「お母さん、行ってきます」
「はい、気を付けて」
社会人になった記念にと、初任給で購入した時計。
今の私は既に社会人13年を過ぎようとしていた。
それなのに、いまだに同じ時計を使い続けているのは、ただ物持ちがいいだけではない。
毎日着ていくスーツもすでにくたびれている。
スーツは3着持っていて、それを着回しているだけで、ネクタイは2本を交互に締めていくだけ。
特にそれで困ったことはない。
私の仕事は人と接する仕事ではないため、誰からも服装で注意されたこともないので、改めようという気持ちもない。
さらに言えば、鞄は大学時代に使っていた黒のリュックサック型を使っている。
スーツにリュックというのはある意味で目立つこともあるが、人目を気にして欲しくもない鞄を買うことはしなかった。
私にとって服装やその他の装飾品を買うことにお金を使うことは無駄遣いとしか考えられない。
「7:50」
時計で時間を確かめながら、いつも通りのタイムスケジュールで進んでいることに満足してしまう。
私の家があるのは都心部から電車で約35分の所。
そして、駅から私の家までは歩いて10分。
私は毎日8:15の電車に乗ることにしているので、十分時間には余裕がある。
私は鞄から1冊の本を取りだし、読みながら歩く。
本にはブックカバーをしているので、誰にも表紙を見られることはない。
「「良隆君、おはよう。行ってらっしゃい」」
歩いているとご近所のおばさん達が朝の挨拶として声を掛けてきてくれるが、私は軽く会釈をし、
「どうも」
とだけ言葉を返した。
ニコニコと人の良さそうな笑顔をしているが、心の中で私のことをどう思っているのかは分かったものではない。
『良隆、あなた近所の人から何て言われてるか知ってるの?御木さん家の良隆君はオタクだって言われてるのよ』
その言葉を私は否定するつもりはなかった。
私は見た目から考えてもオタクという分類に入ることは明らかであり、実際オタクなのだから。
しかし、オタクにもいろいろなジャンルがある。
鉄道オタクやアイドルオタク等、様々なオタクが生まれている中、私は他のオタクとは一線を画した立場にあると自覚していた。
「8:00」
気づけば駅に着いていた。
時計を見れば、今日もちょうど8時。
私は本を一端脇に挟み、定期入れを胸ポケットから取り出す。
ちょうどその時に男子学生が突進してきた。
「あっ」
私が気づいたときには定期と一緒に本も床に落としてしまった。
学生は謝ることもなく去っていったが、私はそんなことよりも落としてしまった本を一刻も早く手に取り戻したい一心だった。
きっと周りの人間は自分のことに必死で、私のことに注意を向けている暇はないだろう。
それは分かっていても、どうしてもそうしてしまう。
本を手にすると、今度は落とさないようにしっかりと胸に引き寄せておく。
「よし、ちょうど8:10」
私はホームで電車を待ちながら時計を見る。
そして、電車が来るのを本を読みながら待つ。
電車内でも私は当然ながら読書をしたいと思っている。
ただ、ここで問題になるのが本に描かれている挿し絵だった。
私はいつもそれを誰かに見られはしないかとドキドキしていた。
挿し絵を見ただけではどんな本なのかは分からないかもしれないが、ページによってはその内容が分かってしまうこともある。
そのため、私はなるべく扉側に移動し、扉を背にしながら本を読むことを習慣にしていた。
電車が目的地に到着すると、私は人の流れに身を任せ、駅から吐き出されるように外へ出る。
駅から会社までは歩いて約15分。
私はここでは本を鞄に仕舞い、ひたすら俯きがちになりながら歩く。
人には言えないような趣味を持っているせいなのか、つい顔を見られないようにと下を向いて歩く癖がついてしまっていた。
ふと顔を上げれば、ちょうど会社が入っているビルの前だった。
ビルの前には会社名が大きく書かれた石碑が鎮座している。
【ミール商事】
中小企業としてはまずまずの業績を上げている会社は、名前の通り様々な食品を扱っている。
主に海外の珍しい食品を輸入し、国内で販売していた。
そんな企業において私の役割と言えば、
「おはようございます」
ボソボソと挨拶をした後、自分のデスクに座りパソコンの電源を付ける。
それから1日中パソコンの前からほとんど離れることはない。
私、御木良隆(みき よしたか)はミール商事経理部に所属している。
入社当初は企画部に配属されたのだが、半年もしないうちに経理部に回されることとなった。
企画部では1週間に1回は企画を提出しなければいけなかったのだが、まずアイデアが浮かばずに提出できなかった。
さらに、企画を提出したとしても採用されるまでには程遠く、企画書のダメ出しだけで何週間も費やしてしまう始末だった。
ただ、今は経理部に配属されて本当に良かったと思っている。
1日パソコンの前に座り、ひたすら伝票と数字を打ち込んでいけばよく、人と交流することが極端に少ない。
人とのコミュニケーションが苦手な私にとっては最適の部署だと言える。
しかし、私には何の苦痛も感じない部署であったとしても、入社してすぐの若い人間には物足りない部分が多いのかもしれない。
「ちょっと。ちょっと」
「・・・」
「ちょっと御木さん」
「・・・え、あ、はい」
普段から私に声を掛けてくるような人はいないから、つい人の声を聞き逃してしまいがちになる。
「あのさ、さっき携帯鳴ってたし、携帯がチラチラ光ってんのが目に入ってイライラするんですけど」
そう言ってきたのはちょうど私の隣に座っている、山田だったか山下だったか、そんな名前の人間だった。
「あ、どうも」
私は一言謝って携帯を見たが、半信半疑の気持ちだった。
自慢をするわけではないが、私の携帯はほとんどその機能を活用できていない。
電話やメールをすると言っても、家族を相手にするぐらい。
たまに勧誘サイトのメールが来ることがあるが、それぐらいならいいかと放置している。
言われて携帯を見てみれば確かにメールの着信を知らせるランプが点滅していた。
また勧誘メールかと思いながらメールを開いてみれば、
『明日、夜23時にM埠頭で。金額は先日伝えた額で』
と端的な文章だった。
メールアドレスには見覚えがないが、文面から推測できるのは何かの商談だということ。
そうでなくてもメールを送った相手は返信がなければ不審に思うだろう。
ただ、どんなメールを打つべきなのか思案した後
『はじめまして。
先ほどメールを受信しましたが、送る相手を間違っていらっしゃるようです。
再度、メールアドレスを確認された方がいいかと思います。
失礼します』
何度か自分が書いた文章を読み直した上で、メールを送信した。
そんなメールが来たことを記憶の片隅に置き、私は再び目の前のパソコンと向き合うようにした。
まさか、この間違いメールが私にとっての転機になるとはその時には想像もできなかった。
終業は毎日17:30。
フロア内に設置されているスピーカーから終業を知らせる音楽が流れてくる。
音楽が流れると私も、そして周囲の人間も一斉にパソコンをシャットダウンし始める。
他の部署ではそういうわけにはいかないだろうが、この課だけは定時帰宅がほとんどだった。
私も音楽を聴き終わると、リュックを背負いフロアを出ると、急いで駅へと向かう。
時計を見れば、18時前。
地下鉄に乗り、乗り継ぎをしながらたどり着いた目的地は、ビル街にある比較的大きな書店。
一歩中に入ればマンガやそのキャラクターのグッズで溢れていて、客は女性客を中心に私と似たような格好をした男性客が多い。
人混みをかき分けながらエレベーターで目的階へ降り立てば、そこは女性客以外ほとんどいないフロアだ。
女性客は私のことを一瞬だけ変な目で見るが、私は別に間違えて降りたわけではない。
女性客に混じり新刊コーナーの前に立ち、
「今日は秀先生と玄上先生の新刊・・・それから、東野先生のコミックが・・・あ、天城先生の新刊が出てる」
ここ数日に発刊された新刊を眺める。
ただ、誰にでもなく呟いてしまう私は周囲から変な目で見られがちになる。
気付けば周囲には私以外のお客はいなくなっており、そっとため息をつきながら、数冊の本を抱えてレジに向かう。
レジの店員だけは私を変な目で見ることはなく、笑顔で
「いらっしゃいませ。カバーはどうされますか?」
と聞いてくれる。
「いえ、いりません」
私はいつものようにそう答えると、袋に入れてもらった本を抱えて書店を早々に出ていく。
その後も、周辺にあるいくつかの書店を回り、探していた本を購入してようやく家路に着く。
家に帰り、夕飯を簡単に済ませるとようやく部屋で今日の戦利品を広げられる。
私の部屋は6畳の広さがあるにも関わらず、ベッドと学生時代の机が未だに鎮座しているため、少し手狭に見える。
さらに部屋を狭く見せているのは部屋を囲むように配置された書棚と、床に置かれた衣装ケースの数々だった。
書棚にはすでに本が入りきらず、衣装ケースにも多くの本が入っている。
ただ、その本の1冊1冊が特殊だとしか言えない。
ベッドに横になりながら読み始めた本の表紙。
今はブックカバーも外しているので、その絵が目に飛び込んでくる。
「奈良先生の絵はやっぱりカッコいいな」
ついそんな言葉が漏れてきてしまうが、その表紙に描かれているのは男性2人。
一見すると、どんな内容か分からないけれど、分かる人には分かるという代物。
床に置きっぱなしになっている本の表紙はさらに特徴的で、男性2人のイラストはさほど変わらないけれど片方が裸だったりする。
さらに中の挿し絵には明らかに2人の男性が絡み合った場面も描かれている。
決して私はゲイではないし、女性とも1度はお付き合いしたこともある。
そんな私の趣味は”BL”や”やおい”と言われる種類の本を読むこと。
私はこの本の中にこそロマンがあると思っている。
男女が絡む、いわゆる成年コミックを読んだこともあるが、単に性行為を際立たせているだけで1冊読めばそれで十分だった。
そんな私がこの世界と出会ったのは、本当に偶然だった。
私には弟が1人いるが、その弟が付き合っていた女性がいわゆる”やおい”が好きな女性、”腐女子”というオタクの人間だった。
彼女は何度も家に遊びに来ていて、弟の部屋にそういう本を持ち込んでいたようで、たまたま弟に貸していた辞書を返してもらうために部屋を訪れた時に出会ってしまった。
最初はその内容に驚いたし、嫌悪感も抱いた。
なのに、恐いもの見たさもあって何度か見ているうちに、その奥深さを知ったという感じだ。
彼女は今や弟の嫁になったが、私にとっては同じ趣味を持つ友人でもある。
今では本の貸し借りはもちろん、コミケやJガーデンと言う同人誌即売会にまで一緒に参加するほどの仲で、私が色々話せる大切な人だ。
「そうだ、メールしておこう」
私は義妹に今日は買った本や、今度一緒に行く予定にしているJガーデンについてメールをしておこうと携帯を開けば、すでにメールの着信を知らせるマークが表示されていた。
メールの受信時間は夕方になっている。
時間から考えて、書店にいる時間帯で気づかなかったんだろう。
差出人はやはり知らないアドレスだったが、開いてみればその文面から昼間の間違いメールの相手だとすぐに分かった。
『昼間、間違ってメールしてしまいすみませんでした。できれば、メールは削除していただければと思います。
本当に助かりました。直接お礼をしたいと思うのですが・・・』
メールの内容を見れば、
「大げさ過ぎる」
と言いたくなるぐらいの丁寧さだった。
私は暫く考えた上で、
『返信が遅くなってすみません。お役に立てたようで良かったです。お礼なんて結構ですので・・・』
そう書いた上で返信した。
これでこのメール相手とも終わりだと思っていたが、そうならなかった。
返信から数分後、再び私の携帯がメールの着信を知らせた。
面倒だと思いながらも、何度かメールのやり取りをし、最終的には食事を一緒にするまでになってしまった。
すぐに義妹にも連絡をとったが、
「ラッキーだと思って美味しいものを食べてきなよ」
と言われ、
「良い男だったら写メ送ってね」
なんてからかわれてしまった。
BL本を愛読しているからといって、男の同僚と2人になっても何かを感じることもないし、何かが起こることもない。
だからこそ、今回の食事も会社での飲み会に参加する気分のつもりだった。
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