俺としてはこのまま家に帰りたい気分だった。
なんだったら、もう1泊ホテルで泊まってもなんて思っていた。
それなのに、
「そのへんでいいですか」
と悪魔が半分呆れたような口調で横から口を出してきた。
しかも、
「先生、お疲れさまでした」
「本当です。
洋と関係がないお話なら、その場でお断りしていました」
「これでしばらくは静かになると思いますから」
「それじゃあ、洋と会えなかった1週間分・・・」
「承知しています。1週間、小野は風邪で休みということで」
「よろしくお願いします」
こんな光景は前に見たことがある。
俺を抜きにして、ドンドンと話が進む。
「じゃ、洋。前中さんがああ言ってくれたことだし、ホテルでまったり1週間・・・」
「お前は黙ってろ」
俺は赤城を制すると、悪魔と向き合った。
「どういうことだ」
「どういうこと、とは」
間合いを詰めようとした時、
「離して、離しなさいよ」
ホテルにはあまりにも不似合いな女の声が聞こえてきた。
俺の位置からだと、女が誰なのかはっきり見える。
さっきまで赤城と話していた宮下という名前の女。
「社長」
女は一人の男に腕を捕らえられた格好で再び俺達の前に連れてこられた。
俺としては2度と会いたくない、というか見たくない女。
ただ、女の顔はその口調とは裏腹に引きつけを起こしそうな程に強ばっていた。
悪魔は男の声に振り向くと、
「こんにちわ」
といつもの笑顔で女の方を見た。
女は俺とは違う、笑顔の男を見て少し顔の強ばりが解けた。
「ちょっと、この人はあなたの部下なの」
「そうです」
「女性に対してこの扱いは酷いんじゃない」
表情が変わると同時に、口調も変わっている。
「酷い・・・」
「そうよ」
「酷いというのは、どこからのことを言うんでしょうね」
「え・・・」
悪魔がそう呟くのが聞こえた瞬間、俺は女の末路を悟ってしまった。
きっと、俺なんかが想像できないほどの”恐怖”や”絶望”を女はこれから体験することになるだろう。
「そういえば、先生を部屋に誘っていたみたいですが」
その言葉に女の表情は再び強ばる。
「だから、何」
「先生の代わりに私が一緒に行きましょう」
「け、結構よ。あなたと一緒なんて嫌」
「そんなことを言わずに・・・ね」
「あ・・・」
悪魔は女の持っていたバックを取ると、中を漁り始める。
携帯電話と、そしてルームキー。
それを取り出すと、
「小野さんにあげます」
残った物をバックごと俺に寄越す。
「きっと、彼女にはもう必要なくなるでしょうから」
「そんな・・・いるわけねぇだろ」
「そうですか、質屋にいれれば多少のお金になると思いますが」
女は悪魔の言葉を聞き逃してはいなかっただろう。
化粧をしているのに、顔色が青くなっているのが分かった。
俺は急に女が可哀想になってきて、悪魔の手からバックを受け取ると、
「俺が貰ったもんだ、だからどうしようと俺の勝手。
だからあんたにやるよ」
「え・・・」
言いながらバックを女に返す。
「ちょっと、洋。
俺というものがいながら、その目の前で他の女性にプレゼントって・・・」
「なかなか小野さんはやり手だ」
悪魔と赤城は同時に、全く違うニュアンスのことを言う。
女は再び手元に戻ってきたバックを抱え込む。
そして唇をきつく噛みしめたまま、何も言わない。
「それでは、私達は彼女と一緒に・・・」
「ちょっと待ってくれ」
「何ですか」
「俺も付いていく」
俺が言った言葉に、悪魔はまったく動じなかった。
チラッと赤城の方を見ただけで、
「いいですよ」
とあっさりと承諾した。
「それじゃあ、行きましょうか」
悪魔が先導するように、俺達はホテルの8階へと場所を移す。
歩きながら、たくさんの視線に晒されていたが、誰一人として関わり合いになろうとしないため、すんなりと部屋へと到達した。
ただ、赤城が離れている間の分を取り戻そうとしているのか、身体を密着させてきて仕方がなかった。
815の番号の前まで来ると、悪魔が急に俺達の方を振り返った。
「それでは、扉を開けてもらいましょうか」
”さあ、どうぞ”という風にルームキーを女に差し出す。
女の方を見れば、顔面蒼白のままに首を横に振っている。
「あんたが開ければいいんじゃないのか」
俺がごく当たり前のことを言ったが、
「さあ、開けてください。
それと、入ったら”先生、こちらです”と言ってくださいね」
俺の言葉は見事にスルーされた。
女は俺の顔をチラッと見るのが分かる。
ただ、それが俺の横にへばりついている男には気に入らなかったみたいだ。
「すみませんが、俺の洋に色仕掛けなんてしないでいただきたい。
あなたが今からすることは、前中さんが言ったことであって、洋を誘惑することじゃない。
・・・油断も隙もないですね、この女」
赤城は酷い言葉を浴びせながら、俺の身体を女の視線から隠すように立ち位置を変更する。
別に女は俺を誘惑しようなんて思ってないだろう。
というよりも、助けを求めている。
だが、俺は助けることなんてできる立場ではない。
赤城とこの女がこんな1室にしけこもうとしていたことを差し引いたとしても、悪魔に逆らえるほどの力、俺になんかない。
「さあ、早くしてください」
悪魔の笑顔と、赤城の無表情ながらも先を促す無言のプレッシャー。
女はついに諦めたように悪魔の手からルームキーを受け取ると、扉の前に立った。
”カシャン”
という音と共に、女が扉を開ける。
「せ、先生。こちらなんです」
女の声は緊張で震えていた。
悪魔は女を先に行かせながら、自分は入り口近くで立ったまま。
それまで女を拘束していた男がゆっくりと中へ入っていく。
俺達はまだ扉から外側にいた。
女の姿が俺達の視線から消えたと思った瞬間、
「弁護士先生よー」
という男の声がはっきり聞こえた。
それと同時に、バタバタと何人かの足音が俺達のいる場所まで聞こえてきた。
「え、おい・・」
「ぅわあ、な、なんだ・・・」
「やめ・・・」
「きゃぁああ」
足音と共に声も聞こえてきたため、このままではマズイと感じた俺はつい赤城を押すようにしながら部屋の中へと入ってしまった。
いつの間にか悪魔は部屋の奥へと進んでいたらしい。
急に声が聞こえなくなったことに、正直に俺は怖くなった。
俺は恐怖と戦いながら、部屋の奥へと進んでいく。
・・・しっかりと赤城の腕を掴みながら。
短い廊下を抜けると、ツインのベッドがまず目に入った。
ただ、すぐに俺の視線はそこではなく窓際に空いていた小さな空間に目が釘付けになる。
女が化粧を崩しながら泣いている。
その前には口元をガムテープで塞がれ、手足を梱包用のナイロン紐で括られた男が2人転がされていた。
悪魔がベッドの端に腰をかけている。
ただ、悪魔らしいところが、その足が男達の顔側面にしっかりと押しつけられているところだ。
「さあ、これから簡単な質問に答えて貰いましょうか」
シンと静まり返った部屋の中で、第一声を発したのはもちろん悪魔だった。
「「んん・・・んんん」」
口を塞がれていながらも、男達は果敢に悪魔を睨み付けている。
そして、悪魔の言葉を拒否するように全身を揺らす。
「嫌なんですか」
「んん」
「別にいいんですよ、嫌なら嫌で・・・」
悪魔がそこで一度言葉を切った。
「言いたくなるようにしてあげるだけですから」
俺はどうしてこの部屋に来たいなんて言ってしまったんだろうとすぐに後悔した。
おもむろに悪魔が手のひらを掲げ、部下が何かを渡した。
部下から受け取った物、それは小さな針1本だった。
そして、それから俺は見てしまうことになった。
小さな針1本が人に与える痛みの凄さを・・・
悪魔は笑いながら、紐で後ろに括られた男の手を持った。
手を持たれている男は何をされるか分からず、暴れようとするが、それは許されなかった。
もう1人の男は目を見開き、相方のことを身じろぎもせず見ていた。
悪魔が持っている針が、男の爪と指の隙間に消えていく。
「んんんんん」
ガムテープをしているにも関わらず、男の声は部屋中に響きわたるぐらいの大きなものだった。
悪魔はその声を聞き、さらにその笑顔を深くしたように見えた。
その痛みはどれほどなんだろう。
俺は想像するだけで泣きたい気分になる。
赤城の腕を掴んだ指が小刻みに震えてしまう。
一方で怖いのに、目が離せない自分がいる。
男の指の隙間から針が離れていく。
指からの出血はなかった。
でも、男は目に涙を溜めながら震えていた。
さっきまでの抵抗はもう見られない。
「どの指が一番痛いか試してみましょうか」
「んんんん」
そこで俺はあることに気づいてしまった。
今、男が悪魔の質問に答えようとしてもそれを伝える術がないことに。
男達は口をガムテープで覆われているため、声を出そうとしても言葉として伝えることができない。
男達がこの拷問を受けなくて済むチャンスは元々、最初の1回しかなかったわけだ。
それを逃した男達は、この後悪魔の気が済むまでいたぶられるしかない。
初めて受けた痛みを人間は覚えている。
覚えているからこそ、2回目や3回目にその痛みに対する恐怖は増幅する。
悪魔はそれを知っている。
知っていてわざとそうしているとしか考えられなかった。
俺は自分がされているような感覚に囚われ倒れそうになるが、赤城に支えられてようやく立っていられた。
「あなた達のボスもバカですよね」
俺は見ていることができずに、目を閉じるしかなかった。
目を閉じた俺に、悪魔の声がはっきりと耳に入ってくる。
「赤城先生をココに連れ込んで、小野さんをおびき出そうなんて。
帰ったらボスに伝えてくださいね。
今回、先生の寛大な配慮もあり、あなたの命までいただきません。
が、まだこれ以上何か動こうとするのであればその時は容赦なく・・・」
「んんんん」
男の叫び声を聞きながら、自分の名前が登場してきたことに驚いた。
「洋。そろそろお暇しよう」
そう言ったのは赤城だった。
赤城は目を閉じたままの俺を抱きしめながら、ゆっくりと歩き始める。
俺の耳にはまだ男達のくぐもった悲鳴が聞こえる。
俺は耐えられず、耳を両手で塞いだ。
「それじゃあ、前中さん」
「先生、ご苦労様でした。
これで先生の周りをウロチョロする者も減るかと思います」
「なら結構です。せっかくの新婚生活を邪魔されたくありませんから」
「私も久しぶりにこうして遊べて良かったです」
「お互い、ストレスが溜まることが多いですから」
「本当ですね」
いくら俺が耳を塞いでいても、こんなに近くで話されると嫌でも聞こえてしまう。
俺は何の事情も分からないまま、ただ拷問シーンを見せられたことになる。
悪魔の爽やかすぎる声を最後に、俺と赤城は部屋を後にした。
扉が後ろで閉まる音がする。
その瞬間、俺は安堵感を覚えると同時に失神してしまった。
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