店から出るとまだ宵の口と言える時間帯なのか、たくさんの人が店の前を通り過ぎて行く。
私もそれに従うように人の波に流されることにした。
歩きながら時計を見れば夜の11時を過ぎたところ。
普段であればすでに入浴を済ませ、部屋で寛いでいる時間。
家の近所を歩いていたとしても、街灯だけがポツポツと光っているだけのはず・・・
「なんだかここは昼間みたいだ」
ネオンがあまりにも眩しく、今という時間が夜なのかそれとも昼間なのか分からなくなりそうになる。
それに今は人の流れに沿って歩いているのだが、実は帰り道を知らない。
ただ人が向かうのならばきっと帰る道だろうという予想でしかないのだ。
まさかやっぱり帰る道が分からないからと、あの店に戻ることも私にはできない。
「だって・・・あんな・・・あんな・・・」
無意識に富田達と一緒に飲んでいた店で突然出会った人物のことを思い出してしまう。
その人は、理想的なビジネスマンという雰囲気を醸し出していた。
名刺に書かれていた肩書きを考えるだけで自分とは住む世界が違うのだと実感する。
ほんの一瞬しか見ていないのだが・・・
まるでマンガの世界にいるような、カッコいい男の人だった。
私の好きな漫画家さんが描く男性像がそのまま存在しているのかと思ったほどだ。
きっと高いんだろう、黒のスーツ姿が似合っていた。
名刺を渡された時にチラッと見えた時計はシルバー。
金なんて嫌味っぽい色じゃなかった。
でも、きっと高いんだろうと想像がつく。
アクセサリーは一切身に付けていないのだが、彼自身がアクセサリーそのものという感じだった。
後ろに控えていたのは秘書なのかもしれない。
彼の肩書からはそんな人間がいて当たり前な立場だった。
ただあまりに完璧すぎる姿に、まともに顔を見ることができなかった。
「せっかく私の方を見てくれてたのに・・・」
彼が私のことを見てくれていたのは分かった。
それに何度も声を掛けてくれた・・・
「やっぱり無理だ」
基本的に人と接することが苦手なのに、あんなにカッコいい人をまともに見ることも、話すことも、何もかもが無理だった。
そして、挙句の果てにはあんな失態を見せることになった。
あんな人は私みたいな失敗をすることはないんだろう。
つい卑屈な考えを持ってしまうのだが、それも彼を見てしまえば仕方がないことだ。
そしてあの場にいた人間はみんな、彼に夢中という印象だった。
財布に入れていた名刺を取り出すと、もう一度眺める。
「前中・・・峻」
もう2度と会うことはないかもしれないけれど、いい思い出になった。
店を出る時、彼の横を通り過ぎたが一瞬いい匂いがした。
あれは何か香水をつけていたのだろうか。
ほのかに甘くて、もっとその匂いを嗅いでいたいなんて・・・・私は趣味だけでなく、思考まで変になってしまったのか。
慌てて頭を左右に振り、彼のことを無理やり頭から追い出そうとする。
そして名刺を大切に財布へ仕舞いこみ、また明日から繰り返される毎日へと戻るつもりだった。
「代理ー。また携帯鳴ってましたー」
「あ、ありがとう」
すでに富田達との会食から3日経とうとしていた。
相変わらずの毎日が戻ってくるはずだったが、少し変わったところがあった。
次の日から毎日、富田から食事への誘いが入るようになったのだ。
『昨日はありがとうございました。ただ、最後があんな形だったので仕切り直しで・・・』
とメールが来たのが始まりで、私としてはあれで十分だったこともあり、
『こちらこそありがとうございました。お気になさらず、私も楽しかったですので』
やんわりと、断りのメールを送った。
しかし、それからも富田からのメールが送り続けられてきている。
そういえば、富田からだけではなくあの日行った店で隣に座った女性・・・確かサユリだったか、シオリだったか、そういう名前の女性からもメールが送られてくるようになった。
女性からのメールは明らかに営業メールという感じが否めなかった。
最後はお酒を零し、迷惑を掛けることにまでなったのだ
『昨日は楽しかったです。また会いたいです、今度はいつ来てくれますか?』
そんなことをメールで送ってくれたとしても、文面そのままを素直に受け取ることはできない。
『また近いうちにでも』
とこちらもやんわりと断るようなメールを送っておく。
それまでは全くと言える程活用されていなかった携帯。
しかし、この数日は毎日のように送られてくるメールのお陰で少しは役立っているようだ。
ただ携帯電話を携帯する癖がなかった私はつい机の上に置きっぱなしにしていることが多い。
それに鳴ることはないだろうとマナーモードに設定することをしていなかった為、電子的な音がフロアに鳴り響くことが多かった。
最近は気づけばマナーモードにするようにしていたが、忘れがちで、今も私が他の部署に経理関係の伝達に行っている間に鳴っていたらしい。
携帯を確認すればメールが1件。
相手は決まって富田だった。
『今週末は空いていませんか?』
誘いのメールだったが、今週末はちょうど文庫とマンガの発売になっている。
それを買い漁った後は1〜2日かけて家で読みふけることにしている。
まさかそんな理由で断ることはできないが、その予定を変える気はない。
『すみません、すでに予定が入っています』
そう返事を送り、携帯をマナーモードに変更する。
しばらくすると、また携帯が・・・今度は震えていた。
再度確認すれば、またメールの送り主は富田で
『じゃあ、来週は?』
と書かれている。
返事をすぐに返すべきだと思うが、少しメールを返すことが億劫になっていた。
今までメールを送ってくれるような相手がいなかった為、メールをすることが面倒なことだと私の中で分類されている。
”また後で返事すればいいか”
そうして、そのまま携帯を閉じるとメールの返信を忘れ仕事へと戻る。
その返信についてそれから数日間、思い出すことがなかった。
なぜなら、それからプツリと富田からのメールが来なくなったことも理由としてある。
”まあ、あれだけ何度も断っていれば当り前か”
そう考えることにし、今日は久しぶりに乙女ロードへと向かう。
乙女ロードで何店舗か店を回。
そして目的の本を数冊買い家路を急ぐ。
買い物した袋の中には気に入っている作家さんの新刊が入っている。
私の好みとしては心理的描写がしっかりしているのも好きだが、性描写も過激なもの好きだったりする。
攻めの男性はいわゆる俺様で、鬼畜な一面もある。
一方で受けの男性は小さくて可愛いというのが主流で、一途に攻めの男性を愛しているというのが購入している多くの本の特徴だ。
あと、最後は必ずハッピーエンドというのが読んでいて安心でき、読了後には気持ちがいい。
何人か好きな作家さんはいるものの、だいたい攻めや受けの男性像は決まっている。
買った本が入った袋を持ちながら・・・ただ、大勢の人がいるところでは書店名をこっそりと隠しながら家の近くにある駅へと降り立つ。
駅から家までの道をいつもと同じ速度で歩いていると、前から車が近付いてくるのがライトの加減で分かる。
邪魔にならないように端へと身体をずらすが、その車は私の近くで止まると動く気配がなかった。
ライトが眩しく、顔を顰める。
わざわざ立ち止っていたが、いつまでも動かない車に変だと思い始め車の横を通り過ぎようとした。
ちょうど運転席の隣を横切ろうとした時、パワーウィンドーが微かな音を立てて下がっていく。
「あ・・・」
車の中から顔を覗かせていたのは、あの店で出会った美男子だった。
「こんばんは」
彼は思わず足を止めた私にニッコリと微笑んでくれ、挨拶までしてくれた。
ところが、あまりにも突然の出来事に私の心の中はプチパニック状態だった。
きっと2度と会うことがないだろうと思っていたのだから、この心の動揺はどうしようもない。
彼の顔を正面きって見ることができない。
この前と同様に、視線を下げ、顔を避けることでようやく落ち着くことができる。
こんな容姿端麗な人の瞳に私のような人間が映るなんて・・・それ自体が失礼な気がしたのだ。
「お仕事の帰りですか?」
車の中から声を掛けてくれる彼。
こんな私に対してこの間と変わらない笑顔でいてくれているんだろうか。
もし笑顔なら、その笑顔は私にはもったいないもので・・・私は顔を上げることができない。
自分の足元を見ながら、相手にかろうじて伝わる程度の声音で答えることが精 一杯で、
「そうです」
ある意味、素っ気ないことしか言えない。
「この近所に顧客の家があって、さっきまで仕事でそちらにお邪魔してたんですよ」
「そうですか」
「お腹も空いてしまって」
「そうですか」
彼がどうしてそんなことを言っているのか分からなかった。
たしか彼の名刺には『WSフィナンシャルグループ』と記載されていた。
フィナンシャルといえば資産運営と訳することができるだけに、私とは違い資産家の人達が仕事相手なんだろう。
そう考えれば彼も私の名刺に書かれた肩書きを見たはず。
私にビジネスの話を持ちかけたとして、時間の無駄としか言いようがない。
したがって、彼が私に対してどういった意図で話し掛けてきてくれたのか理解に苦しむところだ。
ただ単にあの店で会ったという理由だけなのかもしれない・・
いやそれが一番しっくりくる答えだった。
「御木さんはもう夕食は済まされましたか?」
「いえ」
「それでは、この後一緒にどうですか?」
「え・・・?」
それはまさに予想外、青天の霹靂、としか言いようがないことだ。
思わず顔を上げて彼を見れば、 やはり彼は微笑んでいて・・・
「どうですか?」
と尋ねてくれる。
私の表情は彼にどんな風に見えているのだろう。
正直に言えば、彼の申し出は嬉しい。
彼のような理想的な男性と一緒に過ごせるということは、女性でなくても嬉しいはずだ。
しかし、そんな完璧な彼の隣に私が並べる訳がない。
そんな社交辞令をそのまま素直に受け取る程、私は子供ではないのだ。
そこまで考えると、私は再び顔を下げる。
「御木さん?」
彼の声が聞こえるが、私は顔を上げられない。
「きょ、今日は家族が夕食を用意してくれていますので。わざわざ誘ってくださってありがとうございました」
それだけ言うのが精一杯で、私はその場から去るつもりで一歩を踏み出した。
「御木さん」
彼が名前を呼んでくれる。
どうしようか迷ったが、無視するのも失礼なので立ち止まれば、視界に車のドアが開くのが見えた。
パタンと音がしたかと思えば、彼が車から出て私の前にいるのが、俯いていた私にも彼が履いている靴の動きで分かった。
「御木さん」
「は、はい」
彼の声は優しく私の脳を刺激する。
「今週末はどうですか?」
「え?」
「それがダメなら週明けでもいいですし・・・」
「あの・・・」
「来週末でもいいですよ」
彼がどうしてそんなに私を誘うのか理解に苦しむところだ。
私にはそんな価値はないのに・・・
「私は御木さんと食事がしてみたいです」
彼が発したその言葉は私の心を激しく揺さぶった。
その時の私の顔は真っ赤になっていただろう。
なぜなら未だかつて、こんなに人から誘われたことはない。
私は相変わらず俯いていた。
顔を上げて、こんな酷い状態の自分を晒すことはできなかった。
「御木さん?」
「あ、あの」
ここまで言ってくれる彼に対して、私に断る理由はなかった。
「じゃあ、週明け・・・」
私がそう言うと、
「週明けですね。じゃあ、月曜日はどうですか?」
「・・・・はい」
「たしか、御木さんの会社は駅に近いですよね」
「・・・はい」
「分かりました。駅まで迎えに行きますので」
彼は少し、ほんの少しだけ早口になっているようだった。
もしかして、私がいつ嫌だと言い出すのかと不安にさせてしまったからかもしれない。
「ありがとうございます」
そんな彼を安心させたかった私は、言葉と共に顔を少しだけ顔を上げ笑ってみせた。
私の笑顔なんて彼に比べれば大した威力はないのは分かっている。
でも少しでもという気持ちだった。
そんな私の気持ちが通じたかは分からないが、
「いえ、こちらこそ・・・」
彼は再び微笑んでくれていた。
その笑顔は私の笑顔なんかより数倍、数十倍素敵だった。
やはりというか、私はその笑顔を長く見つめていることができなかった。
すぐに俯いてしまったが、もう彼は私のそんな態度を気にしてはいない様子だった。
「じゃあ」
それからすぐに彼は車へと戻っていく。
私は一礼すると、彼の車が去って行くのを排気音のみで感じていた。