小さな子供が泣いていた。眼が溶けるのではないかと思う程の大粒の涙をぼろぼろと零し、泣き続けるその様子は見ていて痛々しくなる程だった。

 ――そんなに泣くな、お前は笑った顔が一番可愛いんだぞ?

 子供の眼の前に立っている若者が困り果てたようにそう言ったが、子供は嫌々をするように首を振って相手の服の裾をぎゅうっと掴んだ。まるで、その手を離したら死んでしまうとばかりに強く握り締めてくる子供に、相手は微笑んで子供の視線に合わせるように屈みこんだ。

 ――なあ、泣くな。また会えるから。

 そう言って、宥めるように頭を撫ぜてくる。優しく頭を撫ぜるその手が子供は大好きだった。その人が大好きで大好きで――なのに、別れなければならない。この人は遠くに行くのだと、そう教えられた。子供が会いに行くことが出来ないくらい遠い場所に行ってしまうのだという。それが哀しくて、哀しすぎて子供は泣き続けた。

 ――いつかきっとまた会える。だから、泣くな、エレン。

 あたたかくて大好きだったその人の手。――あれは誰だっただろう?



 聞き覚えのあるメロディと振動音にエレンは眼を覚ました。いつも通りの朝の時刻、タイマーをセットしていた携帯電話を緩慢な動きで止め、ベッドの上で上半身を起こした。

「…………」

 起き抜けのぼーっとした頭では思考が上手く働いてくれない。今しがた夢を見ていたような気がするが、何の夢だっただろう。

(何か、ガキの頃の夢だったような……誰かと一緒にいた?)

 誰だったのか思い出そうと試みたが、その姿はどうしても明確な形にはなってくれない。何だかとても懐かしい人だった気がするが、どんな人なのか覚えていなかった。

(まあ、夢だし、思い出せなくても仕方ないか)

 それよりも朝の支度だ、と少年はベッドから下りた。朝の時間というものは物凄く貴重なものなのだ。後、五分早く家を出ていたら、という経験は誰しもがすることだろう。特に優等生のエレン君には遅刻は絶対に許されないことだった。

(だらだらしている時間はねぇ。急がないと)

 エレンはそう心の中で呟くと、顔を洗いに洗面所まで早足で向かった。




ナイトウォーカー




「先生、これは?」

 手にしたファイルを見せると、それはあそこだ、と男は指で示してみせた。エレンはその指示通りにファイルを並べていく。この部屋はリヴァイが赴任してからきちんと整理整頓され、見違える程綺麗になったと思う。物理準備室に入る機会など余りなかったエレンだったが、以前は雑然としていて一体いつ掃除したのか、という有り様だったから、今では元の部屋が想像出来ない。
 よし、これで終わり、と最後のファイルを棚に押し込めたとき、ふうっと熱い息が耳に吹きかけられ、ぬるりとしたものが耳朶を這った。ぞわり、とした感覚が背筋を走り、ぎょっとしてエレンが身を翻す前にかしりとやわらかくそこを甘噛みされた。

「うぎゃ……っ!」
「お前、そこはもっと可愛い声を上げるところだろう?」

 耳元で囁かれ、今度こそエレンはばっと身を離し、にやりとした顔でこちらを見つめてくる物理教師を睨みつけた。

「セクハラ、反対! ダメ、絶対!」
「口寂しいんだよ。誰かのおかげで煙草の量を減らされたからな」

 濡れた耳元を押さえて抗議する少年に男はしれっとした顔でそう告げた。確かに自分といるときは煙草を控えろと言ったのは事実であるし、男も宣言通りに本数は減らしてくれたようだが――やはり、禁煙するという選択肢は彼にはなかったようだ――、それがセクハラを受けてもいいという話にはならない。

「先生、いつか教育委員会に訴えられますよ?」
「お前が訴えなきゃ大丈夫だ。お前以外にはこんなことはしていないからな」
「…………え?」

 抗議の言葉にそんな台詞を返されぽかんとする少年に、大体、今の親はうるさくて敵わん、と男は続けた。

「小学校とかもっと酷いらしいぞ。女子生徒の頭を撫でたり軽く肩を叩いたりしただけでセクハラだとか猥褻目的に違いないとか色々言われるらしいからな」
「だからって、オレにしないでくださいよ」
「お前だからするんだろうが」
「…………」

 それはどういう意味なのだろうか。エレンには男の意図が掴めない。男のマンションに連れていかれてからというもの、リヴァイは本当にエレンを物理準備室に呼んで雑用を言いつけるようになった――いや、以前から何かと用事を言いつけられているので余り変わってはいない気もしているが。男にはもう素がバレているので僕ではなく、オレで話すことにしたが、一応丁寧な言葉で話している。目上の人には敬語をというのはもう抜けない癖だ。

「ほら、ご褒美」

 そう言って渡されたのはあたたかな湯気を立てる紅茶で。エレンはカップを受け取ってそれを口に運んだ。

「先生、この部屋私物化していませんか……?」

 何故、ここに電気ケトルやカップなどが常備されているのであろうか。学校の備品とは思えないからこの物理教師が私物を持ち込んだのに違いない。

「細かいことは気にするな。誰がいつ淹れたか判らない茶とか飲みたくないだろうが」
「…………」

 この男には何を言っても無駄だろうと、エレンが溜息を吐いたとき、男が今日の晩飯はどうする?と訊ねてきた。

「先生は何がいいんですか?」
「チーズインハンバーグ」
「……毎回、思いますが、子供みたいなメニューをリクエストしますよね、先生」
「お前、好きだろう?」
「……好きですけど」

 エレンは基本自炊している。いつも持ってきている弁当も自分で作ったものだ。忙しい父親に弁当や食事を作らせるのは負担になるだろうと考え、いつからか率先してエレンは家事をするようになった。小学校時の経験から、母親がいないからきちんとした食事も摂れていない、などと言われるのは我慢ならなかったので、意地になっていた部分もある。幸い、家事は自分の性に合っていたようで特に苦にはならなかった。
 だが、折角覚えた料理の腕も父親に披露する機会はそれ程多くはない。仕事が忙しい父親と一緒に食事をすることはどうしても少なくなり、エレンは一人で夕食を食べることが多かった。
 そのような話をこの物理教師にしたところ、どういうわけか男の家で食事を作り、一緒に食べるという話になってしまったのだ。一人分作るのも二人分作るのも大した手間ではないが――むしろ、経済的には良いのかもしれないが、どうしてこうなったのか未だによく判らない。断るという選択肢は用意されていなかったので、諦めてエレンは男に何が食べたいのか訊ねてみたのだ。どうせ作るのなら旨いと男に言わせてやる、と思ったのと、食物アレルギーやどうしても食べられないものがあるのなら、最初に確認しておかなければならなかったからだ。
 男にはアレルギーはないとのことで、更に特に苦手なものはない、という回答が得られた。そして、男がリクエストしたのは意外にも、エビマカロニグラタン、オムライス、ハンバーグ、クリームシチューなど、子供が喜びそうなメニューばかりだったのだ。男くらいの年齢になれば――とはいっても男はまだ三十になるかならないかくらいだが――和食をリクエストされるのかとばかり思っていた。
 正直にそう言ったら、お前、そういうの好きだろう、と笑われた。――確かにエレンはそういった子供向けのメニューが好きではあった。まだ母親が存命していた時分によく作ってくれた料理で、小さい頃はそれが好物だったのだ。味覚は大人になれば変わっていくものだが、高校生になった今でも好きな料理である。
 男にはそんなに自分は子供っぽく見られているのか、とむっとしてしまったが、作り慣れている得意料理でもあったのでエレンは了承したのだった。

「そういうものばっかり食べていると、コレストロール値が上がりますよ」
「まだ気にする年じゃねぇよ」
「そう油断していると、成人病予備軍になりますよ。糖尿病とか、高血圧とか、肥満とか。先生の場合、肺癌のリスクも――」

 そう言うエレンの頭に拳が落とされた。

「誰が糖尿でメタボで癌で早死にするんだ。俺の検査値は全部正常だ」

 春先に行われた健康診断でオールクリアしたという男に、頭を押さえながら、そうですね、と少年は呟いた。

「憎まれっ子世にはばかるって言いますしね……先生はきっと長生きしますよね」
「……何か言ったか?」

 蹴りの体勢に入った男にエレンは慌ててぶんぶんと首を横に振った。

「イエ、ナンデモアリマセン」
「何で、片言なんだ。……それ飲み終わったら、先帰ってろ」

 そう言って、男は机に向かった。何やらまだやることがあるらしい。エレンはカップの紅茶を飲み干すと、ご馳走様でした、と男に礼を言った。

「あの、先生」
「何だ?」

 物理準備室の扉に手をかけながら、エレンは男に小さく声をかけた。

「……チーズインハンバーグ、楽しみにしていてくださいね。オレ、結構得意なので、頑張って作りますから」

 ――学校の教師というものが何かと忙しいというのはエレンも知っている。最近はとんでもない要求をしてくる親も多いというし、男だって多くの雑務を抱えているだろう。
 だが、そんな忙しい中、時間を割いて男はエレンの相手をしているのだ。雑用を押し付けはするけれど、男は余り遅くならない時間にこうしてエレンを帰宅させる。遅くなった場合は何だかんだと言いながら、エレンを家まで送っていくのだ。横暴な態度でエレンに接するくせに、そういった気遣いをさり気なく見せるから、どうしたらいいのか判らなくなって困ってしまう。きっと、エレンの感情の揺れなど男には判らないだろうけれど――いや、あるいは男なら判っているのかもしれない。

「ああ。楽しみにしている」

 そう背中越しにかけられた声を聞きながら、エレンは学校を後にしたのだった。



「先生、おかえりなさい」
「ただいま。メシは?」
「出来てます。すぐに夕食にしますか?」

 男の自宅マンションで出迎えた自分にそう声をかけてきた男に対する返事が新妻っぽくってエレンは内心で苦笑した。あっさりと合鍵を渡してきた男にも驚いたが、こうして男を出迎えている自分もどうだろうと思う。鍵を持っているのだから勝手に入ってくればいいのに、と思うが、エレンが先に自宅にいるときは男はエレンに出迎えをさせたがる。理由を訊いたらその方が新婚さんっぽくっていいだろう、という意味不明な回答がされてしまった。

「エレン」

 そう言って男がすっと自分の顔に手を伸ばしてきたので、エレンは反射的に眼をつむった。男の長い指先が頬を滑り、そっと耳に這わされ、かけられていたそれを外していった。

「この家では外せって言ってるだろうが。どうせ、度が入ってないんだろう?」

 男の手にはエレンが今までかけていた眼鏡があった。そのまま畳んで男は自分の胸ポケットに入れてしまう。

「……もうずっとかけていますから、忘れるんですよ、外すの」
「お前のその金色の瞳を直に見られないのは嫌だから、俺の前では気をつけろ」
「…………」

 頬を赤く染めてしゃべらない少年の様子に男は訝しげな顔をして――それからにやりと笑った。

「もしかして、キスされるのかと思ったのか?」
「―――!? 違いますっ!」

 真っ赤な顔で否定されても信憑性はない。リヴァイはそうか、と言いながらエレンの頬に手を添えた。

「そんなに期待されたら応えるのが道理だろうな」
「期待してません!」
「遠慮するな」
「遠慮なんかしてません! 間に合ってますから!」

 エレンの言葉など気にも留めていない様子で男はその身体を引き寄せた。前のめりに傾いた身体で少年が咄嗟に眼をつむると、柔らかな感触が額に落とされ、やがて離れていった。

「…………」
「ほら、してやったぞ。――ああ、もしかして唇にして欲しかったのか?」

 からかうような声音で言いながら指先で男は少年の唇をなぞった。以前に触られたときと同じくその指先の動きはひどく官能的で、ぞくっとした痺れが背筋を走ったが、それを堪えてばっと身を離し、少年は違います、と大きな声で否定した。

「して欲しくなったら言えよ。腰が抜ける程熱烈なのをしてやるからな」
「――して欲しくありませんし、言うことなんて絶対にないです!」
「判った、判った」
「判ってませんよね? 絶対に判ってませんよね?」

 楽しそうにくつくつと笑いながら着替えに向かった男を、エレンは額を押さえながら真っ赤な顔で見送ったのだった。



 その日作ったハンバーグは自分でも会心の作だったとエレンは思った。野菜をたっぷり入れたスープも作って栄養のバランスも考えたし、旨いと男も誉めてくれた。意外だったが、男はエレンがしたことに対して誉める言葉は惜しまなかった。そういえば、授業のときも難問を解いたものには「よく出来たな」と誉めることは忘れなかったし、誉めて伸ばす方針なのかもしれない。――逆にけなすときもきっちりけなされるのだが。この物理教師は飴と鞭の使い方が絶妙なのだと、彼を知る人は皆そう思っている。

「エレン、お前、次の休みは暇か?」
「暇っていうか……特に予定はないですけど」

 食事が終わった頃にリヴァイがそう訊ねてきたのでエレンは正直に答えた。次の休みは何も約束もしていないし、するとしたら自宅の掃除くらいだろうか。

「なら、よかった。メシを作ってもらっている礼にどこかに連れて行ってやる」

 その言葉にエレンはぽかんとしてしまった。そんなことを言われるとは思っていなかったからだ。

「何だ。予定でも思い出したか?」
「いえ――ないですけど。大丈夫なんですか?」
「何がだ?」
「えーと、特定の生徒と休日に出かけるってバレたら学校の方から何か言われたりしないのかと。個人的に贔屓してるとか……」

 これが個人ではなく大勢でとか、遊びではなくどこかに見学に行くとかなら、指導とか引率のためなどと言い訳も出来るかもしれないが、休日に生徒の一人と一緒にどこかへ遊びに行くとなると、絶対に問題視されると思う。女生徒ではない分いくらかマシかもしれないが、学校側にバレたら注意されるのは間違いないだろう。

「そんなもの、黙っていればいいだけの話だ。バレなきゃ問題にならん」
「…………」

 いいのか、仮にも教師がそれでいいのか、と突っ込みたくなったがこの男に言ってもそれは通じないだろう。もしも、誰かに目撃されたとしても平然と人違いです、で押し通すような気がする。そもそも、そんなことを気にするようならエレンをこうして自宅に出入りさせないだろう。

「で、どこか行きたいところはないのか?」

 続けて男に言われて、エレンはふっと頭に浮かんだ場所を口に出していた。

「……水族館」
「水族館か。判った」
「あ――いえ、いいです。他の所で」

 咄嗟に口をついて出てしまったが、男二人で仲良く水族館はない気がする、とエレンは思った。大人数で遊びに行くならまだしも、二人きりで水族館となると、まるでデートに行くみたいではないか。

(デートって、ないから! ないないない!)

 自分の想像に勝手に赤くなる少年に、いや、水族館でいい、と男は告げた。

「じゃあ、あそこだな」

 そうして告げられた水族館の名前にエレンは眼を見開いた。――そこは、エレンが幼い頃に出かけたことのある場所だったからだ。まだ母が生きていた頃の話だ。
 水族館は母親が好きで、父親の仕事の都合がつくと親子でよく出かけたものだ。先程、男に訊ねられて思わず口をついて出てしまったのも、その思い出があったからだ。

「楽しみだな」
「……はい」

 出かけないという選択肢はないらしい。そして何だかんだと言いつつも――エレンも次の休みを待ち遠しく思ったのだった。





 次の休みは行楽日和と呼べる快晴であった。待ち合わせの場所に着くと男はすでに来ていたようだ。
 遅刻はしていないが、一応お待たせしました、と頭を下げたエレンに、ううん今来たとこーと声色を使って男は返した。思わず白い目で見てしまうと、男にお前、ノリが悪いぞ、と肩を竦められてしまった。

「先生の年でそれは気持ち悪いですよ」
「お前のキャラ作りに合わせてやったんだが?」
「オレはそんなキャラじゃないです!」

 一体、男の中では自分はどんなキャラ認識がされているのであろうか。溜息を吐いていると、男に進むように促された。

「じゃあ、行くか」
「はい」

 眼鏡をかけていかなかったのは正解だったらしく、男から頭を撫ぜられた。セットが乱れるじゃないですか、と言ったが実は男に撫ぜられるのは嫌いではなかった。他の相手なら嫌がったと思うのだが――男の手はあたたかくて優しくて、どこか懐かしい気がする。その手に撫ぜられるのは心地好いと少年は感じていた。
 目的の水族館は休日ということもあってそれなりに混んでいた。長期休暇や連休ではないだけまだ良かったが、気をつけていないとはぐれそうだ。男に迷子にはなるなよ、とからかうように言われて、そんなに子供じゃありません、と言い返したが、過去に迷子になった経験のあるエレンには強く言えない。子供の頃の話であるし、今は携帯電話ですぐ連絡を取れるが、男にからかわれないように気をつけようとエレンは決意した。
 チケットを買って中に入ると――エレンは自分の分は出したがったが、男はそれをきっぱりと断った――そこは別世界だった。水槽の中を回遊する魚達は見る人を現実世界から切り離してくれるらしい。母親は色鮮やかな熱帯魚達を見るのが好きだったが、自分はどちらかというと大型魚が遊泳するのを見る方が好きだった。

「イルカのショーにはまだ時間があるな。ペンギン見るか」

 魚達を眺めて通路を進んでいると、イルカショーの時間を確かめていたリヴァイがそんなことを言ってきたので、エレンはぽかんとしてしまった。

「何だ?」
「いや、何でイルカとペンギンなのかなって」
「好きだろう?」
「……好きですけど」

 この二つは幼い頃へばりつくようにして見ていたものだ。だが、男に言った覚えはないし、どうして知っているのだろうか。誰かに訊いたのか――いや、知っているのは母親が亡き今、父親と幼馴染みの親友くらいのものだが、彼らからそんな話を訊いたとは思えない。訊ねてみれば好きそうに見えるとだけ返され、エレンは疑問に思いつつも自分を納得させるしかなかった。

(何かもう先生なら、副業で探偵やってるとか、裏組織と繋がりがあるとか言われても驚かないが)

 知らないところで自分の情報が売られてたりしたら嫌だなと思いつつ――無論、リヴァイが買っているとか本気で思っているわけではないが――辿り着いた水槽ではペンギンが泳いでいた。ペンギンと聞いて思い浮かべるのはコウテイペンギンやキングペンギンだろうが、エレンが好きなのはシュレーターペンギンだった。別名マユダチペンギンとも言って、幼い頃エレンは髪が生えてるのだと本気で思っていた――正しくは冠羽と呼ばれるものなのだが。
 金色の髪を持つペンギン――そう言えば、昔から金髪や明るい髪のキャラクターが好きだった。夜の街に出かけるときにカラースプレーで髪を明るい色に変えたのもそれが少なからず影響している。

 ――ね、……とおんなじ!
 ――バカ抜かせ。俺はあんなとさかじゃねぇよ。
 ――キラキラしてきれい。きんいろ。
 ――……人の話は聞け。クソガキ。

 ふっと、甦ってきた記憶にエレンは思わず固まった。――今のは何だろう。

(この水族館、家族以外の誰かと一緒に来たことがある……?)

 考え付くのは幼馴染みで親友のアルミンくらいだが、彼は違う。もっと、年上で――でも、大人という程上ではない。もう少し若くて、よく一緒に遊んでくれた――。

「……ン。オイ、エレン、どうした?」

 ぽん、と肩を叩かれ、飛び上がる程驚いてしまったエレンは勢いよく振り返った。そこにいたのは自分とともにここに来た男で、驚いたこちらの様子に向こうも表情には出さないながらも驚いているようだった。

「そろそろ、ショーの時間だから行くぞ」
「あ、はい」

 どうやらぼーっと考え事をしていた間に、イルカのショーの時間が近付いていたらしい。男に促され、慌てて歩き出そうとした少年は足がもつれ、その場に転びそうになった。それに気付いた男が咄嗟に支えたので転倒は免れたが、前のめりに抱き付くような格好になり、男に思い切り頭突きを食らわせる結果となった。自分で言うのも何だが、ゴン、といういい音がしたと少年は思う。

「――――っ」
「す、すみませ……」

 エレンは涙目で謝罪した。自分の頭も痛いが、男だって痛かったに違いない。どうやら額にぶつかったらしく、そこがうっすらと赤らんでいる。

「本当にすみませんっ! あ、ほら、痛いの、痛いの、飛んでけ〜」

 痛そうな額に手をやり、言ってしまってからエレンは固まってしまった。自分は今、何をしたのか。この年になって、相手が子供ならともかく大の大人相手にそのおまじないはないだろう、と思う。エレンが小さい頃に母がよくやってくれていたもので、幼い頃はよく使っていたおまじないだが、母親が他界してからは使うようなことはなかった。
 だが、幼い頃の刷り込みとでもいうのか、すっかり忘れていたのに咄嗟のことでそれが出てしまったらしい。
 頭突きした上におまじないの羞恥プレイってどんだけなんだよ、と心の中で叫びながら怒っているであろう男を見ると――何と、彼は笑っていた。堪え切れないとでもいうように肩が震えている。

「あの、先生……?」
「……本当、そういうとこは変わってないんだな、お前は……」
「え?」
「イヤ、何でもねぇ。それより、どうせなら舐めてくれた方が効き目があると思うがな」
「な……な、舐めるって…」
「お前、今、変な想像しただろう?」
「してません!」

 ムキになるのがあやしいんだぞ、とからかうように言う男はどうやら怒ってはいないようだ。それにホッとしたエレンだったが、先程何か男は呟いていたような気がする。よく聞こえなかったのだが、何だったのだろうか。

「ほら、急がないとショーが始まっちまうぞ」
「あ、はい」

 腑に落ちないながらも少年はショーを見に行き、眺めているうちにその追求をすっかり忘れてしまったのだった。



 ショーを見終わった二人はお土産のコーナーにやって来ていた。特に買いたいものなどなかったが、何とはなしに眺めていると、いつの間にか会計を済ませていた男がひょいっとエレンに手にしていたものを差し出した。

「………先生、何ですか、これ」
「イルカのぬいぐるみ――いや、抱きぐるみというやつか?」
「イヤ、それは見れば判ります。訊いているのは何でそれをオレに渡すのかってことです」

 咄嗟に受け取ってしまったが、抱き枕としても使えるように作られたのか大きなぬいぐるみは持って歩くには邪魔なサイズだ。男はもう会計を済ませたようだが、これをどうしろというのか。

「お前にやる」
「は?」
「俺が遅いときはそれを代わりにしろ」
「いやいやいや、意味が判りませんって」
「寂しくなったら抱き締めろって言っているんだが? あ、言っておくが俺は抱かれるんじゃなくて抱く方だからな」
「誰もそんなこと訊いてませんよ! ……というか、これ結構するんじゃないんですか?」
「俺がお前に今日の記念に何かやりたかっただけだから気にするな」
「…………」

 そういう言い方をするのはずるい、とエレンは思う。そんなことを言われたら断れないではないか。

「……今日は電車ですよね、先生」
「そうだな」

 リヴァイは自家用車を持っているが、本日は待ち合わせをした方がデートっぽいだろう、ということで――何がデートなんですか、という突っ込みは男に見事にスルーされた――駅前で待ち合わせをし、そのまま電車でここまで来ていた。よって、帰りも電車に乗らなければならない。

「これ持って乗るの物凄い羞恥プレイじゃないですか」
「安心しろ。他人の振りをしてやるから」
「何が安心なのか判らないんですが……」

 溜息を吐きつつエレンはそのつぶらな瞳のイルカのぬいぐるみを見つめた。まさか、この年になってこんな大きなぬいぐるみをもらうとは思わなかった。

「ありがとうございます……これ、先生の家に置いてもいいですか?」

 自宅に持ち帰って見つかれば父に追及されるだろう。自分で買ったと言うことは出来るが、出来ればそれは避けたい。男が頷いたので、エレンはホッと息を吐いた。

「折角だから名前つけて可愛がりますよ」
「さすがにそれを男がやると痛いぞ」
「先生がくれたんじゃないですか。そうですね、リヴァイ先生だからリー君とかりっ君とか――」

 言いかけてエレンは途中でやめた。何かが引っかかった気がしたのだ。

(何だろう? 何に引っかかったんだ?)

 考えてみるも判らない。何かとても重要なことを思い出しかけている気がするのだが、咽喉元まできているのにどうしても出てこない、そんな感じだった。

「エレン? どうした?」
「あ、いえ、何でも……そうだ。何かお礼しますね」

 エレンの言葉にそれじゃ礼にならんだろうが、と男は苦笑した。男は日頃食事を作ってもらっている礼として水族館に連れてきたのであって、これもそのうちだと少年に告げた。だが、元々、食事作りに礼を必要としていなかった少年としてはもらいっぱなしというのもどうかと思うわけで。

「いいじゃないですか、礼の礼があったって。そうですね……」

 だが、男にお返しするといっても何がいいのか。余り高価なものは渡せないし、男も受け取らないだろう。男が好きなもので真っ先に思いついたのが煙草だが、未成年の自分では購入は出来ないし、第一自分は禁煙を推奨している。
 お金がかからなくてなおかつ、男が負担に思わないもの、となると――。

「あ、じゃあ、弁当持っていきます。自分の作るついでだし」

 男は昼食は食堂に行くか、買ってきたものを食べてすませているらしい。これならいいだろう、と思ったことを言うと、男は少年がどうしても礼をしたいということに気付いたのか、リヴァイは断らなかった。

「……玉子焼きは出し巻きにしろ」
「はい。先生は甘いのダメですか?」

 エレンの家では玉子焼きは甘くない派だが、エレン自身は甘いものも別に食べられる。どちらも好きなので問題はないが、人によっては絶対に嫌だと言う人もいるし、よくよく聞いてみると好みには差があって面白い。リヴァイはエレンの料理が口に合うようだが、どうせなら男の好きなおかずを入れていこう、とエレンは思った。

「甘いのはおかずにならねぇだろ」
「あー先生って金時豆とかかぼちゃ煮とかダメなタイプですか?」
「嫌いじゃないが、おかずじゃねぇだろ」
「じゃあ、お弁当の好きなおかずってなんですか?」
「買うのは唐揚げとかハンバーグとか生姜焼きとかが多いが、基本何でも大丈夫だぞ」
「判りました。というか、それ全部肉じゃないですか」
「男は基本肉食だろ」

 そう言って男はするりとエレンの頬を撫ぜた。なめらかな感触を楽しむかのように指を滑らせていく。

「旨そうなもんがあったら、食いたくなるのが本能だ」
「……今、物凄く身の危険を感じましたが、気のせいですよね。というか、弁当の話ですよね?」
「安心しろ。まだ食わねぇよ」
「まだって何ですか。これから先も食われる予定はありませんから!」
「最初は皆そう言うんだ」
「だから、何の話ですか! 弁当の話をしたいんですってば!」

 そういう二人の軽口は帰り道ずっと続いていた――。




2014.2.5up



 またしても長くなってしまったので、ここで区切ります(汗)。ここまで引っ張る話じゃないんですが。更に若干ネタがショコラとかぶっているような……。作中に出てくるシュレーターペンギンですが、今現在、日本では飼育されていないそうです。フィクションということでご了承くださいませ〜。




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