この花はね、クローバーっていうのよ、と母は微笑んだ。何でも、葉の形が特徴的で、葉の枚数が四枚あるのはとても珍しく、持っていると幸せになれると言われているらしい。幸運のお守りなのだそうだ。
 わりと有名な話らしく、クローバーを見つけるとつい四葉を探してしまう人が多いそうだ。
 人に幸運をもたらす四葉のクローバー。
 ―――そんなこと、あるわけがないのに。





CLOVER





 エルヴィンに子供を調査兵団で引き取りたいと言われたときに、こいつの頭はおかしくなったんだろうか、とリヴァイは思った。――いや、それは冗談ではあるが、調査兵団は託児所でも養護施設でもない。子供を育てるなら然るべき施設があるはずだし、そもそも調査兵団は子供を育てるのに向いているとは思えない。それとも、何かこの男には深遠な考えでもあるのだろうか。

「ついに、お前の隠し子が見つかったのか、エルヴィン」

 リヴァイの軽口めいた言葉にエルヴィンは苦笑してそんなわけないだろう、と告げた。

「身元ははっきりしているから安心していい。名前はエレン・イェーガー、11歳の少年だ。……シガンシナ区出身」

 シガンシナと聞いてリヴァイは眉を寄せた。今から一年半程前になるだろうか――突如として現れた超大型巨人と鎧の巨人に壁を破壊され、人類はウォール・マリアを放棄せざるを得なくなった。人類の活動領域は大幅に後退し、壁内に押し寄せてきた避難民に深刻な食糧不足に陥った。そのため奪還作戦と称された単にあふれた失業者の口減らしのための愚策が敢行され、多くの人々が命を失ったのはつい先日のことだ。

「……孤児か、そいつは」
「ああ。母親はシガンシナ区壊滅の際に亡くなり、父親は未だに行方不明だ。おそらくは亡くなったのではないかと言われているが……」
「で、その可哀相な孤児とやらを何で調査兵団で引き受けなきゃならねぇんだ? 避難民なら避難民用の施設があるだろうが」
「――調査兵団に入りたいんだそうだよ」

 エルヴィンはリヴァイの質問には答えず、その少年が半年後に行われる訓練兵の適性試験を受け、兵士を目指すらしい、と告げた。

「今から自分が目指すものを知っておくのもいいんじゃないかと思ってな。この先の参考のために」
「……現実を見て調査兵団に入団するのを諦めるかもしれねぇぞ」
「それならそれで構わないよ。それが彼のためになるなら」
「……………」

 どうやら、理由は知らないが、エルヴィンにはその少年に何かしらの思い入れがあるらしい。リヴァイが何を言ったところでこの男は自分の意志を通すだろう。エルヴィンとはそういう男だ。はっ、とリヴァイは舌打ちとも溜息ともとれる息を吐いて、諾、と答えた。

「お前の判断に従おう」

 ――かくして、エレン・イェーガーという少年は調査兵団に受け入れられることとなったのだった。







「エレン・イェーガーです。よろしくお願いします」

 目の前でぺこりと頭を下げる少年を見て、リヴァイは眉を顰めた。そんなリヴァイを見て横にいるペトラは表情には出さないようにしながらもハラハラしているようだ。

(何だ、こいつは――)

 少年は微笑みを浮かべている。愛想笑い、と世間的に称されるものだろうが、それは別にいい。初対面の、それもこれから世話になると判っている相手に笑顔で挨拶しないものなどよっぽどの偏屈でもない限りいないのだから。リヴァイが気になったのはその少年の――瞳だ。
 少年の瞳はまだ子供ということを差し引いても大きかった。少女めいてさえ見えるその大きな金色の瞳にはいっさい何も見えてない気がした。ガラス玉のようにただはめられただけ。ぽっかりと深く穿たれた穴のような――深淵の底に漂う闇のような、そんな瞳。

(こんな眼を見とことがある)

 あれは、確か巨人の襲撃にあった際に目の前で恋人を食われたという女性だった。虚ろな瞳は宙を漂い、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。彼女自身も片腕を失っていたが、それも全く気になっていないようだった。
 気がふれているのだ、と誰かが言っていた。正気を失い壊れた彼女の瞳はそれでも――いや、だからこそ見ているものをどこまでも引き摺りこむような、引き寄せられる昏い闇を孕んでいた。
 だが、少年は狂っているようには見えない。しっかりとした口調と動作は正気の人間のそれだ。
 なのに、この瞳に浮かぶ底の知れない闇は何だろう。まだ、たった11歳の少年がこんな瞳を持つまでに至る何があったというのか。

「あの……」

 リヴァイが何も言わないことに不安になったのか、窺うようにエレンから声がかけられた。リヴァイはそれで思考の海から引き揚げられ、リヴァイだ、と簡潔に名乗った。

「施設内の案内はこいつがする。ペトラ、こいつを頼んだぞ」
「はい、兵長。エレン、私はペトラ・ラルよ、よろしくね。早くここに慣れてくれるといいんだけど……」
「はい、ありがとうございます、ペトラさん。慣れるように頑張ります」

 ペトラと会話する姿はまるで普通の少年だ。その瞳の昏さは拭えないが……気にするほどのことでもないのか。
 部下に促され歩き出した少年に背を向け、リヴァイは歩き出しかけたが、不意に思い出したことがあって、振り返った。

「そうだ、お前――調査兵団に入りたいんだってな」

 リヴァイに声をかけられ、少年も振り返った。

「…………!」

 それは、何という瞳だっただろう。この世の闇を固めたような――でも、奥底にどろどろに灼けたマグマがあるような、底の知れない瞳。

「ええ、オレは調査兵団に入って、とにかく巨人をぶっ殺します」

 うっすらと笑みすら浮かべて宣言するそれは、狂気すら感じられるのに――その姿は全身で泣いているようにリヴァイには思えた。
 少年は涙など零していない。乾いた瞳がその証拠だ。なのに―――。
 少年はそのときはよろしくお願いします、と頭を下げ、ペトラとともに歩いて行った。

「…………」

 リヴァイは何だあれは、と思わず呟き、厄介なものを押しつけやがって、と心の中で自分の上司に当たる男を毒づいた。あの子供に引っ掻き回される、そんな予感がひしひしとしていた。


「あ、リヴァイ、こんなとこにいたんだ。ちょうど良かった」
「何の用だ、クソメガネ」

 神経を逆撫でされるような、呑気な声で呼ばれて、うんざりとしたようにリヴァイは振り返る。
 リヴァイの殺気立った視線など気にしていない様子で、相手――ハンジはキョロキョロと辺りを見回した。

「あれ、いないの? エレン君だったよね? もう着いたって聞いてたんだけど」
「さっき、ペトラが連れてった。施設内を案内させてるから、どっかで会えるだろ」
「一足違いだったか。うん、エレンに会うのは後での楽しみとして、リヴァイに用があったんだよ」

 だから、何の用だとさっき訊いただろうが、とリヴァイが言うより早くハンジは言葉を続けた。

「あの子の部屋のことで。リヴァイの部屋に一緒に住んでもらうことになったから」
「……どういうことだ、クソメガネ」

 ドスの利いたリヴァイの声にも動じず、ハンジはだって仕方ないじゃないか、と肩を竦める。

「エレンを一人にするわけにはいかないじゃないか。誰かと一緒にしないと。そしたら、ある程度の上官で一人部屋を使用している人に限られるだろう?」

 兵士の部屋というものは基本相部屋だ。ある程度のキャリアを積んで階級を上げれば一人部屋を与えられるが、一人部屋を使用している人間はそう多くない。そもそも、部屋には寝に帰るようなものだし、それについて文句を言うような繊細な神経の人間では兵士の責務は務まらないのだ。

「どっかの部屋に適当に放り込めばいいじゃねぇか」
「本気で言ってるの? リヴァイ。何かあったら、ただでは済まされないんだよ」
「…………」

 ハンジの言っている意味が目を離した隙に怪我でもしたら困る、というような意味ではないことは判っていた。基本、兵団には女性兵士の方が少ない。そして、兵士は日々の訓練で忙しいし、休暇もそれほどあるわけではない。更に街に出てそういった目的でお金を使うのには限界がある。となれば、手近な相手で――という軍独特の風習があることはリヴァイも知っている。相手に無理を強いる行為は固く禁じられているが、入りたての新兵にはそういった誘いが多く、問題が起きたこともままある。
 さすがにあんな子供に手を出すようなバカはいないと信じたいが、全くないとは断言は出来ない。僅かでも可能性があるのなら、それは断っておくべきだろう。

「それに、これはエルヴィン団長からのお達しなんだよ。あのリヴァイ兵長のお気に入り、ということにすれば、誰も手出しは出来ないだろうって」

 そもそも、引き受けたのはリヴァイなんだから責任を持たなきゃ――そう言うハンジの言葉は正論ではある。あるのだが。
 やはり、ムカついたのでリヴァイは蹴りを一発ハンジに見舞わせたのだった。






「いいか、クソガキ。勝手にものに触るな、汚すな、壊すな。以上だ」

 リヴァイの自室に連れてこられた少年に真っ先に告げられた言葉はそれだった。

「ああ、後、風呂にはきちんと入れ。衣服もちゃんと洗うように。汚ねぇ身体でこの部屋に入るなよ」

 リヴァイの潔癖は兵団の間では有名で、少年は誰かからそれを聞いていたのか、特に文句を言うわけでもなく、ただこくりと頷いた。持参したのは大した大きさもない鞄一つで少年の荷物はたったそれだけらしい。元々、避難民は大した荷物も持ち出せずに逃げたし、私物が少ないのは判っていたが、それを考えても少年の荷物は少なすぎる気がした。――それは、ともすれば、少年の待遇が良くなかったことを示していた。

「ああ、寝床がまだだったな。仕方ねぇから今日は……」
「あ、はい。床で大丈夫です」

 ソファーでも使え、という前に少年はあっさりと言い、あの辺を使ってもいいですか?と指で示しながらリヴァイに訊ねてくる。

「オイ、お前、床ってどういうことだ?」
「あ、汚しませんから大丈夫です」

 話が噛み合っていない。不機嫌そうな顔のリヴァイにエレンは首を傾げた。

「避難民の施設では床で雑魚寝が普通でしたし、真冬でも毛布一枚で何とかなりましたから、体調も心配ないです」
「……………」

 避難民の境遇は良くないとは聞いていたが――リヴァイが思っていた以上に扱いは酷いようだ。遠征中は確かに満足な寝床は与えられないが、兵士には――いや、訓練兵にだってベッドは与えられるだろう。かつて地下街にいたリヴァイはもっと酷い境遇の人間も見たことがあるが、それとはまた違う問題だ。リヴァイは眉を寄せ、ソファーを指差した。

「取りあえず、今日はソファーを使え。お前はまだ小せぇから大丈夫だろ。それと、ここはお前がいた施設じゃねぇ、一緒にすんな。明日にはちゃんとした寝床を手配する」

 リヴァイの言葉にエレンはきょとりと瞳を瞬かせ、それから、ぺこり、と頭を下げた。

「ありがとうございます、リヴァイさん」

 とことことソファーまで歩いて行き、そのクッションの柔らかさに驚いている少年は年相応に見えて――何というか、可愛らしいとリヴァイでも思った。

(調子の狂うガキだ)

 あんな昏い瞳を持つくせに無邪気で――無垢な態度も取る。計算でやっているならとんだタマだが、どうもそうではないようだ。チッ、とリヴァイは内心で舌打ちした。すでに自分はこの少年に興味を持ち始めている。それはどんな結果をもたらすのか――当のリヴァイにすら予想がつかなかった。





 その声が聞こえてきたのは夜もとうに更けた頃だった。

(何の声だ……?)

 リヴァイはどんなに熟睡していても、僅かな気配で目を覚ますことが出来る。それは地下街にいた頃に身に付けた生き残るための術だったが、調査兵団の兵士としても有効であった。気配には敏感でなければ、巨人との戦いには生き残れない。
 声が聞こえてきたと同時にリヴァイは反射的にベッドから起き上がり、声の聞こえてきた方向を判断した。
 そこにはソファーがあった。つまり、声の発生源は―――。

(エレンか)

 どうやら魘されているようだ。何か悪い夢でも見ているのだろうか――リヴァイは近くの明かりに灯をつけ、エレンの寝ているソファーに近付いた。

「オイ、クソガキ、どうした? 何を魘されていやがる」
「……あさ……」
「コラ、クソガキ、いったん起きろ」
「…あさん、ごめん。母さん…ごめんなさい。ごめんなさい」

 ごめんなさい、ごめんなさい、と少年はひたすらに母親に謝っている。リヴァイは舌打ちして、少年の肩を揺らし、頬をペチペチと軽く叩いて少年を眠りの世界から叩き起こした。

「………あ……?」
「オイ、クソガキ。派手に魘されやがって。人の安眠を妨害してんじゃねぇ」
「…リヴァイさ……?」

 まだ状況が判らないのか、揺れる瞳を見てリヴァイは溜息を吐いた。

「嫌な夢でも見てたのか」
「……覚えてません。すみません、うるさくしてしまって」

 そういう少年の身体は微かに震えていた。魘されていた原因に心当たりがありそうだが、本人は口にする気はないようだ。母親を呼んだところをみると、亡くしたときのことでも思い出したのか。
 リヴァイは小さく舌打ちすると、エレンの両脇に腕を差し込み、ひょいっとソファーから抱き上げた。そのまま腕の中に抱え、ぽんぽんと背中を軽く叩いてやる。エレンは余りの状況にぽかんとした顔でリヴァイを見るばかりで頭がついていっていないようだ。

「あの……何して……」
「ガキをあやすときにはこうするとクソメガネが言っていたから実行してみただけだが」
「あの、オレ、そんな子供じゃないです」

 クソメガネって誰なんだろう、とエレンは思ったがとてもじゃないが訊ける雰囲気ではなかった。

「お前は11だろうが。充分ガキだ」
「………………」

 戸惑っているような、困っているような――それでいて嬉しさもあるような複雑な顔をエレンはしていた。そんな子供の顔は悪くはない、とリヴァイは思う。あの昏く深淵の底に漂う闇の瞳も確かに人を引き付けるだろう。魅入られるという意味ではあちらの方が強いのかもしれない。
 だが、あれではダメなのだ。狂気は囚われるものではなく飼い馴らすものだからだ。あの深淵はこの少年をも食いつぶすだろう――そんな気がしてならない。
 黙っているエレンをそのままリヴァイは抱え、ぽんっとベッドの上に放り投げた。

「ほら、寝るぞ」
「え…あの、でも……」
「慣れねぇソファーだから寝つきが悪かったんだろ。俺はお前と違って睡眠時間は貴重なんだ。寝るぞ」

 そのまま抱き込むようにしてリヴァイは瞳を閉じた。エレンは緊張と混乱の中でただ固まっていたが、リヴァイがそのまま寝る気だと判ると諦めたように身体の力を抜いて瞳を閉じた。

(温かい)

 人のぬくもりを感じるのはどれくらい振りだろう――潔癖だと聞いていたのに大丈夫なのだろうか、とエレンは思いつつもつられるように眠りに落ちていく。

(でも、これに慣れてはダメだ。オレは忘れちゃダメだから)

 何があっても忘れてはならない、自分は――――。
 ―――お前は『  』だろう―――?
 誰かの嗤う声が聞こえた気がした。




 翌朝、リヴァイは目が覚めるとエレンを叩き起こし、顔を洗いにいかせた。清潔にする習慣はきっちりと覚えさせなければならない。
 ――昨夜は自分らしくない、ということをした自覚はあった。だが、思いの外子供の体温は心地よく感じられた。今の時期はくっついて寝るには相応しくない季節に入ろうとしていたのだが――気にならなかった。
 ふう、と息を吐き、リヴァイがソファーに腰掛けると横からばさり、と何かが落ちるような音がした。見るとそれはエレンが抱えてきた鞄だった。安定が悪かったのか、リヴァイが腰掛けたことによって落下したらしく、更に悪いことに口が閉まってなかったようで、いくつかのものが散らばっていた。
 リヴァイは舌打ちした。鞄の位置を確認しなかった自分も悪いが、きちんと鞄をしまっておかなかった少年も悪いだろう。後できっちり整理整頓することを躾なければ。
 散らばったものは衣類などの日用品が殆どだったが、その中に一つ変わったものを見つけてリヴァイの手が止まった。

(これは…栞か?)

 薄汚れ赤茶色の染みがついた小さな栞が何かその中で浮いて見えた。正直に言って触りたくないような薄汚さだが、リヴァイはそれを拾い上げた。手にしてみると、先程は裏側になっていて見えなかったが、押し花が貼ってあるのが判った。緑色の、葉が四枚ついた植物。

「四葉のクローバー?」

 思わず声に出していた。幸運の四葉の話はリヴァイも知っていた。リヴァイには全く興味がないが、中には幸運が訪れることを信じて押し花にして保存しているものがいると聞いている。何年も前に作られたような古いものに見えるが、これは少年が作ったものなのだろうか。
 汚さに捨ててしまいたい欲求にかられるが、さすがに人の持ち物を勝手に捨ててしまうほど悪趣味ではない。リヴァイはそのクローバーの栞を鞄に戻し、自身も身だしなみを整えるためにソファーから離れた。そして、いつの間にか――そんなものの存在を忘れてしまった。




 一ヶ月も経つとエレンは調査兵団に溶け込んだ。リヴァイの後ろ盾があるという噂も大きかったし、ペトラとハンジがエレンを可愛がり、構ったというのもある。エレンもお世話になってるだけじゃ心苦しいから、と自ら言い出し、雑用を買って出た。掃除はリヴァイ自らが指導したが、調査兵団の兵士達もそれなりにエレンを可愛がっているようだった。オルオあたりは兵長の後ろ盾があるからって調子に乗るなよ、と大人気なく言っていたがきっちりとペトラに指導されて、認めることにしたようだ。
 あれから、エレンの寝床――ベッドがリヴァイの部屋に運び込まれたが、実は一度もちゃんとは使っていない。エレンはあの後も魘されることが続いたので、リヴァイは仕方なく――あくまでも、仕方なくだ、とリヴァイは主張した――エレンを抱きしめて眠った。魘されるエレンは不思議なことにリヴァイが抱き締めてあやすように撫ぜてやるとすぐに安らかな寝息を立てるのだ。
 面倒くせぇから、最初から一緒に寝るぞ、とリヴァイが言ったのは一緒の部屋で暮らし始めてから五日目でエレンは戸惑いつつも頷いた。
 刷り込みだ、とリヴァイは思う。あの少年は自分と一緒に寝ると魘されない、という変な刷り込みが出来てしまったのに違いない、と思いつつもそれが悪い気はしないのが、不思議だった。自分も触れて触れられて気持ち悪く思わない人間だという刷り込みが出来たのかもしれない。

「リヴァイー!」
「何だクソメガネ」
「街に荷の確認と注文に行くんでしょ?」
「ああ、面倒くせぇが、行ってくる」

 何もリヴァイが行かなくてもいい話なのだが、今回の商談の相手の一人がどうしてもリヴァイに来て欲しいと言い出したのだ。おそらくは人類最強と懇意にしているなどと見せびらかして自分の力を誇示したいのだろう。無視してもいい話だが、商会主の中でもわりと力を持つ一人なので、余り無下に断るのもまずいだろうと出向くことにしたのだ。

「リヴァイ、モテモテだもんね」
「……削がれてぇのか、お前」
「あはははは、私は巨人じゃないよ。でね、それにエレンも連れてって欲しいんだ」
「あ?」

 ハンジの言葉にリヴァイは眉を顰めた。何で、くそ面白くもない豚野郎との商談にあの子供を連れていかなければならないというのだ。

「何も商談に連れてけってわけじゃないよ。その間は街の見物でもさせて、合間に買い物とかさせてあげて欲しいんだ。服とかも買ってあげたいし……あの子の荷物見ただろう? 最低限のものしか持ってないんだ。服は身体の小さい新兵とかのお古を直してあげてたんだけど、限界があるし」
「何で、俺なんだ。ペトラあたりに行かせりゃいいじゃねぇか」

 ペトラはエレンの面倒をよくみて可愛がっている筆頭だ。むしろ、喜んで行くだろう。
 だが、ハンジは首を横に振った。

「自分のために出かけるって言ったらあの子は遠慮するよ。あくまでもついでにあの子の買い物をするってスタンスが大事なんだ。ペトラがついでって言ってもあの子は察するだろうし」

 その点、リヴァイなら大丈夫だろう、とハンジは続けた。……今、とても失礼なことを言われた気がするのは気のせいだろうか。

「それに、リヴァイにだって判ってるんだろう?」

 私達じゃダメで、リヴァイじゃなければならないって、とハンジは溜息を吐いた。

「何で、可愛がってる私達じゃなくて仏頂面男に懐くかな。――知ってるだろう、リヴァイ。あの子、君といるときだけ――ほんの少しだけ瞳が和らぐんだよ」

 あの子の闇は私達じゃ拭ってあげることは出来ないよ、とハンジは少し寂しそうに言った。
 リヴァイには判らない。あの子供がああなってしまった理由も――それを自分がどうにか出来るのかも。
 ただ、何となくではあるが自分があの子供にとって一番近い位置にいることは判っていた。それなら。
 ――頷く以外になかった。





「リヴァイさん、リヴァイさん、すごく賑わってますね」
「名前は一度呼べば、判る。……余り、はしゃぎすぎるなよ」

 子供は元気よくはい、と笑顔で返事をした。――そういえば、いつからだっただろうか。この子供は自分の前では愛想笑いをしなくなった、ちゃんとした笑顔を向けてくる。添い寝が習慣づいた頃だったような気もするが――よく覚えてない。
 ふと見ると、少年は軒先に並べられた果物に視線を注いでいた。リヴァイは店の店主に言って、その赤い実を二つ買って子供に一つ渡した。

「ほら、食え」
「え、あの、でも……」
「俺が食いたかったんだ。俺だけ食ってお前に食わせねぇと俺が嫌な奴みてぇだろうが」

 かしり、とその実を齧るリヴァイと自分の手の中にある実を交互に見て、エレンははにかんだように笑ってありがとうございます、と言ってから同じように齧りついた。甘酸っぱい香りと味が広がり、美味しいですという少年になら、良かったとだけリヴァイは返した。
 それから、リヴァイの仕事とエレンの買い物を交互に繰り返し、リヴァイが豚野郎と言った男との商談を残すだけになった。正直に言って面倒で仕方ないが、行かないわけにはいかない。相手は何かと引きとめてくるだろうが、この先に仕事が残っているとでも何でも言って早々に退散しようと、リヴァイは決めていた。

「オイ、エレン、俺はこの店の主人と商談をまとめてくるから、その辺見てろ。遠くには行くな。この辺は治安がいいから大丈夫だろうが、裏路地には絶対に入るなよ。奥の方は物騒な奴らが潜んでる可能性がある」
「はい。了解しました」

 エレンがそう頷いたとき、店の中から腹のでっぷりと出た中年の男が出てきた。
 その男を見たとき、僅かではあるが、エレンの顔色が変わった気がした。

「これはリヴァイ兵士長殿。お待ちしていました」

 言いつつ近くにいたエレンに男は視線を向けてきて――視線が合うより早く、エレンはその場を立ち去っていった。

「今のは……兵士長殿のお連れの子で?」
「いや、知り合いの兵の子だ。今、偶然に会ってな、挨拶されたところだった」

 リヴァイは咄嗟に嘘を吐いた。何か嫌な予感がしたからだ。

「そうですか……そうですね、そんな訳がない。いや、私が仕入れをしている開拓地にいた子供によく似ていましてな。シガンシナの出身だったか……悪魔のような子でしたよ」

 男の言葉はこれ以上聞いてはいけない気がした。これ以上聞いたら、今までに少しずつ積み重ねてきたものが崩れてなくなってしまう。だが、男はリヴァイの心情には構わずに、言葉を続けた。

「何でも、逃げるのに邪魔だった母親を殺して生き延びて、開拓地では開拓地で親身にしてくれた男を刺して重傷を負わせたとか。人間にも巨人のような悪魔がいるって、思いましたからね」



 ―――母さん、ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい―――



「人の皮を被った悪魔の子だって、開拓地では評判で――」
「黙れ」

 押し殺した低い声が聞こえて男は言葉を止めた。目の前のリヴァイに何を言われたのか判らなかったのか、瞳をぱちぱちとさせて見つめてくる。

「黙れと言ったんだ、豚野郎」

 殺気すら感じさせる言葉に男は瞬時にして固まり、リヴァイは男に一瞥もくれずに踵を返した。



 バカなことをしている、とリヴァイは思った。自分らしくない、あんなのは笑って流しておけば良かったのだ。そうか、それはとんでもないな、では、そろそろ商談にでも――と。
 あの男は知らないのだ。あの子供がどんな風に震えるのか。どんなふうに魘されるのか。全身で泣くくせに――涙は決して零さないのだ。
 あの子供が母親を殺したなんてあるはずがない。根拠なんて必要ない――あれは悪魔なんかでは決してない。

「チッ、どこ行きやがった、クソガキ」

 遠くには行くなと言ったにも拘わらず、少年の姿はなかった。自分らしくもなく焦る心を抑えながら、視線を走らせると、裏路地に行く道の入り口にぽつりと落ちている紙袋があった。

(これは――エレンに持たせていた)

 そう思ったのは一瞬、リヴァイは迷わず裏路地へと走った。




 壊れるのは一瞬だな、とエレンは思う。人の絆も、人自身も簡単に壊れていく。
 目の前には下卑た表情をした男が三人立っていた。逃げるように立ち去ったエレンはこの男達に目を付けられ、この裏路地へと追い込まれたのだ。

「オイ、こいつ本当に売れるのか?」
「ああ、黒髪のこのくらいの男のガキを探してる変態じじいがいる」
「ちょうどいい奴が見つかって良かったぜ」

 エレンは冷めた目で、男達をただ見つめていた。

「ああ、やっぱり、同じだ。この世界にはクズばっかりだ」
「何言ってんだ、ガキ。こっちに……」

 男が手を伸ばした瞬間だった、ひゅん、という音がして男の手から血飛沫が上がっていた。
 ――エレンの手には血に濡れたナイフ。

「何すんだ、ガキ……!」
「ああ、大丈夫だ。次はちゃんと狙うからさ。どこを切ったら死ぬか、判ってるから」

 うっすらと笑うエレンの顔は寒気を覚えさせるもので――その瞳にはぽっかりと穿たれた穴の底のようなどこまでも昏い闇が広がっていた。そんなエレンの狂気に中てられたように、男達が怯んだ隙に。
 ―――ドガッ!
 その大きな打撃音を皮切りに激しい物音が続いた。

「――死にてぇのか、お前は、クソガキ」

 三人を瞬殺というべき速さで地に沈めたリヴァイは、男達を倒した後、エレンを叩いた。拳ではなく平手だったのは彼にしては加減をした証拠だ。

「それは護身用か? そんなひょろいナイフで三人も倒せるわけないだろう。俺が間に合わなかったらどうするつもりだった」
「……急所を狙えば大丈夫かと思ったんです。以前は失敗しましたが」

 エレンの言葉に怪訝そうにリヴァイは眉を顰めた。以前は失敗したとは何の話を言っているのか。

「あの商会の人から聞いたんでしょう。オレが母親を殺して、開拓地でも人を刺したって。……全部本当のことです」
「エレン」
「オレは自分が生き残るためなら何でもするようなそんな人間です。リヴァイ兵士長」

 そう言ってから、エレンは深く頭を下げた。

「この度は多大なるご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。心からお詫び申し上げます」

 ああ、とリヴァイは思った。離れてしまった、完全に。先程、エレンはリヴァイさんではなく、リヴァイ兵士長と呼んだ――それがエレンの答えだ。
 もう謝らなくていい、顔を上げろというまでエレンは頭を下げ続けたが、上げた先にあったのは最初に会ったときよりも深く昏い闇を孕んだ瞳。
 ――どうして、こうなってしまったのだろう。
 リヴァイには判らない。判らなかった。





 忘れてはいけなかったのに、何故、忘れかけてしまったのだろう。
 何があっても忘れてはならない、自分は――――。
 ―――だって、お前は『悪魔』だろう―――?
 誰かの嗤う声がずっと聞こえていた。







2013.8.16up




 すみません、もう1話続きます。色々設定いじりすぎて二人が別人くさい…(汗)






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