぶ前に、私はそういう結論に至った。ならば金回りは良い方がいいと、今ではそう割り切っている」

 人間にも魔人(ディーヴァ)にも与し得ない、どちらからも受け入れてなどもらえない―――だがそうと知りながらも、どこかで折り合いをつけて生きていかなければならない、半魔と呼ばれる存在の自分達。

 カーラは決して短くはない、平坦とは到底呼べるはずもなかっただろうこれまでの人生経験から、彼女なりにそう結論を得たのだ。

 ガラルドの見解とは異なるが、それもひとつの考え方として理解出来た。

「私から言わせれば、人間の小娘と一緒に行動しているお前の方が驚きだ。変わった趣味だと、最初は目を疑ったよ」
「かっ……!? ちょ、待て、誤解すんな! 言っとくが、オレはロリコンじゃねぇぞ!」
「ロリコン? ああ、そうだったのか……そういう意味ではなく、単純に特定の人間と行動を共にしている同胞は珍しいという意味だったんだが……まあお前がどんな嗜好を持っていようが私には興味がない。見苦しい言い訳はしなくていいぞ」
「いや、待て!? 改めて誤解すんな! そこを誤解されんのはオレ的に我慢出来ね―――」
「私的にはどうでもいいことだと言っているだろう。仕事の話をするぞ、時間が惜しい」

 ぴしゃりと遮られ、にべもなく切り捨てられて、ガラルドとしては非常に不本意ながら、この時点での釈明は叶わぬものとなってしまったのである。



*



 カーラによると、ウォルシュの言う『敵対するある組織』とは『フォルセティ』と呼ばれる過激派の集団であるらしい。

 以前から存在する組織ではあったのだが、十数年前から急にその思想や手段が急進的になり、近年は評議会でもたびたび取り沙汰されているいわくつきの集団とのことだった。

 彼らの理念は“自然との共生”。神が創り出したこの世界に不必要なものはなく、また足りないものもないというのが彼らの持論だ。

 彼らの主張によれば、性急すぎる魔法技術の開発は世界の均衡を崩すもので、神への冒涜に値するのだという。

 呪術とは、神より与えられし己が魔力を源に様々な現象を具現化する魔法のチカラ―――これを切磋琢磨すること自体は、フォルセティ的にも問題はないらしい。だが―――魔法技術の開発という名目の下、それに必要以上に人の手が加わり、加速度的に発展することで世界の均衡を崩し得る恐ろしいチカラが生み出されてしまうことを、彼らは危惧しているのだという。

 例えばそれで一部の人間だけが驚異的な力を持つような事態が訪れた場合、力を手に入れた者は、力なき者に対してどのように振る舞うのか―――戦争など、過去の事例を鑑(かんが)みても、力ある者は往々にしてそれを振りかざしたがるものだ。

 世界の均衡を崩しかねない脅威となるようなチカラ―――一部の人間がそれを得ることによって他者や他の生物に害が及ぶような事態―――例えば種の絶滅など―――が起こってはならない。そんなことは言語道断だ。

 それは、神の領域だ。

 人は決して、神の領域に手を出してはならない。

 それが、フォルセティの概念。

 独自の魔法技術の探求を観念形態(イデオロギー)に、新しい呪紋の研究や開発が日夜盛んに行われているアヴェリアだが、フォルセティはこれに真っ向から反対する組織のようだ。

 まあ、個人的にはフォルセティ側の言い分にも一理ある、とガラルドは心の中で思う。

「フォルセティは近年評議会に属する呪術師や有識者を目の敵にしている。その頂点の一角を担うウォルシュは槍玉の筆頭なのさ。今までも脅しや小競り合いは散々あったが、今回はどういうわけか、あちらは今までにないほど本気らしい」
「……実際にそんな危ねぇ研究がここでされてんのか」

 そう問いながらガラルドの脳裏に浮かんだのは、以前アヴェリアについて語っていたある少女の姿だった。



『そうだなー、ひと言でいうと、“良くも悪くも魔法文明が進んでいる街”かな。新しい呪紋の研究や開発が進んで、夜でも街の灯りが煌々と輝いていたり、生活はどんどん豊かになっているけれど、一方で高みを目指すあまり、物事の善悪の境界線があやふやになっちゃってるっていうか……。魔法技術の探求の名の下に、神の領域を侵すような実験が平気で行われていたりするの。理性と狂気が表裏一体になっている、怖い街だよ』



 ハルヒ―――現在(いま)よりもう少し先の時空からやってきた、未来のフユラ。



 おどろおどろしい物言いに当時、「神の領域を侵すような実験……?」と尋ねたガラルドだったが、彼女の口から語られた内容は、まさにそうとしか言いようのないものだった。



『魔人(ディーヴァ)っているよね。普通の人間じゃ、どんなに束になっても敵わない存在。じゃあ、人間を、人間の手で進化させてみたらどうだろう? 魔法の力をもって人を進化させていったなら、もしかしたら人間が魔人(ディーヴァ)に立ち向かえる日が来るかもしれない。―――それが、アヴェリアの多くの呪術師や学者達の考え方。夢の人類の誕生の為に、生まれる前の多くの胎児達がその犠牲になったって話だよ』



 そして彼女は、その『夢の人類』だった。



 アヴェリアではやはり、そうした研究が極秘裏に行われているのだ。

 セラフィスという名の魔人(ディーヴァ)によってフユラと彼女の母親がこの街から消えたその後も、公に出来ないその研究は密かに続けられ、今おそらくはこの時も、この街のどこかで、ひっそりと行われているのだ。

 フォルセティは、どこからかその情報を掴んできている。

「……さてな。そういう情報は私のところには上がってきていない。フォルセティは思い込みの激しい狂信者の集団で、自分達の思想に酔いしれた英雄気取りの愚か者共が、確たる証拠もなく騒ぎ立てているだけ……というのがアヴェリアに住む大多数の者の見解だ」
「確かウォルシュともう一人、スレイド……っていうのがこの街で一、二を争う実力者なんだよな。じゃあそいつの方にも……?」
「流れの傭兵でも知る二枚看板の一人だ、当然いっているだろうな。……何故、スレイドを気にする?」

 何気なく口にした疑念をカーラに反問され、ガラルドは内心ぎくりとしながらとっさに言い繕った。

「こっちと同じ状況なら、向こうにも雇い口があるかもだろ」
「選り好みなど出来ると思うのか? 流れの傭兵など普通は門前払いだ、それに今のお前はウォルシュの息子の護衛として雇われただけであって、ウォルシュ本人の警護として雇われたわけではないんだぞ」

 カーラはそれ以上特に怪しむ様子を見せなかったが、ガラルドはこっそりと気を引き締め直した。呪印を解くまではウォルシュにもスレイドにも死なれては困るという思いからつい出てしまった言葉だったが、危なかった。

 フユラにも気を付けるように言っておかなければならない。

 これまでと違って、ここでの情報収集には骨が折れそうだ。



*



 翌朝、ガラルドから話を聞いたフユラは真面目くさった顔で頷いた。

「じゃあ、あたし達の仕事はレイオールの護衛に限られているんだね」

 カーラ曰く、フユラが呪術師であることをその装いから悟っていたウォルシュは始めから彼女込みでガラルドを雇ったらしい。

 彼らの任務内容は24時間態勢でのレイオールの警護、期間は本日よりフォルセティの脅威が去ったと判断されるまでの不定期だ。

「ああ。それを理由に、フォルセティが今回起こそうとしている具体的な行動やその狙いなんかは一切伝えられなかった。完全に蚊帳の外、レイオールのお守りだけしてろってこった。まぁそれはそれでいいんだけどな、面倒くさくなくて」
「あはは、そうだね。でも、それだとしばらく『叡智の樹』に行けなくなっちゃうね」
「二人そろって行くってのは当分無理だろうな……仕方ねぇ。ま、考え方を変えりゃ、祭りさえ終われば叡智の樹にはいつでも行けるからな。今はこっちに集中しよう」

 護衛対象のレイオールの部屋へと向かいながら、ガラルドはそう言った。屋敷の間取りは、昨日カーラからもらった見取り図で頭に入っている。

「夜間の警護は基本的にオレがやる。ただ、そうなると周りの手前、昼に仮眠を取らざるを得なくなる。そうすると日中お前だけでレイオールのお守りをしなきゃならねぇ時間が出てくるが……平気か?」

 魔人(ディーヴァ)との混血であるガラルドは、本来数日程度ならば睡眠を取らなくても支障はない。だが、それを周囲に知られるわけにはいかなかった。

「うん。レイオールももうあんなことしないって言ってたし……あたしもガラルドの相棒として、自分の仕事はキッチリこなすよ。任せて!」
「頼もしい、ってことにしとくかな」

 ガラルドはひねくれた物言いをしたが、呪術師としてのフユラの力量には一目置いていた。もともとの素地と彼女自身の努力が相まって、最近のフユラの成長にはめざましいものがあった。

 能力を完全に解放したら、どれほどのものなのか―――。

 彼女のほっそりとした左手首に刻まれた呪印。それを覆い隠している物々しい護符のついたリストバンドを視界の隅に捉えながら、そんなことを思う。

 フユラを付け狙うセラフィスという魔人(ディーヴァ)に居所を知らしめてしまうことになるから実際には出来るはずもなかったが、それを見てみたいという思いは以前から彼の中にあった。

 ハルヒと名乗った未来のフユラが能力を完全解放した瞬間を、ガラルドは目にしていないのだ。

「ああ、ガラルドさん、フユラ、今日から宜しくお願いします」

 身支度を整えたレイオールはどこか浮かない顔をしていた。

「何だかすいません、色んな意味で……」
「別にお前が謝ることじゃねぇだろ。この仕事を引き受けんのを決めたのはオレ達なんだ」
「それは、そうですけど……父のやり方は色々と非礼極まりないですよ。オレにだって何の相談もなく……。ったく、24時間って何考えてんだ、あの親父。当面外出も控えろとか、一方的に勝手なことばかり言いやがって」

 どうやら父の監視下に置かれて全ての行動を制限されてしまう、というのがレイオールには我慢ならないらしい。

「こういうことには慣れてんじゃねぇのか? フォルセティって奴らとはこれまでも小競り合いがあったんだろ」
「24時間警護っていうのは初めてです。今までは外出の時に警護がつくくらいで……それが今回は……。いや、これこれこういう事情でってキチンと説明してもらえればオレだってこんな不満は漏らしませんよ。子供じゃないんですから」

 レイオールは憤然とした面持ちでガラルドに訴えた。

「24時間態勢での警護が付くってことは、それだけの事態が起ころうとしているってことでしょう? なのにそういう情報が一切伝えられない。具体的にどういう危険があるのか伝えてもらえれば、オレだって自分なりに対処出来ることもあるのに。それをさせてもらえない、だから腹が立つんです。父はいつもそうだ」

 はしばみ色の瞳に苦い光を揺らし、レイオールは歯噛みした。

「あの人はオレを『物』だと思っているんです。自分の意向に従う『物』だと。だから相談などしない、常に自分の中で決めたことをただ上から押し付ける。オレの意見になど耳も傾けない。自分が思い描いた道の上を、ただ歩かせようとする」

 感情のままに言い切ってしまってから、レイオールはハッとした様子で取り繕った。

「あー……何熱くなってるんだろ、オレ。一人で気持ち悪いですね、今の忘れて下さい」

 昨日の様子からウォルシュ親子が円満な関係ではないらしいと感じてはいたが、どうやらレイオールの方は父親に対してかなりの鬱憤が溜まっているようだ。

「……お前“も”蚊帳の外なんだな」

 ガラルドがそれだけ言うと、レイオールはほろ苦く笑った。

「そっか、二人にも今回の件の詳細は伝えられてないんですね。フォルセティは何が目的で、その為にどんな行動を起こそうとしているのか……。普通の親子、って違うんでしょうね、きっと……」

 ガラルドとフユラは顔を見合わせた。レイオール以上に普通の親子関係とは縁遠い二人である。

 独白に近いレイオールの呟きにガラルドは沈黙を守ったが、フユラは今までの浮ついたイメージと違う彼の意外な一面を見て、何か声をかけてあげたいと思った。

 レイオールの言葉の端々からは彼自身は認めたくないだろうが、父親への渇望が滲んでいたのだ。

 自分を見てほしい、想ってほしい、信頼してほしい。

 共に、分かち合いたいと思っているのに―――。

「レイオール、あなたを守りたいって思ってるお父さんの気持ちは信じてあげようよ。あたし達みたいな流れの傭兵を雇ってまで、あなたを守ろうとしているお父さんの気持ち……生きている限り、レイオールがあきらめない限り、今のレイオールが思っていること、悩んでいること……いつかきっと、お父さんと分かり合えるって信じようよ。心の底でお互いがお互いを大切に思っているなら、いつかきっとそういう時が来るよ」

 フユラからそんな言葉をかけられるとは思っていなかったのだろう、驚いた様子で彼女を見たレイオールの口から、ぽろりと本音が漏れた。

「フユラ……君って、いい娘だなぁ〜。本気で好きになりそうかも……」

 え゛、とフユラが固まる。即座に隣のガラルドから殺気を纏ったプレッシャーが放たれた。

「レイオール、てめぇ、コイツに妙な真似しやがったら二度目はねえぞ。フォルセティより先にオレが引導渡してやる」
「そ、それって契約反故じゃないですか」
「知るか!」
「あーもう、顔がマジで怖いですって! でもガラルドさん、確認ですけど、ガラルドさんはフユラとは恋愛関係にないんですよね!?」
「当たり前だ!」

 即答する保護者の青年に、フユラの胸がちくりと痛む。

「じゃあ、オレ勇気を振り絞って聞きますけど、オレが本気でフユラを好きになって、フユラもオレのことを好きになってくれたら、その時は問題ないんですか!?」
「それ、は―――」

 言い淀み、ちらりとこちらを見やる保護者の青年の回答を、被保護者の少女は期待と不安の入り混じったような、何とも言えない表情で見つめている。

「それは―――その時のお前次第だ。お前がオレの認めるような男になっていれば……」

 どこかで耳にしたような使い古しの言い回しの語尾は、ガラルドらしくなく、ごにょごにょと消え入るようなものになる。

 正直、そういうパターンは想定したことがなかった。

 だが、考えたことがなかっただけで、それがむしろ自然なことなのだと、唐突にガラルドは気付かされた。

 ガラルドがフユラを恋愛対象として見ないということは、そういうことだ。

 彼が保護者としての立場を貫くなら、誰かが彼女を一人の女性として求めた時、その誰かと同じステージに立つことはない。そして彼女がその誰かに応えた時、彼女は彼の手を離れ、その誰かの元に寄り添うようになるのだ。それを、彼は見届けねばならない。

「ホントですか!? やったぁ、オレ、頑張ります! まだまだ道は遠いけど、まずはフユラに好きになってもらえるように! はは、とりあえず堂々と頑張れるようになって良かったぁ〜、というワケでヨロシク、フユラ!」
「ヨロシクも何も、あたしがレイオールをそういうふうに思うことは、ないから!」

 ばっさりとフユラに断られても、レイオールは笑顔だった。

「うん、今はそれでもいいよ。人の気持ちなんて、これから次第でどうにでも変わっていくものだからね」

 恋愛経験豊富な彼にとって、今の状況はさして悲観するほどのことではないらしい。

 そのおかげで、夜の休憩時間になるまでフユラは散々だった。何しろ警護対象のレイオールから離れることが叶わない雇われの身である。

 あんなに喋る男の人、初めて見た……。

 何せ、普段一緒にいる保護者の青年が基本的に無口ときている。

 あてがわれた部屋のベッドに倒れこむようにして転がりながら、フユラは大きな溜め息をついた。

 この仕事、いったい何日続くんだろ? ああもう、ちょっと同情したからって余計なこと言うんじゃなかった……。

 後悔先に立たず。

 睡眠を取った後は、今は寝ずの番でレイオールを警護しているガラルドと交代しなければならない。そのままガラルドは仮眠を取りに行くことになっているから、その間はレイオールと二人きりだ。

 あ〜、もう、憂鬱ー!!

 フユラは頭をかきむしりたくなった。

 今までで一番辛い仕事かもしれない。

「もう、ガラルドのバカッ!!」

 イライラが我慢出来ず、小さく叫んで手近にあった枕を掴みベッドの上に叩きつける。

「何が、『お前がオレの認めるような男になっていれば』なの!? バカ! バカバカ!」

 夜なので声が響かないように努力しながら(それがまた腹立たしさを増長させるのだが)、イライラの要因が実はレイオールではなく保護者の青年にあるのだと気付いていた。

 バカ! ガラルドのバカ!

 あんなキスをしておいて。

 あたしは、眠れないくらいドキドキしたし、夢に見るくらい嬉しかったのに。

 あたしがレイオールのこと好きになってもいいの!? ガラルド以外の人とキスしてもいいの!?

 それで別に構わないってこと!?

 ガラルドにとってあれは……あのキスは、何だったの? 何てことはない、言葉通りのおまじないみたいなものだった?

 そう思うと、つきり、と胸に鈍い痛みが走った。

 ガラルドの実年齢が見た目とは大幅に異なることは知っている。

 彼は、自分よりもずっとずっと大人で……自分と出会ってからよりも、出会う前の人生の方がずっとずっと長いのだ。

 ガラルドは基本無口であの性格だから、出会う前の、彼の過去の話などフユラはほとんど知らない。

 今まではそんなこと、あまり気にしたことがなかったのだけど―――。

 フユラはそっと自分の唇をなぞった。

 ああいうキスを、他の女の人にもしたこと、あったのかな……。

 初めて―――本当に初めてその可能性を考えて、ほぼというか間違いなくあるだろうという結論に至り、フユラは胸が押しつぶされるような感覚に襲われた。

 実は以前遭遇したファネルという半魔の女がガラルドとの肉体関係を示唆する発言をしていたのだが、幼かった彼女はそれを覚えていなかったし、当時は覚えていたとしても理解出来る年齢ではなかった。ハルヒにいたってはガラルド本人から若気の至りについて直接聞いているのだが、それは今のフユラの知るところではない。

 だって、カッコいいもん。強くて優しいもん。

 他の女の人が放っておくなんて、思えない―――。

 これまでの旅の途中でもままあったことだ。

 背が高くて不愛想なガラルドは、本人が近寄りがたいオーラを放っていることもあって、玉砕覚悟で彼の懐に飛び込んでくるような勇気のある女性はそういなかったが、遠巻きに見惚れられている、というのは実はよくある光景だった。

 ガラルドの傍らでフユラは何とはなしにそれを目にしてきていたのだが、今それを思い出すと面白くない。

「ガラルドのバカ……」

 フユラは叩きつけた枕を拾い上げ、ぎゅっと抱きしめた。

 胸に降り積もる鈍い痛みがひどく悲しくて、苦しい。

 この想いに付く名前をフユラが知ることになるのは、それからほどなくしてのことである。



*



 それから何日かは何事もなく過ぎた。

「毎日毎日、ヒマだよね〜」

 読みかけの本を小机の上に投げ出しながらレイオールがソファーの上に寝転がった。

 自宅軟禁中の彼の生活は、午前中は自室で父親の差し向けた家庭教師から小難しい講義を受け、午後からは気分転換に場所を変えてお茶をしながらガラルドやフユラと雑談したり(ガラルドはほぼ雑談に応じないので基本フユラが相手をすることになる)、天気が良ければ中庭を散策してフユラを口説いてみたり(ガラルドの監視付きだが)、暇に耐えかねたガラルドが一応口上を守るという理由で剣術の指南を行ったり(レイオールは大喜びだ)というようなものだったのだが、今日はあいにくの雨模様だった。

 屋敷内から出られないのではどうしても行動パターンは決まってきてしまうし、今日のように天気が雨だと、出来ることが特に制限されてしまい、根が奔放なレイオールとしては鬱々とした気分になってしまう。

 特にすることもないので、レイオールの部屋で読書をして過ごすことになったのだが、あまり興味がない様子のガラルドはレイオール以上に浮かない表情だ。読書が好きらしいフユラはウォルシュ家の蔵書から提供された本を生き生きとした表情で読んでいる。

 そこへ、ノックの音が響いた。

 レイオールの声に応じてドアから顔を覗かせたのはカーラだった。彼女はレイオールに折り目正しく一礼すると、ガラルドの方へ眼差しを向けた。

「ちょっといいか」

 それに応ずる形でガラルドがカーラの元へと向かい、戸口で二、三言葉を交わすと、ガラルドは何事かと様子を見守る二人を振り返り、

「すぐ戻る」

 とだけ言葉を残して、カーラと共にドアの向こうへと消えていった。

「何だろうね?」

 レイオールがフユラを見やる。

「さあ……」

 ぎこちなく声を返したフユラは、続くレイオールの何気ない言葉にどきりとした。それが彼女がたった今感じていたことと同じだったからだ。

「あの二人、並ぶと迫力あるなぁ……どっちも背ぇ高いし、どこか陰のある雰囲気を纏っていて……。黙って立ってるだけならお似合いだね」

 お似合い。

 共に二十代半ばといった外見のガラルドとカーラは、二人の持つ独特の雰囲気も相まって、並び立つと思わず見とれてしまうくらい絵になっていた。武装を解いた状態で並んで歩いていれば、間違いなく恋人同士に見えるだろう。

 どこへ行っても「どういう関係?」と小首を傾げられてしまうフユラとは大違いだ。

 そんなことを思って、また、あの重苦しい、鈍い痛みが胸に降り積もっていく。

 そんなフユラの心中など知るはずもないレイオールが軽口を叩いた。

「まあオレとフユラも何気に似合いだと思うけどね」
「黙って立ってる分にはそうかもね」

 年齢的なこともあり、少なくともガラルドよりはレイオールの方が外見的には自分に似合いだろうという自覚はある。

「つれないなー」
「諦めてよ」
「フユラはさぁ、ガラルドさんのこと好きなの?」
「え?」

 突然のレイオールの質問にフユラは瞳を瞬かせた。

「何、急に? ガラルドのことは好きだけど?」
「あー、そういう意味じゃなくて。男として―――異性としてどうなのかなっていうこと」
「んん? ガラルドは男の人だし、男の人として好きだよ?」

 彼の言わんとするところがいまいち掴めず、眉を寄せるフユラに、レイオールは苦笑いを返した。

「あー、もしかしたらと思ってたけど、マジかー……そこからか。フユラさぁ、オレとキスしたのは『スッゴく嫌だった』って言ってたじゃん。言っててオレ自分の傷口抉ってるけど。仮にガラルドさんとだったらどう?」

 フユラはそれを考えて―――先日のキスを思い出し、傍目にもハッキリと分かるほど赤くなった。

「あーあ、あー……そう。ガラルドさんとは有りなんだ」

 やっぱりな、とレイオールは乾いた笑みを湛えた。

 どんなに攻めてものれんに腕押しなわけだ。自覚のない恋心には敵うわけがない。

 薄々それを感じていたレイオールは、実は先程のフユラの様子を見ていてほぼ間違いないことを確信し、まずは本人にそれを認めさせる必要があると思ったからその質問に出た。恋心を認めさせて、それを断ち切ることが出来ればレイオールの勝算は大きなものとなる。だが。

 まいったな、余計なことしちゃったかなー。

 その思いは禁じ得ない。

 レイオールの読みでは、ガラルドの方も怪しいからだ。フユラに対する態度がどうにも頑なすぎるところがあり、意識しているからこその態度の硬化、そしてそれを認められず、目を逸らそうとしているように見受けられる。

 本人達の自覚なく燻っていた埋火を、オレが起こしちゃったってことにならなければいいんだけど……。

「え? え?」

 熱い頬を押さえて戸惑いの視線を投げかけてくるフユラは、皮肉なことにひどく可愛らしかった。

「キス出来るってことはセックスも出来るってことでしょ? ってことはフユラはガラルドさんを一人の男として見ていて、彼に恋しているんだよ」

 やけくそ気味のレイオールはフユラには少々刺激が強い言葉で言い切った。

「セッ……」

 真っ赤な顔で絶句するフユラの頭の中にはレイオールの言葉がぐるぐると反響している。

 ガラルドに、恋している。

 あたし、ガラルドに恋している!?

 心ならずもレイオールの投じた一石で、フユラはガラルドに対する自分の感情をはっきりと自覚した。

 これまでの気持ちに『恋』という名前が付くことで、フユラの中で目まぐるしい意識の変革が行われ、そして、二人のこれまでの関係に大きな変化が訪れていくことを、この時、ガラルドはまだ知る由もなかった。
Copyright© 2007- Aki Fujiwara All rights reserved.  designed by flower&clover