6.


英華の宣言は良隆を大いに困惑させた。

一年近く前中と過ごしてきたが、婚約者がいるという話は聞いたことはない。

社長という立場上、接待で女性のいる店に行くことは理解しているし、前中からも毎回報告を受けているし、

『私には良隆さんだけですから。別に私は行きたくないんですが、これも仕事なので・・・』

と言われれば、不安に思う必要もなかった。

だからこそ、英華の言葉に戸惑うなという方がおかしいぐらいだった。

頭の整理がつかないまま、視線だけ彷徨わせていると

「正式にはまだ婚約していないですけど、それも時間の問題です。
私の父は峻さんの親代わりのようなもので、父がそうと決めれば峻さんがそれに従うのは考えるまでもないですから」

英華が再び弾丸のように言葉を並べていく。

「ご存知かと思いますけど、別に峻さんの性的嗜好は男性に限定されていないですから。
あなたは私との結婚までの繋ぎのようなもので・・・申し訳ないですけど、性欲処理的な・・・ね。
もし、峻さんと別れた後であなたにそういう相手が欲しいというのでしたら考慮させていただきますけど」

「せ、せ・・・」

自分が貶されているということは嫌でも分かった良隆だったが、
それ以上に英華が前中のことを【峻さん】と呼んでいることの方がが気になった。

自分は未だに『前中さん』と呼ぶのが精一杯で、それすらも緊張で詰まることすらある。

英華は良隆が何も言わないことをどう受け取っているのか、

「じゃあ、お金か新しい相手か・・・どちらもというのでしたら、それでもいいですけど、考えてみてください。
あなたには悪い話じゃないと思いますから。
それに、よく考えてみて欲しいんです。
あなたみたいな人に峻さんがふさわしいか、どうか」

それだけ言うと立ち上がりながら、名前と携帯番号を書いたネームカードを机に置くと

「決まったら連絡してくださいね」

良隆のことを振り返ることすらせず、去っていった。

残された良隆はネームカードをポケットに入れると、自分のデスクへと戻って一心不乱にキーボードで数字を打ち続けた。


『何も考えたくない』


それが正直な感想だった。

英華に言われるまでもなく、前中は良隆にはもったいない存在であり、自分が恋人として傍にいることが夢のようだと感じていた。

そして夢はいつか覚めてしまうと、どこかで不安を抱いていた。

英華の存在がなかったとしても、そのうち前中は良隆に飽きてしまったり、幻滅して離れていくだろうと覚悟していたつもり。
その時が来たらすがりつくような醜態を晒さず、「今までありがとう」と言って別れるつもりだった。

それが少し早くなっただけだと良隆は思うことにした。

ただ自分から別れを切り出すことはできないということも分かっていた。

最後は別れることになったとしても、一日でも長くこの夢の時間を過ごしたいと思うのは悪いことだとは思えない。
いくら夢はいつか覚めてしまうと分かっていても、少しでも長く・・・




「良隆さん、良隆さん」


「・・・・あ、あ、はい」


前中が声を掛けた時、良隆が上の空で返事が遅れるというのは珍しくはない。

ちょっとしたことで良隆は妄想の世界へとトリップしてしまうことがあるからで、
それは前中も分かっているからいくら返事が遅れても気にすることはない。

それに、良隆のしている妄想は幸せなものであったりするようで、妄想世界に入っている時の表情は緩み、時には「クフッ」「フヒヒ」と奇妙な声まで漏れてくるほどだった。

その光景は第三者が見れば薄気味悪かったり、奇異なものとしか映らないだろう。

しかし、前中はそんな良隆を愛おしいとさえ感じるし、
妄想世界のことで頭がいっぱいになっている良隆は見ていて飽きないとさえ思っていた。

加えて言うなら、前中はわざと良隆が妄想してしまいそうなフレーズを提供している節もあった。
決して良隆は気づいていないようだったが・・・

ところが、ここ数日というもの、良隆が妄想しているのは幸せな展開ではないようだった。

いつものように、不意に妄想世界にトリップすることはあっても、その表情は硬く、時には泣きそうな顔も見せていた。



良隆の妄想の中では、良隆自身は饒舌で、前中の顔を臆せず正面から見ることもできる。


『前中さん、今日から私達も正式な夫婦ですね』


新しい部屋の玄関、良隆と前中は二人で立つと、良隆は隣の前中に笑顔で呟く。
この場所が今日から二人で新婚生活を送る場所のはずだった。
良隆が一歩を踏み出そうとしたところで、

『いいえ、良隆さん。私達ではないですよ』

前中がいつものように優しい笑顔でそれを否定する。

『え・・・』

『ここは私と彼女が暮らす場所ですよ』

いつの間にか、前中は良隆の隣から正面に移っていた。
そして前中の隣には数日前に見た英華が勝ち誇ったように笑顔で立っていた。

『さあ、峻さん。行きましょう』

『そうですね』


前中と英華は二人して微笑み合うと、良隆をその場に置いたまま、新居へと入って行った。
無情にも良隆の目の前で閉じられ、良隆はただ茫然と開くことのない扉を見つめるしかなかった。




かと思えば、良隆がいつものようにコミケの帰り道に前中が迎えに来てくれるシーンに変わる。

良隆は車の助手席で戦利品を広げながら、

『今回は凄いんですよ、なんと山野先生がサークル参加してたんですよ。
何度か参加されたことがあるっていうのは噂では知ってたんですけど、サークル名も知らないしで・・・
カタログを眺めていて、このイラストのタッチは、って思って見に行ったんですけど、まさしくで・・・』

興奮しながら話す良隆に、いつもの前中なら

『そうですか、良かったですね。次も来てると良いですね』
『次はぜひ一緒に行かせてくださいね』

と言ってくれる筈だった。

それなのに、今日の前中は笑顔を浮かべているものの、終始無口だった。
おかしいと感じた良隆が

『前中さん?』

と声を掛けた後、前中が口元を歪め

『気持ち悪い』

と吐き捨てるように言った。


『え・・・?』


何を言われたのか、一瞬では理解できなかった良隆だったが、

『やっぱり良隆さんの趣味って変で、気持ち悪いんです。
今まで我慢してきましたけど、もう無理です』

前中が『あぁ、気持ち悪い』と連呼し、その表情も良隆を蔑むような、嘲笑するようなものだった。

『ま、えなか・・・さん』

戸惑う良隆に、前中は路肩に車を止めると

『降りてください』

と良隆に告げた。

『え、え・・・』

あまりのことに動けなくなっていた良隆に、大きく息を吐き出し、自らが運転席から降り、助手席の方へと回ると、

『さあ、降りてください』

扉を開けて言い放った。

良隆は抵抗することもできず、どうにか荷物を持って車から降りると、
前中は良隆のことを見ることもなく、運転席へと再び戻った。

そして、助手席の窓がゆっくりと下ろされると、荷物を抱えたままで棒立ちになっている良隆に対して

『さようなら』

と、満面の笑顔を残して走り去ってしまった。




前中が今の良隆の頭の中を覗いたなら、お腹を抱えて笑いだす、なんて珍しい姿を晒してしまう事態に陥るかもしれないが、
残念なことに前中にはそんな芸当を持ち合わせてはいなかった。

ただ、それでも良隆の固い表情や泣きそうに歪められる姿を見れば、良くない妄想だろうということは分かった。

いちおう、良隆には

「何かありましたか?」

と声を掛けるものの、

「え、そそ、な、何も・・・」

明らかにおかしい言動にも気づきながら

「そうですか。
だったらいいんです、私の思い過ごしですね」

決して追求することはしなかった。

その後も良隆は心ココにあらずという雰囲気を時折醸し出していたが、前中は指摘することはなかった。
そればかりか、良隆のグルグルした表情を、これはこれでいいなと楽しげに見つめていた。

一方で前中がそんな風に良隆のことを見ているなんて全く気づかないまま、
老舗の天ぷら懐石を食べたというのに、良隆は家に帰ってもその味を思い出すことができないほどに気持ちは不安定なままだった。

部屋に戻りベッド脇に山になっている本の背表紙を眺めつつ、その中から一冊を選ぶとベッドに寝転がって読み始める。

もともと良隆が好んで読むBL本というのは同性を好きになったことに悩みながらも、押しの強い相手に惹かれていき、結ばれていくという純愛路線だった。

さらに前中と付き合うようになってからは、そこに性描写の激しいものが加えられるようになったのは恥ずかしくて言えないこと。
そういうものは主に義妹から借りて読んだりしていたが、て英華から前中との話を聞いてからというもの、ライバルというべき女性や男性が出てくるような本を何冊か気になって読んでいた。

本の主人公達も今の良隆のように悩みながらも、一度は相手に別れを切り出すものの、

『俺はお前の方が好きだ。俺はお前を離す気はないからな』

とか言いながら、二人は互いの愛を再確認したり、愛を深めることになるという内容がほとんどだ。

良隆も本を読みながら、何度も登場人物を自分と前中に置き換えて妄想していた。

こうして妄想の中の良隆と前中は互いの絆を強くしていくものの、いざ現実に前中を前にすればそんな妄想は欠片も浮かんでこない。
頭を駆け巡るのはバッドエンドの結末ばかりで、気分は沈んでいくばかり。
それまで前中に会うことが楽しみでしかたなかったのに、今は前中に会うことが苦痛になりかけていた。

良隆はまた沈みそうになる気持ちを幸せな恋人達が描かれている本に集中することで振り切ることにした。




「可愛い、良隆さん。・・・可愛すぎる」

前中は自宅に戻ると、さっそくパソコンで良隆の様子をチェックする。

ある日、パソコンの調子が悪いという良隆に知り合いの修理業者に直してもらうという名目で預かると、
前中にとっては都合の良いが良隆にとっては迷惑でしかないウィルスの数々を仕込んだ状態で返した。
しばらく前には部屋にカメラと盗聴器も仕掛けることに成功し、
それ以来、前中は好きな時間にパソコンを通じて良隆の様子を覗き見ることができるようになっている。

さっき別れたばかりの良隆の様子を覗きながら、良隆の浮いては沈む表情の変化を肴に前中は酒を嗜んでいた。

前中の手元にはすでに英華が良隆と接触したという報告書が届いていて、その内容も写真と共に詳細に書かれていた。

この出来事が原因で良隆が落ち込んでいることは十分承知した上で、前中は今の良隆の状態を楽しんでいる部分があった。
良隆が自分ではない、他の人間のことで悩むことは許せないが、前中のことを考えて苦しんでいるのを見るのは楽しくてしかたがない。

前中は良隆の姿をパソコンを通じて見ながら、簡単なメールを送る。

『今日は楽しかったです。週末は泊まってくださいね』

たった二行ほどの文章を書くと、すぐに送信する。

すると、映像の中の良隆にそのメールは届いたのだろう、しばらくすると、良隆は突然立ち上がると部屋の中を意味もなく歩き始めたようだった。

良隆が現在パソコンを置いている場所からでは、内蔵カメラはベッドを中心に映し出されるようになっていて、ベッドから良隆が離れるとその姿が見えなくなってしまう。
ただ、時々見える良隆の姿にどういう状況なのか想像することは簡単だった。

何周か部屋を回った後、ベッドに戻ると何か呟きながらメールを打ち始めた様子の良隆だったが、なかなか前中のもとにメールが届くことはなかった。

ようやく前中の携帯にメールが届いて見れば、

『私も楽しかったです、ありがとうございました』

の一言だった。

この文章を打つのにどれだけの時間が掛かったのか、良隆が何度も書いては消しを繰り返しながら打っている様子を見ていた前中にはたった1行のメールでも十分だった。

そんな良隆を眺めていると、秘書から連絡が入った。

『お疲れさまです。鍋島に連絡を取りました』

「誰が」というのは聞かなくても分かるというもの、さらに鍋島という名前で次にどんなことが起ころうとしているのか、前中には手に取るように分かった。

「そうですか、面白くなりそうですね」

前中の言葉に秘書は何の反応も示さなかったが、気にすることはない。
いくつか指示を出すと、前中は電話を切った。

再び良隆の方を見れば、ようやく寝ることにしたのか、部屋の電気が消されようとしていた。


「おやすみなさい、良隆さん。
もっと悩んでくださいね、私の事しか考えられないぐらいに」


聞こえていないのを承知で前中は映像の中の良隆に囁いた。


こんなこと、良隆がもし知ったら「酷い」としか言わないだろうが・・・




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