ぴょこんと跳ねた髪を見て、くすくすとペトラが笑っていた。どうしたの?と問われてエレンは寝癖です、と恥ずかしそうに答えた。エレンとしても直したかったのだが何度押さえても直らず、時間もなかったので適当に手で整えて部屋を出てきたのだ。

「チッ、これだから新兵は……服装の乱れは心の乱れだぜ」
「まあ、寝癖くらい放っておいても問題ないだろ」
「うん、その跳ね方ひよこみたいで可愛いし」

 リヴァイ班の面々が面白がってそんなふうに言っていると、ひょいっと手が伸びてきて、エレンの跳ねた髪を掴んだ。突然のことにびっくりして視線を向けると、髪を掴んだ男――リヴァイがこれはまた見事としか言い様のない寝癖だな、と感心したように呟いていた。
 自分の上官にまでそんなことを言われて、さすがに恥ずかしくなったエレンがすみません、今直してきますから、と言ってそこから立ち去ろうとしたのを男は止めた。今直してやるからと、どこからか取り出した櫛で少年の髪を梳いて整えていく。少年はなら自分でやりますと申し出たが、男が黙って大人しくしていろ、と言うので大人しく梳かれるままになっていた。男の手つきはいつも変わらず優しくて心地好かったから、内心では男に髪を梳かしてもらえることが嬉しかった。

「お前の髪は固いのかと思ったが、意外と猫っ毛なんだな」
「それで朝は苦労してるんです。兵長はサラサラそうですよね」
「ああ、触って確かめてみろ」

 え、と思ったが、男は少年の意思など考慮せずにエレンの手を自分の頭に持っていって触らせた。
 そこまでされては引っ込みもつかず、エレンが恐る恐る撫ぜると男の髪は見た目通りにサラサラとしていて指通りが良く、自分もこんな髪質が良かったなあ、とそんな些細なことを羨ましく思った。

「俺の髪を触れるのなんてお前だけだぞ?」
「オレの髪を撫ぜるのも兵長くら――あ、たまにハンジさんにくしゃくしゃにされますが」
「……………」

 男は急に無言になり、少年の頭をくしゃくしゃに掻き回した。折角整えられてきた髪をぐしゃぐしゃにされて、少年はわわっと声を上げた。

「ちょっ……何するんですか、兵長!」
「あいつに負けるのは気に食わん。あのクソメガネよりも多く掻き回してやる」
「変なことで対抗意識を持たないでください!」

 助けてくださいよ、という視線をリヴァイ班の先輩方に送ったが、彼らは笑うだけで助けてはくれなかった。少し乱暴に掻き回されたのが痛かったのでううーと涙目でじっと見つめると、男はだからそれはやめろって言っただろ、と溜息を吐いた。

「ほら、今度はちゃんと直してやるからじっとしてろ」

 気が済んだのか、掻き回していた手を止めると、今度こそ優しく梳かし始めた男に少年は心地好さそうに目を細めた。

(あったかい)

 それはまだ、男のぬくもりを幸せに感じていた頃の優しい思い出――。




 げほげほと、トイレで胃の中にあったものを総て吐き出しながら、エレンは先程振り払ってしまった先輩のことを思った。

(……エルドさん、気を悪くしたかな…)

 彼は何も悪くない。ふらついていてこけそうになった自分をたまたま傍にいたエルドが気付いて腕を掴み、転ばないように支えてくれたのだ。エルドは親切でしてくれたことであり、自分は彼にお礼を言うべき立場で、あんなふうに腕を振り払って逃げてくるなんて随分と失礼な真似をしてしまった。
 だが、どうしても我慢出来なかったのだ。腕を掴まれた瞬間鳥肌が立ち、こみ上げてくる吐き気を堪えることが出来なかった。身構えていた時ならまだ我慢出来たかもしれないが、不意打ちに触られるのはどうしてもダメだった。

(気持ち悪い)

 あれだけ求めていた人のぬくもりが今は怖くてどうしようもなかった。特に成人男性はダメだ。近寄られると緊張してしまい、接触されると自分の意志に反して震えがくることもある。こんなことではいけないとは思っている。もう、あのことは忘れなければ――それなのに、思う通りに身体は動いてくれない。

(………兵長…)

 あれから今までのことが夢だったかのように、二人の接触はなくなった。エレンが近付くことはなかったし、男もエレンに必要以上に近付くことはなくなった。班員達はそのことを訝しんでいるようだが、リヴァイは元々忙しい身なので仕事で構っている暇がないと押し切られればそれまでだ。
 そう――性処理の相手を断ってしまえば、男は自分に用はない。当然の結果だった。けれど。

(何でこんなに苦しいんだろう)

 苦しくて痛い。怖くて気持ち悪い。いろんな感情がぐるぐると回って思考がまとまらない。こんなふうになる前に戻ることが出来たなら――何度目かの吐き気を堪えるエレンはただそれだけを思った。





鼓動





 自分のところに現れた突然の訪問者をハンジは快く部屋に招き入れた。

「どうしたんだい? 何か緊急の書類でもあったかな?」


 首を傾げてみるが、そんな案件があったかハンジには思い出せない。すると、ここを訪れた彼女――ペトラはすみません、仕事というより私事に近いのかもしれませんが、気になることがあって、とハンジに告げた。
 そこでまたハンジは首を傾げた。こういった相談事は普通直属の上官や先輩、もしくは親しい同僚にするものだと思うのだが。勿論、ペトラと自分の仲が悪いということではないし、男性相手には相談しにくい話だとも考えられる。彼女の所属するリヴァイ班では女性は彼女だけだし、何か同じ女性に吐き出したいことでもあるのかもしれない。――ハンジがここで普通の女性として認識されているのかどうかはこの際気にはしていけない。

(それに、最近のリヴァイも様子がおかしいし……)

 エレンに絡んできた男達の一件でそれとなく注意してもらおうかと思ったのだが、そのリヴァイが中々捕まらない。必要以上に仕事を入れて働いているようにハンジには感じられたのだが、自分にも仕事があるし、すれ違ってばかりで話す時間が作れないのだ。

(まあ、私は仕方ないとしても、部下の悩みを聞いてやる時間くらいは作りなよ、何やってるんだか……)

 リヴァイはああ見えて部下思いでしっかり自分の部下達のことを把握している。何か悩んでいればそれとなくフォローするくらいのことはきちんとする男なのだが。
 いや、今はともかくペトラのことだ、とハンジは彼女に椅子を勧めて話を促すと、彼女は予想外のことをハンジに告げた。

「エレンの様子がおかしいんです」
「エレンが? 何がどうおかしいんだい?」
「上手く説明出来ないんですけど――人との接触を嫌がっているっていうか、怖がっているみたいに見えるんです」

 あの巨人化実験失敗の後に話し合ったことでわだかまりはなくなり、自分達に打ち解けてくれたのかと思っていたのだが、エレンは急に班員達との会話も減り、近寄らなくなってしまったのだとペトラは言う。特に男性兵士との行動を嫌がり、この前も腕を振り払って逃げてしまったのだそうだ。その後、少年は急に腹痛をおこしたのだと謝罪していたが、彼の様子がおかしいのは誰が見ても明らかだった。ペトラには比較的普通に話してくれるので、今は大抵の業務は二人でこなしているという。

「リヴァイはどうしてるの?」

 そんな状態の少年を男が放ってはおかないだろうと思っていたら、リヴァイもまた彼には一切近寄らなくなってしまったのだという。あんなに彼に懐いていた少年も自分たち以上に男には近付かないというのだから驚きだ。

「何かあったのか訊ねてもエレンは何もありませんって言うだけだし、最近はちゃんと食べてないのか顔色も悪くて――心配なんです」
「いつからそんな感じなの?」

 ペトラの話を聞くと、どうも定期検査の後に別れた日の翌日かららしい。
 思い出すのはあの兵士達の一件と自分が忠告したことくらいだが。

(エレンに気をつけろって言ったからそうしてる――にしてはリヴァイや班員にまで警戒するのがおかしいし、別れた後で何かあったんだろうか)

 考えてみても答えは出ない。取りあえず、少年と――それからリヴァイを何としても捕まえて話を聞いてみなくてはならないだろう。

「判った。取りあえず、今日は後でエレンの定期検査があるから、そのときにエレンには話を聞いてみるよ。リヴァイの方とも何とか話をしてみる。私も用事があったから丁度いいしね」

 ハンジの話を聞くと、ペトラはほっとした顔になり、ぺこりと頭を下げて部屋から退出していった。

「……………」

 聞けば聞く程おかしい二人の話――嫌な予感しかしなくて、ハンジは幸せが逃げると言われていることは判っていても、溜息を吐くのを止められなかった。




 エレンは通路を小走りに進んでいた。ハンジの定期検査の予定時間に遅れそうだったからだ――それまで一緒だったペトラが部屋まで送ると言っていたが、急がせるのは申し訳ないし彼女には他にもまだ業務があるので、それを断り一人で向かっている。幸い、エレンがいた場所からハンジのところまではそれ程離れてはいなかったので、何とか納得してもらった。エレン自身の体調が余り良くないと班員達は勘づいているのと、ハンジからなるべくエレンを一人にしないように、と言われているようで彼女は少年を一人にするのを嫌がっていた。そもそもエレンは監視対象であるから単独行動は許されていないのだが、施設内の移動にまで付き合わせるのは申し訳ないと思う。それに今の自分は誰かと一緒にいるのは怖かった。

「…………!」

 通路を曲がろうとしたときに、不意に伸びてきた手に驚いてエレンは飛び退った。ドキドキと破裂しそうな程心臓が脈打ち、嫌な汗が背中を滑り落ちる。

「よう、化け物」

 にやにやと笑いながら現れたのはこの前エレンに絡んできた兵士達だった。人がいないのを確かめるように一人が周りに注意し、残りでエレンを取り囲むように距離を詰めてくる。どうやら彼らはエレンが一人きりで行動するのを待っていたらしい――そんなことに労力を使うなら他へ向けろよ、と以前のエレンなら相手に言ってやったところだが、今の少年にはそんな余裕はなかった。
 怖い――人は怖い、特に成人男性には近寄られたくない。数人の男性に囲まれたこの状況では、戦うことや逃げることはおろか、身動き一つ、声すら上げることが出来なかった。

「一緒に来てもらうぜ」
「抵抗しても無駄だからな」

 なす術もなく、エレンは男達に引き摺られるように連れ去られていくしかなかった。



 げほげほと噎せながら、エレンは血の混じった唾液を吐き出した。そんなエレンの頭を男の一人が靴の底で踏みつける。ここはどこだろうか――おそらくは使われていない資料室か何かなのだろうが、埃っぽい床の上で転がされてぼんやりとそんなことを思う。ここに連れてこられて早速集団での暴力が始まったが、エレンは何一つ抵抗が出来なかった。殴り合いの喧嘩なら特に子供の頃にはしょっちゅうしていたが、ここまで一方的に殴られ蹴られるなんてことは初めてだった。リヴァイに躾されたときも抵抗は出来なかったが、あのときとは状況がまた違う。どんなに手強い相手だろうが、エレンは抵抗することをやめない、そんな人間だったのだ。

(気持ち悪い)

 殴られるというよりも、触られることが嫌で仕方がない。だが、自分を痛めつければ男達も気が済むだろう――そして、早くいなくなって欲しい。至近距離にいられるだけでも自分には苦痛だった。

「こいつ、この前とは違って大人しいな」
「さあ、諦めたんじゃねぇの?」

 少年の頭上で男達は会話を繰り広げている。自分達よりも少年を下にみているのがはっきりと判る嘲りを含んだ声だ。

「……ちょっと、思ってたんだけどさ、こいつ、結構顔綺麗じゃねぇ?」
「綺麗っていったって男だろ? 男が綺麗な面でも意味ねぇよ」
「そうなんだけどさ……ちょっと、試してみてもいいかなって」

 オイオイ、本気かよ、と言う男の声が聞こえたが、エレンにはその会話が理解出来ない。いったい何の話をしているのだろうか。

「口使うなら誰だって一緒だろ。ここの女って見た目男みたいな奴多いし、こいつなら脱がさなければ、女とあんま変わらないぜ」
「あーそうかもな」
「とにかく咥えさせてみればいいだろ。上手くしゃぶってくれるかもしれないぜ?」
「上手く出来たらたっぷり飲ませてやるよ」

 下卑た声で笑う男達――ここにきてエレンはようやく男達の言うのが性的な意味のことであると気付いた。カチャリ、とベルトを外す音が聞こえ、伸ばされてきた男の手に、エレンは思い切り叫んでいた。

「うわああああああああああぁあああああ!」

 突如、死に物狂いで暴れ始めた少年に男達はぎょっとした。今まで大人しく殴られていた少年の急変についていけず、一番近くにいた男が殴り飛ばされ、蹴りを入れられ、床に崩れ落ちて呻いた。その横にいた男も突き飛ばし、少年は必死に部屋の外へと出ようとする。

「何だ、こいつ! 急に……」
「いいから、逃がすな!」

 扉へと、手を伸ばしたエレンの頭上からがつん、と激しい音がした。頭に走った激しい痛みとぬるりと流れる生温かい感触。頭を固いもので殴られたのだ、と理解するより早くエレンはその場に崩れおれていた。

「バカ! 頭はまずいだろ! 死んじまったらどうすんだ!」
「だって逃げられたら、困るって言ったのお前じゃねぇか! 大体、化け物ならこれくらいで死には――」
「エレン! ここか!?」

 ドンドンっと扉が叩かれ、男達は息を呑んだ。どうしてここが判ったのか――いや、そんなことよりも、今踏みこまれたら、この状況では絶対に言い逃れが出来ないだろう。新兵に対する複数人での暴行、しかも、相手は巨人化出来るという重要な鍵の少年。明るみになればどんな懲罰がくだされるか判らず、ここはどうにかして逃げなければ。現場を押さえられなければまだ言いわけが立つかもしれない。

「そうだ、窓から―――」

 男達が窓に向かおうとしたときに、その窓が蹴り破られ、人影が中に滑り込んできた。綺麗な着地を見せたその人物は冷ややかな視線を男達に向けて、静かな声で告げた。それは静かすぎて聞いているものがぞっとするような酷薄な声だった。

「次はないって私は言ったはずだよ」
「ハンジ分隊長……」
「覚悟は出来てるんだよね? ――言いわけは一切認めないからそのつもりで」

 男達が恐怖に固まる中、扉の方も開けられ、室内に入って来た小柄な少年がエレンに駆け寄った。

「エレン、大丈夫か!? 今、手当てするから!」
「………アルミン…?」

 呼びかけにうっすらと眼を開けた少年が視線を向けると、泣きそうな顔をしながら頭の傷の止血する幼馴染みがいた。大丈夫だと言いたかったが、声がもう出なかった。手当てをする幼馴染みの少年の手は優しくてあたたかい。けれど。
 自分が望んだのはこのぬくもりではない。勿論、こちらも大切で大事なのは変わらないけれど、一番安心出来て心地好いぬくもりを自分はなくしてしまった。

(オレは、バカだ)

 もう戻らないものを恋しがって未だに欲しがっている。怖くて仕方ないのに、それでも忘れることが出来ない。

(全部なかったら良かったのに)

 初めからなかったら良かった。知らなければ良かった。お菓子の甘さを知らなければお菓子を食べたいと思わないように――知らなければそれを欲しいなんて望まなかった。一度その心地好さを知ってしまってからの喪失は苦しいだけだ。
 全部、全部なかったことにしてしまいたい――。
 そう思いながら少年は意識を失った。




 眼が覚めたらベッドの上だった。眼を覚ました少年――エレンは周囲を見回して傍らに幼馴染みの少年が座っているのを見つけた。

「……アルミン…?」
「エレン? 良かった、眼が覚めたんだね!」

 変な連中に連れ去られるのを見て、ハンジ分隊長に知らせたんだけど、遅くなっちゃって、と幼馴染みがまくしたてるのに、エレンはただ首を傾げている。

「エレン……?」

 どうも様子がおかしい。頭を殴られたようだし、どこか調子でも悪いのだろうか。医師は出血のわりには傷は深くなかったし大丈夫だと言っていたのだが、後になって後遺症が現れるということもある。エレンの持つ再生能力ならそれも心配はない気がするが、上手く働かないという事態だって考えられなくもない。
 心配そうに覗きこむ幼馴染みを逆に少年はしげしげと眺め、不思議そうに呟いた。

「なあ、アルミン、お前急にでかくなってないか?」
「え?」
「それに、それ、調査兵団の制服だろ? 何でお前が着てるんだよ」

 お前ばっかりずるい、オレだって着てみたいよ、と唇を尖らせる幼馴染みに自分の顔色が失せていくのをアルミンは感じた。

「良かった、エレン、目覚めたんだね」

 丁度そのときに扉を開けてハンジが入って来た。エレンはその姿を見てきょとんとする。

「あの男達ならきちんと処分を下すから安心していいよ。全く、あんなのを放置して調査兵団全体がそんな奴ばっかりだと思われたらどうするんだい。厳しくやってもらわないと―――」
「おばさん誰?」

 エレンの言葉にハンジはその場で固まった。

「なあ、アルミン、オレ、何でここにいるんだ? そもそもここどこなの?」
「ねぇ、エレン」
「何だよ?」
「今、何年か言ってみて。エレンは今いくつなの?」
「何だよ、それ? そもそもお前、オレの質問に答えてねぇぞ」
「いいから! 教えて、エレン」

 幼馴染みのいつにない剣幕にエレンは驚き、わけが判らないという顔をしながら答えた。

「845年、エレン・イェーガー、十歳です。これでいいのかよ?」

 薪拾って帰らないと母さんに怒られるよなーとぼやく少年に残る二人は固まるしかなかった。






「ようやっとお出ましだね、こっちは待ちくたびれたよ――リヴァイ」

 息を荒げてはいなかったが、大急ぎでやって来たのが判る男にハンジは目を眇めた。

「エレンは?」
「報告はそっちにもいってるだろ。それの通りだよ」

 目覚めた少年は五年前――正確にはシガンシナ区が壊滅してウォール・マリアが陥落する前の時点まで記憶が退行していた。頭を打ったせいなのか、それとも精神的に衝撃を受けたためなのか、原因ははっきりとはしていないが、その時点に戻ったのはそれが少年が一番幸せだった時期だからではないかとハンジは思っている。
 酷く辛いことがあった少年は追い詰められて、幸せだった頃に逃げ込んだのだ。そして、そこまで少年を追い詰めたのはおそらく―――。

「兵士達の処分は団長に厳しくしてもらうように頼んでおいたから問題はないよ。エレンの退行の切っ掛けは彼らかもしれないけど――その前からエレンの様子がおかしかったって話は聞いてる。……なぁ、リヴァイ」

 ハンジはここで言葉を切って男を見つめた。

「エレンに何をしたの」
「…………」

 ピンと張り詰めた空気の中、男は覚悟を決めたように口を開いた。

「俺はエレンを――あいつをレイプした」

 言った瞬間、どかっという音とともに、男の右頬に衝撃が走った。ハンジの拳が男に綺麗に入り、更に彼女はすかさず左頬にも拳を食らわせた。そのまま懐に飛び込み、腹に膝蹴りを入れ、一旦離れてから身体を捻り、美しいフォームで回し蹴りをぶつける。さすがに立っていられずに床に沈んだ男に、ハンジは更なる攻撃を続けた。――男はその攻撃を総て避けなかった。

「本当、嫌味な男だよね、リヴァイって」

 一方的な暴力を加えた後、ハンジは舌打ちしながらそう言った。

「受け身をとってダメージを最小限に抑えようとする。大人しく殴られる気があるなら、その辺も全部やめなよ」
「習性なんだから仕方ねぇだろ。無意識に身体が動くんだよ。……手加減なしにやりやがって」
「手加減されたかった?」
「いや――その方が有り難かった」

 いくら受け身やダメージを和らげるように男が動いていたとしても、手加減なしのハンジの攻撃に男は人類最強の兵士長とは思えない程ボロボロになっていた。まだまだ殴りたらない気分のハンジではあったが、男を再起不能にまでする気はないし、これ以上の攻撃は自分の身体も痛めかねないのでやめておく。

「本当はその足の間のくだらないもの削ぎ落して、二度と使えなくしてやりたかったけど、それはエレンが望まないだろうからね」

 物騒なことをいうハンジは本気の眼だったが、男はその心情が判っていたので何も言えなかった。ハンジは性犯罪には特に厳しい。それが昔仲の良かった同期の少女が同僚達に凌辱されて自殺したということからきているとは聞いた覚えがある。デリケートな話なので触れないようにしている話ではあるのだが。

「で、どうする気なんだい、リヴァイ」
「…………」

 記憶を失くしてしまったエレン。それ程の傷を負わせた自分。なら―――。

「俺は近付かない方がいいんだろうな……」

 呟くように吐いた男の言葉に、ハンジの拳がまた飛んだ。遠慮なしに拳を入れて両手でその胸倉を掴んで引き寄せ、至近距離で睨みつけた。

「バカか! リヴァイ、お前は!」

 ギリっと胸倉を掴み上げるハンジの眼は怒りに燃えていた。

「自分一人で逃げて楽になろうとしてるんじゃない! お前に出来るのは許しを請うことだ。エレンに記憶があろうが、なかろうが、関係ない! 土下座でも何でもして、許しを請え! 償えない程酷いことしたとでも言うつもりか? だったら、許してもらえるまで何度でも謝罪して何でもやって償って見せろ!」
「………逃げる気はない」

 男は力なく呟いた。

「だけど、あいつは俺が触れると怯える」
「……………」

 ふう、と溜息を吐いてハンジはリヴァイから手を放した。

「けど、それでも、やるべきだよ、リヴァイ」

 男はその言葉に躊躇うように視線を彷徨わせていたが、やがて静かに頷いた。

「全く、どうしたらいいか判らない少年の初恋じゃないんだから、もっと上手くやれなかったのかい。エレンの方は仕方ないけどさ」

 男が頷いたのを見てハンジも少しだけ気を緩め、何気なくそんなことを言ったら――男は固まっていた。

「……え? マジ? マジなの、リヴァイ」
「…………」
「だって、女性と関係持ったりしてたよね? え? なのに、エレンが初こ――」

 男は無言で部屋を出ていき、後には呆然としたハンジが残された。
 恋愛経験値0の少年と経験はあっても本気になった恋が初めての男。

「そりゃ、一筋縄じゃいかないわ……」

 そのハンジの呟きは誰に聞かれることもなく消えていった。






 詰まんないな、とエレンは案内された地下室で呟いていた。アルミンと、あのときいた女性の話によると、少年とその幼馴染みは身体が急に大きくなってしまう病気らしい。あれから自分の身体も成長していることに気付いたエレンはパニックに陥ったが、二人からそう説明されて何とか落ち着いた。これは非常に珍しい病気で、治せる人が調査兵団の医療班にしかいないのだそうだ――病気なら父さんに診てもらうと言ったエレンに対する回答はそれだった。早く大きくなれてちょっと得した気分だったエレンだが、このまま成長が進んでお爺さんになってしまったりしたら困るだろうから、完治するまではここで治療してもらうのが一番なのだ、と言われたらそれに頷くしかなかった。――それは、少年に取りあえずの今の状況に納得してもらうためについた嘘だったのだが、それを今の状態のエレンが知る由もない。
 これはどうするかでかなりもめたのだが、記憶を失くすほどの衝撃を受けた少年に母親が巨人に食い殺されて故郷は壊滅、ウォール・マリアは陥落し父親は行方不明。更にその父親に正体不明の注射を打たれて巨人化出来るようになっているなどと伝えれば少年の精神がどうなってしまうか判らない。なので、取りあえずは真実を隠して様子をみよう、ということになったのだ。
 だが、少年に記憶を取り戻してもらわないことには話にならないので、それ程悠長に構えていられないのも事実だった。遠征までに少年には記憶を取り戻してもらわねばならない。

(アルミンはここにオレを置いていっちゃったし、そもそも、部屋いっぱいあるみたいなのに、何で地下室なんだよ)

 少年がブツブツと心の中で呟いていると、部屋の扉が叩かれ、開かれる気配がした。

「アルミン?」

 幼馴染みが戻って来たのかと視線を向けて、エレンはその場に固まった。
 そこに立っていたのは見知らぬ男だった。整っている顔には何やら湿布が貼られていて痛々しく見えるが、その目つきは鋭く、小柄ながらも鍛えられていることが判る身体をした黒髪の男。調査兵団の制服を着ていることから彼が兵士だとは推測出来るが、何故ここにやって来たのか。彼が医療班の人間でエレンを呼びに来た――というふうにも見えない。それに、彼を見た瞬間からエレンの身体が無意識に震え出した。嫌だ、近付いて欲しくない、と心が悲鳴を上げる。
 彼が一歩、部屋に進んでくる度にエレンの身体の震えが大きくなる――嫌だ、怖い、怖いと心の中で叫びながら、エレンはなるべく男から遠ざかろうと腰掛けていたベッドの端にまで逃げた。
 知らない、と頭では思うのに、心が知っていると思う。
 男がサイドテーブルに照明を置き、ベッドに乗り上げてきたとき、たまらずエレンは叫んでいた。

「嫌だ! 来んな! オレに触るな!」

 だが、男は少年の声をものともせずに少年の腕を引くと、その身体を抱き締めた。
 ひっと、小さな悲鳴が少年から上がる。

「嫌だ、触るな、嫌だ嫌だ嫌だ――助けて!」
「エレン」

 腕の中で暴れる少年を強く抱き締め、宥めるように男は少年に声をかけた。その声は優しくて胸が締め付けられる程に切ない響きを含んだものだった。

「何もしない。もう絶対に何もしないから――頼むから聞いてくれ」

 ぽんぽん、と優しく背中を叩くようにしながら必死に少年に懇願してくる。

(このぬくもり……知ってる?)

 こんなふうに抱き締めてもらって、髪を撫ぜてくれた人がいた――それが嬉しくて心地好くて自分はそれが大好きだった。
 いや、違う、そうじゃない。大好きだったのは―――。

「お前が忘れてるのは知っている。言っても判らねぇだろうが、俺はお前に酷いことをした。許してくれとは言わねぇ。ただ、謝りたかった。お前を傷付けてすまなかった、エレン」

 とくんとくん、と鼓動が伝わってくる。この人は誰なんだろう。この鼓動とぬくもり、匂い、全部知っている気がするのに思い出せない。

「お前が元に戻るなら俺は何でもする。それで許してもらえるとは思ってはねぇが……」

 そう言って男はするりと少年の頬を撫ぜると、抱き締めていた腕を外した。

「お前には二度と触れないと約束するから」
「―――――!」

 男はそれだけ言うと、静かに部屋を出ていった。

「……………」

 あの人はいったい誰だったんだろうか。知らない人だと思うのに知っていると心が叫ぶ。
 温かくて優しい。怖くて痛い。気持ち悪い。心地好い。傍にいて欲しい。近付いて欲しくない。
 相反する感情が心の中で暴れ回る。

(苦しい)

 知らないうちにぼろぼろと涙が零れていた。自分が何で泣いているのか判らないまま、ただエレンは涙を流し続けた―――。





2013.10.12up





 ここまで引っ張る話じゃないのにまだ続きます…orz いや、ページの文字量的に分けた方がいいかと思っただけですが。続きはそれ程長くないので無理矢理入れようかと思ったんですが……終わったら調整するかも(汗)。



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