悪魔のような子だと言われることにはもう慣れた。実際にそう言われても仕方がないと思っていた。

 ―――自分の母親を殺して逃げ伸びた、恐ろしい子供。

 いつの間にか開拓地の人々の間にはそんな噂が広がっていて、自分がそれを肯定したとも伝えられていた。開拓地には身内を亡くしたものが数多くいたし、未だに家族の生死が不明のものも数多くいた。確認しようにも陥落したウォール・マリアに残された遺体を回収するのは不可能であったし、内地に避難してきた者の中にいなければ死んだと思うしかなかった。避難民の実情は厳しかったし、残された身内で身を寄せ合って助け合い生きていたから、その中で身内殺しのレッテルを貼られたものが遠巻きにされるのは無理からぬことだった。
 エレンはそれでも、自分はそれ程邪険に扱われたわけでもなかったと思う。母親を殺したのが事実だとしても、エレンはまだ十歳の子供で本来なら親に保護されるべき年齢だ。そんな子供に酷い扱いをするのは躊躇いがあったのだろう――だが、仲良くする気にもなれないようで、生きるために最低限のものを与えられ、接触しようと試みるものは誰もいなかった。
 そんな状態はエレンが開拓地に追いやられてから一年以上続いたが、エレンはそれで構わなかった。エレンは調査兵団に入ることに決めていたし、ここにいるのもそう長いことではない。孤独を感じる心はとうに麻痺していたし、これはおそらく自分に課せられた罰なのだろう。自分は――母を殺したのだから。
 そんなときに現れたのが、一人の男だった。
 その男だけはエレンを悪魔の子とは呼ばず、母親を殺したという話を笑い飛ばした。何くれとなくエレンを気にかけ、気遣ってくれた。

 ―――君は悪魔なんかじゃないよ、人間だろう?

 そう笑った男に自分も笑いかけたのは――自分は心のどこかで寂しいと思っていたのかもしれない。
 自分は忘れてはならなかったのに。誰が忘れても自分だけは自分がしたことを忘れてはならなかったのに。
 何故、手を伸ばそうとなどと思ってしまったのだろう。

 ―――だって、お前は悪魔だろう?

 吐き捨てられた言葉と嘲笑う声。



 世界が残酷なんてことは知っていたのに―――。


 


CLOVER





 エレンはリヴァイと余り話さなくなった。必要最低限の受け答えはするが、自分からは接触を試みようとしない。更に一番変わったのは一緒のベッドで寝なくなったことだ。それが当たり前だと言われればそれでおしまいだが、二人で一緒の寝床で眠るのを既に当然のように思っていた自分に気付いてリヴァイは驚かされた。もう大丈夫になりましたから――そうきっぱりと男を拒絶した少年は時々魘されることがあるようだが、リヴァイはそれを指摘しなかった。すれば、少年は自分の前では眠らなくなるからだ。一度、魘されていたことを指摘したら、少年は一晩中起きていたのだ。リヴァイに気付かれないように息をひっそりと潜め、朝まで寝たふりをし続けた。さすがに身体が持たないのか、雑用の合間に仮眠をして乗り切ろうとしたようだが、睡眠が多く必要な子供にそんなことが続くわけがない。案の定少年は体調を崩し倒れ、散々ペトラとハンジに心配をされ、お互いの妥協という形で落ち着いたのだ。

 何故、こうなったのかは、あの商会の男に会ってしまったからだろう。
 ――あの後、リヴァイはエレンを連れて帰り、商談は別のものに任せた。ハンジには呆れられたが、あの男の顔を見れば再び怒りが湧いてくるのに決まっている。ここにきたときのエレンの荷物の少なさや言動とあの男の言葉から鑑みて、エレンは開拓地では辛い立場にあったと推察される。それにしても、母親殺しと人に重傷を負わせたなど――どうしてそんな話になったのか。開拓地の視察は調査兵団の仕事ではないから、詳しい情報は入っていない。唯一詳しい事情を知っているのはエルヴィンだろうが、そのエルヴィンとはこのところ顔を合わす機会がなかった。何しろ、エルヴィンは調査兵団のトップの身なので多忙である。リヴァイもまた仕事があってそうそう暇なわけではない。エレンの話を聞くためだけに呼びつけることは出来ないし、エルヴィンに時間が出来るのをここは待つしかないだろう。
 チッ、と舌打ちしたい気持ちを抑えつけながら、リヴァイが机の上の書類の処理をしていると、コンコン、と控えめなノックの音が聞こえた。
 入るように促すと、遠慮がちにペトラが顔を覗かせた。

「ペトラか。どうした?」

 確か、今の時間、ペトラは新兵の訓練指導に立ちあっていたはずだ。ここにいるということは、おそらくは誰かに代理を頼んできたのだろうが、仕事を抜け出してまで報告にくるような急ぎの用件でもあったのだろうか。

「すみません、兵長、ここに参りましたのは、私の完全な私事です」

 そう言って、頭を下げるペトラに、リヴァイは顔に出さずに驚いていた。自分の部下である彼女は職務に真面目に取り組む人間で、私用で仕事を抜け出すなどするタイプではない。エルドあたりがそうするならまだ判るのだが。

「少しだけお時間を頂けますか。エレンのことで話しておきたいことがあります」
「エレンの――お前と、何かあったのか」

 ペトラは頷いて先程にあった出来事を話し始めた。



 丁度、ペトラが休憩に入ったときの話だ。ペトラはここ二、三日、休憩時間になると手早く食事を済ませ、とある場所に向かっていた。調査兵団の兵士の日常は結構忙しい。そこで、ペトラは昼休憩の時間を利用してあるものを探していた。

(昨日はあの辺を見たから、今日はこの辺で……)

 今日、もし見つけることが出来たら、ペトラはそれをエレンに渡そうと思っていた。このところの少年は元気がなくて――まるで、ここに来たばかりの頃に戻ってしまったような気がする。昏い瞳をした少年はどこかよそよそしい雰囲気を漂わせていたのだが、時が経つにつれ自然な態度を取ってくれるようになったと思っていたのに。やはり、これは――上司と何かあったのだろうか。
 エレンが誰よりも一番懐いていたのはリヴァイだ。エレンはリヴァイといるときが一番自然で、雰囲気が柔らかくなる――それはリヴァイも同様だったのに、このところ何かがおかしくなってしまった。何があったのかは判らない。でも、ペトラはそんな二人を見ているのが哀しかった。ペトラが探しているものを少年が喜んでくれるかは判らないが、これが少しでも元気を取り戻すきっかけになってくれれば――。

「あ……あった!」

 それを見つけた時、ペトラは思わず声を上げていた。見つけにくいとは聞いていたが、こんなに時間がかかるとは思わず骨が折れた――それでも、少年のことを思えば苦に感じない。ペトラはそれを手に取ると、少年に渡すために駆けていった。

 ほどなくして、少年は見つかり、ペトラはエレン、と声をかけた。

「ペトラさん、どうしたんですか? オレに用事でも?」
「用事っていうか――はい、これ、エレンにあげる」

 そう言って、エレンの眼の前に差し出したのは緑色をした四枚の葉――四葉のクローバーだった。

「四葉のクローバーは幸運のお守りなのよ、エレンも知ってるかしら? 保存するには押し花が一般的――」
「……う」
「え?」
「……違う、違う、違う! それは、そんなものは幸運のお守りなんかじゃない! 嘘っぱちだ!」
「エレン?」

 突然のエレンの激昂にペトラは戸惑う。こんなエレンの様子は初めて見る。四葉のクローバーの話を信じていないにしても、これは過剰反応だ。一体何があったというのだろう。

「エレン、どうした―――」

 ペトラが言い切る前に、心配そうに伸ばされた彼女の手をエレンは振り払った。その衝撃でクローバーはペトラの手から離れて飛んでいく。

「四葉のクローバーなんか信じない! そんなもの、何の役にも立たなかった!」
「エレン!」

 エレンは走り去ってしまい、残されたのは衝撃で葉の千切れてしまったクローバーだけだった。




「あのガキ、そんなことしやがったのか」

 これは躾が必要だな、とリヴァイが呟くのを聞いて、ペトラは慌てて首を振った。

「私が勝手にしたことですから、いいんです。それよりもエレンが―――何だか、すごく脆く見えたんです」

 ペトラは顔を曇らせ、俯いた。

「触れたら壊れてしまいそうで――追いかけられなかった。でも、兵長ならきっと」

 あの子に触れられるはずだから、と告げる部下にリヴァイは深い溜息を吐いた。






「こんなとこにいやがったのか、クソガキ」

 そう声をかけられて、兵舎近くに生えている木の根元に顔を埋めるように座り込んでいたエレンは顔を上げた。

「リヴァイ兵士長」
「うちの部下泣かせてんじゃねぇよ」
「……ペトラさんには悪いことをしました。申し訳なかった、とお伝えください」
「俺は連絡係じゃねぇ。お前が直接伝えろ」
「……………」

 エレンは何を考えているのか判らない無表情だ。ペトラが激昂していたと伝えたのが嘘ではないかと思うほどの――勿論、優秀な部下の報告を疑うような真似はしないが。

「何故、そんな真似をした」
「……四葉のクローバーが幸運のお守りなんてデタラメだからですよ」

 ガラス玉のように何も映さないエレンの瞳に何かが過った気がした。

「クローバーは母が好きな花でした」

 クローバー、別名をシロツメクサともいうその植物は夏場に白く可憐な花を咲かせ、母はそれを摘んで器用に花冠を編んだものだ。四葉のクローバーの話をエレンに教えたのも彼女で、探しても中々見つからないのよ、と笑っていた。叱るときにはきっちりと子を叱るが、母はそんな穏やかな笑顔の似合う人だった。

「だから、昔、オレは四葉のクローバーを探して母にあげたんです。母はそれを押し花にして栞を作り、大切にしていました。―――けれど、死にました。無残に殺された」

 そう言って、エレンは口許だけで嗤った。

「四葉のクローバーなんか信じない。この世界は残酷だ――そんなものにすがるのは間違っている」

 少年は立ち上がり、服についていた砂を払うと、男に向かって頭を下げた。

「お手数をおかけしました。ペトラさんに謝ってきます」
「…………」

 リヴァイは自分に背を向けて歩いていく少年をただ見送って、小さく舌打ちした。

「……クソガキが。ガキならガキらしく笑え」

 あんなふうに嗤うのは子供のすることではない。泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑って、わがままを言って――それが子供だろう。あんなふうに何もかもを押し込めて、押し殺して生きているのは子供のすることではない。いや、人間としてもいいはずがない。
 そして、ふと、自分が思っていたことに気付いて、リヴァイは苦笑いを浮かべた。
 自分はただ――あの子供の掛け値なしの笑顔が見たいだけなのかもしれない、と。




 ―――エルヴィンに会えたのはそれから、三日後だった。いや、会えたというよりは無理矢理捕まえたというのが正しいだろう。とにかくエレンについての情報を洗いざらい全部話してもらわなければ、事態は膠着したまま進まない。それがあの子供の傷口に触れる――あるいは抉ることとなっても止まったまま進めなければ人は生きていけなくなるのだから。
 単刀直入に少年について知ってることを全部話せと言われ、エルヴィンは苦笑した。無駄なことを言わずに切り込んでくるのがこの男らしいと思ったのだ。

「正直、私にも彼については知らないことの方が多い。エレンがシガンシナ区の出身だとは話したな?」

 頷くリヴァイにエルヴィンは巨人が現れて壁が壊されたときには酷い混乱状況にあったらしい、と続けた。それもそうだろう、話には聞いてはいても実際にその姿を間近で見たものなど兵士以外にはいなかったのだから。阿鼻叫喚の図――それが難なく想像出来る。エレンはその混乱状態の街の中をフラフラと歩いていたところを丁度、兵士に発見され、助かったらしい。発見されたときの彼は血にまみれていたという。

「血? 怪我をしていたのか?」
「いや、両手に怪我を負ってはいたが、そう酷いものではなかったそうだ。手当てをした衛生兵が不思議に思って訊ねたらしい。その血はいったい、どうしたのだと。――彼はこう言ったそうだよ。これは母親の血だと。自分は母親を殺して生き延びてきたのだと」
「……まさかそれを信じたんじゃねぇだろうな」

 リヴァイの言葉にエルヴィンは首を横に振った。

「私は信じていないし、その兵も信じなかった。巨人の襲撃と母親の死に混乱しているだけだろうとね。エレンは母親を殺したというだけで、詳しい状況は一切語らなかったし、事情も判らないとあっては子供の言葉を鵜呑みに出来るわけがないだろう。彼が母親を殺したという目撃証言もなく、遺体の確認も出来る状況ではなかったし、父親は行方不明で身寄りもない。それで、母親のことはうやむやになって開拓地に送られたが、そこで噂が広がってしまったようで、あの子は辛い状況にあったようだ」
「……開拓地で人を刺したというのは?」

 そこまで知っているのか、とエルヴィンは溜息を吐いたが、説明を続けた。

「残念ながら、そのこと自体は本当のことだ。――刺された男は捕まったのだがね」

 刺したエレンではなく刺された男の方が捕まったという事態にリヴァイは嫌な予感を覚える。それは、少年が男を刺さざるを得ないような状況だったことが証明されたということで、そんな状況といえば限られてくるだろう。

「……リヴァイ、今にも人を殺しそうな顔で私を見るのはやめてもらえないか」
「俺はこの顔が普通だ。で、その男は変態のクズ野郎だったってことか」
「正確には変態の仲間のクズ野郎といったところか。――開拓地にいる子供に里親を見つけたといっては売り飛ばしたり、そういった趣味を持つ相手に少年少女を斡旋したり――表では慈善家で通っていたが、裏で相当あくどいことをしていたらしい。ああ、エレンに関しては未遂だから。騒ぎを聞き付けた兵士に助けられて未遂で済んだ。そこで同時に悪事がばれた」

 その男はきちんと捕まって、それ相応の処罰を受けているから、今にも殺しに行きそうな顔はやめてくれ、とエルヴィンは肩を竦めた。

「だが、そんなことになって、あの子は開拓地に居場所がなくなってしまい、私が引き受けることにしたんだ。向こうも正直、彼のことを持てあましていたようだからすぐに許可がおりたよ」
「……大体の事情は判った。で、お前がエレンを気にかける理由は何だ」
「彼がグリシャ・イェーガーの子供だからだよ、リヴァイ」

 グリシャ・イェーガーと言われても、リヴァイはぴんとこなかった。行方不明のエレンの父親ということは判るが、その男が何をしたというのだろう。

「随分と昔の話になるが、酷い病気が流行ったことがあってね、たくさんの人が倒れた。私もそれで死にかけて、もう助からないだろうと言われたんだ。――そこに、病の抗体を持った医師が現れて、救ってくれたんだ。彼は多くの人を――私の友人達も救ってくれた。今でも彼の恩を忘れていない人は多いだろう。彼は腕の良い医師で、それからも多くの人を救ったと聞いている。その医師の名はグリシャ・イェーガー、私の……多くの人の命の恩人だ」

 だから、これは完全に私情なんだよ、とエルヴィンは苦笑した。

「彼がどうなっていたのか気になっていたんだが、調べる余裕がなくてな、判ったときには彼の子供の状況は最悪だった。……そうだな、これは完全な自己満足にすぎない。だが、エレンに会ったときにこのままではいけない、と思ったんだよ」

 君も判るだろう、と問われ、リヴァイは静かに頷いた。
 だが――どうやったら、あの子供の内側に入れるというのだろう。

(荒療治しかないか)

 無理やりにでもこじ開けて、入るしかない。それが子供の傷口を抉ろうとも。
 リヴァイはもう話すことは終わった、というように部屋から出ようとして、エルヴィンに声をかけられた。

「これは私の個人的な興味だから答えなくても構わないが――リヴァイ、君がエレンを気にかける理由はなんだい?」
「そんなのは決まってるだろう、エルヴィン」

 リヴァイは振り返って、男に告げた。

「単なる私情だ」

 そうして、珍しく驚きの表情を顕にしている男に背を向けて、リヴァイは今度こそ部屋を出ていった。





 その日、エレンが部屋に戻ると、リヴァイが部屋で待ち構えていた。どこかに出かける気だったのか、彼にしては珍しい長い外套を着ていた。そうしていると兵士には見えない――元々、小柄なリヴァイは兵士は屈強な逞しい身体を持つという先入観を持つものには兵士には見えにくいらしいが。それでも、その身体には鍛えられた筋肉がついていることは知っているし、人を軽々と倒せることもこの目ではっきりと目撃した。巨人との対戦は目にしたことはないが、人類最強という看板は伊達ではなく彼の実力なのだろう。もしも、あのとき自分にリヴァイ程の強さがあったら――そんなことを考えたことがなかったわけではない。
 だが、それはただの夢想にすぎない。世界はいつだって弱者には残酷だということをエレンは知っている。
 エレンはリヴァイが自分を待ち構えていたことにぎょっとしたが、顔には出さずに軽く頭を下げ、リヴァイから離れようとした――が、男はそれを許さなかった。

「オイ、エレン、話がある」
「……何でしょうか、リヴァイ兵士長」
「お前、自分の母親を殺したと言ったな、本当か?」
「……本当です」
「では、それを証明するものは?」

 急にそんなことを言われ、エレンは言葉に窮した。男の意図が掴めない、といったように男を見つめる。

「お前が母親を殺したところを見たものはいないし、誰も証言するものはいない。お前は自分が母親を殺したことを証明出来ない。俺は証明出来ないものは信じないことにしているんでな、お前が自分の母親を殺したという話を信じない」
「そんなの――オレが殺したと言ってるんだから、殺したんです。それでいいじゃないですか」
「生き残るためにか」
「そうです」
「じゃあ、何故、調査兵団に入りたいんだ」
「え?」
「母親を犠牲にしてまで生き延びたのなら、何故調査兵団に入る気になったんだ。知っていると思うが、兵団の中で一番生存確率が低い。入りたての新兵は最初の壁外調査で五割は死ぬ。生き延びるために何でもするという人間なら調査兵団には入らねぇ。そもそも、兵士にはならずに生産者になるだろう。なのに、何故、調査兵団入りを目指す」

 畳みかけるように言われてエレンは返す言葉が見つからない。男が言うのは尤もな言葉だからだ。生き延びるために身内すら犠牲にしたという人間なら、わざわざ死にに行くようなものだ、と陰で言われている調査兵団を目指したりしないだろう。それこそ生産者になるか、同じ兵士になるにしても、内地で安全に暮らす憲兵団入りを目指すだろう。

「お前の話は矛盾だらけだ。矛盾があるのは――どこかに嘘があるからだ。人を刺したのだって、正当防衛だったんだろう。何故、そう言わなかった」

 エレンに優しかった男……優しい振りをしていた男。笑いながらエレンを売ろうとした男――そいつは悪魔の子だと言われている子供だから、誰も気にする奴がいなくて楽だと笑った男。

「……言う必要性があると思いませんでした」
「言う必要性がない、か。じゃあ、お前が母親殺しの詳細を語らないのも必要性がないからか」
「……そうです」
「必要性はあるな。俺が知りたいからだ」

 男の傲慢とも取れる言葉にエレンは絶句するしかなかった。この男は――自分の好奇心を満足させるためだけに、自分の過去を洗いざらい話せというのだろうか。

「……あなたに話す義務があるとは思えません」

 少年が声を震えそうになるのを堪えながら言うと、男はあっさりそうだな、と肯定した。

「義務はない。だが、お前が話さないのなら、俺はお前の調査兵団入りを認めない」

 そう言って、リヴァイは小さな栞をエレンの前に出して見せた。

「……それは!」
「そう、お前が持っていたものだ。これはお前が母親にやったものだろう」

 エレンから四葉のクローバーの話を聞いて、リヴァイはすっかり忘れていたことを思い出した。エレンが初めてリヴァイの部屋で眠った翌日、鞄の中から零れ落ちたこの栞こそが少年が母親に贈ったという四葉のクローバーに違いない。あのときは薄汚れたこんなものを何故持っているのか、くらいしか感じなかったが、少年の話を聞いた今では色々と思うことは違ってくる。
 四葉のクローバーなど信じないと言った少年が何故これを持ち続けているのか。もし、彼が本当に母親を殺したのなら、母親が大事に持っていたものなど、持っていたくはないのではないか。あのときは気付かなかったが、この栞についた赤茶色の染みはおそらくは血だろう。殺したものの血がついたものなど、犯人なら真っ先に処分したくなるものだ。少年がこれを持っていたのは――もう、これしか母親に繋がるものがなかったからだろう。
 シガンシナ区にいたものには肉親の形見を持ち出す暇などなかった。着の身着のまま逃げ出した彼らにはそんなことも許されなかったのだ。

「……兵士長には勝手に個人の持ち物を見る権利でもあるんですか?」
「何故、これを持っていた? 自分が殺した人間の持ち物――金品なら使い道があるが、持っていても意味がない、むしろ捨てたいものだろう」
「兵士長には関係がありません」
「罪悪感か? 調査兵団入りを目指すのは。本気でお前は調査兵団を目指しているのか?」
「兵士長には関係が――」
「あるに決まってんだろうが、クソガキ!」

 強い口調で断言され、エレンは言いかけていた言葉を飲み込んだ。

「てめぇの死に場所に調査兵団を選ぶな。選ばれた方はただの迷惑だ。調査兵団入りを目指す人間は誰だって命を落とす危険性があることは承知してるし、覚悟も出来てる。だがな、死にたがって入りたがるようなバカはいらねぇんだよ」
「……んたに、何が判る」

 少年の口から押し殺した声が洩れた。

「あんたに、オレの気持ちなんか判らない! 何で、放っておいてくれないんだ!」

 関係ないくせに、どうしてこの男は自分を放っておいてくれないのか。どうして自分に構おうとするのか。

 ――だって、お前は『悪魔』だろう?

 言われた言葉が頭に甦ってくる。手を差し伸べておいて突き落とすくらいなら、最初から放っておいて欲しかった。いや――違う。最初からそんなものを望んではいけなかったのだ。

「……………」
「怒鳴ったと思ったら、今度はだんまりか」

 リヴァイは溜息を吐いて、エレンに来いと、指で示した。

「俺と来い。ついてきたら、お前にこの栞は返してやる」

 そう言って、歩き出した男にエレンは付いていくしかなかった。





 リヴァイがエレンを連れて訪れたのは何と――壁だった。壁といっても家の壁ではない、世界を取り囲むあの広大な壁だ。勿論、シガンシナ区に住んでいたエレンは周りを囲む壁を毎日見ていたし、壁の付近に住んでいたものにはそれは珍しい光景ではない。なかったが――それは、下から見た光景だ。一般人は決して上がったことはないが、壁の内側の一部には上に兵士や武器を運べるようにリフトが設置されているらしい。勿論、それは兵士しか利用出来ないのだが、リヴァイは兵士長という立場を利用してエレンも上に上げるように押し通してしまった。職権乱用する男にいいんですか、と訊ねれば、職権なんて使うためにあるもんだろう、と平然と返されてしまい、エレンはもう呆れるしかなかった。それに、リヴァイは兵士長という兵団の中ではかなり上の立場で、仕事だって色々あるだろうし、それを全部置いてこんなところに来ていいのだろうか。そもそも、何故自分をこんなところに連れてきたのか理由が判らない。

「どうだ、エレン、壁の上の感想は」
「……高いです」
「クソ面白くもねぇ感想だな」

 気の利いた感想などを求められても困るのだが――エレンはそう口が上手くはない自覚がある――、リヴァイはそれ以上の感想は求めていないのか、壁の上からぐるりと周囲を見回した。

「高いのは当たり前だ。何しろ、この壁の高さは50メートルはあるからな。……ここから落ちたら、誰でも死ぬな。いくら俺でも、だ」

 不吉なことを言う男に少年はぎょっとして、その顔を見つめた。あるのはいつもと変わらずに不敵な顔で、リヴァイはエレンを見つめ返しながら一歩、また一歩と壁の端の方に歩いて行った。少年もつられるように歩いて男との距離を縮めた。

「リヴァイ兵士長?」
「エレン、お前は母親を殺したと言ったな。それを変える気はないか?」
「……ありません。本当のことです」
「理由は?」
「……オレが生き延びるために、です」
「そうか……でも、俺はそれが嘘だと思っている」

 そう言って、リヴァイは壁の端ギリギリまで進んだ。

「お前が本当のことを言わないなら、俺はここから飛び降りる」
「は?」

 言われたことの意味が判らず、エレンはぽかんとした顔をしてしまった。

「ここから落ちたらまず即死だな。この高さでは助からない。だが、お前は平気なんだろう?」
「何言って……」
「お前は生き延びるために何でもする人間だと言った。なら、ここで俺が飛び降りても関係ないだろう」
「そんなこと……っ、いいわけが……」
「なら、本当のことを言え」
「――――――」

 エレンは唇を噛み締めた。本気のわけがない、と自分に言い聞かせる。誰だって自分の命の方が大事だ。あくまでも脅しで言っているだけでそんなことをするわけがない――それにしても、彼は何故、ここまで自分に関わろうとするのか。彼は自分と何の関わりもないただの他人だ。ほんの気まぐれで可哀相な子供に構った、ただそれだけにすぎない。
 自分はもう間違えたりしない。――世界は残酷なのだから。

「どうして――そんなに知りたがるんです。知ってどうすんです。終わったことを知ったって意味なんかないのに」
「あるだろう。お前が前に進める」

 思いがけない言葉をかけられて、エレンは両の瞳を瞠った。

「お前は生きちゃいねぇ。それじゃ、生き延びた意味がねぇ」
「何言って……」
「お前だって本当は判ってるはずだ。お前は生きてない。ただ、死んでねぇだけだ」
「――――――」

 それだけ言うと、リヴァイはふわりと身体を浮かばせた――落ちる、そう思ったエレンは急いで駆け寄り、必死に手を伸ばした。

「リヴァイさん! 掴まって!早く!」

 何でも話すから、と必死に叫ぶエレンが男の手を掴んだと思った瞬間――瞬く間に男に手を掴み返され、ぐいっと身体を引かれた。
 驚く暇もなく、二人の身体は壁の上から真っ逆さまに落ちていった。




 落下、急降下、墜落、そんな言葉が脳裏を過ったのは一瞬だったかもしれない。こんな感覚は知らない。知りたくもなかった。このまま死ぬのだろうか、自分は死ねるのだろうか―――。


 ―――エレン、お前は生き延びるのよ。


 母の最期の言葉。あのとき、自分はどうするべきだったのだろう。
 母の言葉通りに生き延びた自分。これから先も生きていく自分。

(でも、母さん、苦しいんだ)

 世界はとても残酷で厳しい。だから、自分は――――。



 がくん、と衝撃が来て、いつの間にかつむっていたらしい瞼をエレンはおそるおそる開けた。

(落下が止まってる…?)

 見ると、自分はリヴァイに抱えられていた。リヴァイの腰からはワイヤーが伸び、壁へと突き刺さっている――立体起動装置を操って、リヴァイが落下を止めたのは明らかだった。普段着ない長い外套を着込んでいたのも、立体起動装置をつけているのを悟られないようにするためだったに違いない。まんまとエレンは騙されたわけだが。

「リヴァイさん、何てことするんですか! ……騙したんですね」
「人聞きの悪いこと言うな。別に騙しちゃいねぇ。俺は飛び降りるとは言ったが、落ちるとは言ってねぇ。立体起動装置をつけてないとも言った覚えはないが?」

 開いた口が塞がらないというのはこういうことだろう、とエレンは思った。確かに、この男が墜死などすると思った自分が間違っていたのだが。

「怖かったか?」
「当たり前です!」
「そうだ、人間なら当たり前の感情だ。怖さも哀しみも苦しみも喜びも楽しみも人間なら全部感じる。怒ったり、泣いたり、笑ったり――それが人間だ。それが生きるってことじゃねぇのか」
「―――――」
「感情全部捨てて機械みたいに動いて――そんなのは人形と同じだ。お前が選んだ『生き延びる』はそういうことなのか。それに何の意味がある」
「違う!」

 堪らなくなったように、エレンが叫んだ。

「だから、だから、オレは調査兵団に入って――」
「調査兵団に入って巨人を殺すことがお前にとって生き延びることなのか。何故、入ろうと思った」
「―――――」
「言え」
「リヴァイさ……」
「全部吐き出せ。お前が忘れたふりしたもん、全部思い出せ!」
「オレは――オレは、ただ、生きていて欲しかったんだ、それだけだったのに」

 甦るのは最期の母の姿。どうすることも出来なかった自分。

「四葉のクローバーなんてデタラメだ! だったら、何で、あのとき――母さんを誰も助けてくれなかったんだ!」

 一度決壊したものが崩れ去るように――エレンはくしゃりと顔を歪めるとぼろぼろと涙を零した。
 生まれ出た赤子が泣き声を上げるように、盛大に泣き続けるエレンを、男は黙って、抱き締めてやった。




 ――あの日、シガンシナ区の壁が壊され、ウォール・マリアが陥落した日、少年の父は二つ上の街に診療に出かけていて不在だった。エレンは自宅から外に出ていておらず、母のカルラだけが在宅していた。そこが、明暗を分けたのだ。超大型巨人が蹴り飛ばした扉の一部が家に直撃し、カルラは倒壊した家の下敷きになった。急いで家に戻ったエレンは必死に母を救い出そうとしたが、子供一人の力では母を家から出すことは出来なかった。
 そこで、エレンは周りに助けを求めた。母を助け出すのを手伝って欲しいと。だが、誰ひとりとして助けてくれるものはいなかった。巨人が迫ってきているんだ、諦めろ、と吐き捨てて逃げていき、中には縋りつくエレンを突き飛ばしていくものもいた。
 ――この世界は本当に残酷だ。強いものしか生き残れず、弱いものは淘汰される。
 エレンはそれでも、母を助けようとした。柱をどけようと力を入れた両手から血が流れても、すぐそこまで巨人の足音が迫ってきていても逃げようとしなかった。母が何度も逃げろと言ったのにも拘らず。そんなエレンにカルラは何かを決意したような顔で唯一動かせた手を使ってエレンに何かを手渡してきたのだ。
 ――それは、エレンが彼女に贈った四葉のクローバーを押し花にして作った栞だった。彼女がそれを喜んで大切にしていたのはエレンも知っていた。

「エレン、これはずっと母さんを守ってくれていたお守りだから、きっとこれからはお前を守ってくれるからね」
「何言ってんだよ、母さん! それは母さんにあげたんだよ! いいから、早くここから出て逃げるんだ!」
「エレン、お前は生き延びるのよ」

 次の瞬間、目の前が紅く染まった。紅い。赫い。赤い。あかい。アカイ。――深紅の鮮血。
 母の手には割れた家のガラスの破片が握られていた。唯一自由になった手で彼女は。
 ――自らの頸動脈をかき切ったのだ。自らの命を絶つことで子供をここから逃がすために。


 ―――エレン、お前は生き延びるのよ。


 それからの記憶は殆どない。気が付いたら誰かに助けられていた。血に染まった自分に驚く相手に自分は母を殺して生き延びたのだ、と答えた。勝手に口が動いてしゃべっているように現実感がなかった。だが、言葉にしてみてそれを自分で聞いて、その通りなのだと思った。
 自分が家にいたら、母を助けられただろうか。自分がちゃんと助けを呼べていたら、助かっていただろうか。自分が自分が自分が――――。
 自らの手で頸動脈をかき切った母はどれほど怖かっただろう。どれ程苦しかっただろう。自分が母に自らの死を選ばせたのだ。
 あのままそこにいても二人とも巨人に食われていただけだ、とかそういう問題ではない。それは結果論でしかない。
 いや、違う――巨人が現われなかったら、母は死ななかった。逃げられなかったのはそのためだ。巨人さえいなければこんなことにはならなかった。そう思う心も確かにあった。巨人が憎い。奴らは駆逐しなければならない。
 でも、それは本当に自らの望みなのか、ただ、母を死なせたという罪悪感を薄めたいだけではないのか。
 けれど、エレンにはそれしかなかった。調査兵団に入って巨人を一匹残らず駆逐する。それ以外に自分が生き延びた意味が見出せないと思った。



「リヴァイさん、生き延びるってどうしたら、いいんでしょうか。オレはどうするべきだったんでしょうか」

 泣きはらした真っ赤な目でエレンはリヴァイを見つめた。いつの間にかリヴァイ兵士長からリヴァイさん呼びに変わっていたが、本人は気付いていないようだ。さすがに壁にぶら下がったまま大泣きするエレンを抱えているのは危険なので、すぐに壁の上に上がって来たが、しばらくエレンはリヴァイの胸にしがみついて離れず、服に盛大な染みを作ったが、リヴァイも無理に引き剥がそうとはしなかった。

「そんなもん、俺が知るか」

 リヴァイはあっさりと簡潔に返し、エレンは余りの言葉にぽかんとしてしまった。強引に人に色々吐き出させた男の台詞にしては無責任ではないだろうか。

「生きる目的とか、意義とか、そんなもんは人それぞれだろうが。お前の道はお前で決めろ。人に指図されるもんじゃねぇ。簡単だろう、自分がやりたいことをやりゃいいんだ」

 自分がやりたいこと。それは何だっただろうか。幼い日に思ったこと――自分の夢は。

「……壁の外の世界を見てみたい…炎の水に、氷の大地、砂の雪原、そんなものがあるって聞きました」
「なら、それでいいんじゃねぇのか」

 ほら、と言ってリヴァイがエレンに何かを差し出してきた。それは母が死の際に自分の息子に手渡してきたあの四葉のクローバーの栞だった。
 エレンはそれを両手で受け取って、そっと懐に仕舞い込んだ。

「――幸せとは仕合せとも書く」
「仕合せ……」
「めぐりあわせって意味だ。お前がここに来たのもそういうことだろ。信じる信じないはお前次第だが。大体、幸せの定義なんて人によって違うからな。ただ、うちの連中は――お前が来たことを喜んでいる」
「……母さんも、そうでしょうか」

 震える声で少年は続けた。

「母さんも『しあわせ』になることを望んでいるでしょうか」

 男は愚問だな、と鼻で笑って、少年の頭を撫ぜた。

「そう思ってなかったら、四葉のクローバーなんて渡さないだろうが」

 生き延びて欲しい、そして、こんな残酷な世界でも幸せに生きていって欲しい――だからこそ、彼女は大切にしていたものを手渡したのだ。しあわせに、しあわせに――彼女の最後の願いはそれだ。

「リヴァイさん、今日はよくしゃべりますね……」
「バカ言え。俺は元々結構喋る」

 丁度その時、壁の上に茜色の光が射し込んできた。時刻は夕刻に差し掛かろうとしていたときで、あたたかい色合いの日差しに周囲が染められていく。

「もう夕刻か。そろそろ戻らねぇとクソメガネがうるさいか。――壁の上は一番最初に陽が射す場所だから、上るのを楽しみにしている奴もいる。ここからの眺めはまあ悪くない」

 高所恐怖症の人間ならそうはいかないかもしれないが――高所恐怖症なら兵士にはなれない実情だ。
 エレンは夕陽を眺めながら、綺麗ですね、と呟いた。男はああ、と返す。

「……俺がよく喋るなら今日はお前はよく泣くな」
「……すみません」
「いや、悪くない。……生れ立ての赤ん坊はよく泣くもんだ」
「……オレ、赤ん坊ではありません」
「似たようなもんだろう。――生れてくるときに人が泣くのは、これからの世界の苦しみにさらされるわが身を嘆いて泣くのだ、という奴と、この世に生れ出れた喜びのために泣くのだ、という奴がいる。これも考え方次第ってことだ」
「リヴァイさんはどっちだと思うんですか?」
「そんなの単なる反射運動みてぇなもんだろ。意味なんかねぇ」

 大体、生れ立ての赤ん坊がこれからの人生について考えてたら気持ち悪いだろ、とみもふたもないことをあっさりと言う。エレンは呆気にとられ、それからそのリヴァイらしい言葉に噴き出した。――自分は笑える、泣ける、怒れる――それの何がいけないと思っていたのだろう。
 この世界は残酷だ。けれど―――とても美しい。
 ほら、帰るぞ、とリヴァイに手を引かれながら、エレンは心からそう思った。





 結局、エレンは調査兵団に入るために訓練兵になる決意をした。周りからは心配され、エルヴィンなどからは軍属という形でここにいてもいいんだよ、と言われたが、エレンは正式にここに配属されたかった。巨人の存在はやはり許せないし、人類の脅威である巨人を駆逐しなければ本当の自由はないのだ。ここから三年も離れるのは寂しいし、仲良くしてくれた兵のうちの幾人かは三年後には命を落としているかもしれない。例え、調査兵団の兵士になれたとしても、自分だってそうなる確率は高い。それでも、エレンは決めたのだ。

「リヴァイさん!」
「エレンか」

 数時間後には出発という段になって、エレンはようやく男を捕まえた。もうすでに周りの皆には、挨拶を済ませていたが、男には正式な挨拶はまだ済ませていなかった。

「短い間でしたが、今まで本当にありがとうございました。リヴァイさんのおかげで、自分のことを見つめ直すことが出来ました」

 母親のこと、過去のこと、生きる目標のこと――それから眼を逸らさずに逃げ出さずにいられたのは総てリヴァイのおかげだ。自分はあの日、確かにリヴァイのおかげで生まれ変われたのだと思う。
 それは俺のおかげではなくお前自身の力だろ、と言うリヴァイに首を振って、エレンはおずおずと、男の前に小さな栞を差し出した。
 それは、母親から受け取ったものとは違う、新しい四葉のクローバーで作った栞だった。

「リヴァイさんは信じてないかもしれないけど……仕合せはめぐりあわせなんでしょう? だから、探して作ってみたんです」

 ペトラやハンジにも協力してもらったが、四葉のクローバー自身はエレンの手で探し出したものだ。幼い頃、母親を喜ばせたくて必死に探したように。

「めぐりあってまた逢えるように。オレ、また絶対にここに戻ってきますから。そうしたら、またリヴァイさんの傍にいてもいいですか……?」

 不安そうにこちらを見つめてくる少年にリヴァイは舌打ちしたいのを我慢して、お前、それ確信犯か、と呟いた。エレンは言われた言葉の意味が判らず、首を傾げるとリヴァイはそんなわけねぇか、判ってたがな、とまた呟いた。

「リヴァイさん?」
「オイ、エレンよ」
「はい、何で―――」

 言葉の続きはエレンの口から出なかった。引き寄せられてがっしと顔を掴んできたリヴァイの唇の中に総て吸いこまれたから。
 食われている、というのがぴったりするような激しい口付けだった――実際に食べられてるとエレンは思った。ぬるりとしたもので口の中の総てを舐められて、絡め捕られた舌を吸い上げられて、呼吸が苦しくてリヴァイの胸を叩いても放してはもらえない。何度か唇を放されて息継ぎを許されたが、再び食らいつかれて貪られる。全くの初心者――いや、というよりも誰かと唇を合わせるという行為をしたことのない少年にはついていけるはずがない。少年が意識も朦朧になり、ぐったりと男にもたれかかったところで、ようやく男はエレンを解放した。

「三年分まとめてしておいた。……他の奴にさせんじゃねぇぞ」

 朦朧とする意識では男の言ってることはよく判らない。だが、エレンは本能的にこくこくと頷いていた。
 それに、男は満足そうに笑った。

「三年後、戻ってきたら、これから先のことをしてやるからな。覚悟しておけよ」

 まだぼーっとしているエレンに返事はと促す男に、少年ははい、と返事して、それから疑問符を飛ばした。
 これから先って何だろう――そもそも、さっきのはキスだよな、何でリヴァイさんはオレにしたんだろう?
 そんな疑問がぐるぐると回り、エレンはつい口に出していた。

「リヴァイさん、オレのこと好きなんですか?」

 少年の質問に今更何言ってやがる。と男は不機嫌そうに眉を寄せた。

「俺を本気にさせたんだから逃げられると思うなよ」
「逃げるって……オレが傍にいたいのはリヴァイさんだけです」

 きょとんとするエレンにこの天然が、とリヴァイの教育的指導が入るのは数秒後。


 しあわせに、しあわせに――。
 四葉のクローバーがそんな二人を見守るように揺れていた。






≪完≫




2013.8.26up





 泣けなかったエレンがリヴァイとの出会いによって泣けるようになる、というのがテーマで書きたかった一品。思っていたよりも長くなった上に後半だれた気がします。要精進です、はい。
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