嫌な予感はしていた。男に話があると真剣な顔で見つめられてから――いや、思わぬ遭遇で男と知り合ってしまった時から常にそれは自分に付きまとっていた。正確に言えばもっとずっと前からなのだが、この状況を招いてしまった原因は自分にもあると自覚していた。

「エレン・イェーガー。俺はお前に惚れている。俺と付き合ってくれ」
「…………」

 聞きたくなかった言葉を耳にして、エレンは告白してきた自分より一回り年上の男を途方に暮れて見つめていた。
 告白されたのだから返事をせねばなるまい。それは判っているのだが――果たして自分は何と答えるべきだろうか。

(ああ、やっぱり関わるんじゃなかった。ろくな結果にならないのは判ってたってのに!)

 何度も何度も繰り返された悲劇を――傍から見ていれば面白い劇だったのかもしれないが――回避するにはどう答えるべきかエレンは必死で言葉を探していた。





七度死んだ男




 エレン・イェーガーがこの世に生を受けたのは今回が七回目である。今までに六度程死に、その度に生まれ変わって新しく人生を歩んできた――と、人に話せば精神を疑われるか、中二病をこじらせたのか、妄想癖があるのかなどと言われるのは判っているが、これは紛れもない真実である。証明する手段がないので何を言われても反論は出来ないし、話したところで自分の正気を疑われるだけなので、余程信頼を置ける相手にしか話す気はないが。
 勿論、今までの総ての人生を詳細に覚えている訳ではない。事細かに総てのことを覚えていたらとっくにエレンは正気を失っていただろう。人は嫌なことを忘れることで自分の精神を守っているのだから。もしかしたら、詳細に脳に記憶は保存されていて取り出せないのかもしれないが、膨大な情報量に翻弄されないだけ良かったと思っている。
 エレンが一番最初にこの世に生を受けたのはとても奇妙な世界だった。もしかしたら、その前にも前世があって覚えていないだけかもしれないが、彼が思いだせる限りの一番最初の世界はそれである。――そこは巨大な壁に囲まれた不思議な世界で、壁の外には人を捕食する巨人が多数存在していた。その世界で自分は壁の外への自由を求め、母親を巨人に食い殺されて巨人達を一匹残らず駆逐することを誓い、訓練を積んで壁の外を調査する兵士となった。――ここまでで既に波乱万丈、過酷な人生だったが、更に何故か巨人化出来るという能力に目覚め、否でも応でも世界の真実を探る戦いに巻き込まれていった。いや、自分の性格からいって自ら巻き込まれたというのが正しいのかもしれないが。
 結論からいえば、巨人は総て駆逐され、人類は勝利した――だが、それでめでたしめでたしというわけにはいかなかった。人々は最後の巨人であるエレンを恐れ、敵視し、彼の処刑を望んだのだ。英雄と祭り上げ利用し、不要となったら恐れ迫害する――人間というものは全く勝手なものだとエレンは思う。だが、エレンは逃げなかった。彼が愛した恋人も大切な幼馴染み達も彼を必死に逃がそうとしてくれたが、断固として首を横に振ったのだ。逃げられるはずがないと諦めていたからではない。自分の寿命がもう長くないと悟っていたからだ。散々、巨人化して戦い続けたツケが回ってきたのか、エレンの身体はぼろぼろで巨人化することはもう出来ず、診断した医師にも後、数ヶ月、長くても数年しかもたないだろうと言われていた。早ければたった数ヶ月しか生きられない自分のために、自分の大切な人達を一生追われるであろう逃亡犯にはしたくなかった。
 処刑は速やかに行われ、自分を手にかけたのは人類最強の男。自分が愛し、愛してくれた恋人であり、自分の上官でもあった男。彼には嫌な役目を押し付けてしまったけれど、それでも他の誰かに殺されるよりは彼の手で葬られるなら幸せだとエレンは思った。
 ――そうして、エレン・イェーガーの人生は終わりを告げたのだ。……そのはずだった。



 二度目の人生はごく普通の一般家庭の少年として生まれた。今現在生きている世界からすると中世ヨーロッパのような文明のところだったが、そこがあの壁の世界の延長上にあるのか、全く別の世界なのかは判らなかった。一応、文献なども調べてみたがそれらしい記述はなかった――だが、意図的に隠されたという可能性も否定は出来ないので、言い切れない。
 二度目の人生のこのときが一番戸惑ったとエレンは記憶している。何しろ、巨人が人を食うという記憶は強烈だったし、夢に見て魘されたり、記憶の中にある両親と現実の両親との違いに戸惑ったりしていた。あれは夢なのか、現実にあったことなのか――判らなくて手を噛んで怪我を負い、両親に泣きながら怒られたりもした。救いだったのは両親がそんな手のかかる息子を疎んじたり持て余すことなく、きちんと向き合って心から愛してくれたことだろう。かつての自分の両親とは別人であったが、エレンもまたそんな両親を愛した。
 両親の助けもあり、エレンはどうにか自分の記憶と現実に折り合いをつけ、普通に生活することが出来るようになった――当然のことながら自傷行為をしても巨人化は出来なかった。いったいあの記憶は何なのか、という疑問は消えることはなかったが。
 そんなエレンに転機が訪れたのは隣家に越してきた一人の少年との出逢いだった。

「はじめまして、エレン。よろしくね」

 そう言って微笑んだのはかつての自分が親友として信頼していた幼馴染みの少年だった。


「それはもしかしたら、エレンの前世かもしれないね」
「前世?」
「そう。人の魂は死ぬと新しい命に生まれ変わることがあるんだって。僕も本で読んだだけだし、実際に経験した人には会ったことはないけど」

 かつての親友はエレンのことを全く覚えていなかった。それにがっかりしながらもエレンが自分の不思議な記憶の話をすると、もしかしたら、と輪廻転生について説明してくれた。生まれ変わった人間に必ずしも記憶があるとは限らないし、エレンのようにちゃんと覚えているのは珍しいのではないか、と彼は語った。そう言われても実感はなかったが、他に説明出来る仮説がないのも事実だった。
 更に言えば、生まれ変わったのなら容姿も違うのが普通だろう。余り変わっていない自分はかなり特殊な例なのだろうな、とエレンは思った。
 目の前の少年がただの他人の空似なのか、それとも、本当に生まれ変わったかつての親友でそれを思い出せないだけなのか、エレンには判らなかったが、妙に気が合った。
 どちらかというと物静かで、でも自分の意見ははっきりと持っていて、芯はしっかりしているところは共通していてすぐに仲良くなれた。ともに笑い、遊び、勉強して、あっという間に数年が過ぎていった。
 ――そして、二人が丁度十五になった頃、少年にとんでもない告白をされた。

「エレン、実は僕はこの国の王家の血を引くものなんだ」

 彼の母親は余り身分の高くない家の出身で、城の侍女として働いていたところ、どういうわけか王が彼女に目をつけて関係を持ち、少年を身籠ったのだという。だが、王にはすでに跡継ぎの王子が複数いたし、正妃は嫉妬深い女だった。少年の母親は自分と子供を殺されることを恐れ、秘かに城を抜け出し、彼を産んだのだという。

「母さんは僕を産んですぐに亡くなって、それから僕はおじいちゃんに育てられたんだ」

 だが、この程、城からの使いがやって来たのだという。とうとう殺されるのか、と身構えたが、どうやらそうではなく、少年を城に迎え入れたいというのだ。

「何でも、跡継ぎの王子が相次いで亡くなったらしい。それで、王の血を引く僕に白羽の矢が立ったみたいだ」

 突然の話に驚き戸惑うエレンに、少年は深い溜息を吐いた。どうにも気が進まなそうな雰囲気である。

(まあ、そんなこと突然言われても困るよな。……というか、前の人生でも似たような話があった気がする)

 該当する人物は目の前の少年ではなくて同期の少女だったが、彼女の父親は散々な目に遭わせておいて必要になったからと利用しようとしていた。今までほったらかしにしておいて、呼び寄せるなんて勝手もいいところだろう。

「アルミン、行くのか?」
「行くしかないだろうね。ここで逆らっても逃げられそうにないし、下手に抵抗したら僕ではなく周りの人間に手を出すって暗に言われたよ。――城には城での後継者争いやいろんな人の思惑が待っていると思うけど、何とか切り抜けるしかない。本当に僕が王族なら国民を守る義務があるしね」

 すぐにでも連れて行こうとする使者に、少年は周りのものに別れを言いたいからと少し時間をもらったのだという。

「エレンにはどうしてもお別れを言いたかったから――」
「アルミン、オレも行く」

 きっぱりと言うエレンに少年は眼を丸くして、慌てて断ってきたが、エレンの意志は固かった。城の中などきっと腐った連中が多くいるだろう――かつてのエレン・イェーガーのときのように。それこそ、王の座を巡って少年を暗殺しかねない。自分の親友がそんな場所に行くのを黙って見てはいられなかった。

「……ダメって言っても来るんだろうね」
「ああ、オレ、結構強いし、役に立つぜ? 頭ではお前には敵わねぇけど」
「うん、エレンが勉強苦手なのは知ってる」
「……そこは否定しとけよ」

 かつてのエレン・イェーガーは兵士だった。その対人格闘術の能力は自分の中にあるし、今の人生でも習慣のように身体は鍛えていた――それでも、細いとはよく言われるのだが、その辺の兵士には負けない自信があった。側仕えでも護衛でも何でもいい。近くにいればこの親友の力に少しはなれるかもしれない。

「ありがとう、エレン」

 ――そうして、二人して城に向かうことになったのだ。

 城に着いてからは目まぐるしく時は流れた。アルミンは聡明ではあったが、王であるために必要な知識は不足していたし、いくら王の子とはいえ、身分低い家の母を持つ少年を軽んじるものも多かった。アルミンを亡き者にして、王位を手に入れようとする逆臣達との戦いは想像以上に疲弊を伴うものだった。それでも、信用を置ける臣下とともに歯を食いしばって戦ってきた少年は数年後には王と呼ばれるに相応しい人物になっていった。
 エレンはエレンで身体を鍛え、剣の技を磨き、王直属の護衛として常に親友を守ってきた。国も安定してこれで一安心、というときにそれは起きた―――。

「陛下、お逃げください!」

 侍従の叫び声が聞こえた。城の厳重な警備を潜り抜けて王の元まで辿り着いた招かざるもの――暗殺者達を前に、エレンは今は王となった親友を守るためにすぐに動いた。

「ここはオレが引き受ける! 陛下を早く安全な場所へ!」

 暗殺者は数名であったが、腕は立った。だが、エレンも伊達に場数は踏んでいない。アルミンは何度も狙われたし、その度にエレンは暗殺者達に立ち向かってきたのだ。一人、また一人と切り伏せ、相手を倒していったものの、おそらくは暗殺者の首魁であろう男は他の者たちとは数段違った。小柄だが鍛えられた身体を持ち、おそらくは相当の修羅場を潜り抜けてきた実力者だ。顔を知られぬためにか黒い覆面をしていたが、きっとその下には冷酷な暗殺者の顔があるのだろう。

(こいつ、強い……切り抜けられるか……)

 勝てないまでも親友が安全な場所に移動するまでの時間稼ぎはしなくてはならない。何が何でもやってやると剣を交えていたそのとき――。

「………っ!?」

 エレンは息を呑み、一瞬その動きを止めた――それが命取りとなった。その隙を相手が見逃すはずがなく、相手の刃が身体に沈み込んでいく。
 赤く染まっていく視界の中で、エレンはそれでも必死に男の顔を見つめた。斬り合いの最中、どこか切れたのか覆面の外れた男の顔を。

「……リ、ヴァイ、兵…長……」

 切れ切れの微かな声は相手に届いたのだろうか。僅かに驚いた表情をしたように見えたが、気のせいかもしれない。
 二度目の人生もこの人の手にかかって終わるのか、とぼんやりと思考を漂わせながらエレンは目を閉じた。
 ――それが、二度目の人生の幕引きだった。




 二度あることは三度ある、というが、エレンには三度目の人生が訪れた。三回目となれば開き直りも出てきて狼狽えることはなかったが、前回の最期が後を引いてはいた。

(同じ人に殺されるって……何の呪いなんだよ)

 見たのは僅かな時間であるし、顔立ちのよく似た別人の可能性もあるが、エレンはあれはかつての恋人であったリヴァイであると確信していた。だから、それが判ったときに隙を見せてしまったのだ。こちらは顔を隠していなかったし、向こうは遠慮せずに切りかかってきたから、親友と同様に彼には前世の記憶などなかったのかもしれない。

「エレン、ミカサ知らない?」

 不意に声をかけられて、エレンは思考の海から引き上げられ、声をかけてきた相手に微笑んだ。

「イヤ、見てねぇが、どうかしたのか?」

 そっか、と相手は溜息を吐いた。音合わせをしたいって言ってあったんだけど、と続ける相手に別に大丈夫だろ、とエレンは声をかけた。

「お前、どんな楽器でも本番で音外したことねぇだろ。ミカサだってあれでも天下の歌姫だし」
「あれでもって、エレン……。僕は本番前には一回必ず音合わせしないと落ち着かないんだよね。僕だけでやってもいいんだけど、ミカサの歌の伴奏もするから確認しておきたいし」
「アルミンは真面目だよな。すげぇよ」
「エレンの方こそ凄いと思うけど。本番前に練習しないなんて」
「オレは本番前には休んだ方が上手くいくんだよな」
「それが凄いって言ってるんだよ」
「お前だって本番に強いんだから変わらねぇだろ」

 別に強くはないんだけどな、と苦笑する少年――アルミンは楽器なら何でもこなせる名手だ。一番得意とするのは竪琴だが、笛でも打楽器でもまるで自分の身体の一部のように操り演奏する。

「それに、こんな大きな町で公演するの久し振りだし、座長も張り切ってるし、ちょっと緊張してるんだよね」
「そうだな、城下町は久し振りだな。どんぐらいやるんだろ?」
「人の入り次第だって言ってたけど、いつもよりは長いんじゃないかな」

 エレン達が身を寄せているのは旅芸人の一座だった。早くに両親を亡くし、身寄りのいなかったエレンはたまたま父と知り合いだったという座長に引き取られたのだ。その後、同じような境遇だったアルミンとミカサも引き取られ、家族同然に育った――いや、この一座そのものがエレンの家族と言っていいだろう。芸に関しては厳しいが、身寄りのない子供を引き取ったことからしても座長はお人好しであったし、旅芸人の仲間達も気のいい人間ばかりで家族を失った傷を癒してくれた。かつてのエレン・イェーガーにも仲間がいたが、それと同じようなものかもしれない――もう少し、身内の感覚が強いけれど。

「まあ、見かけたら言っておく。アルミンも余り、気を張るなよ」
「うん。エレンはこれからどうするの?」
「ああ、久し振りのでかい町だし、市場とか見物しようかと思って」
「エレン、なら、私も行く」

 不意にかけられた声に驚いて振り向くと、今話題にしていた人物――ミカサが立っていた。

「ミカサ、お前、気配消して近付くのやめろって言っただろ」
「うん、毎回驚くよね」
「すまない。でも、私の癖だから。無意識にやってしまう」

 すまない、と言っているわりにはミカサの表情は動かない。感情を表すのを苦手とする彼女の表情は余り変わることはないが、長い付き合いの二人にはそれでも詫びているのは理解できた。

「まあ、それはいいとして、お前、アルミンと音合わせの約束してたんだろ? それ、ちゃんとやれよ」
「でも、エレンを一人で行かせるのは……」
「子供じゃないんだし、一人で行けるって。それに、衣装合わせもあるんだろ、お前」

 出かけている暇なんかねぇだろ、とエレンが言うと、ミカサは渋々頷いた。

「じゃあ、エレン、楽しんできてね」
「エレン、気を付けて。変な奴に声をかけられたら大声で私を呼んで。駆け付けるから」

 まるで、別々のことを言う二人にエレンは苦笑しながら、土産買ってきてやるよ、と告げて歩き出した。


(やっぱり、二人には記憶はねぇみたいだよな)

 市場を歩きながらエレンはそんなことを考えていた。一つ前の人生で親友が推察した通りにあれが自分の前世だとしたら自分はまた生まれ変わったということになる。自分はそれを覚えていたが、彼らにその様子はなかった。

(今回はミカサもいるのに……何で覚えているのはオレだけなんだろう)

 考えても謎が解ける訳ではない。それでも考えるのはやはり気になっているからだ。前世の記憶は役には立っているが、ろくな死に方をしていない自分としてはやはり呪いのようなものを感じてしまう。
 ふう、と溜息を吐いてエレンは市場で果物を買った。熟れて美味しそうな果実はアルミンやミカサだけではなく、一座の皆にも喜ばれるだろう。
 受け取った袋からエレンは実を一つ取り出し、かしり、と白い歯列を覗かせて齧った。瑞々しい果実は甘い香りを裏切らず美味しかった。

(あれ……?)

 エレンはふと、歩いていく人々の中におかしな人物を見つけた。見かけは商人風で、取り立てて目立った格好も動きもしている訳ではない。だが、微かな違和感を感じた。

(何かを物色している感じか……)

 つい人の様子を観察してしまうのは、一つ前の人生での癖だ。親友の護衛をやっていたときに不審者がいないかを見定める眼を鍛えた。視察の前の下調べは当たり前だったし、いざというときの抜け道や退路を頭に叩き込んでおくのも護衛としては当然だった。
 人知れず観察していると、男はごく自然な動きで人々の間をすり抜けた――ように見えたが、エレンは男の手が素早く動いたのを見定めた。

(スリか……!)

 何事もなかったように歩いていく男にエレンは素早く近寄り、相手の足を引っ掛けて派手に転ばせた。突然のことに対処出来なかったのか、男は顔から地面に突っ込み叫び声を上げ、周りは何事かと足を止めた。

「何しやがるんだ、このクソガキ! お前、今、わざと足引っ掛けただろう!」
「何しやがるってのはこっちの台詞だ、おっさん。あんた、今、懐に入れたものがあるだろう? 持ち主に返せよ」

 エレンの言葉に相手は動揺の色を見せたが、ここは白を切ることにしたようだ。

「何言ってやがるんだ、クソガキ。訳の判らない――」
「そこで何をしている」

 男の声を遮るように第三者の声がその場に響いた。怒鳴った訳でもないのに良く通る強さのある声だった。

(この声……)

 エレンはこの声を知っていた。いや、かつてのエレン・イェーガーがよく知っていた声だった。そんなはずがない、とも、ああやっぱり関わってしまうのか、とも思った。

「これは何の騒ぎだ」

 リヴァイ様だ、と周りがざわざわと囁く声が聞こえる。どうやら今回は様付きで呼ばれるような身分らしい。
 意を決して振り向くと、そこにはやはり想像していた通りの姿があった。

「き、騎士様、別にこれは何でも――このガキが足を引っ掛けてきただけで」

 どうやら声をかけてきた相手――リヴァイは騎士らしい。確かに黒地に金の刺繍の入った詰襟の制服らしきその姿は騎士の格好に相応しいだろう。階級章をつけているところから察して平の騎士ではないとようだが、詳しくはないので男がどれだけの地位にいるのかは判らない。こういった城下町の治安の維持は街の自警団か警備隊のはずで、城勤めの騎士の管轄ではないはずだが、たまたま通りかかったというところだろうか。

「こいつはそう言っているが――お前の言い分はどうなんだ?」

 ちらりとこちらに視線を寄越しながらそう言う男には動揺の陰もない。どうやら彼もまた幼馴染み達と同様に記憶を持っていないようだ。
 ふう、と内心で溜息を吐きながらエレンは男の質問に答えた。

「確かにわざと足を引っ掛けたのは事実ですが、それはこの男を捕まえたかったからです。こいつはスリです。自分の懐に人から抜き取ったもの――おそらく財布だと思いますが、それを入れるのを見ました」

 エレンの言葉に周りがまたざわついた声を上げた。

「オイ、何言ってやがる! どこにそんな証拠がある!」
「騎士様、周りにいる人達に財布をなくしたものがいないか訊いてみてください。被害者は恰幅のいい中年の男性だったと思いますが、顔は見ていないので。後はこの人の身体を調べれば財布が出てくると思います。オレが転ばせてからまだ誰とも接触をしてないので、誰かに渡っていることはないと思います」

 その言葉に早速男は部下らしい他の男に命じて男を取り押さえる。――果たして、男の懐から立派な財布が出てきた。

「これは何だ?」
「こ、これは俺の財布だ! 俺のじゃないって証拠でもあるのか!」
「なら、中に何が入っているか言えるはずだな? 言ってみろ」
「それは金が……」
「金以外には何が入っている?」
「…………」
「答えられないのか? まあ、そうだろうな」

 そう言って、財布を改めていたリヴァイは中から小さな徽章を取り出した。

「これはこの辺りで商売をすることを許可したものに渡される徽章だ。ほら、ここに番号が刻まれている。この番号を商会に問い合わせれば誰が持ち主なのか判るだろう。ああ、その徽章を拾って財布に入れていたという言い訳は聞かんからな」

 連れて行け、と部下に指示したリヴァイは今度はエレンへと向き直った。

「こういうことは本来は騎士団ではなく、警備隊の仕事なんだがな。……それにしてもお前、よくあいつがスリだと判ったな」
「たまたまするところを見たので」
「それは眼がいい。その後も観察していた理由は?」

 立て続けの質問に、エレンは尋問ですか、と肩を竦めた。

「ああいったスリっていうのは単独犯じゃないことが多いんです。すった後、仲間にすぐ渡して、渡された相手はその場から即離れる。見つかっても何も持っていなければやっていないと言い逃れできますから。財布を掴んだ瞬間に手を掴んで捕らえるか、仲間に渡す前に捕らえないと証拠が残らない。なので、誰かに接触しないように見てました」

 まあ、本当に一人でやっている奴もいるのでそっちかもしれませんが、一応、他にも仲間がいないか調べた方がいいですよ、とエレンが告げると、ほう、と男から吐息のような声が漏れた。

「大した観察眼だな。犯罪に慣れているのか」
「まさか。ずっといろんな地を旅してますから、身に付いた知恵です。旅人っていうものは旅行費を持っていると思われているからスリには狙われやすいんです」
「お前、旅行者なのか?」

 リヴァイの問いにエレンは首を横に振った。

「オレは旅芸人の一座のものです。ここには公演に立ち寄りました」

 エレンが一座の名を挙げると、リヴァイはああ、と頷いた。

「話は聞いている。中々、有名な一座らしいな」
「――ありがとうございます。では、余り遅くなると一座の者も心配しますので、これで」

 エレンは内心の動揺を押し隠しながらそう頭を下げた。とにかくこの場から離れて、頭を冷やしたかった。

「待て」

 が、その場から離れようとしたエレンの腕を男は掴んだ。

「一座のものだと言ったが、お前も公演には出るのか」
「はい。無駄な働き手を雇う余裕はないですから」

 一座の者には雑用専門や役者専門などというくくりはない。出来ることは何でも全部自分でやる。楽器を演奏するものが馬の世話をしたり、踊り手が炊事をしたり、曲芸師が買い出しや掃除をしたりするのが当たり前だ。勿論、まだ幼くて人前に出せる程の芸を身に付けていないものも中にはいるが、やがて舞台に上がるようになる。今のエレンのように。

「お前は何をやるんだ?」
「――剣舞です。生憎楽器や歌の才能はオレにはなかったようなので」

 身体を動かすのは得意だが、音楽の神にはエレンは愛されなかったようで、そちらを覚えさせようとした座長が諦めの息を吐いていたのを思い出す。剣舞は人気がある演目のようなので、まあ良かったと思っている。

「そうか。では、お前を見に行こう。休みだったのに面倒くせぇことに当たったと思ったが…悪くなかったな」

 面白いものを見つけたように男の口角が上がったのを横目で見ながら、エレンはするりと男の手から腕を抜いてその場を離れていった。


 舞台に上がると気が引き締まる。普段なら絶対に身に纏わないような衣装を身に付け、うっすらと化粧を施し眼尻に朱を刷く。
 剣舞は舞姫たちが踊る艶やかな踊りとはまた違った躍動感溢れる勇壮なものだと思う。それでいて優雅で美しい。好みもあるし、どちらがより良いという優劣はつけられないが、自分でも出来ることがあったのは単純に嬉しかった。今の前の人生で剣の扱いには慣れていたが、踊り手はまたそれとは違った魅せる動きを身に付けなければならなかった。武は舞に通ずるとは言うけれど、実際の戦いでは不必要な――無駄とされるような動きも取り入れなければならない。まあ、剣を投げて受け取るとか、実践では有り得ないのだから細かいところを言ってみては始まらない。
 エレンの他にも剣舞の踊り手はいる。だが、その中でもエレンは一番の踊り手とされていた。まるで呼吸をするように自然な動きで剣を扱い観客の前で優雅に舞ってみせる。大勢で舞っていても自然とエレンに目が行ってしまう。一頻り、大勢での舞が終わった後、一人で舞台に残ったエレンは優雅な礼をし、座長が観客の中から一人舞台に上がるように声をかける。
 舞台に上がった客は何が行われるのか判らずに戸惑っている。エレンはそんな客に微笑み、舞台袖から渡された野菜を剣で切ってみせる。すっぱりと切れた野菜が持っている剣が本物だと示していた。

「はい、この切れ味で皆様もこの剣が本物だとお判りになられたはずです。では、次にこれをご覧ください」

 そう言って座長が掲げたのは一枚の細長い黒い布だった。それを舞台に上がらせた客に渡し、確認をさせる。

「よく確かめてください。この布向こうが透けて見えたりしませんよね? 真っ黒ですね?」
「はい、見えません」

 客は自分の目の前で透かしてみていたが向こう側は見えないと頷いた。

「では、その布で彼に目隠しをしてください。途中で外れないようにしっかりと」

 それで大体の意図は判ったのだろう。客は戸惑いつつもエレンに近寄り目隠しをする。遠慮がちな動きにエレンは内心で苦笑した。

「途中で外れたりずれたりする方が却って危ないので、思い切りしてください」

 そう言うと、男はしっかりと目隠しをしてくれて、座長もそれを見て頷いた。

「では、我が一座での一番の剣舞の舞い手、エレンによる目隠しでの演舞、ご覧下さい」

 客が舞台から下り、座長が舞台袖に下がっていったのを肌で感じてエレンは優雅にまた礼をし、口元に笑みを浮かべた。
 真剣による目隠しでの剣舞はエレンにしか出来ない。一座の中にはある程度は動けるものもいるだろうが、エレン程の舞は見せられない。中には実際には透ける目隠しをして行っているものもいると聞いたことがあるが、エレンは観客を騙すような真似はしない。
 空へ放った剣が綺麗な放物線を描き、エレンの手に収まる――まるで見えているような、見えていても難しい技を呼吸でもするような自然な動きで次々とこなしていく。観客が呼吸すら忘れたかのように舞台を見つめているのが判る。高揚する感情と冷静に身体を動かす自分がいる。この剣は自分の手足と一緒――だから自由に動かせる。
 ――そう、まるで一つのようだと思ったことを覚えている。鮮やかに立体起動装置を動かし、まるで無駄のない動きで巨人達を倒していく姿は舞を見ているようだった。自分の上官の動きを初めて見たときにはそれは感動したものだ。今のエレンを観客達が同じように見ていてくれたら、嬉しい。
 たん、と足を踏み鳴らし、片膝をついて優雅に礼をする。――割れんばかりの拍手が踊り手に贈られた。


 その日、エレンの楽屋――とでもいうか、割り当てられた場所に現れたのは何となく予感していた人物だった。

「騎士様、何故ここへ?」
「挨拶だ。――素晴らしかったからな」
「ご覧頂き光栄です。それで、それは?」
「見たら判るだろう。花だ」

 やって来た騎士――リヴァイは両手でやっと抱えられるくらいの大きな花束を手にしていた。

「花なのは判りましたが、それが?」
「お前に持ってきた」
「…………」
「花は要らなかったか?」

 リヴァイの言葉にエレンは苦笑した。

「頂けるのは嬉しいですけど、オレは女性じゃないですし、そういうのはご婦人に贈ってください」

 エレンには花を愛でるという感性がない。綺麗だな、とは思う。野に咲く花々や一面の花畑、優雅な庭園など、どれも美しいとは思うがわざわざ花を飾ろうとは思わない。それに切り花はすぐに枯れてしまうし、後には残らない。同じ残らないものなら食べ物を買って空腹を満たした方がいいと思っている。それをアルミンに話したら、だからエレンは女心が判らないって言われるんだよ、と苦笑された。アルミンへミカサも同意見だったぞ、と告げたらミカサはミカサだからという言葉が返ってきた。確かにミカサは一般の常識が通じないところがあるとは思うがこの意見は間違っていないと思う。

「なら、次は違うものを持ってくる」
「は?」
「まだしばらくは興行を続けるんだろう?」
「みたいですが」

 興行の日程を決めるのは座長であるが、客の入りも反応も悪くなかったからしばらくはここに逗留するだろう。今日の客から話が伝われば新しい客が訪れるだろうし、気に入った演目があればまた来てくれるかもしれない。これだけ大きな城下町なら富裕層もそれなりにいるだろうし、今回の興行で資金を貯めておこうと考えているはずだ。

「来られる日には来る。毎日来たいとこだが……」
「イヤ、仕事してくださいよ。何遊んでるんですか」

 エレンがそう言うと、リヴァイはくつくつと笑った。そんな男をエレンは怪訝そうに見つめる。

「やはり、お前は面白いな。来てもらった方が、お前の一座の利益になるだろう?」
「それはそうですけど、それと仕事をさぼるのは別でしょう。人々の血税何だと思ってるんですか」
「別にオレは王族ではないから公費は使ってないぞ?」
「騎士の給金は国庫から出るんでしょうが。なら同じです」
「俺も税は納めているぞ」
「判ってますが、それとは別です」

 きっぱりと言うエレンを面白そうに眺めて、リヴァイは手を伸ばしてエレンの頭をくしゃりと撫ぜた。

「舞台の上では華やかでどこか妖艶にすら感じたんだが――こうして見るとただのクソガキにしか見えねぇな」
「悪かったですね、色気のないガキで」
「イヤ、悪くない。お前はそうしている方が面白い」

 一頻り感触を楽しむようにエレンの頭を撫ぜてから、男は手を振って出ていった。
 エレンはそれを眼で追って、リヴァイの姿が完全に見えなくなるとその場に突っ伏した。

「………反則だ」

 ――お前、実は髪撫ぜられんの好きだろう?

 くつくつと笑う声が耳に蘇る。普段、眉間に皺を寄せて表情を余り変えない恋人が自分の前で表情を和らげ、面白そうに笑うのがとても好きだった。滅多に笑わない人だっただけに――皮肉気な笑みなら敵に見せていたけれど――それが心を許してもらえたようで嬉しかったのだ。

(判ってる、あの人は違う)

 彼には記憶がない。きっと自分もそれに引き摺られているだけだ。
 判ってはいても同じことを繰り返しそうな自分が怖かった。


「エレン、またあのチビが来たの?」

 エレンの楽屋に来たミカサが目敏く置かれた贈り物に気付いて眉を顰めた。

「ああ、何でも城下町で評判の店の菓子らしい。後でアルミンと食おうぜ」

 あれから毎日というわけではないが、結構な頻度でリヴァイは一座に足を運んでいた。公演を見た後は必ずエレンの楽屋に寄って他愛もない話をしていく。その度に贈り物をされたが、エレンは高価なものは決して受け取らなかった。そのため、男はエレンが読みたいと言った本や、他愛もない遊び道具、町で評判の菓子などちょっとしたものを持ってくるようになった。楽屋はわりと開かれてはいたが、誰でも入れるというわけではなく、座長が出入りする人間をきちんと精査していた。男がそれを許されたのはそれだけの身分を持ち有名だったからだ。
 王国近衛騎士団、第二師団、副団長――確かそんな肩書だったはずだ。年に一度の武術大会で優勝したらしく、彼の知名度は高かった。

「エレン」
「ミカサ、言いたいことは判ってる」
「……私達はずっとここにはいない。興行が終わればまた別の地に行く」
「だから判ってる。心配すんな」

 ミカサはエレンの心があの男に向かないか心配している――長く興行していると自然と親しいものも出来るが、いずれは自分達はその地から離れなければならない。仲良くなればなるほど別れは辛いものになる。それを心配しているのだろう。
 ――一度、男にここに残って騎士を目指さないか、と訊ねられた。剣の腕もありそうだし、お前は鍛えればいい騎士になれるだろう、と。エレンはその問いかけに首を横に振るしか出来なかったのだけれど。
 自分を引き取って育ててくれた座長、家族同然の一座。エレンの演目は人気のある方だし、全部を捨ててここに残るなど出来る訳がなかった。

「オレは大丈夫だから」

 エレンは自分に言い聞かせるようにそう呟いた。


「その話はお断りしたはずです。お引き取り下さい」
「先方は是非に、との話なんです。彼が抜ける穴埋めも充分にするとおっしゃっています」
「――そういう問題ではありません。この一座のものは全員が家族です。家族は金には代えられません」

 耳に届いた座長の声が酷く硬くてエレンは足を止めた。奥まで通したということはそれなりに身元のしっかりとした相手なのだと思うが、座長はそういう相手には人当たりよく接し、こんな風な声を出すことはないのに。
 座長の頑なな態度に相手が溜息を吐いたのが判った。

「今日はこのまま帰ります。――ですが、この申し出を断るのはこの一座のためになりませんよ」

 相手がこちらに来るのが判ってエレンは慌てて身を隠した。やましいことはないがここで見つかるのは何だかまずい気がしたのだ。
 座長が男を見送り、こちらへ戻ってくるのを見計らってエレンは姿を現した。

「座長、お客さんの見送り?」
「………っ! エレン、今の客と会ったのか?」
「イヤ、会ってはねぇけど……」

 エレンがそう言うと、座長はほっとした様子を見せ、ならいい、と笑って見せた。

「エレン、俺はこの一座のもの全員が俺の家族だと思っている。お前は俺の息子の一人だ。他のものも全員そう思っている。それを忘れるな」

 真剣な顔でそう告げられ、頷くと、座長はぽんぽんとエレンの頭を撫ぜて歩いていった。


 あの会話は何だったのか――疑問だったエレンはその後すぐに真相に辿り着いた。
 翌日からあれ程盛況だった一座に客が全然入らなくなったのだ。
 更にもう少しここにいると言っていた座長が突然ここから旅立つと一座の者たちに告げ、城下町を出ようと準備を始めたのだが、申請しているのに許可が下りないのだという。この国の人間なら問題はないが、エレン達のようにあちこちの土地を渡り歩く旅芸人の一座や、多くの荷物を持ち運び商売をする商人等は出入りに許可証がいる。入るときには何の問題もなかったのに、出ていこうとする一座に色々と難癖をつけて許可証を出してくれないらしい。
 明らかに何らかの力が働いている。そう思ったエレンは人の噂話を聞き出し、自分で組み立て結論を立てた。

 ――この国には二人の王子がいるらしい。第一王子は聡明で人柄も良く国民からも慕われていて、次期王に相応しいと言われており、現在王太子の地位に就いている。だが、第二王子は優秀な兄に比べられてきたせいか、歪んだ性格に育ってしまい、粗暴で手が付けられないという。彼はたまに城下町に訪れ、弱いものをいたぶったり、店先のものを壊したりしていくのだという。道を歩いていた老人を通行の邪魔だという理由で蹴り倒したというからどうしようもない男だ。
 更に彼は気に入った若く美しいものを無理矢理に城に連れて行くのだという。――何が目的かは明らかだが、家族が抗議しに行っても無駄で取り合ってもらえないそうだ。向こうの言い分はそちらのものがどうしても城で働きたいと王子に頼み込んだから連れてきた、らしい。その証言を肯定するものは多くいたし、ならば、一度でもいいから会わせてくれと申し出ても本人が家族には会いたくないと言っているの一点張りで通されてしまう。無理に入り込もうとしても止められるし、下手をすると投獄される。第二王子は狡猾に手を回して自分の所業の証拠を掴ませないのだという。以前、結婚を控えた美しい娘が彼に無理矢理連れて行かれたことがあった。婚約者が何度も連れ戻しに向かったが、追い返され、数か月後、変わり果てた遺体が家族に突き返されたという。王子とその取り巻きたちに散々凌辱された彼女は隙を見て城内で首を吊ったのだ。その話を聞いた第二王子はそんな汚らしいゴミはさっさと突き返せ、と命令したという。
 人の噂というのは誇張されるものなので総てが真実ではないかもしれないが、話を半分に割り引いたとしてもろくでもない男だというのには変わりない。そんな男が今、気に入って召し抱えようとしているのが、面白半分で見に行った一座の剣舞の舞い手なのだという。――そう、第二王子は若く美しい気に入ったものなら男女の別なく連れて行くのだ。自分が美しいと称されるのには疑問が残るが、とにかく執着していることに間違いはないという話だった。

「…………」

 連れて行かれたらどうなるか判っている。だが、手を回しているのがこの国の王子だとすると、ここからいつまで経っても出してはもらえないだろう。下手をすると無実の罪をでっちあげられて座長が投獄されかねない。
 この一座はエレンの家族だ。座長がいなければ両親を亡くし身寄りのいないエレンは路頭に迷い、今頃は生きていなかったかもしれない。家族は守るべきもの――ならば、エレンがやることは一つだ。


 城下町の通用門を通り抜けていく一座の馬車を見送りながら、エレンは息を吐いた。そうして、振り返り、やって来た使者に強い視線を向ける。

「約束は守ってください」
「勿論ですよ、エレン殿」

 言葉は丁寧だがどこか馬鹿にしたような態度を取る相手にエレンは眉を顰めた。王子が噂通りの人物だとすると、その命令通りに動いている部下もろくなものではないと考えるのが妥当だろう。

(後はどう動くかだが……)

 ――エレンは座長に城に行くという話を受けると申し出た。当然、反対されたが押し切った――でなければこの一座には未来がないのだから。
 この話を受けるに当たってエレンは条件を出した。まず、城に勤める期間は一年間だけにすること。一座のものを朝の開門直後に送り出すこと。エレンが城に上がるのは早くてもその日の夕方からにすること。相手方はエレンに従者をつけることを条件に承諾した――従者というか、単純に監視なのだろけれど。

(アルミンが上手くやってくれればいいけど……)

 一年という期間を申し出たが、エレンは城で飼われてやる気などない。そう言ったのは座長に一年して勤めを終えたらまた戻るから、と納得してもらうためだった――実際には座長よりもミカサを納得させる方が時間を要したのだが。それに飽きっぽいらしいと噂の王子も何年も自分を飼う気などないだろうと踏んだからだ。
 エレンとしては隙を見て逃げ出す気でいる。少なくとも放蕩息子の言う通りになってやるつもりはない。下手すれば――いや、上手く逃げられなければ絶対に投獄されるだろう。最悪出られるのは死んだ後だ。そして、そうなった場合一番心配なのは一座のことだ。王子が噂通りの性格なら腹いせに一座を潰すということをやりかねない。
 だから、アルミンには隣国へ逃げるように指示してある。表向きには隣町へ行き、この国内を進むように見せているが、城下町が見えない場所まで辿り着いたら荷馬車を全速力で飛ばして隣国へ向かえ、と。この国と隣国は国交はあるものの、それ程仲良くはない。一座が隣国に入国してしまえば、万が一、引き渡しの要請がいったとしても確たる証拠がなければ応じないだろうと踏んでいる。更にエレン達一座は隣国で興行したときにかなりの人気を博し、一度城に招かれて演目を披露したことがある。隣国にさえ行ければそうそう手出し出来ないはずだ。
 だから、朝一番に向かわせたのも対面の時間を遅らせたのも時間稼ぎだ。出来るだけ遠くへ行けるように。更に、エレンが何かしたとしてもまず処罰が下るのは自分だろうから、そこでも時間が稼げると思っている。

(ぼんくら王子が舞踏を見るのが好きなだけ…とかいうオチはねぇだろうな。城内の抜け道とか探すしかないか……)

 一つ前の人生で王の護衛などという役目をしてきたから、城の造りは判っている。勿論、同じ城ではないのだから細かいところは違うだろうが、建築様式はそんなに違いはないだろう。

(出入りの商人の荷馬車にこっそり入り込むとか、使用人の服を拝借して逃げるか……)

 検閲は城に入るときより出る時の方がどうしても甘くなるから、混雑時に紛れ込むというのがいいかもしれない。どの程度厳しく行っているかにもよるが。

(取りあえず、城内を把握する時間が欲しいな。退路の確保はそれじゃないと難しいし)

 護衛が交代する時間、見回りの時間、開門と閉門時間、自分が住まわせられる場所の位置――調べることはたくさんある。
 少しでも逃げ出せる機会があれば見逃さない。が――。
 事態はそんな悠長なことを言ってられなかったのである。



 まさか、ここまで早いとは思ってみなかった、というのが偽らざるエレンの本音である。
 第二王子に与えられた彼の宮には数多くの女がいるというし、公務以外の時間は取り巻き達と遊興に耽っているという。夜の相手はそれこそ数え切れない程いるそうで、毎晩違う相手を選んでも一月以上はかかるのだそうだ。その他にも高級娼館にも出入りをしているらしいし――王子相手だから断れないが、ここでも彼の評判は悪いそうだ――、エレンを呼び付けるにしても城内を探る時間はあると思っていた。だが。

「何だ、普通の男だな。舞台の上ではもっと華やかに見えたんだが」
「…………」

 まさか、城に入ったその日の夜に寝室に呼ばれるなんて思ってはいなかった。ここで楽しく朝までご歓談とか、ただ一緒に寝るだけなんてオチがあるだなんてさすがに思っていない。

(ヤるだけヤればきっと飽きるだろうが……)

 エレンの身体が気に入らなければすぐにお払い箱になるだろうし、気に入ったなら上手くやれば城下町に遊びに行きたいなどと話して逃げ出せる隙を作れるかもしれない。

(生理的に絶対に無理だ!)

 どちらにしろ、この身体をろくでもない男に提供しなければならないというのが前提の話だ。それは避けたい。

「まあ、いい。あのリヴァイが夢中になっているんだ。大分具合がいいんだろう?」
「は?」

 ぽかんとするエレンに相手は不機嫌そうに眉を寄せた。

「今更とぼけるな。あの男がお前に夢中になって毎日のように通っているというのは評判だ。今までに浮いた噂のなかった男をお前がどうやって誑し込んだのかは知らないが、あいつが夢中になっている男を奪ってやったら面白いと思ってな」

 男の台詞に頭の中が真っ白になる。誰と誰がそんな関係だというのだろう。とんでもない勘違いだ。では、この男はエレンを気に入ったからという理由ではなく、リヴァイの意中の相手だからという理由でこんなことをしたというのか。座長を脅し、金をちらつかせ、承諾しないとなると興行の妨害をし、果てには他の地へ行けないように阻んだ。そんな勘違いのくだらない理由で。

「あの男は兄上のお気に入りというだけでつけあがっていたんだ。ただでさえ目障りだったのに、何度もこっちの遊びを邪魔してきて……ゴミみたいな老いぼれを蹴り殺そうが、男に媚びるしかない女をどう扱おうが、王子である俺の自由だろう。王族に向かって生意気な口ばかり利くような無礼者……何かあれば兄上が庇ってくれるとでも思ってるんだろうが、そう上手くいくか」
「…………」
「まあ、そんな話はいい。お前を俺のものにしたと聞いたあいつの顔を想像すると――」
「……ふざけるな」

 押し殺したような低い声がエレンの口から出て、今度は相手が怪訝そうな顔をした。

「勝手な汚い想像であの人を侮辱するな。お前みたいなクソ野郎に好きにされてたまるか!」

 エレンの言葉に相手が激昂するのと、エレンが動くのは同時だった。エレンは相手が護身用の剣を取り出す前に相手を叩き伏せ、沈めた。ここに来るまでに身体検査をされて武器などは持っていないことは確認されていたから相手も油断していたのだろう。武器を持つ自分と丸腰の相手――なら、自分が圧倒的に有利であると。だが、相手が知らないこともある。確かに王子なら護身術程度は習わされているだろうし、剣も扱えるだろうが、訓練された兵士には敵わない――そう、かつてのエレン・イェーガーの持つ体術には。
 これでも、対人格闘術の成績は優秀だったんだよ、と胸の中で呟く。それに前の人生では王の護衛をやっていたのだ。確かに兵士や王の護衛の頃に比べたら筋力などはないかもしれないが、元は同期の少女から教わったものだ。今のエレンでも扱える。

「こいつ、どうしたらいいか……」
「取りあえず、縛って転がしておけ」

 不意に声をかけられてぎょっとしたエレンが振り向くと、そこにはエレンの知る騎士の姿があった。


「危なくなる前に助けに入るつもりだったんだが、お前があそこまで強いとは思わなかった」
「あいつが弱すぎなんです」

 どうやら隠し通路らしいところを歩きながら騎士――リヴァイが言う。あいつは色々とやりすぎたのだと。

「表立っては俺が牽制していたが、裏では王太子の配下が着実に証拠集めをしていた。悪事の証拠はあがっているし、もうあいつは終わりだ」

 第二王子がどうなるのかリヴァイは言わなかったし、エレンも訊かなかった。訊いたところでリヴァイは答えないし、エレンの知ることではないからだ。おそらくは処刑ということにはならないだろう。仮にも彼は王子なのだから。どこかに幽閉するのか――あるいはしばらくしてから彼の病死や事故死の話が広がるのかもしれない。城には闇の部分が付きまとうものだが、この人生でもそれに関わろうとは思わなかった。

「エレン、馬には乗れるか?」
「はい、人並みには」
「城下町の外れに荷と一緒に用意してある。朝の開門と同時に出ろ。急げばお前の一座に追いつくかもしれない」

 ここから出るための準備は総て済ませてあるのだとリヴァイは言う。戸惑うエレンに迷惑料だとでも思っておけ、と彼は更に続けた。

「王も王太子もあのクソ王子の所業には頭を悩ませていた。どうにかしねぇと王族への不信にも発展し兼ねない。それで、あいつを処罰するための証拠集めをしていたんだが……お前はそれに巻き込まれた。もっと早くにやっていればお前がこんな目に遭うこともなかったんだ」

 悪かったな、と頭を撫ぜられてエレンは泣きたくなった。安堵と同時に訪れる寂しさ――そう、もうこの男とはお別れなのだ。
 夜明けを待って、城下町の外れに準備されていた馬と荷をリヴァイの部下らしきものから受け取る。馬はおとなしく馬の扱いに慣れていないものにでも操れそうだった――エレンは扱いに慣れていたが。思えば初めの人生から乗馬は移動手段の一つだった。

「エレン、じきに王は退位して王太子に王座を譲る。後、二年か三年か――それくらいは色々な人員整理や移動があって落ち着かないかもしれない。俺も働かされるだろう。だが、王太子は王に相応しい人物だし、国は落ち着いて更に豊かになるだろう」

 エレンが頷くと、リヴァイは更に言葉を続けた。

「三年後、またここに来てほしい。もっと、早くてもいいが――お前の決心がついたら」
「え?」
「俺はお前に隣にいて欲しい」

 その言葉にエレンは息を呑んだ。それは、その意味するところは。

「ゆっくりでいい。出来ればいい返事が欲しいが、強制はしねぇ。お前が――」

 そのとき、きらりと光る何かが視界に入った。それが何かを理解するより早くエレンはリヴァイを突き飛ばしていた。
 胸に熱い衝撃が走った。

「エレンっ!」

 ゆらゆらと揺れる視界。人の怒号。走り回る足音。弟二王子の手のものか、という声が聞こえたが、エレンにはどうでも良かった。

「エレン、しっかりしろ、今、医者が来る」

 この人さえ、無事であれば。胸に突き刺さったものが――この矢がこの人に当たらなかったのなら。
 何か言いたげに口を動かしたエレンに気付いたのか、リヴァイが耳元を寄せた。
 途端、見せた顔にああ、とエレンは思う。

(そんな顔をして欲しかったわけじゃねぇのに……)

 ――ありがとう、オレもあなたがとても好きでした。
 エレン、と呼ぶ声も、髪を撫ぜる手も、不器用な優しさも、たまに見せる笑顔も。

 エレン、と呼ぶ声を聞きながら、ゆっくりと少年は眼を閉じた。
 ――これが、三度目の人生の幕引きだった。




2015.4.20up




 思いついたから書いてみよう作品です。思ったよりも長くなってしまったので、ここで一旦、区切ります。今のところ真っ暗ですが、幸せにしますので〜(汗)。




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