カツコツという微かな音がして、ああ、今夜も来たのだ、とエレンは思った。ごく慎重になるべく音を立てないように気を使って毎夜この部屋を訪れる客は気配をまるで感じさせない。それがどのような経緯で身についた技術かは知らないが、光をなるべく絞ったランタンを少年から離れた場所に置き、そっと少年に呼びかける。

「エレン……」

 少年が起きないように極力落とされた声音は囁くようなひっそりとしたもので、聞いていて胸が締め付けられる程優しくて切ない。そっと伸ばされた手は少年に直に触れることはなく、毛布越しに優しく撫ぜるだけだ。あのとき、少年に告げた二度と触れないという言葉を訪問者は律儀に守っている。

「すまない……」

 少年に告げられる言葉はいつも同じ。その度に少年は思う――謝罪が欲しいわけではないのだと。だが、自分がこの訪問者――名前すら知らない男に何を求めているのかが判らなかった。男に傍に寄られるのは怖い。緊張した身体が震えてしまわないよう細心の注意を払い、男が毎夜ここに訪れる度に寝た振りをして何とかやり過ごす。なのに、男がこの部屋から去ってしまうと、追いかけていって縋りつきたい衝動にいつも駆られてしまう。行かないで、傍にいて欲しい、と叫びたくなってしまう。
 矛盾しているとは思う。だが、その矛盾がどこから来るのかエレンには判らなかった。
 かさり、と微かな音がして男がサイドテーブルに何かを置いたのが判った。
 そして、男は来た時と同じ通りに物音を立てずに静かに部屋を出ていった。

「……………」

 男の気配が完全になくなってから、エレンはゆっくりと瞳を開け、身体を起こした。男が何を置いていったのか確かめなくても判っていたが、エレンは部屋の照明を灯し、サイドテーブルの上におかれたものを見た。
 それは可愛らしい包装をされた小さな箱だった。開けてみると中には甘い香りを放つチョコレートが収まっている。
 チョコレートに限らず菓子類は高級品だ。砂糖や小麦、卵に牛乳――食糧は充分に行きわたっているとは言えない状況でそれらをふんだんに使った甘味類は一般市民の口には中々入らない。エレンの父親は有能な医師であったから、一家の生活ぶりは比較的裕福な市民層に分類されると思うが、それでもチョコレートを口にすることなんて滅多になかった。
 なのに、男はこうして毎晩子供が喜びそうなお菓子を寄越す。贈るなら他にもっと安価で手軽なものがあるだろうに、きっと彼の中では子供イコール喜ぶものはお菓子、になっているのだろう。
 何だか昔に母親から聞いた特別な日に子供に贈り物を配るという聖者のようだ、と思う。一度だけはっきりと見た男の姿は聖者にはまるで似つかわしくなかったけれど。
 エレンは手を伸ばしてチョコレートを一つ口に入れた。滑らかな舌触りと優しい甘み、香り高いそれはきっと高価なものに違いないと少年に思わせた。

(……甘い)

 口の中で溶けていくそれは甘くて美味しいのに――エレンの瞳からはぽろぽろと涙が零れた。優しくてあたたかい男。なのに、怖くて近寄れない。傍にいて欲しいのに近付いて欲しくない。

(苦しい)

 あの人は誰なんだろう。自分にとってどんな存在なんだろう。
 痛みが走る胸を押さえながら、エレンはただそれを知りたいと思った。





鼓動




「エレン、何、ぼーっとしているの?」

 幼馴染みの少年に声をかけられてエレンはハッとなった。今はアルミンから立体起動装置の仕組みと操作について説明を受けていたところだったのだ。何故、幼馴染みがそんな知識を持っているのか少年には見当もつかなかったが、教えられる知識がすんなりと頭に入ることに驚かされた。まるで、頭にはその知識が既にあったみたいに馴染んでいく。

(他の訓練のときもそうだったけど)

 折角調査兵団にいるんだから、少し訓練の真似事でもしてみないか、と幼馴染みに言われ、エレンは指導につき合ってくれる女性兵士を紹介された。忙しい兵団の兵士にそんなことをさせるのは申し訳ないと少年は断ったのだが、教える方も基礎の復習になるし、この病気の治療には身体を動かすことも必要なんだと幼馴染みに説明され、エレンはその提案を承諾したのだ。引き合わされたペトラ・ラルという名の女性兵士はエレンを見て複雑そうな顔をしていたのが印象的だった。はじめまして、よろしくお願いします、というごく普通の挨拶をしたのだが何か間違っていたのだろうか、調査兵団では何か独自の挨拶の作法でもあるのかと首を傾げていると、その女性に頭を下げられたのでエレンは慌てた。
 ごめんなさい、ちゃんと一緒についていけば良かった、とエレンには判らない謝罪をする女性が不思議だったが、アルミンが彼女を宥め、それから落ち着いた彼女について簡単な訓練をこなしたのだが、どれもすんなりとやってのけてしまい、少年は自分でも驚いていた。将来は調査兵団に入りたいと思っている少年はその素質が自分にあるのなら嬉しいとは思うが――これは何かが違う気がする。
 アルミンに話せば、それはエレンに素質があるからとか、病気の副作用だろう、と返され、正直病気のことは全く判らないのでそれを持ち出されれば、腑に落ちないながらも自分を納得させるしかなかった。
 エレンの面倒を見てくれるのはアルミンか、起きたときに会ったハンジと言う女性――あの後、おばさんじゃなくてお姉さんだからね?と笑顔で注意されたが、その眼が笑ってなかったのでエレンは二度とこの人をおばさんと呼んではいけないと肝に銘じた。それと訓練時に紹介されたペトラの三人が主だった。男性兵士はどういうわけか近寄られると身が竦んでしまうので、接触することはなかったし、エレンと接触しないように周りも気を使ってくれているようだった。

「やっぱり、外で話すより室内の方がいいんじゃない? ずっと屋外にいすぎるのも身体に悪そうだし」

 実技ではない講義なら室内で出来るし、実際の兵士達もそうしているのだ、と説明したが、アルミンの提案にエレンは首を横に振った。

「ここがいいんだ」
「……………」

 エレンの言葉にアルミンは複雑そうな顔をして黙り込んだ。エレンは訓練や休憩、その他の時間をなるべくここで過ごしたがる――その理由をアルミンは知っていた。今二人が座っているこの場所は兵団の施設のすぐ傍にある中庭のようなところであり、ここから施設を見上げると、その先にはこの調査兵団の兵士長の執務室があるからだ。時折、その執務室の窓から視線を感じるのは決して気のせいではない。きっと部屋の主はあそこから自分達を――エレンを見ているのだろう。

「エレン、ヤマアラシのジレンマって知ってる?」
「? 何だそれ?」

 急に振られた話題にエレンが困惑しつつも知らないと答えると、アルミンは彼にその意味を話した。

「ヤマアラシには外敵から身を守るための棘のような体毛が身体に付いているんだ。でも、その棘のせいで誰にも近寄ることが出来ない。近付こうとすればお互いが傷付いてしまうから」

 近寄りたくても近寄れないヤマアラシ――それは今の二人のようだとアルミンは思う。二人を見ているとアルミンはとてももどかしい思いに駆られる。アルミンはかの兵士長とエレンの間に何があったのか聞かされてはいない。彼とは話す機会がまずないし、あったとしても自分には何も話さないだろう。知っているらしいハンジは決してそれを語らなかったし、記憶のないエレンからそれを聞き出すのは不可能だ。ただ、二人の関係がエレンの記憶喪失に何らかの形で関わっているのだろうとは予想がつく。
 彼が何かエレンに理不尽な真似をしたのなら許せないし、近寄らせたくはないが――エレンの様子を見ているとどうもそれだけではないような気がする。エレンがただ彼に傷付けられただけなら、記憶を失くしていてもその相手に本能的に近寄ろうとはしなかっただろう。
 だが、エレンを見ていると傍に行きたいのに近付けない――そんな葛藤が見えるのだ。男の方も同じで、エレンを傷付けるのを恐れて近付かずに遠くから見守っている、そんなふうに感じる。

「エレンは、今、誰か気になっている人はいないの?」

 またしても、唐突な話題を振られ、エレンは戸惑いを隠せずに俯いた。気になっている人ならば、いる。どうしてそう思うのかまでは自分でも理解出来ないのだけれど。
 いるんだね、と幼馴染みに確認するように言われ、エレンは躊躇いがちにこくりと頷いた。

「……その人のことどう思っているの?」
「……判らない。ただ、ここが痛いんだ」

 そう言って少年は胸を指差した。怖くて苦しくて近寄りたくないのに、傍にいて欲しくて、あの男のことを知りたいと思っている。

「痛いのに――知りたいんだ」
「……なら、それを伝えなきゃダメだよ、エレン」

 このまま止まっていては何も進まないから。アルミンに促され、エレンは小さく、けれど確かに頷いたのだった。






 目の前の机の上に飾られた花を見て、リヴァイは眼を瞬かせた。淡い紫色をした綺麗な花はどこかからか摘んできたのだろうか。瑞々しく可憐な小さな花は人の心を和ませるのかもしれないが、ここ調査兵団には花を飾って愛でるという習慣を持つ人間はまずいない。兵士は訓練や業務で忙しいし、時間を割いてまで花を摘みに行ったり花の世話をしようと思うものがいないからだ。外部の人間と会うための応接室であればまだ飾られる可能性はあるが、自分の執務室に花が飾られるなんてことは今までになかった。

「それはどうしたんだ?」
「――部屋の前に置いてあったんです。兵長宛てだと思ったので飾らせて頂きました」

 そう言って、ペトラは花に添えられていたという小さな紙をリヴァイに渡した。
 そこに書かれていたのは、一言だけ。
 ――いつもお菓子をありがとうございます。

 リヴァイはその紙を手に固まっていたが、ゆっくりと、まるで愛しいものに触れるように指先でその文字をなぞった。

「……綺麗だな」
「……そうですね」

 ただ、それだけを言って男はその可憐な花をずっと眺めていた。




 微かな音が聞こえて、エレンはベッドの中で必死に寝た振りをした。いつもと同じ、毎夜繰り返されているこの時間――だけど、今宵はいつもよりずっと緊張していた。
 やがて、入って来た男はいつもと同じように灯りを置き、少年への贈り物をサイドテーブルに乗せた。

「エレン……」

 呟きと共に男はエレンの髪へと手を伸ばしかけたが、触れる寸前でそれをぎゅっと握り込んで離すと、いつものように毛布の上からそっと優しく撫ぜた。
 違っていたのはその後に告げられた言葉だけ。

「……ありがとう」

 静かに男が出ていった後、エレンは起き上がり、彼が置いていった少年のための贈り物を見た――そこにも違うことが一つ。小さなカードがそこには添えられていた。
 ――綺麗な花をありがとう。ここは寒くはないか? ちゃんと食べているか? 何か困ったことがあったらちゃんと言え。ハンジに言えば何とかしてくれる。遠慮はするな。

「…………」

 自分の心配ばかり書いてあるその文字を、昼間男がしたようにエレンも指先でなぞった。――結局、エレンは男に直接向き合うことが出来ず、花に言葉を添えて託した。男がいる部屋は偶然に入っていく姿を目撃して知っていたのだけれど、その部屋に入っていくことはどうしても出来ず、部屋の前に花を置いて行くという、下手をしたら伝わらない可能性もある手段しか取れなかった。
 でも、それが今のエレンに出来る精一杯だったのだ。
 胸が苦しくなる。そして、同時に温かくもなる。男はどんな気持ちでこれを書いたのだろう。昼間、自分が散々迷って結局一言だけしか書けなかったように、きっと男も散々悩んでこれを書いたような気がしていた。
 男に近付くのは怖い。だけど、近付けるのが嬉しい。
 そんな矛盾を抱えながら、エレンは男からもらったカードをいつまでも眺めていた。



 ――男とのやり取りはその後も続いた。エレンが昼間に摘んできた花に言葉を添えて部屋の前に置き、受け取った男が夜に部屋を訪れ贈り物と共にカードを置いて行く。二人が交わすやり取りは他愛もないものだ。お菓子が美味しかっただの、今日はアルミンと一緒に勉強しただの、些細な日常の報告を少年がすれば、男も最近冷える晩が続いているからあたたかくして寝ろ、とか、今日は上司にこき使われて疲れた、とかそんなことを書いてくる。
 だが、そんな他愛ないやり取りが少年には嬉しかった。

 そして、そんなやり取りのために少年は今日もまた花を摘みに出かけていた。本当なら男のようにもっといいものを渡したかったが、金銭を持たない少年が渡せるものといったら野に咲く花ぐらいしかなかったのだ。
 見つけた一つの花に少年が手を伸ばそうとしたそのとき――。

「その花はダメだよ、エレン」

 制止をかけられて少年が振り返るとハンジがそこに立っていた。

「それはキンポウゲっていって毒を持っているんだ。触らない方がいい」

 言われて慌てて少年が手を引っ込めると、彼女は傍に咲いていた他の花を勧めた。

「ハンジさん、よく知ってましたね。オレ、薬草なんかは父さんに聞いたから少しは判るんですが、花についてはさっぱりです」
「私も人に聞いたから知っているだけだよ。――昔にね、同期だったんだけれど、植物に詳しい子がいたんだ。彼女は植物学者になりたかったんだそうだ」
「植物学者に? でも、同期だったんですよね?」
「そう。でも、内地の植物はおおよそ判っているから、壁外に出て外にしかない植物を採取したい、だから調査兵団に入った、という変わった子だった」
「……それは、確かに変わってますね」
「うん、変わっていた。けど、優しくていい子だったよ。同性の私から見てもすごく綺麗で可愛い子で――だからって、あんな目に遭うなんて思ってなかった。今でもあのときのことを私は許せずにいるよ」
「…………?」

 ハンジの言葉の後半の意味がエレンには判らなかったが、彼女が友人について総て過去形で語っていることには気付いた。おそらく、ハンジに植物のことを教えた同期の女性というのはもう亡くなっているのだろう。調査兵団にいれば命を落とすものがいるのは当たり前だが、どう声をかけたらいいのか判らず困っているエレンに、ハンジは微笑んでみせた。

「……だから、これは代償行為なのかもしれないな。彼女を救えなかった私の」

 仲の良かった少女。理不尽に踏みにじられて自らの命を絶ってしまった――彼女が命を絶つまでハンジは彼女の身に起こったことを知らなかった。知っていれば何か出来ていたのか――それは判らないけれど、あのときの思いは今でも忘れていない。だから、ハンジは二度とそういう行為が起きないように力を尽くしたし、罪を犯した者には厳しく当たっている。少年に彼女を重ねていなかったと言えば嘘になるけれど、少年自身を心配しているのも確かな気持ちで。

「それでも、私は今自分に出来るだけのことはしたいんだ」

 そう言って、ハンジはくしゃくしゃとエレンの髪を撫ぜたが、少年は咄嗟にその手を掴んでそれをやめさせていた。

「エレン?」
「あ、すみません、ええっと嫌だったんじゃなくて――」

 何故、止めてしまったのか自分でも判らない。ただ、何か今脳裏に過って――。
 ――あいつに負けるのは気に食わん。あのクソメガネよりも多く掻き回してやる。
 浮かんだのはそんな言葉。――そう言ったのは誰だっただろう?

「きっと、びっくりしただけです。何でもないですから」

 そう言って花を摘むエレンを複雑な顔で眺めながら、ぽつり、とハンジはエレンに問いかけた。

「エレン……エレンは――その花を渡している人と直接会いたいとは思わないの?」

 その言葉にエレンの肩がびくりと震えた。その様子にまだ無理かな、とハンジは思う。
 だが、悠長に構えてられないというのも本当のことで。壁外遠征の出発は迫っているし、記憶がいつまで経っても戻らないエレンに上層部は焦りを感じているだろう。エレンの記憶の退行を知っているのは兵団の上層部と、彼と行動を共にしていたリヴァイ班の面々、それと暴行現場に駆け付けたアルミンとエレンを診察した医師、とごく限られている。彼の幼馴染みの少女に知らせていないのは、知った彼女が心配の余り何をするか予測出来ないからだったが――彼女がエレンにされたことを知ったらどんな報復行動に出るか判らないとアルミンも言っていた――、審議所での彼女を思い出すとそれは間違っていないように思われる。
 しかし、どんなに秘匿していてもいずれはこのことは洩れてしまうと思う。知られたらエレンを作戦に参加させるのを不安視するものも出るかもしれない。だが、エレンの存在の有益性を証明出来なければ少年は危険視され処分されてしまうだろうし、そもそもこの作戦は彼が壁外に出なければ成立しないのだ。諜報員のあぶり出しにはエレンの存在が不可欠で、最悪、記憶が戻らない少年を壁外に引っ張り出さなければならない。事情が判らないエレンがそれに従うとは思えないし、果たしてどこまで説明すればいいものか。
 エレンの記憶が戻るのが一番だが、記憶を取り戻すにはエレンの心の傷に触れることになるだろう。無理に触れて彼の傷を深めたくはないし、彼を診察した医師も焦らずにゆっくりと様子を見るべきであるし、記憶がいつ戻るかの予測はつかないと言っていた。
 明日かも知れないし、一年後かもしれないし、一生戻らない可能性だってあるのだと。だが、そんなことになってもらっては兵団としては困るのだ。

(ああ、本当にあの男は酷いことしやがって!)

 少年にとっても兵団にとっても害にしかならない真似をしてくれやがって、もっとボコボコにしてやれば良かった、とハンジが同僚の男を心の中で罵っていると、エレンがぽつり、と会いたいです、と呟くように言った。
 一瞬、ハンジはそれが何の事だか判らなかったが、その囁くような小さな言葉が先程のハンジの問いに対する答えなのだと遅れて理解した。

「エレン、それじゃあ――」
「――でも、怖いんです」

 会ってやってくれないか、と言う前に告げられたエレンの言葉にハンジはそれを飲み込んだ。

「会いたいけど、怖い……怖いけど、会いたいんです」

 途方に暮れたような顔をする少年に、ハンジは悪かったね、と謝罪していた。自分達の都合で少年を利用しようとするのなら、それは彼を解剖し処分しようとしていた人間達と変わらない。いや、利用していることに変わりはないのだろうが――そこには少年自身の意志がなくてはならないのだ。
 ハンジの言葉に、エレンはハンジさんが謝ることは何もないですよ、と首を振った。

「もう少し――後、もう少しだけ勇気が持てたら、そのときは会いに行きます」

 名も知らぬ男――そう言えば、やり取りはしていても自分は男の名を未だに知らぬのだ。訊けば周りは教えてくれたかもしれないが、少年は自分自身で彼に訊ねたかった。
 自分にとっての彼、彼にとっての自分――それはいったいどんな存在なのだろうか。






 エレンは毎度のことながら、花を摘み、男の部屋へと向かった。その花には文をしたためた紙はない。今度こそ、男と直接話そうとエレンは決意したのだ。もう少しで部屋に着く――というところで、間が悪いことに部屋から出てくる男を発見した。
 その姿を見てやはり身体が竦んでしまったけれど、ここで機会を逃したらもう決心出来ないような気がして、少年は男に声をかけるべく後を追った。
 だが、間が悪いことは続くらしく、男は少年が声をかける前に向かった先の部屋に入ってしまい、エレンはその扉の前でうろうろと歩きながらどうするか考えていた。部屋から男が出てくるのを待つか、不躾だと判っていても自分も部屋を訪ねるか、それとも出直してまた男の部屋に行くか――最後のは却下だと少年は結論付ける。先程考えた通りに出直したら決心が鈍る気がするからだ。では、待つか訪ねるか――どちらかの選択で迷っていると、中から大きな声が聞こえてきた。

「僕は反対です! まだエレンに知らせるのは早いです!」

 その声にエレンは聞き覚えがあった。そうとてもよく知っている声だ。

(アルミン……?)

 滅多に声を荒らげない幼馴染みのそんな声と、中に含まれていた自分の名前に、思わずエレンは耳を澄ませたが中の声はよく聞こえない。いけないこととは判っていたが、エレンはそっと気付かれないように扉をほんの少しだけ開けた。中に誰がいるのか判らなかったが、自分が入っていけば彼らは話をやめてしまう気がしたし、本能的にこれは聞かなければならない話だとエレンは察知していた。それと同じくらいに聞いてはいけないという警鐘も鳴らしていたが、聞きたいという気持ちの方が勝っていた。

「だが、遠征まで時間がない。悠長に待ってはいられない」

 僅かに開いた扉の隙間から、中の声は聞き辛いが何とか聞き取ることが出来た。どうやら複数人で何やら話し合いをしているようだ。

「彼の有益性が証明出来なければ、処分される。それは君だって判っているだろう、アルミン」
「それは判っています、エルヴィン団長。でも、エレンは自分が記憶を失くしていることも判っていません。遠征に連れていくこと自体に無理があると思います」
「彼の記憶は戻っていなくても兵士として動くには支障はないと聞いているよ。ハンジ、そういう話だったな?」
「それは事実だけどね。試しにやってみた訓練では以前と変わりなく動けていたし、身体は動きを覚えてるみたいだった。……けど、私も今すぐにエレンに話すのは反対だよ。彼は自分で乗り越えようとしている。それを邪魔して欲しくない」
「時間がない。君にも判っているはずだ、ハンジ」
「……………」
「……あいつには誰が話すつもりだ?」
「君では無理なのは確かだな。アルミン、君が適任だと思っている」

 アルミンが息を呑んだのが伝わって来た。

「幼馴染みである君の言葉なら彼も信じるだろう。壁が壊されシガンシナ区が壊滅し、ウォール・マリアが陥落したことを伝えて欲しい」
「彼の母が亡くなったことを伝えろと……?」
「そこは誤魔化しても構わない。ただ、彼が記憶障害で自分が兵士になったことを忘れていることと、今回の壁外調査に彼が参加することには納得してもらわなければならない」

 それからの会話はまだ続いていたようだが、エレンの頭は真っ白だった。

(記憶障害? オレが兵士? ウォール・マリアが陥落して、母さんが死んだ? 母さんが死んだ……母さんが……)

 それだけが頭の中をぐるぐると回っている。ふらふらと歩き出した自分に気付かないままエレンの足は厩舎へと向かっていた。
 辿り着いた厩舎では一頭の馬がエレンを喜んで迎えてくれていた。わけも判らずに馬の世話もさせられていたのだが、あの話が正しいとなると自分は調査兵団の兵士でこれは自分に与えられた馬になる。

(いや、違う、あんな話が本当のわけがない。母さんが死んだなんて嘘に決まっている)

 だが、おかしいと思っていたのも事実だ。何故、自分が調査兵団にいたのか。ここにやって来たという記憶がないのは何故か――それは病気のせいだと言っていたけれど、身体が勝手に急成長する奇病なんて聞いたことがない。記憶を失くす病気があるのは知っているし、そちらの方が納得がいくのは確かだった。

(確かめなきゃ……)

 本当にウォール・マリアが陥落したというのなら行ってみれば判る。近くの街に行くか壁に向かって進めばいい。徒歩ならば難しいかもしれないが、馬があれば壁に行くことは出来るはずだ。

(行かなくちゃ……)

 エレンは馬を厩舎から出すと、その背に乗り、駆け出していた。誰かの呼び止める声が聞こえたが、気にならなかった。早く早く確かめなくては――それだけが心を占めていた。



「リヴァイ兵長、エルヴィン団長、大変です!」

 慌てた様子でペトラが駆け込んできたのはエレンが馬に乗って去ってからすぐのことだった。

「エレンが脱走した? どういうことなんだね?」
「判りません。ただ、馬に乗って出ていったと――周りには特別な用を命じられて出ているだけだと言いましたが、早く連れ戻さないと不審に思うものが出てくると思います」

 エルヴィンに訊ねられ、ペトラは早口でことの詳細を述べた。ふらりと厩舎にやって来た少年が自分の馬を出して何やら急いだ様子で出かけていくのを目撃したものがいるらしい。いったい、彼に何があったのか―――。

「俺が後を追う」
「リヴァイ、君では――」
「エレンの事情を知ってるものは限られている。それにあいつが万が一巨人化したとき、止められるのは俺だけだ」

 そう言われてしまえば返す言葉はない。承認を取ったリヴァイが部屋を出ると、通路に小さな花束が落ちているのが眼に入った。

(これは――エレンが届けてくれていた)

 拾い上げてみれば、メッセージはついてなかったが、少年が花を束ねるときの独特の癖が見られた。まず、少年が摘んできたものに間違いないだろう。何故、これがここに落ちているのか――それは少年がここに来て落としたからに他ならないだろうが、届けるつもりで持っていたものを落としたのに気付かず、そのまま放置するなんてことがあるだろうか。そして、更に彼が急いで馬に乗って出かけていったという事実と合わせて考えると――。

(聞かれたのか?)

 あの部屋で話されていた内容を少年が知ったのなら、その行動に納得がいく。おそらく少年は耳にした話が信じられず、自分の眼で確かめに行ったのに違いない。ならば、彼は街か壁に向かったはずだ。
 エレンの立場は微妙だ。ここから逃げ出したと思われれば、憲兵団が身柄の引き渡しを要求しかねない。早く連れ戻さなければ。
 リヴァイは急いで後を追うために自分も厩舎へと向かった。




 とにかく急いで、急いで――それだけしか頭になかった少年は、一つ重大なことを見落としていた。街を目指そうと出てきたはいいが、自分はこの場所の詳しい位置を知らないのだ。ウォール・ローゼ内の古城を改装した施設で、街や壁とは離れているとは聞いていたが、もっと詳しい位置を聞いておけば良かった、と少年は思った。それに、衝動的に出てきてしまったので何の準備もしていない。だが、もう今更戻ることは出来ないし、一定方向に進めばどこかで街か壁にぶち当たるだろう。

(進むなら南かな……)

 南は巨人に襲われることが多いため危険は伴うが、気候が良くて住みやすく、作物の実りもいいので街は南側が発達していることが多い。北側は北側で巨人に狙われることが少ないから住みたがるものも少なくないが、エレンは南に向かって進むことに決めた。
 が、そうは決めたものの、こちらが本当に南なのか自信が今一つない。

(でも、とにかく、急がなきゃ――)

 そう逸る心のままに馬を走らせるエレンの耳に、馬の嘶きが聞こえてきた。

「エレン、待て!」

 呼ばれて反射的に振り返ってしまった少年の眼に飛び込んできたのは、エレンが会いたいと思いながら会うのが怖くて会えずにいたあの男だった。
 エレンはすぐに前に向き直って馬を更に急がせた――男が自分を追って来たのは明らかだったが、ここで捕まるわけにはいかなかった。壁が壊されて母が死んだなんて話は、自分の眼で確かめなければ信じることが出来ない――いや、本当は信じたくなくて逃げているのかもしれない。けれど、馬を進めるのを止めることは出来なかった。

「行くな、エレン! ……頼むから、行くな!」

 まるで懇願するような男の声にエレンは泣きそうになった。違う、この声は聞いてはいけない。求めてはいけない。だって、男は違うのだから。

(違う? 何が違う? あの人はオレの――)

 頭が混乱する。思考能力が鈍っていく頭とは別に身体は切り離されたように手綱を捌いて馬を進めていく。対する男の手綱さばきは見事としか言い様がなく、少年との距離を確実に縮めてきていた。捕まる――そう思った少年が更に馬を勢いよく進めたとき。

「エレン、ダメだ! その先へは進むな!」

 男の声が響いたが、止まれと言われて止まる人間などはいない。だが、ここで少年は馬を止めなければならなかったのだ。

「…………!?」

 制止に構わず走り抜けようとしていたエレンが男の言葉の意味を悟ったときには遅かった。すぐ先には地面がなかった――崖だ。いつの間にか林の中に入っていたようで、見通しが悪かったことも原因だが、男に気を取られて、気付くのが遅れた。

「くっ……!」

 馬は貴重な財産だ、ここで失うわけにはいかない。何とか手綱を操って、崖下への落下を避けようと試みたエレンは馬を落とさないことには成功した――が、さすがに大人しい馬でも驚いたらしく激しく暴れ、少年は振り払われて身体が宙に浮いた。

(―――叩きつけられる!)

 せめて頭部は守ろうと少年は頭を抱えたが、それは現実とはならなかった。地面と激突する前に伸びてきた腕が少年を抱え、地面ギリギリのところを滑るように移動し、勢いを殺した後、とさりと優しく下に落としたからだ。
 ひゅんっというアンカーの抜ける音が耳に届いた。どうやら、男が馬上で立体起動装置を動かし、地面に叩きつけられる寸前の少年を受け止め、そのまま滑るように着地したらしい。馬上で立体起動装置を操るのは非常に難しく、それを軽々とやってのけ少年を救ったこの男には相当の腕があるのだろう。
 見ると、暴れていた馬は何事もなかったように落ち着いて、男の乗って来た馬とともに呑気に草を食んでいた。

「エレン、良かった……」

 耳元で囁かれ、ようやっと思考能力を取り戻した少年は男に抱き締められながら、地面に寝かされているという状況に硬直した。嫌だ、と叫ぼうとした瞬間、その声が耳に届いた。

「好きだ」
「…………っ!?」
「二度と言わないし、触れない。だから、今だけ抱き締めさせてくれ」

 どくん、どくん、と男の早い鼓動が伝わってくる。
 ぎゅうっと強く抱き締められて、少年の脳裏で何かが弾けた。

「嘘だ……」

 呆然とした表情で呟いたエレンは、そのまま、どんっと男の胸を叩いた。

「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! そんなの嘘だ! 絶対に嘘だ!」
「エレン?」

 どんどんっ、とエレンは男の胸を叩き続ける。その瞳からはぼろぼろと涙が零れていた。

「兵長がオレを好きなんて嘘だ! そんなの信じない!」
「――――!? エレン、お前記憶が……」
「放せよ! あんたなんか、最低だ!」

 だが、これが最後だと思っているのか、男は躊躇いを見せながらも少年を腕から放そうとはしなかった。

「――判ってる。すまなかった、エレン」
「謝ってなんか欲しくない! オレは、オレは、ただ――」

 欲しかったのは謝罪の言葉ではない。自分はただ―――。

「兵長の傍は居心地が良かったから、あったかくて安心出来たから――ずっと一緒にいたいとか、そんなバカなこと考えた。あんたにはただの性処理の代償でもオレにはそれが大事だったんだ!」

 優しくて、心地好いぬくもり――男とともに過ごす時間は安らげる少年にとってとても大事なものだったのだ。
 だが、今更だ。何をどうしたところで取り戻せるものではないのに。
 自嘲気味な笑みを浮かべていたエレンは、ふと、男が無言になっているのに気付いて見やると男は硬直していた。

「兵長?」
「……エレン、お前よ、今性処理とか何とか言ってなかったか?」
「はい、言いました」

 鬼気迫る、と言った表情で訊ねられ、エレンは思わず敬語に戻って答えていた。

「お前、ひょっとして、俺がお前に構っていたのは、夜の相手をさせるためだと思ってたのか」
「? そうでしょう?」

 ビシッと額に衝撃が走ってエレンは呻いた。どうやら男にデコピンを食らわされたらしい。

「お前な、何でそんな発想になるんだ! 言っておくがな、俺はモテるんだ! そんな真似しなくても相手なんか探せばいるに決まってんだろうが!」
「何ですか、それ!? 自慢ですか、じゃあ、何だってあんな真似したっていうんですか!」
「本気で惚れたからに決まっているだろうが、クソガキ!」

 怒鳴るように告白されて、エレンはぽかんとしてしまった。
 男は違う、理性飛ばした俺が悪い、と呟いて、そっと少年の頭を撫ぜた。久し振りに与えられたぬくもりが心地好くて、エレンは自分が泣きたくなる程これを求めていたのだと今更ながらに実感した。

「お前が好きだ、エレン」

 再び言われた言葉に、エレンは今度はゆっくりと頷いた。



 馬上で揺られながら、エレンはぽつり、と呟くように男に告げた。

「兵長、オレ、好きとか愛とか、恋愛感情はよく判らないです」
「……そうか」

 何故か、一頭の馬に二人で乗って揺られていた。もう一頭はつないで引いているのだが、大人しく付いてきている。少年は落馬しそうにはなったが、結局それは免れて怪我もしていないので別々に乗ろうとしたのだが、男に一緒に乗るぞ、と押し切られてしまったのだ。

「兵長に抱き締めてもらったり、撫ぜてもらうのは好きです。キ、キスも嫌じゃなかったです。……でも、その先は怖いです」

 男が絶対に少年には手を出さないと誓ったからこうしていられるが、まだ触れられることに少し緊張してしまう。あの夜の記憶はまだ深く少年に傷痕を残していた。

「あれはもう、したくないです。……オレ、もう一生出来ないかもしれません。だから、兵長―――」
「なら、俺も一生しねぇ」

 自分よりも相応しい人がいるのでは、と続けようとした少年に男はあっさりとそんなことを言う。

「俺はもうお前しか抱きたくねぇし、他の奴じゃ役に立たないと思う」
「だ………っ!」

 あからさまなことを言われて少年は羞恥で真っ赤になった。抱きたいとか、そういうことを言われても困ってしまう。未だにあれは怖いという気持ちにしかなれないのだから。

「それに、お前は俺が他の奴を抱き締めてもいいのか?」
「それは―――」

 男が自分以外の誰かを抱き締めて頭を撫ぜて口付けを交わす――それは男に恋人がいるのなら当たり前のことだろう。自分がとやかく言える問題ではない。

「オレでは、兵長の相手は出来ませんし……兵長がしたいなら、オレが言うことじゃ――」
「俺が訊いたのはいいのか、嫌なのかだ。エレン」
「…………」
「エレン」
「……嫌、です……」

 泣きそうな顔でエレンはそう言った。自分は何てわがままで欲張りなんだと少年は思う。男の希望は叶えてやれないのに、自分の望みは伝えるなんて。
 だが、男はそれに満足したようにぎゅっと後ろから少年を抱き締めた。

「ああ、今はそれだけでいい」

 本当にいいのだろうか、と少年は思う。この心地好いぬくもりを手放さなくても自分はいいのだろうか。

「お前、俺のことが実は好きだろう?」

 場を和ませるためにか、からかうように言った男にあっさりとエレンは言った。

「はい。好きです」
「…………」
「兵長?」

 頭を押さえて項垂れる男にエレンは具合が悪いんですか、と訊ねたが、男は首を横に振った。

「ああ、そうだな。全面的に俺が悪い。あのとき、我慢出来なかった自分を殴り飛ばしてやりてぇ」
「?」


 きょとんとしている少年の頬を一撫でして男は焦るつもりはねぇから安心しろ、とだけ言った。

「まあ、取りあえず、もうあのクソメガネにはボコられないようにする」
「ハンジさんが?」
「ああ、あいつの蹴りは結構くるぞ」
「兵長の蹴りとどっちが痛いですかね?」
「……………」
「あ、別に躾のこと根に持ってるとかじゃないですからね! ただ、純粋な好奇心ですから!」
「……いや、お前が天然なのはもう充分に判ったから、大丈夫だ」

 でも、ちょっと傷付いたから抱き締めさせろ、と男はぎゅうっと少年を抱き締めてきた。馬の上では危ないですよ、と注意しても男はやめないのでエレンは黙ってされるままになった。
 とくんとくん、と伝わってくる鼓動と体温。
 その心地好さに少年はゆっくりと眼を閉じた。





≪完≫




2013.10.16up




 ようやく完結しました。ちょっと中途半端な感じですが、これで終わりです。兵長をボコるハンジさんとエレンを抱き締めて好きだと言う兵長を書きたかったのですが、何だか兵長のキャラがヘタレというか違ってしまったような……(汗)。エレンの天然はうちの仕様なのでもう仕方ないですが。ここまで読んでくださってありがとうございました。



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