※大したものではないですが、性描写がありますので18禁とさせて頂きます。






 身体中が悲鳴を上げていた。先程まで繋がれていた手枷は外されていたが、暴れた際に擦れた手首は傷になっていたし、無理矢理に開かせられた足の股関節が痛みを訴えている。それに、誰にも触られたことのない場所を蹂躙されて鈍い痛みが身体の内部に広がっていた。身を起こそうとしたが、腕にも足にも力が入らず、どうにか動こうと身体を捩ればどろりとしたものが太腿に伝った。先程、体内に吐き出されたものが流れ出たのだと思った瞬間、エレンはその場で吐いていた。ここがベッドの上だとか、汚れたら後始末が大変だとか、そんなことは頭には浮かばなかった。

「エレン……」

 その様子を見かねたのか、先程エレンの手枷を外した男が手を伸ばしてきたが、エレンは瞬間的にその手を叩き落としていた。身体が悲鳴を上げるのを無視してなるべく男から離れようとベッドの隅に寄る。

「――オレに触るな」

 また胃の中のものがせり上がって来たが、エレンは何とかそれを堪えようとした。これ以上、この男の前で無様な姿をさらしたくなかった。
 男はいつもと変わらない無愛想な無表情だったが、エレンには男が傷付いたのが判った。――それが判るほどには男を見てきたし、まだ長い付き合いとは言えないながらも彼とはいつも一緒にいたのだ。

(何であんたがそんな顔をするんだ)

 自分に酷いことをした男がそんな顔をするのは理不尽だと少年は思った。

(どうしてこんなことになったんだろう)

 判るのはもう元の関係には決して戻れない、ということだ――自分と、自分の上官であるこの男、リヴァイとは。
 居心地の良かったあの場所にはもう戻れない――その事実が少年にはひどく哀しかった。





鼓動




 エレンがリヴァイという男を初めて見たのは訓練兵時代だったと思う。面識がある、という意味ではなく遠目から遠征に出かけるその姿を眺めたのが一番最初だった。幼い頃から調査兵団に憧れていた少年は、兵団の遠征の見送りと出迎えはタイミングが合えば必ず行っていたが、人類最強と呼ばれる男の遠征出発に立ち会えたのは訓練兵になってからだった。そのときは彼にただ憧憬の念を抱いたのを覚えている。おそらく、自分は彼のような存在になりたかったのだ――人類の敵である巨人を誰よりも多く駆逐し、冷静に状況を判断し多くの戦績を上げていた人類最強の兵士長に。
 そして、彼を初めて至近距離で見たのが、トロスト区襲撃の際、巨人の中から引き摺りだされた後、他の巨人に襲われそうになっていたところを助けられたときだ。自由の翼を背に現れた彼の強さは圧倒的で、エレンは朦朧とした意識の中にあってさえもその強さに焦がれた。その後、意識を取り戻した少年は地下室で男と対面し、衆人環視の中で躾と称して暴行を加えられることになったのだが。


「…………」

 気まずい、とエレンはひたすらに思った。審議所からこの控室に連れてこられ、怪我の様子を見るためにソファーに座らされたまでは良かったのだが、隣に腰を下ろしてきた男の存在に身体が勝手にびくついてしまう。勿論、あの『躾』は自分の身柄を調査兵団に引き取るための演出だったと理解しているし、男のことを恨んではいない。だが、身に沁み込まされた暴力の記憶はそう簡単に拭えるわけではないらしく、勝手に身体が反応してしまうのだ。

「そう、ビクつくな。傷付くだろうが」
「は?」

 溜息とともに吐き出された男の言葉に、エレンは間の抜けた声を上げた。果たして今のは冗談なのだろうか、単に自分の気を和らげるために零した戯言であるのか、どう反応していいか判らず首を傾げているエレンに、すっと相手はその手を伸ばしてきた。思っていたよりも長い男の指先が少年の頬に触れる。

「…………!」

 驚いて硬直している少年に構わず、男の手は傷の具合を確かめるように頬を滑り、その目元を撫ぜる。まるで、慰撫するようなその手つきがとても優しくて、エレンは動揺を隠せず目を見開いた。

(この人の手……あったかいんだ)

 冷たそうに見える男の手はとても温かくて、優しく撫ぜられるのが心地好くて、この状況に混乱するエレンはひたすら固まるしかない。

「痛むか?」

 問われて、ぶんぶんとエレンはただ首を横に振った。折れた奥歯がすぐ再生したことには驚いたが、再生能力は他にも有効だったようでここに連れられて来たときには激しかった身体の痛みは徐々に和らいできている。この分だと完全に回復するのも近いだろう。
 男は、ならよかった、と言ってから、エレンの顔をしげしげと眺めた。

「お前、前々から思っていたんだが……」
「はい」
「目ぇ、でけぇな」
「…………」

 何を言われるのかと身構えていたエレンは男の言葉に再び硬直した。
 エレンは幼い頃からよく母親似だと言われていた。両親を知る人は今はもう僅かだがハンネスなどは会う度に今でも少年にますます母親に似てきたな、などと言う。自分は特に女顔だとは思わないし、女性に間違われたこともないが、中性的だとは言われたことはある。その原因は並の少女よりも大きいと言われる瞳にあると思っているので、少年にとってそこは密かなコンプレックスとなっていた。

「……目の大きさは兵士の優劣に関係あるとは思えませんが」
「まあ、関係ないな」

 コンプレックスを刺激されたエレンが思わず言い返すと、男はあっさりとそれに返した。

「お前の眼は悪くない。……だがな、お前、エレンよ」
「はい」
「余りじっとその眼で男を見るなよ。変な気を起こす奴も出てくるかもしれねぇからな」
「………は?」

 変な気とはどういうことなのだろうか。少年は男の言う意味が判らず内心で首を傾げた。むしろ、変なのはこの男ではないのだろうか――調査兵団は変人の集まりだと言われているから、この人類最強の男もどこか変なところがあるのかもしれない。
 そうすると、その変人の集団を束ねているという団長のエルヴィンが一番の変人なのだろうか――いや、あの人が一番まともそうに見えるのだがどうなんだろう、とエレンが一人で考え込んでいる横で、隣の男はお前は本当にガキなんだな、と溜息とともに呟いていたが、少年にはそれは聞こえなかった。




「えーと、ここですか?」

 旧調査兵団本部だった古城を改装した施設――そこに連れてこられた少年は案内された部屋に眉を顰めた。エレンの身柄を調査兵団が引き受けるにあたって、彼の部屋を地下室に設けることは提示された絶対条件だ。少年が何かのはずみで巨人化しても場所が地下であるならその身を拘束出来る。破ってはならないルールではあるが、窓一つない澱んだ空気の地下室は気分までも暗くさせてしまう。
 部屋の中には簡素な作りのベッドと机と椅子、収納棚などがあり、新兵の部屋の待遇としてはまあ普通だった。むしろ、大抵の兵士は相部屋であるから個室を与えられている点では恵まれているといえるかもしれない。それがこんな光の射さない薄暗い地下室でなければ、だが。

「ごめんね、エレン。でも、これが決まりだから」

 エレンを地下室まで案内してきたペトラは、更に眠るときには手枷で拘束しなければならない旨を告げた。さすがに寝ているエレンを寝ずに見張っているわけにもいかないから、寝ている際に彼が巨人化しないため――もしくは夜になった隙に逃げ出さないための用心なのかもしれない。
 ここで逆らったところでどうにもならないのは判っていたので、エレンは承諾し、その日はベッドに繋がれた手枷をはめて就寝することにした。

(そう言えば、一人で眠るのなんて何年振りだろう……)

 開拓地にいたときの施設ではプライバシーなど何もない雑魚寝に近いものであったし、訓練兵になってからも兵舎は大部屋で二段ベッドに何人も並んで寝るという形であったから、就寝時は周りから誰かの寝息が絶えることなく聞こえていたし、人の気配がない状態で寝るということはなかった。
 巨人化した後、身柄を拘束されていたときは絶えず誰かが監視していたから――それは鉄格子の外であったけれど――気が休まらなかったが、こうして誰もいない部屋に一人になるとそれはそれで落ち着かない。
 そのうちに慣れるだろう――いや、この生活に慣れなければならない。自分はともかくも調査兵団の一員になれたのだから。
 エレンはぎゅっと目をつむり、頭から毛布をかぶった。



「……オイ、エレン、こら、クソガキ! しっかりしろ!」

 身体を揺さぶられて、頬を叩かれて、エレンは瞳を開けた。目の前には自分の上官の顔があって、薄暗い照明の中、彼が自分を覗きこんでいるのが判った。兵長、と声にしたかったのに、咽喉からはひゅうという嫌な音しか出ずに息が上手く継げない。苦しくて咽喉元に当てた手首からじゃら、という金属音がした。

「チッ、過呼吸か……」

 そんな呟きが聞こえて、エレンはふにっと柔らかくて温かいものに口を塞がれるのを感じた。と、同時に肺に息を吹き込まれてげほげほと噎せた。

「エレン」

 男はベッドの上でエレンに覆いかぶさるようにして口付けを落とし、優しくその髪を撫ぜた。

「落ち着いてゆっくり、深呼吸してみろ。そう、吸って、吐いて……」

 男の言葉に合わせて呼吸を繰り返していると、段々と落ち着いて息が整ってきた。

「へ、ちょう……」
「落ち着いたか。どうした?」

 どうした、と訊きたいのは少年の方も同じだった――寝る際に朝手枷を外しに来ると言われていたから、夜分に誰かがこの部屋を訪れるとは思っていなかったのだ。夜中に便所に行きたくなったら困るな、とそのときには思ったのだが、まさかこんな事態になるとは考えていなかった。
 男は少年の表情で言いたいことが判ったのか、ここにやって来た理由を説明した。どうやら見回りというか、少年の様子を確認しに来たらしい。そこで様子のおかしい少年を発見し、過呼吸を起こしていると判断したのだ。紙袋があれば良かったんだがな、と頭を撫ぜる男にエレンはすみません、と謝罪した。

「よく覚えていないんですけど……嫌な夢見て…気が付いたら息が苦しくなって……」

 五年前に平穏な日々を崩されてから、たまにエレンは嫌な夢を見て魘されることがあった。だが、過呼吸を引き起こす程酷いものは今回が初めてだ。自分は自分で考えていたよりも新しい環境に馴染めず緊張していたのかもしれない。
 男は少年の言葉を聞くと、そのままその手から枷を外した。驚いて見上げれば、必要ねぇだろ、と軽く告げられた。拘束が外れるのは嬉しいが大丈夫なのだろうか、と少年が訊ねると、条件にはそんな細かい指定はなかったからな、と男は言いながら拘束されていた少年の手首に傷がないかを確かめていた。

「要は地下室にいればいいんだ。……この部屋は湿気が多いし、空気が悪いな。明日にでも別の部屋に移動させる。少しはマシになんだろ」
「ありがとう、ございます」

 礼を言うエレンの頭をくしゃりと撫ぜて、男は部屋を出ていこうとしたが、くいっと引っ張られる力を感じて立ち止まった。見ると、少年が男の服の袖を掴んでいる。

「何だ? 言い忘れたことでもあったか」

 リヴァイがそう言うと、エレンは自分でも無意識の行動だったのかぱっと手を放し、頬を朱に染めた。それから、遠慮がちにぽつりと呟くように言葉を口にした。

「あの、もう少しだけ……後少しだけでいいですから、ここにいてもらってもいいですか?」

 不安に揺れる大きな金の瞳が男を見上げている。少年の縋りつくような瞳に男ははあ、と溜息を吐いた。

「……だから、そんな眼で男を見るなって言っただろうが…」
「?」

 男の言葉にきょとんとした顔をする少年のベッドにドカリ、と腰掛けると男は履いていた靴を素早く脱ぎ捨て、ベッドの中に滑り込んできた。

「ほら、もっと端に寄れ」
「え? あの、兵長?」
「俺はもう眠いし、お前に付き合ってやる時間はねぇ。だから、ここで寝ていってやる。それで満足だろう」
「いやいやいや、満足とかそういうことじゃなくてですね」
「――一人だと寝付けないんだろう」

 ずばり、と核心を衝かれてエレンは押し黙った。

「早く慣れろ。……今日は仕方ないから一緒にいてやる」

 そう言って抱き寄せられて、エレンは慌てた。近いです、と訴えると二人じゃ狭いんだから我慢しろとあっさりと言われ、二人で寝るにしてはベッドが狭いのは確かなのでエレンは黙るしかなかった。ぽんぽん、と子供にするように背中を優しく叩かれて、そんな子供じゃないですよ、と言ってやりたかったが、それが存外に心地好くてエレンは無意識に男に身を擦り寄らせていた。

(いや、でも、オレは一緒に寝たいんじゃなくて、眠くなるまでの話相手になって欲しかったというか、そういうので、第一、この人、潔癖症だって聞いたのに大丈夫なんだろうか……っていうか、さっき、この人オレにキスしなかったか?)

 いや、あれは人工呼吸のようなもので、その後のキスも子供を宥めるような家族に向けるようなものであったのだけれど。今更ながらその事実に気付いたエレンは身悶えしたくなるような気分を味わった。
 リヴァイの方は気にしていないのだろうかと、そっと男を窺いみると彼は眼を閉じてもう眠りに入ったようだ。抱き締められた身体からはとくん、とくん、という鼓動が伝わってくる。

(……あったかい…)

 思えば、自分が巨人化してからはこうして誰かのぬくもりをこんなに近くに感じることはなかった。変わらず接してくれるのは幼馴染み達だけで、同じ兵士でさえも自分を見る目が違っている。誰も自分に触りたがらないのだ――でも、この男は最初から違っていた。
 とくん、とくんと伝わってくる心音と人のぬくもり。もっとそれを感じたくてエレンは自分も手を伸ばして男を抱き締め返していた。鼻先を男の匂いがくすぐる――鼓動とぬくもりと、匂い、何もかもが心地好くてエレンは夢も見ずにぐっすりと眠った。






「どうなることかと思ったけど、良かったよ。リヴァイと上手くいっているようで」

 定期検査の後、ハンジはそう明るくエレンに声をかけた。

「あんなにリヴァイに懐くなんて思わなかったな」
「懐くって……オレは犬じゃないんですけど…」

 そう返したが、自分がリヴァイに懐いている自覚はある。
 あれから、男はエレンの部屋をもっと通気の良い場所へと移動させた。勿論、地下ではあるが、以前よりも快適で、一応ベッドには手枷が設置されてはいるが、あれ以降は少年にそれがつけられることもない。
 男は定期的にエレンの様子を見に来て、エレンが魘されていると背中を撫ぜてくれたり、手を握ってくれたりして宥め、エレンが眠るまでほんの少しだけ会話をしてくれる。
 ――だが、抱き締めて一緒に寝てくれたのはあのときだけで、以降、彼がエレンのベッドで眠っていくことはなかった。

(まあ、それが当たり前なんだけど)

 どう考えても男二人が狭いベッドで眠る方が間違っているし、それを寂しいと感じるのがおかしいのだ。

(オレは兵長に甘えてるだけだ)

 先日、巨人化の実験に失敗した後、身体の一部だけを巨人化させた際に自分に向けられた眼が忘れられない。記憶にはない初めての巨人化から目覚めた自分に向けられたたくさんの視線と同じ、恐怖と敵意に満ちた眼。自分が信用されていないのだと痛烈に実感したあのとき――彼だけが自分に背を向け、周りを止めてくれた。
 勿論、それが彼がどのような状況下であっても自分を殺せるという自信からくるものだとは判っている。それでも、自分はあのときの彼の行動が泣きたいくらいに嬉しかったのだ。
 リヴァイ班の面々には謝罪されたし、巨人化出来る自分を危険視する気持ちは判っているから、もうわだかまりは抱いてはいないけれど。それでもあのときにリヴァイはエレンの中で確実に特別な存在になったのだ。

「兵長は何と言うか……あったかいんです」

 判りにくい優しさも、放任のようで自分や班員達をしっかり見ていてくれることも、思っていたよりもずっと部下思いなところも、総てがあたたかくて心地好い。人類最強と言う看板を背負い戦う姿は心から格好良いと少年は思う。

「えーとさ、エレンはリヴァイのことどう思ってるわけ?」

 突然そんな質問を振られ、エレンはきょとんとしたが、意外に真面目な顔でハンジが言うので、少年は自分が思っている通りを正直に告げた。

「尊敬してます」
「……あー、そうきたかー」

 何やら頭を手で押さえ呟くハンジにエレンは今の回答はどこかまずかったのだろうか、と首を傾げた。

「他には?」
「え? えーと、人類最強と言われる実力の持ち主で、格好いいと思います。厳しい人ですが、それでいて部下思いで意外に優しいところもあるし…」

 そう続けると、ハンジは微妙な顔をしている。今の回答もハンジの意に沿わなかったらしい。

「うん、私が悪かったよ。そうじゃなくて、好きか嫌いかってことなんだけど」
「好きです」

 エレンはきっぱりと即答した。

「あの人の班に入れて良かったと思ってます。オレではまだ足を引っ張るだけかもしれませんけど、これからもっと訓練して――ハンジさん?」

 見ると、ハンジが机の上に突っ伏していた。具合でも悪くなったのだろうかと、エレンが心配して訊ねると、彼女は首を横に振った。調子が悪いというわけではないらしく、エレンはほっとしたが、彼女は自分の世界に入ってしまったようで何事かを呟き始めた。

「そういう発想にはまあ、いかないか。でも、エレンは偏見とか持たなそうに思えるし……というか、そっちの興味が全くなさそうな感じがするのは否めないけど。見てると結構あからさまだと思うんだけどなぁ、リヴァイは。これは思っていた以上に子供みたいだから、すっごい苦労すると思うけど、仕方ないよね。脈がないってわけでもなさそうだし……」
「?」

 エレンが判らないことをブツブツ呟いていたハンジは、まあ、私には関係ないんだけどさ、あそこまで気付かれないと不憫というか、そんな気がしてきちゃってさ、とこれまたわけの判らない言葉を続けている。

「まあ、当人同士の問題だから、余計な首は突っ込まないけど。……一つだけ、エレン」
「はい」
「リヴァイは誰にでも優しいわけじゃないよ?」
「は?」

 きょとんとするエレンにハンジはさあ、もう今日の検査は終わったから、と退出を促し、釈然としないままエレンは部屋を後にしたのだった。



 何だったんだろう、と少年が首を傾げながら通路を歩いていると、向こうから先輩らしき兵士達が歩いてくるのが見えた。エレンは道を譲ろうと端に寄ってそこを通り過ぎようとしたが、すれ違いざまに伸びてきた足に引っかけられ、転びそうになった身体を何とかバランスを取ってやり過ごした。
 明らかに偶然ではなくわざと転ばそうとした兵士達に、エレンが振り返って視線を向けると相手はにやにやと嫌な笑みを浮かべていた。

「あーごめんなー、何しろ足が長いもんで」
「そうそう、悪気はなかったんだぜ?」
「…………」

 エレンは無言でどう出るべきか考えた。こういう輩はどこにでもいるものだ。自分より格下だと思ったものに対してだけ強気に出て絡み憂さを晴らす――そんなものが同じ調査兵団の兵士とは哀しい限りだが、下手に相手をするのもバカらしい。ここは相手にせずさっさと立ち去るのが一番だろう。

「――急いでいますので、失礼します」
「なあ、化け物がなんでリヴァイ班に入れたんだ?」

 エレンがそう決めて歩き出そうとしたとき、兵士の一人がそう声をかけてきた。

「どう考えたっておかしいだろ? 化け物が調査兵団の一員なんて。しかも人類最強の兵士長の班員なんてよ」
「いったい、どう取り入って入れてもらったんだよ」

 男達はどうしてもエレンに絡みたいらしい。面倒だな、と思ったときに、その言葉を少年は耳にした。

「ほら、案外、あの女と一緒なんじゃないのか? 一人、いるだろ、リヴァイ班に女が」
「ああ、大方兵長に股開いて腰振って入れてもらったって言われて――」

 ガッと音がして話しかけていた兵士の一人が通路にしゃがみ込んでいた。げほげほと兵士が荒い息をしている原因の少年は怒りに満ちた眼でそれを見下ろしていた。みぞおちに綺麗に入れた足を元に戻して、他の兵士達を睨みつける。

「――訂正してください」
「何しやがるんだ! この化け物が!」

 ようやく事態を把握した男達が怒鳴るが、少年はそんなことでは怯まない。

「彼女は実力でリヴァイ兵長に選ばれました。他の班員達全員がそうです。オレのことはともかく、彼らがあんた達にそんなこと言われる筋合いはない。自分達の実力のなさを棚に上げてここで吠えてる暇があったら、訓練でもして自分の技術を磨けよ!


 怒りと軽蔑の混ざった視線を向けてくる少年に相手は苛立ったのか、掴みかかろうとして――その手を止められた。

「はい、そこまで」

 その場にいた全員がその声に振り向くと、エレンに掴みかかろうとした兵士の腕を捩じりながら笑うハンジの姿があった。

「ハンジさん……」

 エレンはハンジの登場で冷静さを取り戻し、男達はあからさまにまずいという顔をした。

「これ以上、騒ぎを起こすと言うなら反省房にぶち込むけどいいかな? 嫌ならここで私自ら処分をくだしてあげてもいいけど」
「いいえ、滅相もありません!」
「お騒がせして申し訳ありません! ハンジ分隊長!」
「今から持ち場に戻りますので!」
「――次はないよ?」

 冷やかな声でハンジが言うのに、兵士達は必死で頷き、彼女が兵士の腕を放すとまるで蜘蛛の子を散らすように走り去っていった。

「この化け物が…覚えてろよ」

 去り際に少年に向けて吐き捨てるように言われた言葉がやけに耳に残った。


「……………」
「……………」

 男達が去った後、残された二人はしばし沈黙していたのだが、やがて悪かったね、とハンジが苦笑しながら言った。

「あんなバカなことを言う連中がまだいるなんてね。しかも調査兵団に」
「ハンジさんが謝ることじゃないですよ。……どこから聞いてました?」
「うーんと、いったい、どう取り入って入れてもらったんだよ、からかな?」

 別に立ち聞きするつもりはなかったんだけどね、とハンジは続けた。どうやら、エレンが退室した後、届けなければいけない報告書があったのを思い出して部屋を出たら絡まれているエレンを発見したらしい。

「あの、このことは、兵長には……その」
「……言って欲しくない?」

 エレンが頷くと、ハンジはわしゃわしゃとエレンの頭を掻き回した。
 わわっとエレンが慌てるとそれが楽しいかのようにまた掻き回す。

「エレンはいい子だね。――ペトラの話をしてもらいたくないんだろう?」
「――――」
「でも、ああいう連中は一度自分のプライドを傷付けられると根に持つタイプだよ。リヴァイにも気を付けてもらった方がいいと思うけど」
「……ペトラさんはあんなふうに言われていい人じゃありません」

 自分に対しての判断が誤っていたことを認め、謝罪し、けじめのために自らの手に噛み傷をつけた人。
 ――私達はあなたを頼るし、私達を頼ってほしい。私達を信じて。
 強くて優しい人だ。あんな連中にあんな陰口を叩かれていい人ではない。今回の一件でその矛先が自分に向くのならそれでいいと思う。

「リヴァイは有名で、彼に憧れる人間は多い。だから、中にはリヴァイに認められた人間を妬む連中が出てくる。まあ、リヴァイに認められもしない連中が出来るのなんて陰口を叩くのがせいぜいだとは思うけど、嫌がらせをしてくることも考えられるから、気をつけるんだよ、エレン。私も連中の動きには注意をしておくけど、不穏な気配がしたらリヴァイにも話すからね。ペトラのことは省くからさ」
「はい、ありがとうございます、ハンジさん。大丈夫です、自分で何とかしますから。オレ、これでも対人格闘術の成績は良かったんですよ」
「あー、それは知ってるけどさ。……エレン、その人のことをじっと見て話すのは癖?」
「? 人と話すときはその人の眼を見て話しなさいと教わりましたが……」
「いや、それは間違っていないよ、うん、でも、ときと相手にもよるというか……」
「?」

 大きな金色の瞳でじっと見つめられてハンジはどう言ったものか、と頭を悩ませた。

「えーとさ、エレン、同性同士の恋愛をどう思う?」
「は?」

 少年は思いも寄らなかった質問なのか、ぽかんとした顔でただハンジを見つめていた。しまった、直球すぎたか、とハンジは思ったが、エレンはエレンなりにその問いに答えようと考えたらしく眉間に皺が寄っている。

「ええと、本人同士が納得しているのならいいんではないでしょうか? まあ、任務中にいちゃつかれたら殴りたくなるかもしれませんが」

 亡くなってしまった同期の中には同性同士ではないが、名物夫婦と呼ばれるカップルもいたな、と感慨深くエレンが思っていると、ハンジはあのさ、エレンって恋愛には興味ないの?と訊ねてきた。

「ありません」
「…………」

 断言されてしまい、だよね、訊くだけ無駄だったよね、とハンジが思っているとエレンは言葉を続けた。

「そもそも、恋愛感情というものがよく判らないので……そういう自分が恋愛について議論するのは相応しいとは思いません」

 これは前途多難だな、とハンジはここにはいない男のことを哀れに思ったが、そもそもの目的は少年に恋愛について語ることではなかったのを思い出した。

「うん、エレン自身の恋愛の話はおいておいて、私が言いたいのはね、兵団にはそういうのを気にしない人がいるというか、そもそも女性兵士が少ないから手近で済ませようというバカがいるというか。ああ、こういう言い方だと偏見っぽく聞こえるけどそうじゃなくてだね、無理矢理に関係を迫ってくるバカな連中がいるってことなんだよ」
「……………」

 考えてもいなかった話なのか、エレンはまたぽかんとした顔になっている。ハンジはキャベツから赤ちゃんが産まれると信じている子供に艶本を読み聞かせているような、そんな犯罪的な気分になってきた。

「特に入りたての新兵はそういう誘いが多いっていうから、呼び出されたらそんなふうに相手をじっと見ちゃダメだからね! それと、迫られたら相手の股間蹴り潰して二度と使えないようにして構わないからね!」

 物騒なことを言うハンジに、ただこくこくと頷く少年は本当に判っているのかどうか不安だが、取りあえずの用心にはなるだろう。
 それよりも、先程の連中―――。

(顔は全員覚えた。全員で四人、名前を知ってるのが二人。残り二人は名前を思い出せないが、所属班が一緒か同期だろう)

 調べて何らかの手を打った方がいいだろう。連中のエレンを見る目は危険だった。

(集団で暴行を加えるとか、訓練時の器具に細工するとかそんな真似をしてきそうだ。エレンには一人の行動を避けさせないと)

 具体的な行動に及んでいなければ処分は難しい。兵士同士の喧嘩はあることだし、先程の言い合いくらいでは処分とまではいかないだろう。

(リヴァイに言ったら削ぐくらいのことしそうだけど)

 エレンはどうして気付かないのだろう、あの男はあんなに熱のこもった視線で少年を見ているというのに。あれだけでも、男が少年を特別視しているのが判るのに。

(まあ、恋愛経験皆無じゃ、更に同性同士の恋愛なんて考えつきもしないんだろうけど)

 妙に世話を焼きたくなってしまったのは、リヴァイのためというよりも少年が危なっかしいからだと思う。いや、ハンジにとってリヴァイは戦友であるし、気の置けない仲間だとも思っているので、不憫だというのも確かだが。少年には落ち着ける場所があればいいとハンジは思う。今のところは少年の幼馴染み達がその役割を担っているようだが、入りたての新兵に他を気遣う余裕や時間は余りないと思われる。今のところリヴァイとリヴァイ班の面々が少年と一番時間を共有しているのだし、そこに落ち着いてくれたらいいと思う。
 ハンジは別にそこに恋愛感情がなくても構わないのだが、男は構うだろう。

(とにかく、何もなければいいけど)

 ハンジはひっそりと胸中で溜息を吐いて、今度こそ報告書を出すために少年と別れて歩いていった。





 ――あいつは化け物だ!
 ――オレ達を食い殺す気なんだ!
 ――早く、人間に化けているうちに殺してしまえ!


「…………っ!」

 声にならない声を上げてエレンは眼を開けた。広がるのは暗闇――そうだ、ここは地下室で窓がないのだから、暗いのは当たり前なのだ。それが判っていながらもパニックになりそうでエレンは荒い呼吸を整えた。
 嫌な夢を見た。昼間、あの男達に化け物と言われたせいだろうか、皆が恐怖に満ちた眼で自分を殺そうとしていたときのことを思い出してしまった。

(落ち着け、こんなのすぐに治まる)

 自分を化け物だと思っているのは調査兵団内にだっている――それくらい判っていたはずなのに、実際に化け物と呼ばれるのは痛かった。

「エレン?」

 丁度その時、灯りを持って男が部屋に入って来た。ベッド脇のサイドテーブルに持ってきたランプを置いて部屋の灯りを灯し、様子のおかしい少年の顔を覗きこむ。

「どうかしたか? 取りあえず水でも飲んで落ち着け」

 そう言って、汗をかいていた少年の前髪を上げて撫ぜると、男はベッドから離れようとした。それを見て急に不安にかられた少年は咄嗟に男に抱き付いていた。
 男の息を呑む音が聞こえたが、それに構う余裕が少年にはなかった。

(あったかい……)

 人のぬくもりだ。この人は自分に触れてくれる――それを嫌がらない。もうそう刷り込まれている少年は不安定になった心を落ち着かせるために無意識に人肌のぬくもりを求めて男にしがみ付く。
 だが、男は何故か焦ったように少年の身を引き離そうとしていた。どうして、とそれだけが頭の中で渦巻いてエレンは男から離されまいとする。完全に判断機能を失った思考回路は男のぬくもりを失わないためだけに働き、エレンが男を引っ張り込むような形で二人、ベッドに倒れ込んだ。

「エレン……」

 少年に覆いかぶさるような形で倒れ込んだ男が見下ろしてくる。ああ、これ、最初のときと同じだ――そう、ぼんやりと少年は思ってただ男を見つめていた。男の顔はこうして間近で見るととても整っていると思う。目つきの悪さで損をしているけれど、格好いいのにと、エレンは無意識にその顔に手を伸ばしていた。
 男はエレンのその手を取り、掌に口付けを落とした。そして、その唇にも同じように口付けを与えた――エレンが下りてきた口付けを避けなかったのは嫌ではなかったからだ。男のくれるぬくもりはいつだってふわふわとしてあたたかくて心地好い。安心して眠れる居心地の良い場所――だが、次に男がしてきたことは少年が望んでいたことではなかった。

「……? ん、んんーっ」

 ぬるりと口内に入って来た舌が中を這いまわって少年の舌を絡め取る。歯列をなぞり、口蓋を舐め思う存分に蹂躙する――そんな口付けを少年は知らなかった。少年の知るキスはやわらかく優しく触れるだけのもので、頬や瞼に落とされる親愛の情を示すものだ。こんなふうに貪るような、相手を食らい尽くすようにもたらされるものではない。息が苦しくて顔を背けようとしても男はそれを許してはくれず、ようやっと息継ぎを許された時にはもう意識も朦朧としていた。
 だが、意識を飛ばしている場合ではなかったのだ。下半身を襲った刺激にエレンは眼を見開いて、男を見つめた。

「へ、兵長、何して――」

 いつの間にか下着ごとズボンをずり下ろされ、剥き出しになった自分の性器を男が握っていた。自慰ですら滅多にしない少年は初めて他人に触れられているその光景に呆然としてしまい、硬直するしかなかった。
 だが、その硬直も男が握った手を上下させれば解けた。指で輪を作り上下させて擦り、指先で先端をいじられる。男の手が動く度に背筋に走るぞくぞくとした感覚――それが快感なのだと認識するより早くまた次の快楽が与えられ少年を翻弄する。

「兵長、へ―――」

 やめて欲しくて上げた声は男の口内に吸い込まれた。また口内を嬲られて、いやいやと首を振るが男は離してくれない。どうして、どうして、何でこうなったのか、何が起こっているのか、判らなくてぐるぐるとその言葉だけが少年の頭の中を回っていた。

「――――っ!」

 びくん、と身体を跳ねさせて男の手に精を放った少年は息を荒くさせていたが、男がそれをすくい取って、少年の奥まった場所に塗り込んできたのを感じて、ぎょっとした。
 少年に男同士の性行為の知識はなかったが、そこをいじられてぼんやりと男がしようとしていることを察したのだ。

「嫌だ、やめ―――」

 男から逃れようと遅ればせながら暴れようとしたエレンだったが、男にがっしりと両手を掴まれ、押さえ込まれた。エレンの方が身長はあるとはいえ、鍛えられた人類最強の男に新兵の少年が敵うわけがない。

「エレン、悪いが、もうとめられねぇ……」

 ガチャリと手首に冷たい感触が走った――初日だけしか使用していなかった手枷をはめられたことよりも、押しつけられた男のものが布越しでもはっきり判るくらいに熱くなっていることの方がエレンには衝撃だった。



「う、ふう……っ、や…やめ……」

 奥に差し込まれた指は三本になっていた。胸の突起は散々いじられて赤く色づき固く尖っていたし、少年の感じる場所を探り当てた男は的確にそこを刺激した。性器を擦られ、内側からも感じる部分をいじられて、少年は二度目の精を自分の腹に飛ばした。
 吐精してぐったりと力の抜けた少年の足を抱え、男は今まで散々にいじっていた場所から指を抜き、熱く猛った男のものをそこに押し当て深く貫いた。

「―――――っ!」

 灼熱の杭を打ち込まれたのだと思った。それくらいの衝撃だった。痛みと、誰にも触れられたことのない場所を暴かれて蹂躙される恐怖に、少年が暴れても泣き喚いても男は行為をやめてくれなかった。
 痛みに萎えてしまった少年の性器をいじりまた昂ぶらせ、身体をのけ反らせてしまうくらいに感じてしまう身体の内側の部分を男の性器で刺激されて、熱くなり反応する身体とは逆に心は冷えていく。
 どうして、どうして、どうして―――。
 それだけしか頭にはない。
 不意に、ハンジから言われた言葉が頭を過った。
 ――手近な相手で済ませようっていうバカな奴が――。

 ああ、そういうことなのか、とエレンは理解した。優しくしてくれたのも、ぬくもりをくれたのも、全部はこのため。自分はその代償を支払わされただけだ。バカみたいに男に懐いていた自分を男は滑稽に思っていたことだろう。男にとって近くにいた丁度いい相手がたまたま自分だった、ただそれだけだったのに。
 ――そう、ただそれだけだったのだ。




「――オレに触るな」

 総てが終わった後に告げた言葉に男が強張ったのが判ったけれど、もうどうでも良かった。性処理の相手としての代償に与えられるぬくもりなら、自分は要らない。
 どうしてこんなことになったのだろうか。欲張った自分がいけないのだろうか。ただ、憧れの存在として尊敬出来る上官として適度な距離を保っていればこんなことにはならなかったのか。

(気持ち悪い)

 男の傍は居心地が良かった。与えられるぬくもりも何もかも総てがエレンにとっては特別だったのに。もう、それは戻らない。
 ただただ、それが泣きたくなる程、少年には哀しかった―――。






2013.10.10up




 兵長の潔癖症はまたしてもエレンには発揮されません(笑)。エレンはここまでやわではない気がするのですが……。ありがちなネタで内容薄いのにまだ続きます(汗)。



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