「つまらない」
それはたった五文字の言葉。
「はぁ・・・、本当につまらない」
「社長・・・」
このたった五文字の言葉に、ある種の人間は過敏な程に反応を示し、そして恐怖することとなる。
今、その言葉を聞かされた男もできれば自分の聞き間違いであって欲しいと思っていたが、
「つまらないと言ったんですよ」
と今度ははっきりと告げられれば、それ以上何も言うことが出来なかった。
首都圏でも比較的多くの人間が行き交うビジネス街にあって、他の商業ビルと比べれば比較的小さいと言える五階建てのビル。
二人はそんなビルの最上階、今はちょうど昼過ぎの最高の日当たりで、外の景色も十二分に堪能できる部屋にいた。
更に付け加えるならば、社長と呼ばれた人間は誰が見ても高級そうな机に両肘を乗せると、その間に顔を乗せて
「何か面白いことはないですか?」
と目の前で顔を引きつらせた男に向かって言葉を重ねた。
ここは何度も「つまらない」を連発している男、前中峻が所有しているビル。
ビルにはいくつかの関連会社の名前が連なっているが、前中の前で手帳を広げたまま固まっているのは前中の第一秘書。
「社長、面白いことと言われましても・・・」
秘書は社長の言葉に何と返せばいいのか分からずにいた。
というか、何も考えずに返答すれば被害を被る可能性が高いため、たった一言であったとしてもよく考えなければならなかった。
社長の前中が「つまらない」という意味は決して経営が上手くいっていなく、暇だということではない。
会社の経営はこの不況の中でも赤字を出すことなく、比較的順調だった。
社員達も自分達は優良企業に就職できて良かったと思っている人間が大半を占める。
さらに社長はその顔から笑顔が消えたことがない位の穏和な性格で知られており、社員達からの信頼も厚い。
ただ、これは”表向きは”というフレーズが前に付いた。
それを知ってるのはほんの一握りの人間だけで、秘書はその裏も表も知っている限られた人間の一人だった。
前中は実に楽しそうに笑顔で、
「ちょっと考えてみたんですけど、火の輪くぐりとかどう思います?」
「え・・・」
「それが嫌なら、人間の骨がどれ程の強度があるのかっていう実験とか?
この場合、年齢ごとに調査してみたいから十代から七十代ぐらいまでの人間を何人かずつ用意してもらって、腕の骨と足の骨、それから腰や背中の主要な骨の上にコンクリートを落としていきましょうか。
この場合、コンクリートの重さは十キロ単位で五十キロまで用意して、コンクリートを落とす高さは約二メートルぐらいにしましょうか」
前中は実に楽しそうに準備する物や、その具体的な実験方法を話し続けるが、聞いている秘書の表情は話が進むにつれ強ばっていった。
もし何か言葉を挟めば、「じゃあ、やって見せてください」と言われる可能性が大きい。
だからこそ、前中が話し終えるまで言葉を挟むことはしなかった。
ただ実際にするかどうかは別として、聞かされている秘書はそれだけで十分精神的に苦痛を強いられているが、前中はそれさえも楽しんでいる部分があった。
「他にも色々考えてみたんですけど・・・」
と、まだ話は続くのなら逃げ出したいという衝動を持て余していた秘書だったが、携帯の着信音でなんとか地獄行きは免れた。
秘書は前中に目だけで合図をすると、通話を始めた。
「もしもし、どうした?」
電話口に出た人間は相当慌てている様子で、少し話を聞いただけでは何を言いたいのかさっぱり分からなかった。
「もう少し落ち着いて話せ。それから、要点を話せ。無駄な話はいらない」
そう言うと、相手は何度か深呼吸を繰り返した後、今日は起こった出来事を話し始めた。
それは本当に寝耳に水であり、広い大地の中に埋もれた地雷を踏んでしまったぐらいの衝撃だった。
「それで相手は誰なのか分かったのか。
・・・そうか、それはこっちで調べるからメールアドレスを送ってこい。
それから、分かってると思うが相手には決して悟られるな。
取引は・・・そうだな、場所も時間も全て変更しろ。
・・・社長にも報告しておく」
最後の言葉に電話口から小さな悲鳴が漏れ聞こえてきた。
『ちょ・・・』
そして相手の声を無視するように、通話を切ってしまった。
秘書の様子をジッと見ていた前中は、微笑みを浮かべたまま何も言葉を発することはない。
「先日報告していた取引にトラブルが生じました」
「そうみたいですね」
秘書はコクンと唾を飲み下すと、
「今回の取引についてなんですが・・・」
「そういえば、丸木さん達に頼んでいたんでしたよね」
「はい。それで、丸木達なんですが、取引の時間と場所を相手側にメールで送ったそうなんですが・・・送信先を間違えてしまったと」
「間違えた?」
「はい。アドレスの数字のゼロと英語のオーを間違えてしまったようで、さらにその間違えた相手からメールが送られてきたことで分かったと」
そこまで言い切ってからようやく前中の表情を窺う。
しかし、前中は変わらず穏やかな表情のままで逆にそれが恐怖を駆り立てた。
暫く二人の間に沈黙が流れた後、前中はさも楽しそうに笑顔を浮かべると
「丸木さん達には火の輪くぐりをしてもらいましょうか?それとも、ブロックを抱えてもらいましょうか?」
そう言い放った。
秘書自身はそれに対して異論はない。
丸木達はそれだけの失態を犯したのだと分かっているからだ。
ただ、その準備を考えると頭が痛い思いだった。
「まあ、それは最後のお楽しみにおいておきましょうか。
で、まずはどう処理しましょうか?」
「相手のメールアドレスは分かっていますので、すぐに身元は分かると思います」
「そうですか。女性なら使い道はありそうですが、男性ならすぐに処分を考えた方がよさそうですね」
「はい」
「基本的にはあなたに任せますから」
「分かりました」
こうなると秘書の責任は大きくなってくるというもので、失敗は許されないことになる。
丸木達に今回の件を任せたこと自体が失敗だったと言えるが、丸木達の上司である人間からぜひにと言われて使っただけのこと。
秘書は自分が丸木達を指名していたらと考えると、嫌な汗が背中を伝ってくるのを感じた。
「じゃあ、お願いします」
前中はそれだけを言うと、目の前の仕事に戻った。
さっきまでの「つまらない」という言葉をそれ以降、口にすることはなかった。
秘書はすぐに次の行動に移る必要があった。
まずは本来の取引相手である方に、取引時間や場所の変更を連絡する。
その後は
「もしもし、俺だ」
自分の部下に連絡をすると、
「今から言う携帯アドレスの持ち主について調べあげろ。今すぐに、そしてできるだけ早く」
そう言うと、一旦通話を切った上で部下にメールを打った。
必要な連絡を入れている間、前中が口を開くが
「そういえば、今回のブツは・・・」
「純正の葉っぱとチャカです」
秘書は前中に最後まで言わさない勢いで今回の取引材料を告げる。
こちらが売る側なため、もし警察にでも嗅ぎつけられたらと気が気ではない。
前中はきっとそうなったとしても、裏から手を回し無かったことにするだろうが、その後の荒れ方を考えると穏便に済ませてしまいたい。
一般の会社では”葉っぱ”や”チャカ”なんていう言葉は耳にしないだろう。
前中の経営している会社は主に株の取引を中心に、フィナンシャルプランナーによる資産運営を顧客へ提示する業務の一方、金融会社も経営していた。
そしてどちらの会社においても先ほどの言葉を聞くことは疎か、口にすることもないだろう。
しかし、前中にはもう一つの裏の顔が隠されており、それ故に前中は一部の人間に対して非常に恐れられていた。
「万が一のことも考えて、虎城組にも断りを入れておきます」
「よろしくお願いします」
虎城組というのは、関東でも三指に入ると言われている指定暴力団の一つであり、前中とは深い関係を持っていた。
前中は表向き青年実業家としていくつもの会社を経営していたが、その裏では指定暴力団松山会系の三次団体である楠本組の若頭として広くその世界では知られていた。
前中がどうしてこの世界に入ってきたのか、それはあまり知られていないが、気づいた時には「悪魔」と呼ばれ、恐れられるまでになっていた。
そんな本性を前中は経営している会社では一切見せてはいなかった。
少しでも知ったなら、誰一人としてこの会社に残ることはないだろう。
そんな前中の秘書である人間もご多分に漏れず、組関係の人間だった。
前中の裏も表も知る秘書という仕事はかなり精神的にも肉体的にも大変で、今までにも何人となく辞めていっていた。
現在の秘書はすでに二年は今の地位を守っており、歴代一位の記録を打ち立てている。
二時間も経たないうちに秘書の電話が鳴り、メールの相手が分かったという知らせが入った。
「社長」
秘書はできるだけ、どんな場面であったとしても前中のことを「社長」と呼ぶようにしていた。
万が一にも「若頭」と呼ぶところを誰かに聞かれれば痛くない腹を探られることになるからだった。
「男だったそうです」
「そうですか」
前中はそれを聞いても特に興味を惹かれることはなく、
「それじゃあ、葉っぱがどれぐらいの効力があるのか実験する材料にでもしましょうか」
とだけ提案をした。
「詳しい内容はもう少し後で上がってきます」
「分かりました」
「今後の対応としては、お礼を直接言いたいという名目で食事に誘うつもりです。
食事場所はもちろんウチの系列に行かせますが、その後は『アリス』に連れていく予定です。
そこでミナミと引き合わせ、まずは既成事実を作らせます。
その後は・・・」
「それでいいんじゃないですか」
秘書の計画に、前中は口を挟むことはなかった。
それを了承と受け取り、さっそく丸木達に連絡を取った。
電話の相手はさっき立てた計画を話すと、
『今度は大丈夫です。上手くやります、だから・・・』
と前中への命乞いを頼んできた。
「逐一報告してくることを忘れるな」
秘書はそんな言葉を無視する形で通話を一方的に切ると、
「丸木達だけには任せておくのは心配ですので、別の人間にも」
自分の考えを前中に伝えると、
「それも任せます」
前中はそれ以上興味を失ったかのように、仕事に戻っていた。
まさかその男が前中の人生を大きく変えるような人間だとは、その時誰も想像も予想もできなかった。
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