4.
秘書が必死で連絡を取ろうとしている間、前中は実に楽しそうに困惑する良隆を着せかえ人形のように、様々なコートを試していた。
ビルに到着する前に連絡を入れていたお陰でコンシェルジュ的な店員が前中達に付き添い、店を案内してくれることになった。
「この人に似合うスプリングコートを。普段用で会社に着ていくような・・・」
「それでは、何店舗かご案内させていただきます」
前中の要望に、店員は即座にいくつかの候補が思い浮かんだのか、その歩みに迷いは見られなかった。
数分後、良隆は
「こちらなんてどうでしょう?」
案内役の店員とその店舗の店員に勧められるままにいくつかのコートを試着することになった。
そして、当然ながら店員達は決して良隆に感想を聞くことはなく前中の反応を見ていた。
「もう少し明るい感じがいいですね。それから裾の部分が重い感じが」
前中の言葉にすぐに店員達は
「そうですね、では・・・」
と要望に応えられるものを探しに向かう。
良隆はそんな前中と店員達を前にしながら何も言葉を発することはなかった。
姿見に映る自分を見ても、似合っているのか、そうでないのか、判断することができないのだから黙っているのが得策だと思っていた。
それに前中が
「自分の物は何でもいいと思いますが、好きな人の物を選ぶのは楽しいですね」
と楽しそうに笑顔を向けられれば、自分は着せかえ人形にでも何でもなると思ってしまう。
店員と前中が次に試着するコートを物色している間、良隆はすることもなくて傍にあった椅子に座りながら、同じフロアを行き来する客を眺めていた。
カップルもいれば、男性一人だったり、女性の客もいた。
女性の客は良隆の目にも珍しく写り、その行き先をつい追ってしまった。
何かを探すようにキョロキョロしているのを見ていれば、彼氏の物でも探しているのかと推測してみたり。
その女性が良隆の方を見たので、慌てて違う方向へと視線を向ける。
暫くしてもう一度見てみると、女性は
「こんな所で会うなんて、奇遇ですね」
そう遠くない場所にいた前中に声を掛けていた。
『え・・・知り合い?』
良隆は驚きながら、だからといってその場から離れることも、立ち上がることもできず、ただ見守るしかなかった。
一方で前中は驚きの表情も見せず、ただ
「お久しぶりです。本当、こんなところで会うなんて信じられない偶然ですね」
と笑顔で返した次の瞬間には
「では・・・私は今日、忙しいので」
素っ気なくもコートを手に良隆の方へと向かって来た。
良隆は前中のあっさりとした対応の仕方に驚きつつも、自分みたいな人間が前中とこうしていることを知られるとまずいのではないか
という考えに陥る。
このまま他人の振りをした方がいいのではないかと思い、前中に背中を向けようとしたところで
「お客様、こちらなんかどうでしょうか?」
タイミング悪く店員が傍にやってくる。
「え、え、え・・・あの・・・」
自分が決められるわけも、店員と対峙することもどちらもできない良隆は、コートを受け取ったまま固まっていると、
「良隆さん、こっちも羽織ってみてください」
そこに前中が声を掛けてきた。
良隆には何よりも嬉しい言葉だったが、さっきまでの状況を思い出すと素直に前中の持ってきたコートを受け取ることができなかった。
「あ、あ、あの・・・」
前中の方をチラッと見てみるが、
「さあ、どっちが似合うか着て見せてください」
前中はそんな良隆の動揺に気づいていないのか、良隆の腕を取ってゆっくりと立たせると、
姿見の前に誘導し、まずは店員が持ってきたコートを羽織らせる。
「ああ、いいですね」
良隆は前中の声に、チラッと鏡を見る。
「あっ・・・」
前中が何か店員と話していたが、良隆はそれどころではなかった。
鏡にはさっき前中と話していた女性が映っていた。
良隆はその顔を見ると、慌てて俯いた。
女性は無表情で、それが逆に怖くもあった。
『やっぱり私みたいな人間が・・・』
良隆は俯きながらも、鏡に映りこんでいる女性の足が目に入り、気になって仕方がなかった。
いつまで経っても動こうとしなかった足がついに一歩を踏み出すと
「前中さん、ちょっと・・・」
店員とは違う女性の声が前中の名前を呼ぶのが聞こえてきた。
良隆は視線を足元からゆっくりと上に移動させる。
前中は女性の声が聞こえていなかったのか、
「良隆さん、今度はこっちをどうぞ」
良隆が着ていたコートを脱がし、自分が持ってきたコートを羽織らせた。
「あ、あ、の」
良隆に聞こえているのだから前中にも女性の声は届いているはず。
それなのに、前中は
「こっちもなかなかいいと思うんですよ」
と笑顔で
「良隆さんはどっちがいいと思います?」
良隆に聞いてくる。
『ど、どうしよう』
良隆は戸惑いを隠せず、女性の方をコソッと見てみれば、女性は笑顔を浮かべているが、口元は引きつっていた。
「前中さん」
そして、さっきよりも少し大きな声で再び前中の名前を呼んだが、前中は女性のことを振り向きもしない。
ただ
「どっちも捨てがたいですよね」
店員とひたすら良隆のコートに夢中だった。
『気まずい、気まずすぎる』
店員も気づいているが、接客用の笑顔を顔に張り付けたままで何も聞こえない振りをしている。
良隆の意識は女性の方に向かい、コートを選べと言われても考えられなかった。
女性の方をもう一度見れば、その女性は前中ではなく良隆のことを睨んでいた。
その視線の強さに良隆はたまらず
「前中さん」
「英華さん」
良隆の声に誰かの声が重なる。
前中の秘書だった。
秘書は走ってきたのか、肩で息をしながらも
「英華さん。社長は今日、プライベートなのでご遠慮していただけますか」
女性の前に立った。
良隆はもちろん、店員達も突然の乱入者に驚いた。
ただ、前中は別段驚いた様子もなく
「両方いただきましょうか」
そう言いながら良隆に羽織らせていたコートを脱がせると、店員に渡す。
「ちょっと、まえ・・・」
英華と呼ばれた女性が前中の方へと一歩踏みだそうとすると、
「お引き取りを」
秘書の方が英華と前中の間に身体を滑らせ、手のひらで
「あちらに下りのエスカレーターがありますよ。一人では不安だというのでしたら、私がエスコートさせていただきます」
帰る方向を指し示す。
英華は、秘書とその背中越しに見える良隆を睨みつけながら
「前中さん、今日はこれで帰りますけど、また近々会いましょう」
そう言うと、
「エスコートは必要ありませんから」
エスカレーターに向かって去っていった。
良隆は一気に身体から力が抜ける思いに、大きなため息をこぼした。
店員の前に立っているだけでも緊張していたにも関わらず、前中の知り合いらしい女性が現れた。
明らかに良隆の許容範囲を超えることが起こり、身体は緊張のために強張っていた。
店員は笑顔で会計のために席を離れると
「良隆さん、大丈夫ですか?」
前中がそっと良隆の隣に立ち、優しく声を掛けてくる。
「あの、あの、あ、あの、女の人、は、良かった、んで」
良隆が英華が去った方を窺うようにして言うが、
「いいんですよ。せっかく良隆さんとショッピングを楽しんでいるのに、向こうの方が気を使って挨拶をした時点で帰るべきなんですよ」
前中は一刀両断という様子で、
「さあ、この後は本屋さんに行きましょうか」
とすっかり気持ちを切り替えたようだった。
「じゃあ、良隆さんまた」
良隆を家に送り届けると、前中は自宅マンションへは帰らなかった。
表向きの会社とも違う、そのビルは何の看板も上がっていない。一見すると、空きビルにも見えなくもない。
前中はそのビル前に車を一旦止めると、どこからか若い人間がビルの中から飛び出してきて
「ご苦労様です」
と運転席の扉を開けながら挨拶をした。
前中は無言で車から降りると、ビルの中へ入る。
実は看板は上がってないものの、ビル全体が楠本組の持ち物で実質的には組事務所と言える。
中に入ると、地面に頭を擦りつけるようにして土下座をして前中を待っていたのは秘書だった。
「すみませんでしたっ」
他の組員が見ているのもかまわないというか、かまっている余裕はなかった。
秘書にとっては自分の命が掛かっているといって過言ではないぐらいの失態だ。
前中は無言で、秘書の頭をゆっくりと踏みつけた。
最初は後頭部につま先を置き、床に押しつけるようにしていたが、すぐに側頭部を蹴りつけると、
こめかみ部分を何度も足全体でガツガツと音がするぐらいに踏む。
「っう・・・ぅ・・・」
周囲にいる組員達は固唾を飲んで見守るしかなく、それがいつ終わるのかも分からなかった。
秘書がその拷問の末に気を失う頃、前中はようやく足を避けた。
「二度目はないと言っておいてください」
前中は笑顔を浮かべていたが、来た時よりは幾分すっきりした様子だった。
組員達は前中がそのまま帰ろうとしていることに安堵しながら、
「「「ご苦労様でしたっ」」」
と見送りのために整列する。
前中は組員達を一瞥すると、
「英華がこれで大人しく引き下がるはずがないですから、何か動きがあれば報告忘れずに」
笑顔を浮かべたまま
「もし、次に裏をかかれることがあれば・・・」
「「分かってます!」」
「じゃ、お疲れさま」
ビルを後にした。
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