嘘つきな彼 9

『もしもし、こんばんは』


信じられないことだが、私と彼はあの日から電話で話す仲にまでなっていた。
話すと言っても、あまり提供する話題を持っていない私は彼の話に相槌をうつ程度だったりするのだが。


あの日、彼との食事中私は緊張し続けていた。

2人きりの個室に、お互いの膝が触れ合う程の密着度。
全てが私を緊張させる材料であり、料理が運ばれてくるまで夢の中にいるような錯覚を覚えた。

料理は普段食べたことがないような物ばかりで、美味しくてかつ目の保養にもなった。

店は個室ばかりでどれほどのお客さんが入っているのか分かりづらいが、これだけの美味しさであれば繁盛しているのではないかと思った。


私が覚えていることと言えば、私の顔についていたらしいご飯粒か何かを取ってくれた時の彼の表情と、彼の身体から漂ってきた甘い香り。
初めて彼と出会った時にも感じたが、今回は密着度も高かったため、私はその香りに酔っている気分になった。

どんな香水なのか興味があったが、私はその香りに包まれていることに夢中で、聞くことはできなかった。

まあ私の性格上、彼にそんなことを聞けるようになるには相当な時間が必要だと思う。
まして、いざ彼から聞いたとして私がその香りを纏うことはないだろう。

彼にはお似合いの香りが私にも似合うとは考えられない。


そして、極めつけは彼からの接触だ。
彼は思ったよりもスキンシップを好む人だったのか、私に触れてくることがあった。

彼自身にはきっとその行為にはなんの意味もなかったのかもしれない。
それにも関わらず、私は一人でドキドキしてしまった。

私は自分で何を言っているのか、どんな顔を彼に晒しているのか分からなかったが、きっと人に見せられないような顔をしていただろう。



ただ不思議なことに彼とは食事中も食事が終わった後の帰りの車中でもあまり言葉を交わすことはなかったが、それを苦痛に感じることはなかった。


あまりにも彼が自然で、何か喋らなくてはという強迫観念のようなものを感じなかった。
彼の香りが充満する車中、私はその香りに再び包まれている錯覚に陥る。

彼は

「また来週」

と言ってくれたが、彼を見送りながらも私はまだ彼の香りに包まれているような気持ちだった。
その時は来週があることすらどうでもいいことのように思えた。



ほとんど話すことがなかったにも関わらず、お互いにメールアドレスを交換できたのは彼の少し強引な態度のお陰だったかもしれない。
私から彼にアドレスを教えるなんてことはできなかっただろう。


”まるで夢のような世界だ”


そこから現実に戻ったのはそのすぐ後。

部屋に戻り散らばっている本や同人誌を見た瞬間にため息が出てしまった。

いくら彼が口では「私のことが気になる」と言ってくれたとしても、これが現実なんだと見せつけられているような気分になる。

これが私の趣味だとしても、決して人に胸を張って言えるような物ではない。
もし彼がこの部屋を見たなら、そして私の趣味がどんなものなのか分かれば、きっと彼は私に対する興味を無くすだろう。
それだけではなく、さっきまで私を見てくれていたような優しい表情を見ることはできなくなる。

どんな表情を彼がするのか・・・そう考えるだけで、少し怖くなる。

そこで思わず彼の趣味は何なのかと考えてしまう。

読書や音楽鑑賞、もしかしてテニスやビリヤードといったスポーツ系かもしれない。
どちらにしても、知的でセンスの良さそうな物だろう。

そんな私とは正反対の彼がどんな気持ちで私を誘ってくれているのか・・・それも変に勘ぐってしまう。

彼の「気になる」という普通ならなんてない言葉でさえ、変な意味で解釈しようとしてしまう。
男同士の恋愛本を読んでばかりいるからだと、自分で自分の思考の偏りに嫌になる。


私に比べれば、彼は容姿もその背景も秀でた物を持っている。


初めて会った時も 、彼は一瞬にしてその場にいた女性の心を掴んでいたように感じた。


”彼がそんな変な意味で私に話しかけているわけがない”
”私の思考は同人誌の読み過ぎでここまで侵食されてしまったんだ”


それが分かっていながらも私は今日も本を手に取ってしまう。


ダメだと思いながらもそれしか私にはすることがなかった。

そんな自分に多少の嫌悪感が生まれた。

私は結局、本をすぐに閉じるといつもよりも早く眠りに就くことにした。




次の日、あれだけ自己嫌悪に浸っていたはずなのに、懲りない私はまた本屋へと足を運んでしまう。

ここで本を買うのを止めたり、同人誌を読むことを止めることができたなら私は少しはまともだったということかもしれない。


私はそうと分かっていながらも、本屋そして耽美小説のフロアへと向かう足を止めることはできなかった。

本を物色していると、時々自分に突き刺さる視線を感じた。


そこで”またか”と思う。


私が立っている場所は普段なら男性が立っているような場所では決してない。
そのため、同じフロアにいる女性から好奇の目で見られたり、同性からは侮蔑的な視線が突き刺さることもある。

だから今日が特別というわけではないし、その視線の主が誰なのか確かめる必要もない。
私は普段通りに目当ての本を買って帰るだけだ。

本屋から帰る道すがら、携帯から着信を知らせる音が聞こえた。
同じように何人もの人が歩いている中、危うく聞き逃すところだったが何のメロディーもない機械的な音は人ごみの中でも聞き取ることができた。

いつもの癖で相手の名前を確認することなく、

「もしもし」

と通話ボタンを押しながら応える。


『もしもし、御木さんですか』


携帯を通してもその魅力的な声は衰えることはない。

「は、はい」

私は変に裏返った声が出たことを気にしながらも、思わず歩いていた足を止めた。

「昨日はありがとうございました」

電話で話をしているというのに、私は携帯を持ちながらその場で何度も頭を下げながらまず昨日のお礼を述べる。
これは一社会人として当たり前なことだろう。

彼もそういうところは理解していて、

『いえ、こちらこそ楽しい一時をありがとうございました』

と言ってくれた。

『御木さんはもうお家ですか』

そう聞かれ、時計を見れば本来ならすでに家に帰り着いている時間だった。

しかし、私は今まだ帰り途中。
ただそれを彼に正直に話すわけにはいかない。


もし、「どこに行かれてたんですか」と聞かれ、「本屋です」と答える。

ところが、「どんな本を買われたんですか」と聞かれれば、私は何も答えることができなくなってしまう。


そこまで考え、ようやく私が声に出した答えは、


「はい、そうです」


だった。

そう答えた後、私は周りの雑音が彼に伝わっていないかという不安に駆られた。
家にいると言ったのだから車の音や人の話し声が伝わるのは避けたい。

私は人混みから避けるように、目の前にあったビルに入る。

店舗自体は上の階にあるのか、私がいる場所は静まり返っていた。

ここなら安全だと思い、彼と会話を進める。

彼とは差し障りのない会話を数分しただけだった。


今度は何を食べたいのかと聞かれたが、私はとっさには何も浮かばず、気の利いた言葉を返すことができなかった。

そんな私に、

『また何か思いついたら教えてください』

と優しく言葉を掛けてくれる。

最後には、

『また電話します』

とまで言ってくれた。

私は自分でも分からないほど舞い上がっていたのかもしれない、


「ありがとうございました」


と、その場面には相応しくない言葉で最後を締めくくっていた。

帰った後、買った本を読んでみたが内容は頭に入ってこなかった。

まだ彼の声が頭を占領していた。


その次の日には、彼からメールが送られてきた。

内容は
『突然電話してすみませんでした。
なんとなく電話をしてみたくなり実行してしまっただけで・・・嫌でなければ、これからも色々御木さんのことを教えてください』
というものだった。

私はこの内容にどんな文面で返せばいいのか分からず、

『こちらこそ、また色々教えてください』

とある意味素っ気ないメールを返してしまった。

そんなメールを送ってしまったのだが、1日を置いてまた彼から電話があった。

私はドキドキしながら電話に出る。
話す内容は単なる世間話でしかなかった。

そのうち私は彼からの電話やメールを心待ちにしている自分がいることに気づく。
富田達からのメール攻撃にはうんざりしていたはずなのに、自己中心的な考えをしている自分にまた気分は沈みがちになる。


彼から掛かって来る電話はすでに3回を越した。

その電話たいてい彼からの電話は私が家に帰り着く時間帯に掛かってくる。
おそらく彼の仕事が終わる時間なのかと思う。

そして、私もそれに合わせるように家に帰ろうと2、3日前から心がけていた。

いつものように腕時計を見れば、予定通りの時刻。
いつものように私は駅へと向かい、歩いて行く。
いつも乗る電車に遅れないように。


「御木さん」


名前を呼ばれた気がした。

普段は人に呼び止められることがないため、まさか本当に自分が呼ばれているとは思わず歩き続けた。


「御木さん」


今度は呼ばれただけではなく、腕を掴まれた。
そこまでされ、ようやく私は歩いていた足を止める。


「あ・・・、富田さん」


私の腕を掴んでいたのは、あの富田だった。
また会うことが本当にあるとは思っていなかった。

「お久しぶりです」

私としては何度もメールや電話をくれていたのに、ずっと無視をする形になっていたため、気まずいとしか言いようがなかった。
なるべく彼と顔を合わすことはしたくない。

しかし、それを許してくれそうな雰囲気ではなかった。


「御木さん、ちょっと付き合ってくれますか?」

「え?」

「上司も待ってるんです」

「あの・・・今日は・・・」


私は掴まれていない方、腕時計で時間を確かめる。
電車の時間は迫っていた。

「電車の時間が・・・」

私が言った言葉に、

「俺達にも時間がないんですよ」

と彼は間髪入れずに言い募ってきた。

その言葉に私は思わず彼の顔を見る。


「俺達って?」

「いいから・・・マジで早く来いよ」


最後の言葉は軽い舌打ちと共に聞こえてきた。

彼の手には思い切り力が込められていて、私の腕に食い込んできている。
その痛みに顔を顰めるが、今の彼にそんなものは関係ないようだった。

明らかに彼の表情は数週間前に会った時とは違う。
何をそんなに焦っているのか分からないが、私は駅とは反対方向へと彼に引きずられていく。
そうしながらも、時折周りをキョロキョロと見まわしている。


「あの、私、家に帰らないと」


あまりに非日常的な出来事に、つい今の状況にそぐわないことを口にしてしまう。


「ふん、もう一生家に帰ることはないかもな」


私は自分の聞き間違いかと思った。
それほど彼は私に理解できないことを言った。

私はいつもよりも遅くなってしまったけれど、電車に乗って家に帰る。
そして、前中さんからの電話を待つ。

彼と今日は何を話すべきか。
私の一日を話そうとしても、私には彼に語れるような楽しい一日を過ごしてはいないから困る。
だからといって私の趣味について話すわけにもいかない。

きっと彼が上手く私に話を振ってくれるのを待ち、それに応えるだけになってしまうんだろう。

そこまで考えると、少しでも早い電車に乗って帰りたくなる。


しかし、現実はそう簡単に話しは進んでいかない。


私の腕を掴んだまま、逃がすまいとしている目の前の若い男に恐怖心が芽生える。
やっと私は自分が危ない状態だということを感じた。


ただ、気づいた時には逃げることもできない状態だった。

いや、もしそれまでに危険を察知していたとしても彼の腕力に勝てる自信はない。


「帰ります」

「はいそうですかって帰らせるわけねーだろ」


彼の乱暴な口調に私は言葉を失ってしまう。

もともと人との諍いは避けて通って来た私。
喧嘩はしたことはなく、実際人に乱暴な言葉を浴びせられたことはない。
陰で言われていることはあったが、それを目の前で言われたことはない。

彼の唾が飛んできそうなぐらいの大きな声と、その口から出てきた乱暴な言葉に私は次に何を言えばいいのか分からなくなる。


私は駅から離れた場所へと連れていかれる。
それまでに何人かの人は引きずられる私を不審に思っただろう。

”そういえば、この間もこんなことがあったな”

ふと思い出すのは前中さんと食事に行く約束をしていた日。
確かあの時も私は若い男に絡まれた。

ただ、あの時は前中さんが助けてくれた。

あの時も周りの人間は私を遠巻きに見ているだけだった。
それを彼が助けてくれた。

しかし、今日は彼と約束しているわけではない。
彼が助けに来てくれるわけがなかった。

私の心の中に生まれた恐怖はさらに膨らんでいく。
だからといって逃げることも叶わない。
さっきよりも更に富田の手が私の腕に食い込んできているような気がした。

きっと手を離されると、指の跡がくっきり腕に残っているだろう。

私が連れていかれた場所、その車道脇には車が一台止められていた。
ハザードランプが点滅している。

車体は黒、そして全面にスモークが貼られていて中が全く見えないようになっている。

彼が後部座席のドアを開けると、

「入れ」

私の背中を押した。


私は最後の抵抗とばかりに、傍にあったガードレール代わりの柵に手を掛ける。


「お前、離せっ」


やっぱりというか、彼の力に私の手はあっさりと柵から離されてしまった。


そして、強い力で私は車の中へと押し込められる。

とっさに私は反対の扉から出ようとするが、ロックされているようでドアノブをいくらいじっても開く気配はない。

彼が運転席に腰を下ろすのが分かった。


「降ろしてください」

「ダメだ」

「どうして・・・」

「全部あんたが悪いんだ」

「な・・・意味が分からない」


彼の言っていることはむちゃくちゃだとしか言いようがなかった。
私自身にはまったく身に覚えがない。

彼はそれ以上何も言わないつもりなのか、車を急発進させる。

私はあまりに乱暴な運転に驚きながら、それと同時に引力の法則に従うように座席へと身体が引っ張られた。
あまりの出来事に私は呆然としていることしかできなかった。




どれぐらいの時間が経過したのか、急に私のスーツにしまっていた携帯がこの緊張した雰囲気を破るように着信を知らせる音を響かせた。




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