3.断たれた退路

それからの毎日は真剣勝負と言ってもいい。
時任自身はただ脅されているだけ、自分は被害者だと思っているだけで俺がどんな気持ちなのか想像できない、いや想像したくない状態。

俺は自身は時任の中に眠っているペットとしての本質を見極めたいと思ってた。
そして、それをどうやって時任自身に自覚させるのか・・・その方法やタイミングを考えなければならない。

痛みを好む奴もいれば、逆に痛みを好まないものもいる。
痛みと言っても肉体的なものや精神的なものと色々あるし、その人間が何を求めているのかを把握していく必要がある。

それに人には限界値というものもある。
人それぞれ我慢の限界というものが違うのだから、その限界値もそれぞれ。

ペットの限界を見極めてやり、壊れないようにするのも飼い主としての義務であり責任だと思ってる。

主従の関係、SとMの関係と言えば一般的には人をいたぶったり、傷つけたりして喜ぶ人間。
それと反対に、人にいたぶられたり、傷つけられることを喜ぶ人間と極端に分けることが多い。

しかし、そんな簡単に分類できるようなものでもない。

分かりやすく言えばペットと飼い主の関係が近いかもしれない。

飼い主はペットの気持ちを常に考え、どれだけそのペットが心地よく過ごせるのかを考えてあげる。
ペットはというと、飼い主が世界の中心。
飼い主が嬉しければ同じように喜び、そして同じように悲しむ。
時々飼い主は躾として罰を与えるかもしれない、しかしそれはペットが受け入れることができる範囲。
それを超えるような罰などを与える必要はない。

本当の動物であれば簡単なことであったとしても、お互いが人間同士の場合には難しい。
ただ俺も相手も人間であればこそできることもあり、そこへ辿りつけることができれば最高のパートナーとなれる。


俺としてはそのパートナーが時任なのかどうか・・・


「そうだと思う」


奈美が珍しく携帯に連絡を寄越してきたのは、俺が時任に正体をばらした次の日だった。
どうして電話を掛けてきたのか、そんなことをわざわざ聞く必要はない。
時任が俺のペットになる存在か尋ねると、奈美はあっさりと答えてくれた。

その根拠は何なのかを聞いてみたい気もしたが、

「あなた達はお互いに目を離せないって程に惹かれている。求めあってる」

そこまで言われてしまうと「そうですか」としか言いようがなかった。



俺は時任に生徒だと明かしたその日。

「やっぱり、少し赤くなってる」

時任の手首に唇を当て、見せつけるようにしながら言葉を紡いでいく。
俺の吐息が、声の震動が時任の手首から全身へと伝わっていく。

「は、離せ」

「いいよ。離してほしかったら、振り払ってみなよ」

俺の視線は時任のと絡み合っている。

時任は唇を噛みしめがら、

「くそ」

と呟くだけで、俺の手を振りほどけずにいた。


「先生」

「何だよ」

「あれから帰って・・・・どうしたのか教えてくれたら離してあげるよ」

「あれからって・・・」


時任はそう呟くと、何を思い出しているのか顔を真っ赤にさせる。
それだけで俺は時任が何をしたのか分かってしまう。

「先生。教えて」

「寝た。寝たに決まってるだろ」

俺の目を見ないようにして時任が言う。

「寝た?本当に?」

「本当に決まってる。だから、離せ」

「ふーん」

俺は決して手を離さない。

「おい」

たまらないといった感じで時任が再び俺の顔を見る。


「俺の目を見てもう一回言ってみてよ」

「え・・・?」

「それが本当なら俺の目を見て言えって言ってるんだよ」


恐らく俺の声色は冷たくなっている。
それを時任も感じ取ったみたいだ。


「ほら」


俺がさらに促すと、時任は何も言えない様子で俺の顔を呆然と見詰めるだけになる。
口が何かを言おうと開くが、それは音として聞こえてはこない。


「先生。恥ずかしがることはないんだよ。気持ち良かったと思うこと、それを思い出してマスターベーションに耽ったとしても・・・」

「な、な・・・」

「別に俺は先生を責めたりはしない。それが成人男性としては普通の行為だと思うから」

「お前・・・何を・・・」


時任は相変わらず顔を真っ赤にさせている。
俺はもう一度、さっきよりもゆっくりと、そしてはっきりと言葉を紡いでいく。



「先生。だから、素直に教えて。昨日、帰ってから何をしたのか」



「・・・・した」




時任は俺の顔を見ていることができない様子で目を閉じてしまった。


今はそれでもいい。


「先生、聞こえなかった。もう一回、ちゃんと教えて」


「1人でした。・・・・もうこれでいいだろ」


そう言うと、時任が俺の手を振りほどこうと力を入れるのが分かる。


「いいよ」


俺も今度は素直に手を離してやる。
ただ、それは時任には意外なことだったのか、手が自由になったことを喜ぶというよりも驚いた表情を見せる。


「先生。卓球クラブの可愛い部員達が待ってる」


そんな表情には気づかないふりをしながら、時任に今の状況を思い出させる言葉を呟く。

「あ・・・」

「さあ、腕も自由になったんだから」

俺の言葉にようやく時任は次の動作を開始する。

素早く俺の身体から離れると、体育館へと足を向ける。


「お、お前、もうこんなこと・・・止めるんだぞ」


教師としてのプライドを守るための言葉なのかもしれない、しかし顔を赤くさせたまま言う言葉に説得力は皆無に近い。


「先生」


俺に背中を向け、歩き始めるのを見つめる。
そして、もう一度声を掛ける。

時任は振り向くことはしなかった。
ただ、俺の言葉に前に進むこともできず立ち止まってしまう。


「また明日」


俺の言葉に時任は何も答えなかった。
今の段階ではそれで良かった。
俺の声に立ち止るだけで成果だと言える。

全てはこれから。








きっと時任は警戒していたはず。
一日中俺という存在がいつ目の前に現れるのか・・・

でも、俺はそんな時任の期待を裏切るように時任の目の前に姿を現さなかった。

その次の日も俺は時任の前には姿を現さなかった。


姿を見せないからといって俺が時任を見に行かなかったわけじゃない。


何度か遠くから時任の姿を見た。


時任は生徒に声を掛けられる度、必要以上に身体を震わせているように見えた。
そして振り返り、俺ではないことを認識すると身体から一気に力が抜け、笑顔を見せる。

ただ、俺にはその笑顔が作り物の笑顔にしか見えなかった。


時任の頭の中は俺のことでいっぱいなんだろう。
それが俺の狙いでもあったけど、本当に時任はその俺の期待に応えてくれていた。


2日経てばまた状況は変わる。


時任が生徒に呼ばれても何の警戒もせず振り向くようになる。
その様子を見て取ると、俺は次の行動に出ることにした。


授業の合間、時任が教科書などを脇に抱えながら俺の数メートル前を歩いている。


後姿からはほんの2日前まで纏っていたはずの緊張感はすっかり無くなっていた。
前から歩いてくる見知った生徒にも声を掛けている。


”今だな”


俺は心の中で呟くと、


「時任先生」


と名前を呼ぶ。


すると、時任は立ち止まる。
面白いぐらいにその身体に緊張が走ったのが分かった。

時任は振り返らない。
視線を下げると、教科書を持っている手が微かに震えているみたいだ。


「先生」


俺は数歩の距離を取ったまま、時任のことをもう一度呼ぶ。


ここで時任が振り向くか、振り向くことをせず逃げるか・・・・


時任の前からはまた生徒が2人、歩いてくる。
何も知らない生徒の手前、ここで時任が外聞を考えることなく逃げるならそれまでだと俺は思ったかもしれない。




「・・・その顔は反則だと思うよ」




俺が思わず言ってしまうぐらいの表情だった。

振り返った時任の表情は、俺が目の前に現れたショックとそして奥底に潜む喜びが複雑に絡み合い泣きそうな表情になってる。


「先生」


時任は何も答えない。


「時任先生」


俺が何度も呼びかけるのに反応を示さない時任に、横を通り過ぎて行く生徒達が不審な顔で時任を見て行く。


「先生」


何度目だろう、俺の言葉にようやく時任が反応を示す。


「な、何だ」


それはあくまでも生徒に呼びかけるような言葉だったが、声が微かに震えているのが分かる。


「質問したいことがあるんですけど」

「それは担任か、君の学年を担当している教科担当に質問した方がいいんじゃないか?」

「いえ、時任先生に聞きたいんです」

「俺は答えられるか分からないから・・・」


時任は一歩、後ろへと下がっていく。
俺は一歩、時任へと踏み出す。

時任の視線は俺から離れない。
いや、離れられないというのが正しいのかもしれない。

本人にその自覚があるかどうかは別だとしても。


「時任先生にしか答えられない質問なんですけど」


俺はあくまでも困ったような表情を作る。


「それは・・・」


また一歩、時任が下がる。
それを追いかけるように俺は大きく二歩、前に進む。


「先生、俺の質問に答えてください」


時任がまた一歩下がろうとする、しかし俺はそれよりも早く二歩進む。
すると、二人の距離は2メートルもない程になる。

俺が手を伸ばせば時任を捕まえることだってできる。


「先生。ここ2日間俺がいつ目の前にやって来るのかドキドキしてました?」

「ドキドキって・・・ビクビクの間違いだろ」


時任はさも俺が言葉を選び間違えたんだという風に、皮肉気味に笑いながら答える。
それを俺はすぐに正す。


「いいえ、間違いじゃないですよ。じゃあ、家に帰ってから俺が姿を見せなかったことについて考えましたか?」

「は?」

「俺が来なかったことを考えて、安心しましたか?」

「それは・・・安心したさ」

「で?」

「でって・・・」


時任は明らかに戸惑っていた。
俺の質問の意図が分からないって感じだ。

時任が何か言いたそうな顔を見せた時、


「時任先生」


時任の名前を呼ぶ他の教師の存在が、俺の眼に入る。

”良いタイミングだな”


「先生?」


その教師が振り返らない時任を不審に思ったのか、もう一度呼ぶ。

「時任先生、呼ばれてるみたいですよ」

俺は呆然としている時任に声をかけてやる。


「え・・・」

「後ろです」


俺の言葉に時任はようやく後ろを振り返る。


「あ、安藤(あんどう)先生」

「時任先生、どうしたんですか?」


安藤と呼ばれた教師は不審な表情を隠そうともせず近づいてくる。
そして、俺の姿を認識すると

「ああ、彼と話をされてたんですか」

とすぐに納得したという風に変わる。


俺もこの状況をすぐに受け入れることにし、

「先生、ありがとうございました。また、教えてください」

と時任に丁寧に一礼すると、横に立った安藤にも軽く頭を下げる。


「あ、ああ。またいつでも分からないことがあれば来いよ」

「はい、そうします」


時任は困惑した表情をしながらも、普段生徒に声を掛けるように俺にも声を掛けてきた。


そして俺はその場を立ち去って行く。

俺の背中には時任の視線が痛いほど突き刺さっているのが分かった。
でも、俺は振り返ることはしない。

俺は歩きながら自分が笑っていることに気づく。


”時任は恐らく思い起こす。俺が姿を見せなかったその日の夜の自分を・・・

まあ、安心したというのは本当なんだろう。

ただそれだけだったのかということ。

単純に安心しただけだったのか・・・そこに落胆の気持ちはなかったか・・・”


時任には大いに悩んでもらう。
ゆっくりでいい、自分の内面の奥深くに隠れている感情を見つめて行く必要がある。

その日はそれだけの接触で終わらせる。

しかし、今度は日を置くことはしない。


翌日には再び時任へと近づくタイミングを見計らうことにする。
今度は他の人間に邪魔されないように・・・

それは放課後にやってきた。


すでにクラブに属している生徒は各自、クラブ活動へと向かう。
そして、帰宅部のものは家路を急いでいる。

そんな生徒達が慌ただしく活動している中、俺は1人で廊下を歩く。
時任を探すため、職員室や時任が担当している3年の校舎。
最後に体育館を回る。


「みーつけた」


いつものように時任は体育館にいた。

時任は俺が見ていることを知らないまま、生徒達と一緒にラリーをしている。
しばらく見ていたが、急に時任が生徒達に何かを言うとその場を去る。

すかさず俺は後を追うことにしたが、時任は体育館を出ると校舎に戻った。
ただ、そのまま職員室に行くわけじゃなかった。

時任はある扉を開けて入って行く。



「先生」



俺も同じように扉を開けて中へと入る。

「お、お前・・・」

時任は俺の姿を見ると、驚きを隠しきれない様子で俺の方を見る。


「別に急がなくてもいいよ」


まあ、急ごうとしても無駄だろう。
生理現象を自分の意志でどうこうするのは難しい。
しかも時任の今の状態は俺が近付くのをそのままの体勢で待っていることしかできない。


「俺も先生の隣で用をたそうか?」


俺はからかいの意味を含みながら、時任の横に立つ。


「そうだ、先生。昨日の質問にもう一度ちゃんと答えて貰いたいんだ」

「な、何を・・・」

「俺が姿を見せなくて安心したって言ってたけど、本当にそれだけだった?」


時任がこの場からどれだけ逃げたいと思っていたとしても、退路は断たれている。
そう、ここはトイレで・・・逃げ出すには俺の背中越しにある扉を開けて出ていかなくてはならない。


「先生、時間はたっぷりある。ゆっくり考えようか」


俺はそう言いながら、ゆっくりと時任へと手を伸ばしていった。




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