どうして生きることを望んでくれないのだと、自分さえ逃げることを選択してくれたら何でもすると、幼馴染み達は言った。彼らだけではなく、共に戦ってきた仲間達も自分を逃がしたいと、そのための協力なら惜しまないと言ってくれた。
 だが、それに自分は首を横に振った。それでも彼らは諦めずに自分を逃がそうと奔走してくれているようだったけれど、肝心の自分が彼らに協力しようとはしなかったのだから、どうしようもない。
 調査兵団の団長であった上官にも同じことを訊ねられたけれど、自分は逃げることは選ばなかった。彼には一言すまない、と詫びられたが、ただ笑って返した。彼にも判っていたのだろう――民衆が望む『巨人の根絶』は決して避けられないことに。自分が逃げれば、それに兵団のものが関わっていたとなれば、民衆からの信頼は失われ、暴動や内乱が必ず起こるということに。
 そうなれば、少なからず犠牲者が出るのは判っていた。民衆にも、兵団にも。そして、犠牲が多ければ多いほど両者の間の溝は深まっていく。
 ――そうして、彼の人にも問われた。これがお前の選んだ道かと。本当にこの選択でいいのかと。
 静かに頷いた自分に、これはお前が本当に望んだものか、と彼は更に問いを続けた。
 それにはただ静かに微笑んで返した。――返す言葉が見つからなかったから。

 自分が本当に望んだのは――――。





七度死んだ男




 
 四度目の人生は当然のように訪れた。文化レベルは三度目のときと余り変わっていないようで、王が国を統治する中世ヨーロッパのような世界だった。エレンはいわゆる、上流階級――支配階級とも言うべきか、名門貴族の家に生まれた。今までがごく普通の一般家庭の出自――波乱万丈の人生ではあったが――だっただけに貴族の暮らしには中々慣れなかったが、幸いというべきか今までの三度の人生の中で嫌という程、上流階級の人間には関わってきたから、何とか立ち回ることが出来た。
 エレンの家は代々武勲を立てて続いてきた家柄で、当主は将軍の地位を与えられていた。現当主であるエレンの父も将軍であり、その後を継ぐべく一番上の兄も王直属の近衛騎士団の団長として日々鍛錬を積んでいる。
 エレンは気楽と言えば気楽、微妙といえば微妙な立場の三男として生まれた。子供としては父の五番目の子供で兄が二人に姉が二人いる。遅くに出来た末っ子なので可愛がられてはいたが、三男のエレンが爵位を継ぐことはまずないし、娘とは違って他家に嫁に出すことも出来ない。家を継ぐ可能性がない以上自分で身を立てていかねばならない。
 二番目の兄はエレンの家の出にしては珍しく、武ではなくずば抜けて頭が良かったため文官の道に進み、今ではかなり出世しているが、エレンは今までの人生と同じく座学は苦手であった。なので、当然のように武術の道に進んだ。三度の人生の経験の賜物か武道の腕はすぐに上がり、同世代では誰も彼に敵う者はいないだろうと言われるまでになった。武道の腕を活かせる職と言えば、護衛、傭兵、警備兵、などいくつかあるが、名門貴族の家に生まれたエレンがそれらに就くことが許される訳もなく、エレンは騎士として生きていく道を選ぶこととなった。



「エレン、遅かったな。何かあったのか?」

 集合場所にエレンが向かうと同期の若者――コニーにそう声をかけられた。エレンは悪い、と言いながら駆け寄りはあ、と息を吐いた。

「団長にちょっと捉まってた」
「へ? 何かへまでもやらかしたのか?」
「別に何もやってねぇよ」
「やったとしたって、エレンが叱責食らうわけねぇだろ」

 その場にいたもう一人の同期――ジャンが肩を竦めるようにしてそう言った。

「侯爵家のお坊ちゃんで、将軍の息子のエレンに平民上がりの団長が文句なんか言えるわけねぇだろうが」

 その言い草にムッとしたエレンは挑発するような笑みを浮かべてジャンに向き直った。

「そういう台詞は一度でもオレに勝ってから言うんだな、ジャン」
「何だと……オイ、エレン、お前が俺に勝ってるのはたまたまだ! たまたま!」
「入団してから随分と経つけどな。すごく長いたまたまだな」

 二人の言い合いにオイ、もうやめとけよ、とコニーが割って入った。

「エレンに同期の奴らが勝ったことが一度もねぇのは事実なんだから、仕方ねぇだろ。で、エレン、お前、怒られたんじゃないなら何で呼び出し食らったんだ?」
「あーそれはだな……」

 余り言いたくはないことだったが、集合時間に遅れた以上、説明する義務があるだろう。好奇心にあふれた視線をこちらへと向けてくるコニーに、エレンは溜息を吐いて自分の上官から呼び出された用件を言うことにした。

「……第一騎士団への移動を打診された」
「第一騎士団って……近衛騎士団か! すげえじゃねぇか!」

 この国の騎士団は第一から第五まであり、第一騎士団は騎士達の頂点ともいえる王直属の近衛騎士団である。エレンの一番上の兄が団長に就いている第一騎士団は、剣術の腕の高い優秀な騎士で構成された精鋭集団で、騎士になった者なら大抵はここに入ることを目標としている。

「断ったけどな」
「はあ!? 何でだよ!」

 エレンのその回答に激しく反応したのはコニーではなくジャンの方だった。信じられない、という顔でエレンを見ている。

「……なんか、あそこはオレには合わねぇ気がしてだな」
「何でだ? あそこ、お前の兄貴が団長なんだろ? 兄弟仲悪いのか?」

 不思議そうに首を傾げるコニーにエレンは首を横に振った。

「イヤ、兄弟仲は別に悪くないぞ。むしろ、構われすぎて鬱陶しいくらいなんだが。ただ、あそこの連中とはウマが合わないというか……」
「ウマが合わないくらいなんだ! 俺なら第一騎士団へ入れるならそれくらい我慢するぞ!」
「まあ、ジャンは近衛騎士団とはウマが合いそうにないな」
「ああ、馬面だけにな」
「何だと! コラァアアア!」

 憤慨するジャンは放置してエレンとコニーは会話を続けた。

「そもそも、エレンは何で第三騎士団に入ったんだ? お前、腕もいいし、士官学校で成績優秀者だったんだろ? 即、第一騎士団入りしてもおかしくなかったのにって皆首傾げてるぞ」
「オレは最初から第三騎士団志望だったんだよ」

 エレンの言葉にジャンがまた声を上げていたが、エレンは完全にスルーした。コニーは判らないという風にまた首を傾げている。

「俺なら近衛騎士団に入れたら自慢出来るし嬉しいけどな。まあ、俺は平民出だからどう頑張っても無理だろうけど」
「…………」

 王や王族を護衛する近衛騎士団は名門貴族の出であることが必須条件だ。例外が全くないとは言わないが、武術の他に血筋も重視される。名門貴族の出であり、武道に優れたエレンは騎士になってすぐに第一騎士団へ推薦されたが、本人の強い希望で平民出身のものが殆どの第三騎士団へと入団した――殆ど強引に押し切ったといってもいい。その理由といえば――。

(……自分の国の国王が苦手だからって言うわけにはいかねぇよな)

 エレンは自国の王――この国の最高権力者が余り好きではなかった。好きか嫌いかどちらかを選択しろと言われれば迷わず後者を選ぶくらいには。
 別に王が国民に圧政を強いているとか、無能で遊びほうけているとかそういうわけではない。ただ――現在の国王は非常に好戦的で武力を重視している人物なのだ。王位についてからは武力を強化し、近隣の国を侵略し、国土を広げた。敗戦は一度もしていないことが拍車をかけているのか――彼は国土をもっと広げていくことを考えているようだった。勝ち続けていることに酔っているのか、国民からの目立った不満も出ていない。

(急激な変革や成長はどこかしらに歪みを生じる。成果は急いではいけない。一つに偏りすぎてはいけない。何かに特化することはいいこともあるけれど、危険なことも多い。天秤は傾けてはいけない……国政は均衡を保つことが安定につながる……だったかな)

 二度目の人生で親友が言っていたことを思い出す。専門職や商売なら特化するのはいいだろうが、この国は武力に偏りすぎているような気がする。二番目の兄が王が武官ばかりを重用するので文官の間には不満が出始めていると言っていた。父や一番上の兄が諫めてくれればいいのだが――根っからの武人である彼らにそれは難しいだろう。臣下の不平不満は大きくなれば内乱に繋がりかねないので良くない兆候だ。

(かといってオレが第一騎士団に入って王に諫言したって喧嘩になるか、不敬罪で捕まりそうだし)

 一番最初の人生で審議所で啖呵を切ったことは覚えている。あのときはそれが上手くいったのだが、今の人生では下手すれば父の失脚や家の没落に繋がりかねない。自分一人が身を滅ぼすのであれば身から出た錆と思えるが、それが一族郎党に及ぶとなれば勝手なことは出来ない。
 だが、王直属の近衛騎士団に入ってしまったら――王の側に行く機会があれば自分の性分からして何かやらかしそうな気がひしひしとするのだ。更に三度の人生で庶民だった自分が名門貴族の子弟ばかりで構成された集団に入って楽しくやっていけるとは到底思えない。ぼろが出ないように気を使って生活するのが目に見えている。今までの人生で上流階級の人間へは嫌悪の感情を向けることが多かったが、自分がそうなったらなったでそれなりの苦労があるのだと思い知った。
 そんな理由で第一騎士団入りを断り続けているエレンだったが、このまま続けていくのは厳しいかもしれない。

「……そんなことより、もう見回りに行かねぇとまずいんじゃないか?」
「本当だ! やべえな、急ごう!」
「遅刻してきたお前が言うな! エレン!」

 エレンが話題を変えるように告げ、自分達の仕事を思い出したコニーが慌てて駆け足で移動を始める。ジャンのツッコミにエレンは適当に返しながら、自分も急ぎ足でコニーの後に続いた。そうして、三人は目的の場所――城下町へと急いだ。



「……ったく、町の見回りなんて警備隊に任せりゃいいだろ。騎士のやることじゃねぇ」
「そうか? 俺は訓練より、見回りの方が好きだけどな」

 二人の会話を聞き流しながらエレンは城下町を行き交う人々に視線を走らせていた。
 基本、見回りや揉め事の解決、犯罪者の逮捕などは警備隊の役目だが、定期的に騎士団も見回りを行っている。平民出の多い第三騎士団にその責務が任されているのは、その暮らしぶりを熟知し適任だという理由からだそうだが、第三騎士団から言わせれば上から仕事を押し付けられた、となるらしい。
 だが、この見回りには一応の意味はある。警備隊への監査や国民の暮らしぶりの視察、何より王が国民に目を向け騎士達が守っているという良い宣伝になる。

(……今回も知り合いはいないみたいだな)

 多くの人が行き交う活気のある城下町にような場所に来るとつい昔の知り合いがいないか探してしまうのはエレンの癖だ。いたとしても声をかける気はないのだがつい探してしまう。

(会ったって向こうは覚えてねぇだろうし)

 この度の人生では今のところ出逢ったのはジャンとコニーの二人だけだ。だが、騎士になったときに出逢ったその二人も昔のことは覚えていなかった。今生も自分だけが前世のことを覚えているらしい。他国に赴けばもしかしたら他の人間に出逢うこともあるかもしれないが、エレンにその気はなかった。
 ――逢いたい、と思う気持ちはある。だが、逆に絶対に逢いたくないとも思う。

(再び出逢うことがあったら、またオレは死ぬのかな)

 その手にかかって命を失うのか。または何かの騒動に巻き込まれて死に至るのか。――それは問題ではない。いや、死にたいとは思ってはいないし、自分の生死は大問題ではあると思うが、一番の気がかりはそこではない。

(あの人にまた出逢ってしまったらオレは――)

 その時、男性の怒鳴り声のようなものが耳に届いた。視線を向けると、何やら人だかりが出来ている。

「何だ? 揉め事か?」
「チッ、警備隊員は近くにいないみたいだな」
「誰かが知らせに行ったかもしれねぇが、詰所は少し距離がある。来るにはもう少しかかるだろ」
「まあ、仕事だかんな。行くか」

 三人は頷きあって人だかりへと近付いていった。


「てめぇ、馬鹿にしやがって!」

 赤ら顔の男の怒鳴り声が響く。どうやらこの騒ぎは酔っぱらった男の喧嘩らしい。
 対する相手はフードのついたマントをかぶっており、こちらに背を向けているので顔は確認出来ないが、服装や体格からいって男性だろう。成人男性にしては小柄だが怒鳴りちらしている相手とは対照的に静かだった。

「昼間から呑めるとはいいご身分だな」
「どうする? 止めるか? 今のところ流血沙汰にはなってないみてぇだけど」
「放っておいて何かあったらまずいだろ」
「まあ、これも仕事か」
「だな」
「そうだな」

 騎士団が関わるような事件ではないが、放っておくのも問題がある――そう判断した三人が人だかりに割って入っていこうとした時、酔った男が懐からナイフを出した。

「すかした顔しやがって! その顔切り刻んでやる」

 男が相手に切りかかっていった刹那――ドカッドサッという重いものがぶつかり倒れるような音と、キンッという金属音が辺りに響いた。

「おっさん、あんたは呑みすぎだ。しばらく寝てろ」

 エレンは自分の足の下で呻き声を上げている赤ら顔の男にそう告げた。倒れた――というか、エレンが蹴り倒したのだが――地面の上で状況が判らずに混乱している様子で、身体を打ち付けた痛みに身動きが出来ないようなので逃げる心配はないだろう。男が手にしていたナイフは倒れた衝撃で跳んだのか少し離れた地面に転がっており、エレンはさすがだなーと感心したように呟いているコニーに視線で拾うように促した。

「――で、あんたは何で剣を抜いた?」

 背後で金属の擦れ合う音が響く。男が切りかかったとき、マントの男が素早く剣に手をかけたのを見てエレンは間に割って入った。酔っぱらった男を蹴り倒し、後ろ向きで男の剣を止めたのだ。

「城下での抜剣は緊急時以外は禁じられている。そもそも帯剣するには許可がいるはずだが、許可証はあるのか?」

 外部からの武器の流入や所持は治安維持のために取り締まる必要がある。しかし、武器の所持を全く禁じてしまえば商人達が雇う護衛などが街に入れなくなるし、犯罪から身を守るための武器――護身用の剣などを総て禁じるのにも問題がある。だが、誰でも武器を持ち歩けるとなれば治安が悪くなるし、暴動や内乱が起きるかもしれない。なので、ある程度の譲歩ときちんとした規制の両方が必要となってくる。
 この城下で帯剣が許されているのは騎士団や警備隊の他は護衛などの役職についているもののみで、帯剣するのには許可がいる。一般人が帯剣することは許されていないし、騎士団や警備隊は別として城下で剣を抜くのは余程のことでないと許されない。喧嘩くらいで抜剣すれば罪は重くなる。
 背後での金属音は続いている。鞘が駄目になるかもな、とエレンは心の中で溜息を吐いた。
 城下での抜剣を躊躇ったのではない。騎士であるエレンが抜いたとしても問題はないし、相手が剣を抜いたのなら尚更だ。
 抜かなかったのではなく、抜けなかったのだ――相手が恐ろしく速かったため、抜いていては間に合わないと判断したのだ。
 男に殺気はなかった。今も感じられない。だが、殺す気はなくても切る気はあったのだと思われる。絡んでナイフで切りかかってきた相手に非があるのは明らかだが、それで腕の一本なくすはめになるのは重いのではないかと思う。これが凶悪な殺人犯であったなら話は別だが、どう見ても酒に酔って気が大きくなっただけの普通の男だ。見たところ、男が取り出したナイフは殺傷力は低く使いこなすような腕もなかった。それに、素早く抜剣した身のこなしからいって剣を抜かずとも軽くあしらえたはずだと思う。

「ほう、面白い。悪くないな、お前」

 背後から聞こえてきた声にエレンは凍り付いた。この声は――知っている。

「あの瞬間に俺の剣を止められる奴なんてそうはいない。久し振りに面白い奴に出逢った」

 ふっと、剣を止めていた腕の重みが軽くなる。男が剣を退いて鞘にしまう音が耳に届いた。

「先程の質問の答えだが、絡まれて相手にしていなかったんだが、いい加減しつこくてな。少し脅してやろうかと思っただけだ。多少の怪我は勉強料だろう。後、帯剣の許可はちゃんとある」

 それでお前は――と、男が続けようとした時、エレンは物凄い勢いで駆け出した。

「コニー、ジャン! 後は任せた!」
「へ? オイ、エレン! どこに行くんだよ!?」

 慌てたような声が聞こえたが、エレンは総て無視してその場から全速力で逃げた。
 ああ、やっぱり、この人生でも出逢ってしまった――最後まで振り返らなかったから顔は見ていないのだけれど、エレンは彼が彼の人だと確信していた。彼の――リヴァイの声を自分が間違えるはずがないのだから。

(旅行者か? 仕事で来ているのか? 帯剣しているのなら商隊の護衛かもしれない)

 しばらくは城下町には行かない方がいいかもしれない。見かけたら全速力で逃げるか隠れよう。騎士の自分と彼が関わるような事態は今後起きないはずだ。
 エレンはそう自分に言い聞かせた――それで逃げ切れるとこのときは思っていたのだ。



 自分の父である将軍に呼び出されてエレンはやや緊張した面持ちで彼の執務室に向かった。実の父親ではあるが執務中はそんなものは関係ないものとして扱われてきたし、自分もそのつもりでいる。

(何で、オレは呼び出されたんだろう?)

 父親は武官の最高位である。この国の武官の一番下は騎士になる程の実力がなかった警備隊、その上に第一から第五までの騎士団。騎士団内では団長、副団長、隊長、班長の階位があり、同じ団長でも第一騎士団の団長の方が権力は強い。そして、その団長の上に三将軍、と呼ばれる身分がある。正将軍、右将軍、左将軍で、父親は正将軍の地位に就いており、総てを統括、動かせる権限を持っている。
 一番上の兄ならともかく、一介の騎士にすぎない自分が仕事中に顔を合わすことなどまずないのだ。
 疑問に感じながらも執務室に辿り着いたエレンは中に入るように言われ、部屋の中にいた人物を眼にして叫び出しそうになるのを何とかして堪えた。
 穏やかな表情を浮かべているその男性は一番初めの人生でよく見知った顔だった。

「はじめまして。私は自由の翼団、団長、エルヴィン・スミスだ」

 動揺をどうにかして押し隠そうとしていたエレンはその言葉で我に返る。自由の翼団、という名称には聞き覚えがあった。

(確か、一流の腕を持った精鋭達が集まった傭兵集団。味方につければどんな戦でも勝てるって噂の……)

 一番最初の人生で自分が入っていた兵団の印と同じ名前だったことが印象深かったし、騎士団内でも戦場で敵として対峙したくはないと話題に上がっていたから。まさか、同じ人物がまた団長をやっているなどとは思ってもみなかったけれど、彼がその自由の翼団の団長だとして何故、この国の将軍の執務室にいるのか。
 考えられる可能性は一つしかない。そして、その考えを見抜いたように父親は頷いてエレンに告げた。

「我が国は自由の翼団と契約を結んだ。――来るべき戦いに備えて」

 その言葉を聞いてエレンは舌打ちしたくなるのをどうにかして堪えた。

(ここにきての武力強化――傭兵団を雇ってまで備えるといったら一つしかない)

 エレン達の国の隣にある大国――そこに攻め入る気なのだろう。

(兵力としては五分五分かやや向こうの方が上――だから、攻め込む気は起こさねえと思っていたが、そこまでして国土を広げたいか)

 国土を広げてどうするというのだろう――そうすれば豊かになると思っているのか。国はただ、広げればいいというものではない。統治する能力があって初めて成り立つのだ。

(戦に勝てたとしてその後の統治はどうするんだ。隣国は大国だ。国土が手に入ったとしても向こうの国民は黙って従うわけねぇし、上手くいかなきゃ内乱起こされてつぶれるぞ)

 自分の思考の海に沈みかけたエレンだったが、父親に声をかけられてまた我に返った。そもそも、自分がここに呼び出された理由が判っていない。
 そうして告げられたその内容にエレンは目を丸くした。

「は? 私にそちらの訓練に参加して欲しい、とそうおっしゃるのですか?」
「そうだ。すまないが、どうしても君と手合わせしたいというものがいてね。君はとても優秀な騎士だと聞いているし、うちの者たちにもいい刺激になると思っている」

 にっこりと微笑むエルヴィンに父親が頷く――彼が許可を出したのなら自分が断る術はない。

「私程度の腕でご満足頂けるとは思えませんが、ご期待に添えられるように努めさせて頂きます」

 エレンが礼をとると、エルヴィンはそう畏まらなくていいよ、と笑った。

「では、早速だが訓練場に案内しよう」

 そう笑う男にエレンは頷くしかなかった。



「では、イェーガー殿」
「あの、それやめて頂けませんか? エレンでいいです」

 父も兄もおりますから紛らわしいでしょう、と告げると、エルヴィンはなら遠慮なく、と笑った。
 その顔を失礼にならないように眺めながらエレンは内心で溜息を吐いた。

(……団長に逢うのは初めてだな。コニーやジャンも今回が初めてだったけど)

 他のものと邂逅したのだから、エルヴィンと再び逢うことだってあり得なくはなかったのだが、アルミンやジャン達のように身近にいた存在ではなかったためその可能性を失念していた。この世界に存在するとしていても、どこぞの国の重鎮とかで出逢うようなことはないと思っていたのだ。

(まあ、オレだって今回は名門貴族の家に生まれたし、どこでどんな人間に出くわすか判らねぇが)

 しかし、まさか傭兵団の団長になっているとは思わなかった。彼は――というか、彼の傭兵団は客分扱いということになるのだろうか。国王から訓練場や宿泊場所の提供を受けたようだし、かなりの期待をしているのには間違いない。

(まあ、常勝無敗の傭兵団……味方につければそれだけで士気が上がるだろうし)

 戦を始めるとしたらいつだろうか。用心深くいくなら、いきなり大国ではなく小国との小競り合いで実力を試させ、それから作戦立案を練るかもしれない。地形や季節などの時期も検討しなければならないし、準備を万全に整えてから臨むだろう。

(だが、自由の翼団がうちについたと知った隣国が先手を打ってくるとも限らないし、余り時間はかけていられないはずだ)

 急激に国土を広げたこの国を隣国は警戒しているはずだ。先王の時代は比較的友好な関係であったが、今の王に代替わりして国土を広げ始めたあたりから国境付近では緊張した雰囲気に包まれている。そもそもこの契約がいつなされたのか判らない。大分前から準備を始めていたのなら時間は余りないはずだ。
 何にしてももう戦は避けられない。気が重くなる話だ。

「浮かない顔をしているが、何か?」

 エルヴィンに声をかけられて、エレンも何でもありません、と愛想笑いを浮かべた。まさか、あんたらがうちと契約を結んだから今後のことを考えると頭が痛い、などという本音を語るわけにはいかない。

「かの有名な自由の翼団の訓練に参加させて頂くので、少し緊張しているだけです」
「なら、いいのだが。君に協力を頼んだのは部下のわがままだから、余り気負わなくて構わないよ」

 部下のわがまま、と聞いてエレンは怪訝そうに首を傾げた。つい、口からもわがままですか?という疑問がこぼれてしまう。

「そう、どうしても、君と手合わせしたいというものがいて――ああ、ここだよ」

 丁度、訓練場に辿り着いたらしい。エレンが一歩、足を踏み入れたとき―――。

「――――っ!?」

 気配を感じたエレンは素早くその場から飛び退き、迫りくる白刃を防いだ。剣と剣がぶつかり合うキン、という金属音が辺りに響く。

「ああ、やはり、いい動きをする。当たりだったな」
「いきなり、これかい? わざわざ来てもらったのだから、友好的な挨拶から始めたらどうだ、リヴァイ」
「前に逃げられてるんでな。先に挨拶もなしに逃げたのはこいつだ」

 エレン、という名だけで探し当てるのには苦労したんだからな、と続けるリヴァイに、やれやれ、とエルヴィンは肩を竦めた。そして、君を招いたのは彼の強い要望だったんだよ、と聞き捨てならない言葉を投下した。
 その言葉に目を瞠るエレンを面白そうに眺めながら、男――リヴァイは剣を鞘に納めた。

「自由の翼団、兵士長のリヴァイ・アッカーマンだ。これから俺の訓練に付き合ってもらう。覚悟しておけよ、エレン」

 新しい獲物でも見つけたような、ギラギラとした眼で見つめられて、エレンはごくりと唾を飲み込んだ。
 ――どうやら、今生でも彼に関わってしまうことからは逃れられないらしかった。



 少しだけ、上がった息を整えながらエレンは対峙する男を眺めた。男に呼吸の乱れはないし、疲れも見受けられない。以前と変わらず小柄な身体は鋼のように鍛えられていて、繰り出す剣は早く、一撃も重い。
 確か、自由の翼団の兵士長は最強だと噂されていた気がするが、噂に違わぬ実力者だ。噂を聞いた時にはそれをリヴァイと結び付けて考えてはいなかったのだが。

(今回も人類最強だとか、ありえねぇだろ)

 その時、時刻を知らせる鐘の音が鳴った。リヴァイがそれを聞いて休憩にするか、と言ったのでエレンはその申し出に有難く頷くことにした。木陰に男と並んで座り込んで、持参した水筒から水分を補給する。人心地ついて、休憩中ずっと無言でいるのもとどうかと思ったエレンは男に質問を投げかけた。

「それにしても、何でオレを指名したんですか、リヴァイ兵長。他にも優秀な騎士はたくさんいますよ。第一騎士団の中からとか」

 最初の出逢いとは違い、エレンは丁寧な言葉使いで接している。リヴァイからは当初のままでいいと言われたが、彼に敬語で接しない自分が想像出来なかったため、何とか納得してもらった。上官と接する時に使う私だけはオレに直したので、妥協してくれたらしい。理由を訊ねたらあっちの方がお前の素に近いだろう、と言われた。彼が自分の素にこだわる理由は判らないが。
 何故、わざわざ騎士団からリヴァイの訓練に付き合う人間を頼んだのか、という事情については単純に自由の翼団の団員でリヴァイに付き合えるものがいないからだと説明を受けている。人類最強の兵士長に勝てるものはかの有名な傭兵集団の中にもいないらしい。
 だが、それならば第三騎士団の自分ではなく、精鋭と言われる近衛騎士団の中から選べば良かったのではないか。
 その言葉を聞いてリヴァイは嫌そうに眉を寄せた。

「貴族の坊ちゃん連中が俺らみたいなのに近付くわけねぇだろ。命令されたなら仕方なく来るだろうが、手を抜くのは目に見えている」
「…………」

 おそらく、その予想は当たっているのでエレンは何も返せなかった。身分が高いものの中には下位のものを馬鹿にするものも多くいる。あからさまにはしないだろうが、いくら腕が立つといっても傭兵の男の相手を喜んでするとは思えない。――まあ、自分もそういう名門貴族の家の出ではあるのだが。

「それに、俺はお前が良かった」
「え?」
「城下町で会ったときにお前だ、と思った。何でかは俺にも判らん。だが、逃げられたから捕まえることにした」
「…………」

 どう返したらいいのか判らずに無言のままのエレンに、男はそれにしてもお前は面白いな、と言葉を続けた。

「お前、実戦経験は余りないだろう?」
「そうですね。まだまだ経験不足です」
「なのに、妙に慣れた動きをする。剣の腕は才能もあるし、訓練で伸ばすことも出来るが、実際の戦いでは経験がものをいう。お前の動きは実戦になれたものの動きだ」
「…………」

 これにはエレンはまた黙るしかない。今生での経験は確かに少ない――が、一回目は兵士で二回目は王の護衛を務めていたのだ。特に二回目の人生では親友を暗殺者の手から守るため命がけの戦いを何度もしていた。その時に培った経験が今の人生でも活かされている。
 だが、そんな話を男に出来るはずもなく無言を貫き通していると、男は諦めたのか――それとも最初から答えを期待してはなかったのか、これから実戦を経験すればもっと伸びるだろう、と言葉を結んだ。

「はい、そうですね、若輩者ですけど、頑張ります」
「そういや、年齢を聞いてなかったな。いくつだ?」
「もうじき十八になります」

 エレンの言葉に男はお前、成人前だったのか、と呟いた。この国での成人は十八歳と定められている。他国の法にはそれ程明るくないが、概ね成人は十八歳であるはずだ。

「ガキくさい顔してると思ってはいたが、成人してないとは思っていなかった」
「この顔は生まれつきです! そういう兵長はおいくつなんですか?」
「ああ、多分、お前より十歳くらい上だ」

 エレンはその言葉に怪訝そうな顔をした。今生で出逢った男は二十代後半くらいかと予想をつけていたから当たっていたが、多分、とはどういうことなのだろう。普通は自分の年齢に多分とはつけないはずだ。

「俺の親は物心がつくかつかないかくらいのガキの頃に野垂れ死んでるから、正確な自分の年齢が俺には判らない。多分、それくらいだろう、と見当をつけているが」
「…………」

 ああ、また返答に困る展開になってしまった、とエレンは内心で頭を抱えた。ここで謝罪するのも変な空気になるだろうし、謝るのは何か違う気がする。
 その気配を察したのか、くしゃり、と男に頭を撫ぜられた。

「別にそんなものはよくある話だ。――俺が生まれた腐った空気の薄汚え街にはそんなガキがゴロゴロしていた。身寄りのない行き場のねえガキは野垂れ死ぬしかねぇ。生き残れた俺は運が良かったんだろ」

 一番最初の人生で彼の人は地下街でゴロツキをしていた、という話を聞いたことがあった。男からその頃の話を詳しくは聞いたことはないけれど――きっと今生の彼と似たような境遇だったのだろう。

「今は――あるんですか?」
「何がだ?」
「兵長が安らげる場所――帰りたいと想う場所です」

 その言葉にリヴァイは虚を衝かれた顔をして、どうだろうな、と呟くように言った。

「自由の翼団は?」
「確かに俺の居場所だが――帰りたいとはまた違う気がする。まあ、結局、何年もいるんだからそうなのかもしれねぇが」
「なら、作ればいいと思います」
「――――」
「兵長が帰りたいと想える場所。大切だと想える場所を」

 エレンの言葉に何か返そうとしたのか、男の唇が動いたそのとき――。
 ぐぅううううううううううううー。
 と、盛大にエレンの腹が鳴った。

「…………」
「…………」

 しばらくの間の後、くつくつという笑い声とともに男の肩が震えた。

「――笑わないでくださいよ。仕方ないじゃないですか」
「イヤ、お前、ここでそれはないだろう」
「オレはまだ成長期なのでお腹が減るんです」
「ほう、お前、それは自慢か? 自分の方がでかいことの自慢なのか?」

 ギリギリと頭を締められてエレンは痛いです!と抗議の声を上げ、涙目になってリヴァイを見つめた。

「そういう顔してると、余計にガキに見えるな」
「……誰のせいですか」
「俺のせいだな」

 さらりと認めながらも悪いとは全く思っていない様子で、リヴァイは立ち上がり、服をはらった。

「腹減ったんだろ? メシを食いに行くぞ。特別に俺が奢ってやる」

 お坊ちゃんの口に合う店は知らんがな、とどこか上機嫌な様子で言う男に、エレンはお坊ちゃんはやめてください、と唇を尖らせながら後に続いた。


 それからも男との訓練は続いた。何人か他の団員達とも手合わせしたが、打ち合っていると必ずリヴァイが現れ、その場から引っ張られて彼の相手をすることになる。ほぼリヴァイ専属のような形でこれでいいのか、と思ったが、他の団員から兵長の相手をしてくれるだけで助かると感謝されてしまった。自由の翼団は噂通り精鋭揃いであったが、リヴァイを相手に対等にやり合える腕の持ち主はいないのだという。エルヴィンやごく一部の幹部のものなら相手にはなるのだが、彼らは彼らでやることがあってリヴァイの訓練に付き合う時間はない。訓練とはいえ、戦いとなると容赦ないので兵長に付き合ってくれるなら有り難い、という感想らしい。
 名門貴族の出自ということで、傭兵の彼らとは上手くいかないかもしれない、と少し不安ではあったが、蓋を開けてみればあっさりと受け入れられていた。傭兵の彼らの一番とすることは強さ――剣の腕なのだ。あるいは作戦立案能力や統率力。戦場で生き残れる力を持ったものが認められる。手合わせした団員総てに勝ち、兵長の訓練に付き合えるだけの能力を持ったエレンは「使える奴」として認められたようだ。それに、騎士団の方と合同訓練の話があり、他の団員達はそちらがあるのでエレンがリヴァイ専属でも問題はないようだ。確かに、エレン一人で団員全員と手合わせが出来るわけではないし、他の騎士達と腕を競い合えるならその方がいいだろう。リヴァイが前に言った通りに近衛騎士団内には傭兵団との手合わせを快く思わないものもいると思われるので、そちらの参加はあるか判らないが。
 エレンはこっそりと団員達を観察したが、かつての仲間――調査兵団のものはいないようだった。いや、一番最初の人生で兵団全員の顔と名前を把握している訳ではなかったし、人生の総てを詳細に思い出せるというわけではなかったから、ひょっとしたらいる可能性があるかもしれないが。
 そうして過ごしていたある日、エレンは訓練を終了し帰り支度をする男に声をかけた。

「あの、リヴァイ兵長、今夜お時間を頂けますか?」
「何だ? ガキが夜遊びのお誘いか?」

 酒場と娼館ならいい場所を知っているぞ、とからかうように告げる男に、エレンは違いますよ!と顔を真っ赤にした。

「メシならいつものとこに行くか」
「ああ、それはいいですね……って、そうではなくてですね、兵長に見せたい場所があるんです」

 このところはリヴァイの手合わせに付き合い、一緒に休憩し、昼食を食べ、都合が合えば夕食も共にする生活が続いていた。男の好む食事や酒、取り留めない会話や、たまに浮かべる柔らかな表情――それらはエレンにはとても心地好い時間をもたらしたけれど、今日男に声をかけたのは食事のためではない。
 どこに行くんだ、という問いには見てのお楽しみだと返す。男は訝し気な顔をしたが、エレンの誘いに頷いてくれた。それに安堵して、エレンは自分も帰り支度をすませた。


「ここは?」

 エレンがリヴァイを連れてきたのは城下を見渡せる高台だった。確かに見晴らしはいいかもしれないが、他に何があるとでもない場所に連れてこられて、リヴァイは怪訝そうであった。

「そろそろなんで、ちょっと待ってください」

 男は何なんだ、というような顔をしたが、その言葉を受け入れてただそこから街並みを眺めた。やがて、日が落ちていき、一つ、また一つと家に明かりが灯されていく。まるで、家に命が吹き込まれていくようだ、とエレンは思う。実際に生きているのは家ではなく、そこに住んでいる人なのだけれど、灯される明かりが命の輝きのように見える。実際に人がいなくなった家――街は死んでしまうのだから、間違ってはいないようにも思える。

「――綺麗でしょう。あの明かりの一つ一つには人が住んでいて、帰る場所がそれぞれにある」
「――――」
「オレ、昔、この光景がすごく嫌いでした」

 エレンの言葉に男が意外そうな顔をした。綺麗だと誉めたのに嫌いだったと言ったことにか、それともその場所に男を連れてきたことに対してか。エレンは問うような男の視線に苦笑いを浮かべて更に言葉を続けた。

「あの明かりは帰る場所で、皆、居場所があるのに、オレにはないんだって――そう思ってました。だから、嫌いでした。なのに、気付くと高台に上がって街並みを見に行ってしまう」

 正確に言うと、それは今生の話ではない。今はこうして自由に行動しているが、名門貴族の子供として生まれた自分が一人で外出することが許されるわけがなく、剣の腕前が上がるまでは必ず護衛がついていた。まあ、護衛の目を盗んでこっそり家から抜け出したことがないとは言わないが。今、口にしているのは今の人生より前の話だ。
 特に酷かったのは二度目の人生だったと思う。ここは自分の世界じゃない、いるところはここじゃない、と何度も言った。両親に向かって本当の父さんと母さんはどこなんだと詰め寄ったり、手を噛みきったりして散々心配をかけた。前世の記憶との折り合いがつけられなくて、そんなときに一人になりたくてよく高台に上がった。
 暮れていくと同時に灯っていく民家の明かり――その光景は美しいのに、苦しくて切なくなったのを覚えている。

「でも、今はこの光景が好きです。この綺麗な明かりの下には人の生活があって、それぞれに大事な場所がある。大事な想いが詰まってる。そこに自分の場所がなくてもこんなに綺麗なんだからって。今は見つけられなくても自分の場所はどこかにあるからって」

 あなたは何があっても自分達の息子だからと――心から愛していると言ってくれた二度目の人生の両親。そのときにこの家が自分の家で、この人達が自分の両親なのだとちゃんと思えた。
 三度目の人生でも親を失った自分を拾ってくれた一座の仲間が自分の家族だった。だから、帰りたいと思える場所がないと言った男にもそれはきっと出来るはずなのだ。

「なければ自分で作ればいいんだって思えたから、この光景が綺麗だって思えるようになりました。兵長は帰りたいと思える場所はないって言ってましたよね? 帰る場所は人それぞれでなくたっていいのかもしれないですけど、帰りたいって思える場所があればそれだけで強くなれる気がしたから」

 だって、この光景はこんなに美しい。今の国の情勢は戦が控えていて、いつどの町が巻き込まれるか判らない。自国でなくても、攻め入れば相手の町や村は焼かれる。戦禍に遭えば町は消える。世界が残酷なのは何度生まれ変わっても変わりはない――だが、それでも世界は美しい。

「すみません、余計なことだって判ってましたが、それでも見て欲しいって思って――」
「エレン」

 ふっと、口を塞がれてエレンは言葉を途切れさせた。柔らかな感触のそれが離れてまた触れていく。唇を食むように触れられて、エレンは混乱し、腕で男の胸を押してその行為を止めさせた。

「え、あの、何でですか?」
「したかったからだが」
「したかったからって――んぅっ」

 再び口を塞がれて、今度は口内に舌が侵入してきた。まるで、食われるように貪られて呼吸すら困難になる。
 男の手が伸びて衣服にかかったので、エレンは慌ててまた男を制止した。

「イヤ、だから、待ってください。何で、こんな――」
「お前は嫌か?」

 強い視線に射抜かれて動けなくなる。その眼がお前が欲しいのだと訴えていてエレンは何も答えられなかった。

「嫌だと言わないなら同意と取る。お前を抱きたい。嫌なら抵抗しろ」
「――――」

 服の中に侵入してきた手が身体をなぞっていく。再び塞がれた唇から侵入してきた舌に、エレンはおずおずと自分の舌で返した――途端、男の眼が優しげになる。

(ああ、この人はずるい)

 求められて嫌だなんて言えるわけがない。今も昔も変わらずに自分を惹きつけて離さないこの人に触れられてどうしてそれを止められるだろう。

(ダメだって、判ってるのに――)

 灼熱の杭を打ち込まれて揺さぶられながら、エレン、と耳元で囁かれる。続けられた言葉には答えられなかった。
 ただ、ただ、男から与えられる熱い波に呑み込まれるだけ――。



 それから男との関係や生活が変わったかといえばそうではない。いつも通りに訓練して、休憩して、食事をし、取り留めもない会話を楽しむ。都合が合えば二人で出かけたりする。そこに肌を重なることが追加されただけだ。男に抱かれるのは最初の人生以来で、この肉体では初めてだった。まっさらだった身体は男を受け入れることにようやく慣れてきたけれど、羞恥は消えてくれない。そんなエレンを構うのが楽しいらしく、情事の度にエレンは困っている。
 変わったといえば一つ――男のエレンに対する態度に少しだけ甘やかさが追加された。誰も気づかないであろう僅かな変化だけれど、されているエレンの方にはよく判った。これもどうしたらいいのか判らずに困っているのだが。

「エレン」

 不意に声をかけられて、エレンは振り返った。そこにいたのは二番目の兄で、文官の彼と城内で顔を合わすのは珍しいといえた。元気にしているか、と訊ねられ、頷くと少しいいか、と移動を促された。深刻な空気を感じ、エレンは兄に促されるまま人気のない場所へと足を向けた。


 兄の話は隣国との戦の話だった。王は着々と準備を進めているらしく、近々開戦するのは間違いない。エレンのような一介の騎士には詳しい状況は伝わってこないが、傭兵団まで雇っておいて、あの好戦的な王が戦いを挑まないで済むはずがない。

「エレン、お前は戦が始まったら隙をみて逃げろ。お前ほどの腕があれば傭兵でも何でもやっていけるだろう」

 思いも寄らない兄の言葉にエレンは両の眼を見開いた。

「俺の予測ではまず間違いなくこの戦には負ける。停戦に持ち込めればいいが、持ち込めたとしてもおそらくは内乱が起こる。国力が落ちたことに乗じて侵略した小国が反旗を翻すだろうし、王を良く思っていない文官達も何か仕出かす可能性が高い。今の武官と文官の対立は深刻だ。この状況で戦を起こすこと自体が間違っているんだ」
「戦をやめることは……?」

 エレンの言葉に兄は首を横に振った。

「出来ない。父上にも兄上にも進言したが、聞く耳を持たなかった。王は尚更だろう。――戦に負けたら王族は勿論のこと有力貴族の処遇もどうなるか判らない。財産と地位のはく奪ならまだいいが。いや、そうなったら――」

 父と一番上の兄は間違いなく自ら死を選ぶだろう。そういう人達だ。

「幸いにしてお祖母様は他国の出身だから、母上はそちらに逃がすことにした。お祖母様はもうお亡くなりだが、母上の叔父上はご健在だ。母上のことを何かと目にかけてくれたから力になってくれるだろう。エレン、お前もどうしようもなくなったら、そこを頼れ」
「兄上は?」
「俺は残る」

 兄はきっぱりと言った。

「国民を放っておくわけにはいかない。今の文官で使える奴は殆どいないし、俺が何とかするしかないだろう。――死ぬ気はないから安心しろ」

 だから、お前は逃げてくれ、という兄にかける言葉が見つからなかった。

「後、それから――」

 告げられた兄の言葉にエレンは固まった。


 兄と別れ戻ると、また思いがけぬ人との遭遇――呼び出しを受けた。

「わざわざ来てもらってすまないね、エレン。顔色が優れないように見えるが、体調を崩しているのかい?」
「いえ、光の加減でしょう。どこも悪くはありません。――ご用件は何でしょうか?」

 穏やかな表情のエルヴィンを前に、エレンは何とか取り繕って笑みを浮かべて見せる。頭の中では兄から聞いた話がぐるぐると回っていた。

「エレン、君を自由の翼団に引き抜きたい」

 その言葉にエレンは息を呑んだ。

「君程の優秀な騎士に傭兵団では勿体ないかもしれないが、考えてみて欲しい。君が頷いてくれるなら、陛下には私が正式に要請する」

 国王から拝命された騎士は勝手にやめることが出来ない。怪我や病気、年齢などで引退することはあり得るが、それには手続きがいる。エレンは一介の騎士であるし、侯爵家の出とはいえ三男だ。今は自由の翼団の協力を得たい国王はエルヴィンが要請すれば頷くだろう。家族からはおそらくは反対されるであろうが。

「私は――」
「ああ、返事は今でなくていい。家族との相談も必要だろうし。ただ、次の戦いに赴く前までに返事が欲しい」

 次の戦い――それは隣国との戦のことだろう。もうじき進軍の命令が下るに違いない。
 エレンはエルヴィンに後日回答することを約束して、退室した。


「エレン、話がある」

 エルヴィンのところから退室したのを待ち受けていたかのように現れたのはリヴァイだった。今日はいったい何人と内密の話をしなければならないのだろうか――リヴァイの話が内密かは判らないが――と、思考を現実逃避させたくなる。リヴァイはエレンがエルヴィンと話したのを見計らったように現れたのだ。おそらくはエルヴィンの話と関係しているのだろう――兵士長であるリヴァイがこの話を知らされてないはずはないだろうし、おそらくは真剣な話だ。
 場所を変えよう、とリヴァイが提案し、エレンが連れてこられたのは、見覚えのある場所だった。
 城下を見渡せる高台――エレンが初めてリヴァイと身体をつないだ場所だ。

「エレン、エルヴィンから話は聞いたな」
「はい」
「エレン、自由の翼団に来い。俺はお前に、俺の帰る場所になって欲しい」
「――――っ!?」

 リヴァイの言葉にエレンは目を瞠った。
 身体が震えるほどの歓喜と、同じくらいの絶望が押し寄せてくる。
 ダメだとは判っていた。判っていて惹かれて、身体を重ねて、共にいられる幸せを噛み締めた。
 今の男の言葉がどれほどの喜びを自分に与えたか、男には判らないだろう。だが――――。

「兵長、オレは――あなたの帰る場所にはなれません」

 ――終わりの時は近付いていた。




 戦況は最悪だった。この戦に自国は負ける。父は既に敵方に討たれたと聞き及んでいた。兵の士気はもうないにも等しい。
 隣国との自国の武力は五分五分――ややこちらが劣る程度。だからこそ王は常勝無敗の傭兵団を雇ったのだし、負けるとしてもそう酷い戦いにはならないはずだった。そう、雇い入れた傭兵団がこちらを裏切りさえしなければ。
 いや、初めから彼らは隣国についていたのだろう。自国と契約を結び、こちらについたと思わせておいて兵力を探り、立案された作戦内容を敵国に秘密裏に流す。開戦と同時に裏切り、敵を導き入れ、味方と油断していた相手を叩く、そういう作戦だったのに違いない。
 ――自由の翼団には気を許すな。彼らは隣国に通じている可能性が高い。
 あの時、兄に受けた忠告。聡明な兄はこの事態を予測していたのだろう。だからこそ戦をやめさせようとしていたが、受け入れてはもらえなかった。
 自国は急激に成長した。その急すぎる成長は周りの反発を生む。出る杭は打たれるものだ。自由の翼団は自国が勝ったとしてもその後の統治が上手くいかないと踏んだのだろう。内乱が起こり国が荒れれば報酬も受け取れないかもしれない。周りから買う恨みも大きい。
 勿論、傭兵は戦の度に味方が変わるものだ。昨日敵陣にいたものが明日は味方だったり、その逆もある。しかし、自国は周りからの反発と恨みを買いすぎている。今後のことを鑑みればこちら側に付くのは得策ではない。考えればわかる話だし、エルヴィンの判断は間違っていない。
 おそらく、自国も裏切りの可能性がないか調査は行ったはずだ。だが、何も出なかったのだろう。出ていれば二番目の兄の進言は受け入れられただろうから。それだけ慎重に、巧妙に進めたのはさすがエルヴィンと言うべきか。
 目の前の敵を切り捨てる。もう何人切ったのか判らなくなってしまった。手にした剣はいつまでもってくれるだろうか。それでも――ここから逃げるわけにはいかない。

(きっと、あの人は来る)

 エルヴィンの話はその後断った。何度もいいのかと問われたが、エレンは首を縦には振らなかった。おそらく、彼は自分とリヴァイの関係に気付いていたのかもしれない。――昔から何かと目敏い人であったから。
 兄の逃げろという言葉にも従わなかった。自分一人で逃げて何になるというのだろう――あの人はいないのに。

「コニーとジャンは無事かな……」

 生きていてくれればいいけれど、という呟きは剣戟にかき消される。人の心配などしていられる状況ではないけれど、それでも生き延びてくれているといい。
 その時、ふっと現れた気配にエレンは身を引き締めた。――来る、と思った瞬間に訪れた白刃を辛うじて受ける。

「逃げなかったんだな」
「……一人で逃げても意味ないでしょう」
「俺からは逃げたのにか?」

 その言葉に胸を抉られる。その通りだからだ。自分はこの男の傍から逃げた。逢いたくてたまらなくて、けれど、絶対に逢いたくなかったこの男と出逢い、ずっと傍にいたいと願いながらも伸ばされた手を拒絶した。

(だって、今でも夢に見るんだ)

 あの時の彼の顔を。一つ前の人生で自分が死ぬ間際に見た彼のあの顔を。一番最初の人生で自分に手を下した彼も、もしかしたら、同じ顔をしていたかもしれない――処刑されたときは目隠しをされていたから見ることはなかったけれど。

「お前の国に先がないことはお前も判っていたはずだ。国と心中する気だったのか」

 キンッ、と剣同士がぶつかり合う音が響く。思えば、今生では出逢いもこんな風に剣の音が響いていた。

「他の誰かに殺させるくらいなら、俺が殺す」

 物騒な言葉であるのに、まるでそれは熱烈な愛の告白のように聞こえた。おそらく、そのためだけに彼はここに来た。この広い戦場で自分を探し、遭遇することに賭けた。――それは自分も同じだ。

「逢いたかったんです」

 ぽつり、と言葉が零れた。

「最後に、一目でいいから兵長に逢いたかった」

 その言葉に一瞬だけ男は動きを止めた――そして、それを狙ったかのようにこちらに向かってくる影をエレンは見逃さなかった。

「兵長!」

 疲弊していた身体のどこにそんな力が残っていたのか、と自分でも思える程素早くエレンは動いた。
 わき腹に熱い衝撃が走り、倒れ込む眼に映ったのは体勢を整えて相手を切り捨てる男の姿。

(腹か……この傷じゃ助からないな)

 ごふり、と口の端から血があふれた。傷は深く内臓にまで達している。遠からずこの身体から命の灯は消える。

「どうして、俺を庇った、エレン」

 そう、あの影は男を狙っていた。おそらくは自国の兵士だろう――味方に邪魔されるとは彼も思っていなかったに違いない。裏切られたと思われたとしても、それでも、エレンは男を助けたかったのだ。

(ああ、結局、また繰り返してしまうのか)

 そうして、また同じことを伝えようとしている自分はとても卑怯だ。
 何か言いたげに唇を動かしたエレンに気付き、男はエレンの口元に耳を寄せた。
 あの日、初めて身体を重ねた時に答えられなかった言葉を微かに口にする。――途端、男の顔が歪んだ。

「なら、何故、俺を選ばなかった! エレン!」

 それは――怖かったからだ。ずっとずっと怖かった。彼に殺されることではない。死ぬことでもない。勿論、自分の死は怖いものだとは思うが、エレンが一番恐れていたのはそれではない。
 怖かったのは彼の目の前で死ぬことだ。彼の心に傷をつけることだ。
 自分が死ぬ前に見た彼の顔が忘れられない。あんな顔をして欲しいわけではなかったのに。
 自分は生まれ変わる度に毎回彼の目の前で死んだ。今生でそれを繰り返さない保証がどこにあるだろう。簡単に人の命が失われるこの残酷な世界で。
 だから逃げた。けれど、結果は同じになってしまった。どうして同じことを繰り返してしまうのだろう。

「エレン」

 身体が浮いたのが判った。自分が助からないのは男も承知だろうから、この身体を運ぶのはおそらく亡骸を渡さないため。
 やめてください、荷物になります、捨てていってください、と告げたかったけれど、もう唇すら動かなかった。
 伝えなければ良かったのだろうか。でも、どうしても言いたかったのだ。
 ――兵長、オレも愛してます、心から。
 体温も意識も失われていく。
 
 ――これが、四度目の人生の幕引きだった。




 五度目の人生はすぐに訪れ、すぐに終わった。今までの人生の中でこの時が一番早い幕引きだったので、産んでくれた親には申し訳なく思っている。自分もまさか暴走した馬車にはねられて呆気なく人生を終了させるとは思ってみなかったのだ。一番最後に見たのは、何とか停車した馬車の中から大丈夫か、と飛び出してきた彼の人の姿。御者の起こした事故であり、彼が原因ではなかったが、ここでも彼の目の前でエレンは息を引き取った。
 六度目の人生は大商人の息子として産まれた。父親は商船を複数持ち、各国を飛び歩いていたため、エレンはかつて憧れていた海に逃げた。各地を飛び歩いていれば出逢う確率も高くなるかもしれないが、一つのところに長居はしなかったので逃げられる確率も高くなるだろうと踏んだのだ。幼い頃から父親について船で旅していたのだが、その船が海賊に襲われ、更にその海賊の首領が彼の人だというのは計算外だった。
 エレンは海賊の一人ともみ合っているうちに船から転落して死んだ。泳ぎは得意だったが、海を流れていた漂流物に頭をぶつけて意識を失くしたのが原因だ。――結局、この時も彼の目の前で海に落ちた。

 どうして同じことを繰り返してしまうのか。逃げても逃げなくても結局は同じ結末を迎えるのなら逃げるだけ無駄なのか。
 自分はどうあっても同じ運命を辿るのだろうか。
 ならば、この転生を止めることは出来ないのだろうか。
 だが、どんなにあがいても抜け出すことが出来ない。
 まるで、メビウスの輪にはまりこんだように。



 ――そうして、運命はまた動き出し、エレンは七度目の人生を迎えた。





2015.11.25up




 すみません、まだ続きます。四度目の人生がこんなに長くなるとは思ってませんでした(汗)。五度目と六度目を流すのは最初から決めていたんですが、四度目の人生は想定外の長さに……。次回、ようやっと七度目の人生です。




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