真実の彼 1

「どうも」


俺はたった一言それだけを言い残し、ホームレスへの第一歩を踏み出した。

振り返れば、高い塀に囲まれたコンクリート造りの刑務所でさえ懐かしく感じるもんだ。

塀の中に入ることになったきっかけは最悪だった。
だから、しばらくは塀の中だと分かっていても安心できなかった。
中だってあいつらの仲間がいるかもしれないから。

それも半年も経てば警戒心も薄れ、塀の中の生活にも慣れてくる。

早くこんな塀に囲まれた所から出たいと思う人間も確かにいるだろう。
でも出たくないと思う人間も確かにいて、俺はどちらかと言えば後者の方だった。


この生まれ持った顔のせいで今まで良かったと言える出来事はなかった。


そんな俺がこれからの人生で良いことが待っているなんて思える筈がない。

しかも今の俺は無職で家もない。
こんなんだったら塀の中で暮らしてる方がマシだったと思える。

刑務官は俺がまた戻ってくると思っているからなのか、
『二度と戻ってくるなよ』
とかいう薄っぺらい言葉もない。

俺は日用品と、中での労作業で稼いだ数万円が入った小さな鞄を手にブラブラ歩き始める。


迎えに来てくれる人間はもちろんいない。


5年近く塀の中で暮らしていたが面会に来た人間はいなかった。
手紙をくれる奴もいなかった。

そう考えると俺の今まで、36年間はなんて味気ないものだったんだろうって思う。


行くあてなんてない。


俺はひたすら近くの駅に向かった。

切符を買おうにも目的地を決めかねる。

気づけば俺の視線は前に通っていた駅名に吸い寄せられていた。
どれだけ時間が経っても習慣というのは恐ろしいものだ。


電車に揺られ、降り立った場所は5年経ってもあまり変わっていなかった。


帰って来たんだと懐かしさを感じると同時に、怖さもある。

なぜなら塀の中に入ることになった原因がここにあるからだ。

中にいた時、絶対ここには帰ってくるものかと思っていた。
それなのに、いざ塀から出てくれば帰る場所はココしか思い浮かばないなんて。

”俺ってなんて悲しい奴なんだ”

と思う。


でも、行く場所がない。


それこそ塀を出るまではホームレスでも何でもしてやると意気込んでいたわけだ。

ただいざ現実を目の前にすると・・・意気地がない、根性がない。
俺も自覚しているが、背に腹は代えられない。

駅から元いた風俗店まで、徒歩にして5分。
知り合いに会うかもと心中穏やかではいられなかった。

もし見つかったらどこかに連れて行かれ、殺されるな。
その時には痛くない方法でって注文したい。

バカなことを考えながら閑散としている昼の繁華街を歩く。


「眩しいな」


光がやけに目に痛い。
塀の中でも太陽は同じように存在していた。
それなのに、どうしてなのかこの日の太陽がとても眩しく感じた。

俺はどうにか誰も知り合いに会うことはなかった。
単純な俺はこれをラッキーとしか考えていなかった。

しかも勝手に店に戻った自分を想像していたわけだ。

きっとオーナーは困った顔をしながらも、仕方ないと言いながら俺を雇ってくれる。
最初は風当たりもきついだろうけど、ただそれだって少しの間だけだ・・・なんてな。

でも、


「嘘だろ・・・おい」


そんな想像をしていた俺が本当におめでたい奴だとすぐに思いしる。

そこにあるべきものがなくなっていた。

ビルは綺麗に様変わりしていた。
ただの改装じゃないことはすぐに分かる。

だってそこにあったのは金融会社だったからだ。
俺がいた『ココにタッチ』の派手な看板は・・・・ない。


「なんでだ」


動くこともできず、ぼんやりとビルを見上げ立ち尽くす。

変な顔をしながら俺の横を何人もの人間が通り過ぎて行く。
いつもの俺ならなら怒鳴って威嚇するところだが、今の俺にはそんな気力すらない。

”実家”の2文字が浮かんだが、高校中退と共に家を出てからもう10年以上帰っていない。
父親が今も昔と同じ家に住んでいるのか、いや生きているのかさえ知らない。

もう俺はどうすればいいのか分からなくなっていた。

分かっていることはココに俺の居場所はないということだけ。

どれだけの時間そこに立っていたのか。
俺はそのまま立ってるわけにもいかず、再び駅に戻るつもりで歩き始めた。


「小野 洋(おの ひろむ)さん」


「あァ」


俺の名前を知ってるような奴はろくな人間じゃないんだ。
そして、今の俺に仲間なんていない。

俺は精一杯威嚇する声で、普段から恐いと評される顔をさらに意識しながら振り返る。


「こんにちは」


振り返れば俺が拍子抜けするぐらい、普通の人間がそこにいた。

俺が知ってる奴らはたいてい派手な柄シャツを着ている。
まあ万に一つスーツを着ていたとしても金メッキの装飾品が目立つような奴らばっかり。

ところが、今俺の名前を呼んだ人間は俺が知ってる人間の正反対にも等しい奴だった。

明らかに高級そうなスーツに、装飾品だってスーツにさり気なく付いているシルバーアクセサリーだけ。
ニコニコと笑っている顔が、この状況では間抜けな感じもする。


「なんだよ、あんた」


俺は低い声で目の前の男をビビらせるつもりだった。


「初めまして、お勤めご苦労様でした」

「・・・・」


男のそれは天然なのか。
俺の精一杯の威嚇行為は実を結ばなかった。

それでも俺は態度を変えない。


「テメェ、それ本気で言ってんのかよ」

「いたって私は本気ですが」

「・・・・」


男の飄々とした態度に次に言う言葉が見つからない。


「小野さんはこれからどちらに」

「どちらって・・・」


分かっていて言ってるとすれば嫌みでしかない。


「あんたに関係・・・」

「あるんです」

「は・・・・」

「とある方が小野さんとお知り合いになりたいそうなんです」

「・・・・なんだそれ」


男はニコニコしながら話し続ける。
ただ目の前の男がパシリなのが分かった。

誰かは分からないが俺を連れてくるように言われたんだろう。

パシリ程度の人間だと判断した俺は、


「誰に頼まれたんだ」


とさっきよりも声に余裕を持たせて話す。
そして呼びだした相手が誰なのか探ろうと試みる。


「それはここでは言いかねます」

「そうか」


俺はそう言うと、ゆっくりと息を吸い込む。
一呼吸置いた後、


「もしここで俺が嫌だと言ったらどうする」


目の前の男と同じように、ニヤッと笑ってやる。
俺として男が動揺すればいいと思ってやったはずだった。

ところが


「そうですね・・・困る、かもしれません」

「かもって・・・」


もっと男が焦るかと期待していたのに、つくづく予想外のことをしてくれる。
男の態度に拍子抜けしてしまう。


「ああ、困るといっても私じゃないですけど」

「じゃあ誰が・・・」

「小野さんが困るかもしれません」


笑顔を一切崩さず、淡々と話し続ける男の余裕に不信感を抱く。

”何か切り札を持っているのかもしれない”

それはある意味、的中した。


「もし来てくださらないというのでしたらココに連絡させてもらいますが・・・どうですか」

「ココって」


男が小さなカードを手に、俺が見やすいようにと目の高さに掲げてくれた。
俺と男の身長はたいして変わらない。
しかし、俺の方が男よりも少し上だ。

そのカードを視界に入れる。

カードには名前と電話番号が記されていたが問題はその名前だった。


「テメェ、なんでそんなもの」


カードに記されていた名前に嫌というほど見覚えがあった。

きっと俺を殺したいと願っている男だ。


「ど うしますか」


男は相変わらず楽しそうに笑ってやがる。

逆に俺が焦らされている状況。


「テメェ、・・・誰だ」


ここまでくると男が普通の人間じゃないことが分かるってもんだ。

今の俺を動物に例えるなら全身の毛を逆立てている感じ。

俺の目の前にはどんな状況でもヘラヘラと笑っている男。
そんな奴が俺にはライオンの前であったとしても笑っているんじゃないかとさえ思えた。


「失礼、自己紹介を忘れてました」


男はそこでようやくポケットから名刺を出し始める。


後々考えれば、この時、この男はその状況を楽しんでいたんだろう。
己の正体を知らない人間が必死で牙をむく姿を面白がっていたんだ。
そして、俺が正体を知った後の反応さえも期待していたんだろう。


その時の俺は期待通りの反応を見せられたかどうかは分からないが。


「お前、これ・・・」


受け取った名刺の名前に俺はまず固まった。

名前を知っていただけではなく、同時に嫌な噂を思い出した。


「私のこと、ご存じですか」

「ご存じって・・・」


俺の顔色は一気に青ざめていっているだろうし、逆立てていた毛はシュンと縮こまってしまった筈だ。


「あく、ま」


俺は男の愛称として呼ばれている言葉を口にした。


「悪魔とは心外ですね。
私はこれでも天使のつもりなんですが」

「じゃあ、死の天使だ」


俺は精一杯の虚勢でもって答えたが、心の中では聞いた噂が駆け巡っていた。


”笑顔で人を切り刻むらしい”

”留めはささなくて、殺してくださいとやられてる方が言うまで痛めつけるらしい”


どんな拷問を受ければそんな事を言うようになるのか。
痛いことが苦手な俺は心底怖かったことを覚えている。

絶対にそんな奴とは関わらないでおこうと思っていた。

それなのに、悪魔が向こうからやって来た。


「いいですね、ただ悪魔と呼ばれるよりずっといい」


悪魔はそう言いながら笑う。
さっきから変わらず笑っているというのに、なぜか男の正体を知った後ではその笑顔が恐ろしく感じる。


「俺に何の用があるんだ」


俺は悪魔の雰囲気に呑み込まれそうになりながら、必死で耐えていた。


「俺は、まあ、あんたも知ってるだろうがムショから出てきたばっかりだ」

「存じてます」

「ソイツに頼まれた、・・・わけないか」


”頼まれたのか”と聞きたかった。
ただ、立場的に言えば目の前の男の方が数段上だ。

頼むことがあっても頼まれることなんてないだろう。


「最初に言いましたが、あなたとお知り合いになりたいとおっしゃる方がいるんです」

「はっ、そんな俺とお知り合いになりたいなんてロクな奴じゃねぇな」

「そうですね、ロクな方ではないことは確かです」

「あんたと知り合いって言う時点で相当な」


俺はこの時点で逃げられないことを悟っていた。

ここで男を振り切って逃げたとして、俺に未来はないだろう。


俺は大きなため息を一つ吐き出す。


”どうせ今までの人生でも良いことなんてなかったんだし、これが俺にはお似合いだ”

そう自分に言い聞かせ、


「しゃーねーな」


俺は承諾の言葉を呟く。


「では、向こうに車を待たせていますので」


俺は悪魔に先導され、遠くに見えるカボチャの馬車ならぬシルバーに光り輝く外車を目指して歩き始める。


「なあ」

「はい」

「連れて行ってくれるのは、天国か。それとも地獄なのか」

「さあ、どちらでしょう」


悪魔は笑顔を崩していないんだろう。

噂は本当だったんだと嫌でも悟る。


「それと、俺はあんたのことを何て呼べばいい。
若頭、社長、兄貴・・・」


俺がいくつか呼称を連ねていると、


「さん付けで結構です。人前では社長でも結構ですし」


まさかそんな呼び方でいいと思っていなかった俺は内心で驚きながらも、


「あ、そう。じゃ、基本はさん付けで」


となんでもないような声を出した。


「じゃあ、前中さん」

「はい」

「改めて聞くが、誰が・・・」

「それはお楽しみに」

「さあ、どうぞ」


悪魔はさも楽しそうに車のドアを自らの手で開けた。




向かった先は天国か、それとも地獄だったのか。


その答えは今でも分からないままだ。


ただそこには天使の仮面を付けた悪魔が待っていただけ。




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