True of him 12



前中がシャツを脱いだ瞬間。

良隆はそれを見ていいのか迷った。

前中と恋人として、肉体関係ができてからも前中は良隆に背中と言わず裸を晒すことがなかった。

『子供の頃に大火傷をして』

そう言った恋人の言葉を良隆は信じていた。

だからこそ、良隆は目の前で着替えようとする前中から目を反らそうとした。

したけれど、失敗してしまった。

目を反らす前、良隆の視線を引きつけたものがあった。


色鮮やかな1枚の絵。


背中に絵とは変な表現だと思えるが、それが一番しっくりくる言葉だった。

ただ、その絵も普通の絵ではなかった。

真っ白い蛇が2匹。
その存在が際だっていた。

互いに身体を巻き付けあっている2匹だったが、視線を上に移動させれば、まさに片方の蛇の口はもう一方の蛇の頭を食べるかのように大きく開いている。

さらに白蛇の視線は、この次はお前だとばかりに暗く赤い目を良隆の方へと向けていた。

それだけでも印象に残るが、白蛇をさらに際だたせているのが周りに描かれている色とりどりの蝶達。

色鮮やかな蝶達は蛇を囲むように飛んでいた。

ただ、前中の背中に描かれたその絵は、新たにシャツを羽織ることで良隆の前からすぐに姿を消した。

だからといって良隆の頭の中からその映像が消えたわけではない。


「あ・・・あの・・・」


傷は大丈夫なのか、その背中のものは何なのか、聞きたいことはたくさんあった。

それなのに、良隆の口から出てくるのは言葉にならない声だけ。


「良隆さん」

「は・・・はい」


前中は何事もなかったかのように、シャツを羽織ると再び良隆の目の前に戻ってきた。

顔にはいつもの笑顔はなく、苦しそうな、まるで苦いものを食べたような顔。

良隆が見たことがない顔だった。


「今回のことは全て私の責任です」

「え・・・」

「こんなことになって、本当にすみませんでした」


改まって謝る前中に、良隆は戸惑うばかりだった。

前中は頭を下げながら、話し続ける。


「私は表向きは会社の経営者となっていますが、裏では人に言えないような仕事をしています」

「そんな・・・」


その内容を良隆は信じられない思いで聞いていた。

地下室にはまだ人がたくさんいたが、その誰一人として口を開くこともない。

話す内容はどうあれ、前中の穏やかな声だけが地下室を満たしていた。


「テレビでも報道されていますし、聞いたこともあると思います。

私は広域指定暴力団楠本組に属している人間です」

「そ・・・それって・・・」

「今回良隆さんがこんなことになったのも、私を陥れようと考えた人間の所為なんです」


話を聞かされている良隆は話のどの部分に驚けばいいのか分からなくなってきていた。


「良隆さんには秘密を持たないでくれと言いながら、私があなたに大きな秘密を・・・」


良隆はそんな前中に戸惑ったが、良隆以上に驚いたのは部下達だった。


”社長が人に頭を下げるなんて”


部下達は前中が頭を下げる光景を見たことが無いわけではなかった。

ただ、そこに謝罪の気持ちが本当の意味で込められているかどうかは別だった。


『私がちょっと頭を下げただけで事が上手く運べるのなら・・・

頭ぐらい、いくらでも下げますよ。

まあ、後で向こうの方が土下座して私に縋ってくることになることは分かってることですし』


それがいつもの前中の言葉だった。

だからこそ、頭を下げながらも浮かべている表情は笑顔のまま、ふてぶてしいぐらいに見え、頭を下げられている方は、なぜか自分の方が馬鹿にされた気分になる。

しかし、今の前中は明らかに違う。
そのいつもと違う雰囲気は傍にいる年月が長い人間ほど感じた。


「前中さん」


良隆の口からようやく言葉となって出てきたものは前中の名前だった。

そして、

「あの、私・・・」


良隆は拙いながらにも、今の自分の気持ちを話そうと口を開きかけたが、


「良隆さん、今は答えを出さないでください」

「え・・・」


そんな良隆の言葉を遮ったのは、前中だった。


「今はいろんなことが同時に起こって正しい判断ができないと思います。

だから、もう少し落ち着いてから答えをください」


前中はそう言いながら、良隆が羽織っているだけだったジャケットのボタンを1つずつ掛けていく。


「・・・前中さん」


良隆はされるままに前中の事を見ていたが、前中の方は良隆の顔を一切見ようとはしなかった。


「さあ」

「あの・・・」


ボタンを掛け終わると、前中は良隆をその場に立たせた。

痛みを伴いながら、少しだけ腕を動かした良隆は前中のシャツを捕まえようとした。

しかし、その手は前中を捕らえることができなかった。


「良隆さん、家まで送らせますから」

「え・・・」


前中は良隆に背中を向けると、手近にいた秘書に何か話し始める。

一緒に帰るだろうとどこかで考えていた良隆は戸惑うばかりだった。


「私とはここで・・・」

「そんな、前中さん」


自分の方を見ようとしない前中に、良隆は名前を呼ぶことしかできない。


「前中さん」


ただ、良隆が名前を呼んでも前中が振り返ることはなかった。


「さあ、こちらに」


代わりに前中の秘書が良隆を階段へと誘導し始める。

良隆は抵抗しようにも身体に力が入らず、何度かバランスを崩しかけた。

いつもなら前中が手を差し伸べてくれる状況なのに、今は別の手が良隆を支えている。

良隆は前中の横を通る時に、


「前中さんっ」


と叫ぶように名前を呼んだが、それでも前中は一切良隆の方を見ようとはしなかった。

ただ、


「良隆さん、私があなたのことを好きだという気持ちは本物です。

ただ私と一緒にいるということは、これからもこんなことが起こる可能性があるということです。

だから一時の感情だけではなく、ちゃんと考えて答えを出してください。

私はどんな答えでも、受け止めますから」


と言う前中の言葉が良隆の背中越しに聞こえてきた。

その言葉に良隆は振り返るが、もう前中は良隆のことは見ていなかった。

良隆はふらふらした足取りながら、階段を上りきる。

そこには何人もの黒スーツに身を包んだ人間がいたが、良隆にはそれを意識をするような心の余裕はなかった。

リビングまで出ると、良隆には着替えが一式渡された。

真新しい衣服は全て上質のものだと分かる。

今までにも何度か前中から服をプレゼントされたことがあるからで、サイズも良隆にピッタリなのだろう。

良隆は動きにくい手や足をなんとか使い、いつもより何倍もの時間をかけて着替える。

そんな良隆を秘書は傍で立って待っているだけだった。
手には良隆が脱いだジャケットを持ちながら。


「あの」

「はい」

「それ」

「え・・・」

「持って帰っても良いですか」


良隆が何を持って帰ろうとしているのか、良隆の視線を辿らなくてもすぐに分かる。

「いいですよ」

秘書は躊躇うことなく、ジャケットを良隆の手に渡す。


「ありがとうございます」


良隆はしっかりとそれを握りしめると、頭を下げた。


「じゃあ、行きましょうか」

「はい」


秘書の声を合図に、良隆は玄関へと向かう。

騒々しい中で秘書に促されるように外へ出れば、そこにはすでに黒塗りの車が横付けされていた。

今までは何も感じたことがなかったのに、ヤクザだと聞かされた後では物々しく感じられる。

「どうぞ」

良隆は無言のままに後部座席に乗り込むと、ただただ真っ暗な外の景色を見ているばかりだった。

何度か秘書が話しかけても良隆の返答は曖昧なまま。


”せっかく助かったっていうのに・・・”


良隆は顔に持っていたジャケットを押しつけると、大きく息を吸い込んだ。

前中の香りが良隆の鼻孔をくすぐり、助かった喜びよりも


”寂しい”


そんな気持ちで良隆の胸が一杯になっていた。


車は順調に走り、夜中のうちに家にはたどり着いた。

「それでは」

秘書は良隆を車から降ろし、軽く頭を下げると再び車は走り去っていった。


ぼんやりとそれを見送った良隆は、真っ暗な家の中へと入っていく。

母親は当然ながら寝ているため、

「ただいま」

と言っても誰が答えてくれるわけでもない。

良隆はそのまま部屋へと向かうと、数日前に出勤した時のままのベッドに倒れ込んだ。


”今は何も考えられない・・・考えたくない”


それでも良隆は前中のジャケットを手放そうとはしなかった。


泥のように眠り、次に良隆が起きた時にはすでに正午近くになっていた。

空腹に目が覚め、リビングに降りていくと母親はちょうどテレビをみていたようで

「あら、いつ帰ってきたの」

と良隆の顔を見ると、驚いた顔をしていた。

「昨夜、遅く」

「そう、知らなかったわ。急な出張だったんでしょ」

「え・・・あ、ああ」

母親はテレビにまた視線を戻し、何気なく話し始めるが、その内容に良隆は一瞬戸惑ってしまった。

「初めてよね、出張なんて」

「うん、そう。ちょっと・・・」

「2、3日っていうのは聞いてたけど、いつ帰ってくるって聞いてなかったから何も食べるもの用意してないわよ」

「いいよ、適当に食べるから」

良隆はそう言いながら、なんとなく母親の視覚に入らないようにキッチンへと向かう。


”出張ってことになってたんだ”


ホッとしたものの、良隆は会社のことが頭をよぎった。


”会社には出張っていう理由は通じるわけがない。
それに、荷物だってそのまま置いてきてるし。

母さんは騙せても、会社は・・・”


ようやく頭も正常に稼働し始めると、良隆は会社での立場が厳しくなっていることを自覚するほかなかった。

特に仕事にやりがいを見いだしているわけではなかったが、職を失うという事態は避けたかった。

良隆はそう思い立つと、机の上に置いてあった菓子パンを手に

「まだちょっと疲れてるから」

「あ、そう」

部屋に再び舞い戻った。

そして、携帯を操作すると会社の上司へと電話を掛けた。

恐る恐る掛けた良隆に対し、上司は拍子抜けしてしまうほどに優しかった。

『いやー、災難だったね』

上司の第一声はそれだった。

良隆は戸惑いながらも、話をなんとか続けていると状況も理解できてくる。

『で、身体はどう』

「もう大丈夫なので、明日から出社をと思いまして・・・」

『ああ、そう』

上司は最後に『お大事にね』と言い残すと通話を終えた。


”何から、何まで・・・”


さらに、電話が終わったタイミングで

「良隆、荷物が届いてるわよ」

と母親に呼ばれた。

何かと思えば、それは自分があの日に会社に忘れていった鞄と、どこかの饅頭だった。
中身もちゃんと入っている。

「鞄もお土産も送るなんて、あなた手ぶらで帰ってきたの」

笑われながらも、母親に饅頭を渡すと良隆は再び自室へと
戻る。

箱には手紙やメッセージらしきものもなかった。
部屋に戻って鞄の中身を出しても、それは同じだった。

良隆はお礼を言いたい気持ちで電話を掛けてみたが、「ただ今電話にでることができません」と機械が答えてくれた。

あんなことを言ってもどこかで電話に出てくれると考えていた良隆だったが、繋がらないことに少なからずショックは受けていた。

良隆は代わりにメールを送ることにしたが、返事は何時間待ってもこなかった。


『よく考えて答えを出して欲しい』


前中にそう言われた意味がようやく分かってきた良隆だった。




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