世の中には不夜城という言葉があるが、繁華街と呼ばれる界隈には真夜中でも明るい一角がある。24時間営業のコンビニエンスストアやファミリーレストランなどがある辺りも明るいといえるが、繁華街にはそれとはまた違った雰囲気がある。そんな繁華街を一人の少年がふらりと軽い足取りで歩いていた。キャップを深く被っているため顔はよく確認出来ないが、おそらくはまだ年若いだろう少年は補導対象になる年齢に思えたが、この界隈にはそんな年代の少年少女はごまんといたので、何もその少年が特別ではない。明るい色の髪を風でなびかせ、猫のようなしなやかな動きで街中を徘徊していた少年は片隅で起きている喧騒に気付いた。
 酔っ払い同士の喧嘩か、仲間内同士の揉め事か――それはこういうところでは日常茶飯事で誰も気にも留めない。関わり合いになるのを恐れて離れ見過ごしていく。余り騒ぎになるようなら誰かが通報するが、その前に終わっていることも多い。
 少年は唇に笑みを浮かべると、その喧騒に近付いていった。


「いいから、金出せって言ってるんだよ、おっさん!」

 近付いて見ると、一人の男性を四、五人の男が逃がさないようにするためか取り囲むように立っていた。囲まれている相手は三十過ぎくらいだろうか――囲んでいる男達はまだ若く、十代後半か二十歳そこそこに見えた。

(これっていわゆるオヤジ狩りとかいうやつか? そんなのやってるやつって本当にいるんだな)

 金が欲しいなら働いて稼げばいいのに、と少年は思う。高齢者ならともかく、まだ若いのだから探せば職は見つかると思う。決まったな、と少年は胸の中で呟いてその集団に音もなく近付いていった。

「なあ、そこのおっさん」

 突如、声をかけられた男達は驚いてそちらに振り返ったが、相手の少年は男達には気にも留めずに囲まれている男性に更に声をかけた。

「多勢に無勢みたいだし、手を貸そうか?」

 すると、男は無言で胸ポケットから煙草を取り出すとライターで火を点けて煙をふかした。突然の行動に少年はおろか周りの男達もぽかんとしている。

「必要ねぇ。五分で終わる。それより、お前いくつだ? ガキは早く家に帰ってクソして寝ろ」

 この状況で訊くことか、と少年は半ば呆れて男を眺めていた。状況が判っていない酔っ払いというようでもないし、男はひどく冷静に見える。度胸があるのか、この状況を独りで切り抜けられる自信があるのか――あるいはそのどちらもか。それは次の瞬間すぐに知れた。
 相手の態度にキレたらしい男の一人が殴りかかってきたのを難なくかわし、彼が代わりに強烈な蹴りをお見舞いしたからだ。

(こいつ、相当強い……!)

 次々に襲いかかる男達の攻撃をかわし、的確に打撃を与えていく男はかなり強い。これなら手助けは要らないと言ったのも頷ける。だが。

「……要らないって言われたらやりたくなるのが、人情だよな?」

 そう呟いて少年は男の加勢に入ったのだった。



「運動の後はやっぱり一服に限るな」
「赤マルか。……あんた、女にそう言って嫌われるタイプだろ?」

 旨そうに紫煙をくゆらす男に少年は呆れたような声を上げた。

「俺は終わった後も優しくするタイプだ。……欲しくても未成年にはやれんぞ」
「まさか。オレは自分の健康かつ綺麗なピンクの肺を真っ黒にする程バカじゃねぇよ」
「お前な、この国は愛煙家から絞り取った税金で多くが賄われているんだぞ。むしろ、感謝しろ」

 そんな軽口を叩き合った後、なあ、どうするんだ?と少年は男に訊ねた。

「あいつらのこと、警察に被害届け出さなくていいのか? 恐喝とか強盗とかそういうんだろ?」
「面倒くせぇ。それに、届けたら逆に過剰防衛でこっちが捕まりそうだからな」

 確かに、と少年は頷いた。あの後、男達を全員沈めて転がしたままにしてきたのだが、どう見ても過剰防衛、あちらが被害者のように見える。少年としても警察に事情聴取などされるのは御免だったし、男が行くと言うのならこの場から立ち去るつもりでいた。

「オイ、それより、お前いくつだ? 名前は何て言う?」

 矛先がこちらに向いてきたので、少年はげっ、と胸中で呟いてするりと猫のような動きで素早くそこから離れた。

「じゃあな、おっさん! 今度は絡まれねぇようにしろよ!」
「オイ、待て――」

 男の声を背に受けながら、少年は街の中に姿を消したのだった。




ナイトウォーカー




「イェーガー君、おはよう!」

 そう声をかけられて、エレンはにっこりと笑顔でおはようございます、と返した。銀色のフレームの眼鏡を軽く押し上げるような仕種をして、靴を上履きに履き替える。声をかけてきたのは同じクラスの女子でエレンと一緒に登校してきた幼馴染みの少年にも同様に声をかけてきた。

「おはよう、アルレルト!」
「おはよう」

 少女が去った後、幼馴染みの少年――アルミンはくすくすと笑った。

「どうした? アルミン?」
「いや、僕は呼び捨てでエレンは君付けなんだって思って」
「キャラの違いだろ」
「まあ、そうだと思うけど、エレン、いつまで――」

 アルミンが言いかけたところへ、また別の生徒がやって来たので、彼は口を噤んだ。小声で話してはいたが、会話を聞かれる危険性は回避しなければならない。

「おはよう、イェーガー」
「おはようございます」
「あのさ、頼みがあるんだけど」
「何ですか?」
「今日さ、物理の小テストがあるじゃん」

 物理、と聞いて少年の眉間に皺が寄ったが、それは一瞬のことで相手は気付かなかったようだ。

「ノート見せてくんねぇ? あ、何なら休み時間にコピーしてくるからさ」

 両手を合わせる同級生の少年に、エレンは仕方ないですね、というような苦笑を浮かべた。

「構いませんが、僕も使うのですぐに返してくださいね。それと、僕のノート見たって余り役には立ちませんよ?」
「いやいやいや、イェーガーのノートって判り易くていいって噂だからさ。絶対にすぐ返すからさ!」

 少年はエレンが承諾すると、喜んで駆けて行き、エレンは小声でその話は昼休みにな、と幼馴染みの少年に伝えたのだった。



「つーか、ノートくらい、自分でとっとけって思わねぇ? アルミン」
「…………」
「第一、勉強しないで人のノート見て点数取れたら苦労はしないって」
「でも、エレンのノートは本当に判り易いよ。ポイントとか上手くまとめてあるし」

 幼馴染みの少年に誉められて、エレンはありがとうな、と笑った。
 ――二人が座っているこの中庭の一角に設えてあるベンチの周りには人影はない。昼休み時間の今は弁当持ち込み可の、食堂と呼ぶよりカフェと呼ぶに相応しい生徒達に人気の場所に人が集中するので、ここには余り人が来ないのだ。なので、二人でゆっくり話したいエレン達には穴場のスポットになっている。
 エレン達が通う高校はこの辺りでは進学率も高く、設備も整った有名校で人気の高い学校だ。制服もわざわざ有名デザイナーに頼んで作ったという女子には人気のあるデザインで、出生率の下がっている昨今でも倍率は高いらしい。まあ、そうでもしなければ私立校は生き残れないのだろうが。

「それで、いつまで続けるの? その優等生キャラ」
「ああ、高校卒業までかな。オレ、大学デビューする予定だから」
「大学デビューって……まだ、二年近くもあるよ?」
「今までバレなかったんだし、何とかなるだろ」

 エレンはそう言って広げた弁当をつついた。エレンが同級生達の前で見せたのはいわば虚像――エレンが作りあげた優等生のエレン・イェーガー君であり、アルミンの前で見せているこの姿こそが彼の素だ。銀色のフレームの眼鏡も度が入っていない伊達で、その方が優等生っぽく見えるからと言う理由でかけられている。
 昔はエレンはそんな風にはしていなかった。小さい頃はよく喧嘩もしたし、彼は勉強するよりも外で駆け回っている方が好きな子供だった。そんな少年を変える事件はエレンが小学校のときに起こった。

 学校で同級生と喧嘩をしたエレンは相手に怪我を負わせた。エレンも無傷ではなかったし、相手の怪我の方が酷かったのも、よろけた相手がたまたま机にぶつかったからだが、相手の親はそうは思わなかったらしい。
 子供の怪我を聞き駆けつけてきた相手の母親は聞こえよがしにやっぱり母親のいない家庭の子は色々と問題があるわよね、と言ったのだ。エレンはそれを聞いて殴りかかりたい衝動に駆られたが、必死で堪えた。
 エレンの母親は交通事故で他界しており、身内は父親だけだったが、彼は医者という職業柄余り息子に構ってやれていなかった。その父親が知らせを受けて何とか仕事の都合をつけて学校にやって来て、相手に言ったのだ。

「確かに息子が怪我をさせたことは謝罪します。だが、息子は理由もなしに暴力を揮うような人間ではありません。そちらの息子さんは先に侮辱する発言をしたと聞いています。それについてはそちらも謝罪してください」

 きっぱりと告げた父親に相手の親はヒステリーを起こして大変だったのだが、彼はその主張を曲げなかった。
 父親に連れられて帰る道すがらエレンは彼に小さく謝罪したが、父は笑って子供の頭を撫ぜた。

「お前が謝る必要はないよ、エレン。確かに安易に暴力を揮ったことは反省すべきだが、お前が彼に対して怒り抗議したことは正しいと私は思う」

 そう言う父の優しい眼差しに、エレンは決意したのだ。この父親がこんな風に呼び出されるような真似はもう決してしないと。
 それからのエレンは喧嘩をやめ、成績を上げた。元々、頭は悪くなかったし勉強を真面目にすればすぐに成績は上がった。言葉遣いも意識して丁寧なものに変え、優等生らしく振る舞った。――途端、周りの態度が変わった。特に大人達の反応は顕著で礼儀正しい優等生のエレン君は彼らに大層うけが良かった。
 ――馬鹿馬鹿しいとエレンは思う。自分の中身は全く変わっていないのに、外装を変えただけで掌を返したように態度を変えたのだから、結局は自分の内面など彼らはどうでもいいのだろう。無論、そう仕向けたのは自分であるのだから文句を言う気はないが、虚しく感じたことは確かだ。
 今、現在エレンの素を知っていて話す相手は父親と事情を知っている親友のアルミンの二人だけである。――いや、正確には二人だけだった、というのが正しいのだが。


「ま、エレンがそれでストレス溜めないでやれるんだったら、何も言わないけど……」
「大丈夫だって」

 エレンの返事にこれ以上は無駄だと思ったのか、アルミンは話題を切り換えた。

「そういや、今朝のことだけど、物理の小テストあるんだよね? 僕もエレンにノート見せてもらっとけば良かったかな」
「……そんなんしなくても、お前も物理得意だろ」
「エレン程じゃないよ。まあ、二年になってリヴァイ先生になってから判り易くて楽しくなったけど」

 リヴァイ先生、と聞いてエレンのこめかみがピクリと動いたが、内心の動揺を悟られぬようにエレンは弁当を口に運んだ。




「よし、じゃあ、後ろから用紙集めて来い」

 かったるそうな口調で教壇に立った男がそう告げると、配られていたテスト用紙が回収されて男の手元に集まった。

「今回は簡単だっただろう。赤点取った奴には課題出すからな」

 あっさりと告げた男――物理教師であるリヴァイの言葉に悲鳴が上がった。難しかったと言う生徒に授業で教えたとこしか出してないんだから簡単だろうが、と凄味のある声で告げる男はとても教師には見えない。さらりと流れる短く整えた黒髪と端正というべき顔立ちなのに、凶悪と呼べる目つきの悪さがそれを台無しにしていた。
 授業の終了を知らせるチャイムが鳴り、男はテスト用紙を揃えてそれを手にすると、一人の生徒に声をかけた。

「オイ、イェーガー」
「はい、何でしょうか、リヴァイ先生」
「放課後、手伝って欲しいことがあるから、物理準備室まで来い」
「……判りました」

 ゲッと思っても優等生キャラの自分では文句を言うことも断ることも出来ず、内心で溜息を吐きながら、エレンは白衣を翻して教室を去っていく教師を見送ったのだった。



「失礼します」

 物理準備室に入ると、中は白い煙が立ち込めていて、少年は眉を顰めた。

「よう、遅かったな。エレン」
「窓くらい開けてください。知ってますか? 副流煙の方が身体に悪いんですよ?」

 人前ではイェーガーと呼ぶのに、二人きりになるとこの男は名の方を口にする。慣れ慣れしくするな、とは優等生キャラの自分では言えないし、やんわりと言っても無駄だったのでそちらの方は諦めた――男にされる名前呼びが特に嫌ではなかったこともあるが。なので、煙草のことだけに言及し、少年が窓を開けると、男は肩を竦めた。

「ここじゃなくて、職員室で吸ってください」
「あそこはうるせぇんだよ。分煙とか禁煙とか。一服くらい自由にさせろとは思わないか?」
「僕は喫煙出来る年齢ではありませんので、判り兼ねます」

 少年の言葉に男はおかしそうに笑った。

「お前が僕って言うと違和感があるな。あのとき男を沈めていた威勢の良さはどこにいった?」
「その件については人違いだと何度も申し上げたはずです」

 エレンは内心で冷や汗をかきながら表情には出さずにそう返した。
 あれは失敗だった、と今になって後悔しても遅いのだが、そう思わずにはいられない。
 ――エレンがふらりと繁華街に繰り出すようになったのは確か中学三年生の冬が最初だったと思う。優等生の仮面を張りつけて生きることに決めたのは自分であったが、それは思っていたよりも強いストレスを少年に与えた。丁度受験を控えていた時期でもあり、幼馴染みとゆっくり話す時間も取れず、父親は仕事が忙しく家を空けることが多かった。いろんな要因が重なってどうしようもなくなった少年は夜の街に飛び出したのだった。
 成績優秀、品行方正の優等生のエレン・イェーガー君を知らないものだけの世界はひどく心地好かった。自由に泳ぐことを楽しむ魚のようにエレンは街で過ごした。
 正体を知られては困るのでキャップで顔を隠し、眼鏡も外し、髪をカラースプレーで明るく染めた少年に気付くものは誰もいなかった。街で過ごすうちに顔見知り程度の者は出来たが、少年は誰ともつるまず、ストレスを発散するかのように喧嘩に加勢したり繁華街で過ごす時間を楽しんだ。
 高校生になってからはストレスも落ち着き、たまにしか出かけなくなったが、息抜きをしたくなったときにエレンは夜の街を遊泳する。まさか、そこでたまたま出会い手を貸した男に再びこんなところで会うなんて思ってもみなかったのだ。

「リヴァイだ。これから二年の物理を担当する」

 二年生になった春の始業式、今年度この学校に赴任してきた教師の紹介でリヴァイを見たときの衝撃は忘れられない。男と出会ったのは学校が始まる直前の春休み中の出来事で忘れる程の時間は経っていなかったし、男との出会いは印象が強すぎた。お互い名前は聞かなかったし、似ているだけの別人かもしれない――それに、向こうがこちらを覚えているとは限らない。覚えていたとしても、黒髪に眼鏡をかけ、制服をきっちりと着込んだ今の自分と同一人物とは思わないはずだ。顔だってはっきりと見られたわけではない。
 そう言い聞かすエレンと男の視線が合った――そして、男はエレンにしか判らないように唇で一言告げたのだ。『見つけた』と。

 それから、何かとエレンを構いこき使い、あの日出会った少年が自分だろう、と問い詰めてくる男にエレンはしらを切り通しているが、その度に跳ねそうになる心臓を宥めるのに必死だ。大丈夫、証拠は何もないのだし、肯定しなければいいのだと言い聞かせているが、そんな心情までもこの男には見透かされている気がする。

「大体、その人の顔はっきり見たんですか? それ程僕に似ていたと?」
「イヤ、キャップを被ってたし、話した場所は薄暗かったから、顔はハッキリ確認していない。だが――」


 そう言って、男は手を伸ばし、少年の唇を指先でなぞった。その形を確認するようゆっくりと往復するその指先はどこか官能的で、ぞくっとした痺れのようなものが背中に走るのを感じてエレンは思わず身震いした。

「唇の形が一緒だった。今と同じ、誘うみたいな唇だ」

 にやり、と笑われ、エレンは我に返って男から飛び退いた。

「ふざけないでください!」
「真面目に言ったんだがな。キスしたくなる唇って言われないか?」
「言われたことありません。――用件がそれだけなら帰ります」
「用件はある。資料整理と、掃除を手伝え」

 男はそう言うと、先程までの雰囲気をがらりと変えて少年にテキパキと指示をした。どうやらこの男は綺麗好きらしく、前任の物理教師が準備室を雑然と使っていたことに憤りを感じているらしかった。

「大体、何で僕にばかり頼むんですか? 先生人気みたいだから、手伝いたいって言ってくれる子は他にいっぱいいますよ?」

 リヴァイは目つきの悪さが台無しにしているが、顔立ちは整っているし、いつも清潔にしていてむさくるしい印象はない。更に授業は判り易く面白いと評判で、生徒の質問にもきちんと答えてくれるのでひそかに人気があるのだ。頼めばやってくれる子は他にもいるに違いない。

(まあ、人気あるのは判るんだが)

 リヴァイは口は悪いが指導は丁寧だし、生徒思いなのは端々から伝わってくるからそういうところに惹かれて彼らは慕っているのだろう。あの出会いさえなければエレンもいい先生として慕っていたのかもしれない。

(後、何だか判らねぇが……懐かしい感じがするんだよな)

 何でそう思うのか判らないが、懐かしいというか、一緒にいると安心するというか、そんな感じがするのだ。人使いは荒いし、あの夜の一件から近付きたくはないのだが、断り切れないのは何も優等生キャラを演じているからだけではないのだとは自覚している。

「俺は気に入った人間しか自分のテリトリーには入れない主義だ」
「……………は?」

 さらりと言われて流しそうになったが、今、この男は変なことを言わなかっただろうか――気に入った人間がどうたらとか……。

「それに、お前は目を離すと何か仕出かしそうだからな。こき使っておけば疲れて夜に出歩いたりしなくなるだろう」
「イヤ、だから、それは人違いですってば」
「いいか、次、見つけたら俺が躾するからな。覚えておけ」
「……………」

 今、さらりとまた凄い台詞を言われた気がしたが、聞かなかったことにしようとエレンは思い、指示通りに手を動かしたのだった。



 リヴァイと再会してから数週間が経ち、エレンはその間夜の街には出かけずに大人しくしていた。さすがにここで出かけるのはまずい気がしていたからだ。
 だが、日々のストレスは溜まるわけで、それを解消するのに一番の方法は知っている。

(学校が始まって先生は忙しいだろうし、大体、街は広いんだし、そうそう出会うことなんてねぇよな……)

 もしニアミスしてもダッシュで逃げればいいだけだ。捕まらなければ人違いで押し通すことが出来る。
 それに、エレンも自分の好きなときを選んで繁華街に行けるというわけではないのだ。素で接している父親とアルミンですらエレンが夜の街に出ていることは知らない。なので、エレンは父親が当直などで家を留守にしている日――そして、翌日の授業に響かないようになるべくなら次の日学校が休みのときを選んで出かけている。
 そして、今夜がその都合のいい日に合致した最適な日なのだ。そんな日が次はいつになるか判らず、今晩はどうしても出かけておきたい。悩んだ末、少年は夜の街に出かけることに決めたのだった。


 久し振りに足を踏み入れた場所はやはり心地好かった。誰も自分を知らない。優等生の自分を演じなくてもいい空間は自分をホッとさせてくれる。
 今日はどこに行こうか――そう思いながら歩いていたとき、ぐいっと腕を引っ張られた。

「――――!?」

 まるで気配をさせずに近付かれたことに驚き、エレンが腕を掴んだ相手に視線を向けると、そこに立っていたのは見知った顔で。
 咄嗟に振り払って逃げ出そうとしたが、どこにそんな力があるのか、相手の腕はびくともしない。いくら相手が成人をとっくに過ぎた大人の男とはいえ、その力強さに驚く。いや――初対面の時から彼の腕が凄いのは目の当たりにしていたが。

「次に見つけたら躾すると言っておいたはずだが?」

 どう躾されたい?と訊ねてくる物理教師にエレンは何も答えることが出来ず、内心で冷や汗をだらだらと流しながら、男に腕を引かれるまま街を後にしたのだった。



「――で、お前は何で夜遊びをしているんだ?」

 連れてこられたのは男の自宅マンションだった。清掃の行き届いた綺麗な部屋はまるで新築マンションのモデルルームのようで、男が住む場所に相応しいと少年は思った。だが、その部屋を堪能している余裕など少年にはない。

(何て言やいいんだ……)

 至近距離で顔を確認されてしまった今、人違いですはもう通用しない。更にこの前が初めてで、ちょっとした好奇心とか、息抜きをしたくなってとかそんな言葉も通用しないだろう。何せ出会いが出会いだったのだ。明らかに常習的に夜の繁華街を出歩いているのだと思われただろう。それは確かに事実ではあるが、理由を説明するとなると、自分が優等生を演じていることやその経緯、溜まったストレスのことなど総てを話さなければならない。親友である幼馴染みにすら話していないことをまだ知りあって間もない教師に話すのは躊躇いと反発があった――話したところで判りはしないだろう、という。
 周りの大人達が表面的なものしか見ないということをエレンは知っている。無論、自分の父のような大人がいるのも事実ではあるが、目の前の男に総てを打ち明けられる程信頼関係は結ばれていない。

「……………」
「そうか、話したくないか」

 黙ったままの少年に男は溜息を吐くと、それからにやりと笑った。

「なら、話したくなるようにしてやろう」

 そう言って男が手を伸ばしてきたので、エレンは殴られるのかと身構えたが、やってきたのはふにゃりとした柔らかな感触で、思いも寄らなかったその行動に驚いて両の眼を見開いた。そのまま固まった少年を見て男は笑うと、柔らかなもの――唇で優しく少年のそれを食んで舌でその形をなぞるように舐め上げた。

「な、何して――」

 固まっていた少年が正気を取り戻し抗議の声を上げたのを待っていたとばかりに、男はその後頭部を掴んで引き寄せると、先程とはまるで正反対に食らいつくように口内へ舌を捩じ込んだ。頤を掴んで強制的に口を閉じられないようにして、舌で舌を絡め取り、柔らかな粘膜を思う存分、蹂躙する。もがいて何とか身を引き剥がそうとしても、男の身体はびくともしない。男は小柄だし自分の方が背が高いというのに、どこにこんな力があるのか。

(苦し……!)

 エレンは今まで誰かと付き合ったことがない。優等生を演じるようになってから、何度か告白を受けたことはあったが、全部断っていた。可愛いな、と思う子がいなかったわけではないが、彼女達は自分ではなく優等生のエレン君が好きなのだ――本当の自分を好きなわけではない、そう思うと付き合う気にはなれなかった。それは自分の責任であるし、自分の素をさらしてまで好きになって欲しいと想うような相手もいなかったということなのだが、特に誰かと付き合いたいという欲求もなかったのでエレンは気にしていなかった。高校生にもなれば同級生の誰と誰が付き合っているという話を聞くことはあったが、ただ聞き流すだけだった。
 なので、これがファーストキスになるわけだが、まさかその相手が男で煙草の味がするものになるとは思ってもいなかった。初めてのキスは甘酸っぱいレモンの味とかいうバカな話をする気はないが、最初が男との苦いディープキスになるなんて誰が思うだろうか。
 酸欠で意識が飛びそうになった頃、ようやく男は唇を離してくれて、エレンはげほげほと噎せた。

「その様子だと初めてか。初めてのディープキスの感想は?」
「……ヤニくせぇ! 歯ぐらい磨いておくのがエチケットだろ!」

 少年の言葉に男は目を瞠ってそれからくつくつと笑った。

「威勢がいいな。躾がいがある」

 そう言って男が身体に手を這わせてきたので、少年はぎょっとして男を見上げた。いつの間にか男は自分を押し倒すようにのしかかる体勢になっていた。

「次に見つけたら躾するって言ったよな? お前が本当のことを言うまで続けるからな」
「な、何する気――」

 少年の言葉は途中で途切れた。男に再び口を塞がれたからだ。片手で少年を押さえ込んでもう片方の手で器用に少年の上衣をたくしあげていく。外気にさらされた肌がぶるりと震えた。
 その肌に這わされた手は明らかに性的なものを感じさせる動きで、少年は焦ってじたばたと暴れたが男の拘束は外れない。指先でこりこりと胸の突起を擦られて身体が跳ねた。

「言わねぇと、最後までしちまうぞ……?」

 そう耳元で囁かれ、下肢に伸びた男の手がファスナーを引き下ろす音が響いた。その指先が下着にかかり――エレンは白旗を上げることにした。

「………っ、言う、言うから! 先生、もう……」

 半泣きで制止の声を上げる少年に男はようやくその手を止めて、身を起こした。エレンは慌てて男から距離を取る。

「そんな警戒しなくてももうしねぇ。大体、ガキに手を出す程不自由してないしな」
「…………」
「だが、約束は約束だ。洗いざらい話してもらおうか。――と、その前にお前、シャワー浴びて来い」

 シャワーの言葉にエレンは更に警戒するが、リヴァイはそういう意味じゃねぇよ、と肩を竦めた。

「お前、その頭カラースプレーかなんかだろう? 落としてこい。素のままの姿のお前と話したいからな」

 それでも躊躇うエレンに男は溜息を吐いて、もう一回キスされたくなかったらとっとと入って来い、と無理矢理風呂場に押し込んだのだった




「あの、お風呂ありがとうございました」

 そう言って風呂場から出てきた少年に男は咥えていた煙草を灰皿で揉み消すと、ソファーに座るように促した。

「……先生、いつか肺癌で死にますよ」
「自分の家で一服して何が悪い」
「受動喫煙の怖さを知っていますか。知らないなら教えますけど」
「そんなもんは気合でどうにかしろ」
「無理です。気合でどうにかなるもんじゃないでしょう」
「仕方ないな。お前といるときは本数を減らしてやる」
「……禁煙という道はないんですね」

 呆れた顔をするエレンを男は引き寄せ、その行動に少年がびくっと身体を震わせたのを見て、手ぇ出したりしねぇよ、とからかうようにリヴァイは告げた。言葉の通りに性的なことは何もせず、エレンが首にかけていたタオルでその頭を拭ってやる。優しく労わるような手つきはひどく心地好くて、エレンは戸惑い視線を泳がせた。

「お前、頭くらいきちんと拭け。風邪ひくしソファーに雫が落ちるだろうが」
「……ソファーに雫が落ちることが重要なんですね、判りました、はい」
「可愛くねぇことばかり言ってると、その口塞ぐぞ」
「…………」
「それと、髪は染めるなよ。あれは髪を傷めるだけでいいことなんてないからな」
「――先生は髪染めてたんですか?」
「――昔、な」

 実感のこもった呟きにエレンがそう訊ねると、リヴァイはそう答えた。リヴァイはさらさらとした綺麗な黒髪をしているが、昔は他の色に染めていたということなんだろうか。おそらくは生来の色であろうその黒髪はリヴァイにはとてもよく似合っていて、他の色など想像もつかないのだが。

「ひょっとして、それ、白髪染め――」

 エレンが言い切る前にガツン、とその頭に拳が落とされた。

「誰が若白髪だ、クソガキ。――そんなに躾されたいなら、今からさっきの続きしてやろうか?」

 涙目で叩かれた頭を押さえ、ぶんぶんと首を横に振る少年に男はふっと鼻で笑って判ればいいんだ、判ればと告げた。そして、不意に真面目な顔になって少年に向き直った。

「さて、お前の事情とやらを教えてもらおうか」
「…………」

 ここまできたらもう話すしかないだろう。嫌だと言ってまた変な真似をされても困るし――それに、ひょっとすると自分自身でも誰かに聞いてもらいたいとどこかで思っていたのかもしれない。

「実は――」

 エレンが小学生の頃から今までの経緯を話すと、黙って聞いていた男は成程、と頷いた。

「つまりは日頃いい子ちゃんを演じている反動ではじけたくなるんだと、そういうことか。――お前な、キャラ作りなんて中二まででやめておけ」
「……それって、つまり、オレが中二病だって言いたいんですか? 違いますから! 人を勝手に痛い子設定にしないでください」
「――まあ、要はストレス発散が出来ればいいってことだろう。なら、俺のところで過ごせばいい」
「は?」
「俺はもうお前の素を知っているし、優等生ぶる必要はねぇ。素で過ごせる場所があれば楽になれるだろう」
「イヤ、待ってくださいよ。どうしてそういう話になるんですか?」

 確かに男には自分の素がバレてしまったし、彼の前では優等生でいなくていいかもしれないが、何で男のところで過ごさなければならないのか。

「繁華街に行かせるわけにはいかないだろうが。今までは奇跡的に補導されなかったかもしれないが、このままいったらいつか見つかるぞ。繁華街で遊び歩いていたなんてバレたら停学処分ものだ。お前が今まで作って来たそのキャラもふいになる」
「…………」
「お前の選択肢は二つ。一つはその優等生キャラをやめてずっと素でいるか、演技で溜まったストレスを発散する場を新たにどこかで作るかだ」

 確かに男の言う通りだった。こんな生活はいつか破綻するだろう。優等生として演技を続ける以上ストレスは溜まるだろうが、エレンにそれをやめる気はない。少なくとも高校を卒業するまではこのままでいたい。
 男は自分のことを見過ごす気はないだろうし、ここは頷くしかないだろう。

「――判りました」
「そうか、なら、良かった。早速だが、明日から物理準備室に来い」
「は?」
「雑用係が欲しかったからな。丁度いい。――嫌とは言わないな?」

 男の言葉にそれか、それが目的なのか、と突っ込みたくなるのを何とか堪えたエレンだった。




  
2014.1.26up



 思っていたよりも長くなってしまったので、一旦ここで区切ります。そして、またしても王道ベタな話に……(汗)。




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