5.

数日は何ごともなく過ぎていった。

前中の秘書は顔と身体の見えない部分に青痣を隠しながら、仕事はこなしていた。

失敗をした状態で生きていられるのは奇跡とさえ感じていた。

身近で見ていたからこそ前中の容赦のなさを嫌というほど知っている、前中の無情で非情な心理。
今までの経験上、こんな失敗をしたままで生きていられた人間はいないに等しい。
生き残ったとしても、五体満足とは言えない状態だったり、殺された方がましだったというような形でしか生かされていなかった。

少し殴られたぐらいで済んだのは、三年以上も秘書として働いてきたことによる温情なのかもしれない。

いや、前中にそんな人間らしい心があるとは思えなかった。

ただの気まぐれだと思うべきで、また同じことがあったとして生きていられるとは限らない。

一方で、この出来事によって部下達の気持ちは引き締まったことだろう。

前中が恋人を得たことで優しくなったとか、悪魔から人間になったとか、そんなことが囁かれつつあり、
部下の中には気持ちが弛んでしまったような奴らがちらほらいたのも確かだった。

しかし、そんな噂は根も葉もないものだということは前中の所行を間近で見ている秘書が一番分かっていた。

前中は変わらず悪魔のままだということを。

この一件で部下達も前中が変わっていないのだということが分かっただろう。

そんな悪魔のような前中に自分の可愛い娘を嫁に差しだそうなどと考える本山のことが信じられない気分だった。

今の前中の肩書きは三次団体のしかも組長代理である。

しかし、前中が本気になれば本山を軽く越えてしまう危険がある。

それは絵空事ではなく、前中の交友関係を考えれば、もし前中が望めば簡単にそれが叶えられてしまうのは間違いなかった。

だからこそ、本山は自分の娘を使って前中を組に縛り付けようとしているのだろう。

そんな前中がいくら脅威になってきているとか、自分の懐に入れたいからといっても、自分なら別の方法を探るだろう。

そして英華自身はまた違った意味で前中を手に入れたいと考えているのは間違いない。

英華は今まで欲しいと思った物、金で手に入るものであれば父親に頼めば簡単に手に入れてきたし、男も同じように手にしてきた。
そんな英華にとって前中は自分の横に立つには申し分のない人間だと思っているんだろう。

もし結婚をしたら、前中の手にしているお金は英華のものであるし、今以上に優雅な生活は保障されている。
さらに前中という極上の男を横に据えることで自分の価値もさらに上がり、様々な女から羨望の目で見られることは間違いない。

だからといって恋人との逢瀬中の前中の前に現れるような行動に出るとは、よほど図太い神経を持っているのか・・・
それとも父親と同じで考えが浅いのか。

方向はどうでも、人を人とも思わない残忍性と金を生み出す力、そして一見すると人を引きつけるような容姿を兼ね備えた前中を
本山と娘はどうにかして自分の手の中に囲いたいという気持ちは一致しているのは間違いない。

だからこそ本山も英華が前中のことを簡単に諦めるとは誰も考えてはいなかった。

秘書は部下達を使い、本山や英華の行動をチェックしていた。

一方で英華が前中の隣にいた良隆をマークしたのは間違いないだろう。

しかも、あの時の前中は英華を前にして良隆のことを優先した。
あのことで英華はプライドを酷く傷つけられたのだ、大人しくしている訳がなかった。




英華は前中との接触からすぐ、次の計画を練り始めた様子だった。

それを部下達を通じていち早く秘書は掴むと、前中の前に立った。

「英華がここ数日でコンタクトを取っている人間と、それに関係している人間のリストです」

「そうですか・・・じゃあ、こっちは・・・」

数枚の報告書に簡単に目を通すと、前中はにっこりと笑顔で秘書にいくつか指示を出した。

『まさか・・・いや、やっぱりな。そういうことか』

その指示を聞けば自分がどうして生きてこの場にいるのかが分かったというものだ。

もともと前中は本気で秘書に対して怒っていなかった。
英華が前中と良隆の前に現れたことも本当は気にしていなかった。
というか、逆に英華の心にいらぬ火が点す計画だったのではないかとさえ思えて仕方がない。

秘書は殴られ損だということを自覚しながらも

「分かりました。では、そのように」

前中に頭を下げて自分の部屋に戻った。




自分が知らないところでとある計画が進んでいるとは想像もしていない良隆は、今日も前中に買ってもらったコートを着て仕事に向かう。

いつものように今日も一日パソコンの前で過ごすはずだったが、その日は珍しい出来事があった。

「御木さん、下にお客さんが来ているみたいですけど」

同僚が受けていた電話を切ると、斜め前に座っていた良隆に声を掛けてきた。
電話は受付からのものだったらしいが、良隆は事務方で訪問客が来るなんて珍しい。というか、初めてのことだった。

「え、え・・・おきゃ、く? 私に、ですか?」

「みたいですよ」

驚きながらも、誰かが来ているというのなら行くしかない。

「あ、あの・・・ちょっと、いってきま、す」

良隆はそう断った上でロビーで待っているという人に会いに、エレベーターに乗った。

自分に誰が会いに来るというのか、全く予想できなかった良隆だったが、
ロビーのいくつかあるソファーにその人を見つけると、その場に固まってしまった。

「え・・・な、んで」

どうして彼女がそこに存在するのか分からずに立っていると、向こうの方もやって来た良隆に気づいたようで

「こんにちは。御木良隆さん」

笑顔で教えてもいないはずの名前を口にした。

「こ、こ、・・・ちは」

良隆は動揺するままに言葉を詰まらせてしまうが、彼女は

「改めまして、本山英華です。どうぞ、座ってください」

話の主導権を確実に握った状態で、良隆にソファに座ることを勧めた。

今日の彼女はこの間会った時とは違い、膝上丈のタイトなスカートに、胸が大きく開いたジャケットスタイルで、一歩間違えれば夜の蝶にも見えるスタイルだった。

表情も前中と一緒にいた時に見せたような柔らかなものではなく、挑むような、また良隆を蔑むようなものに映った。
その表情はよく良隆が女性に向けられるもので、見慣れていると言って良かったが、決して心地よいものではない。

良隆はビクビクしながら促された通りにソファに座ると、それを待っていたかのように英華は

「私はダラダラと話すのは好きじゃないから、単刀直入に言わせてもらいますね。前中さんとのお付き合いを止めてください」

笑顔で告げた。

「え・・・」

「手切れ金なら好きな額を言ってくだされば用意しますけど、いくら欲しいですか?」

「あ、あの・・・」

「まあ、こんな会社に勤めてるんですから年収の二倍は保証してあげます。それでいいですよね?」

「ちょ・・・」

「前中さんにも困ったものですよね、私という女が傍にいるのに・・・大切に思ってくれるのは嬉しいですけど、私だって子供じゃないんですから」

英華の弾丸トークに良隆は全く思考が追いついていかない。
良隆が何も言わないことをいいことに、英華は

「私はまだ学生で、結婚はしないとしても、父は婚約だけでも済ませておけばって言ってくれてるんですよ」

そこまで言うと、一旦言葉を切り、良隆のことを正面から見つめると

「ここまで言ったら分かりますよね。私、前中峻さんの婚約者です」


宣言というか、宣戦布告をした。


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