嘘つきな彼 13

「お帰りなさい、今日は遅かったのね」


お母さんの言葉は耳に入ってきたけれど、その時の私に答える余裕は全くなく、

「夕ご飯、ごめん」

とだけ言うと部屋へ入った。



『すみません、ついしたくなって』


彼の言葉と笑顔が頭の中をグルグルと回っている。


あんなに怖い出来事に合ったというのに、それなのに思い出すのはその後の出来事ばかり。


『良隆さん』


それまで『御木さん』としか呼ばれたことがなかったのに、『良隆さん』と呼ばれても少しの違和感もなかった。
きっとそれ以上の出来事に、些細なことは吹き飛んでしまったというところだ。

そして考えるのは

”私は彼に失礼な態度はとらなかっただろうか”

ということ。



『明日、迎えに会社まで伺います。もし嫌だったら、私のことは無視して帰ってください』

『無視って・・・』

『それじゃあ、また明日』

『え・・・』

『良隆さん、おやすみなさい』



そう言って見送ってくれた彼がフラッシュバックする。

誰もいないというのに、顔を真っ赤にしながら


「彼は・・・彼と・・・してしまった」


部屋の中のウロウロと歩き回る。

ジッとしていることができず、だからといって何かをするということもできない。


「そういえば、前に『気になる』とか言われたけど・・・」


”そういう意味だった?”


落ち着きなく部屋を何周しただろう、ベッドの枕元に伏せたままの本が目に入った。
それは昨日の夜、読みかけたまま。

表向けると、2人の男が絡み合っているイラストが大きく描かれている。

ただ、彼はそんな性嗜好があるとは思えなかった。
でも彼とキスをしたというのも事実で・・・
さらに明日も彼と会う。


”キスの次は・・・”


どうしてもそんなことを考えてしまう。

そして、改めて自分の身体を見てしまう。
今は服で隠れているけれども、メタボ手前という感じで決して引き締まったとはいえない身体をしている。
ビールを飲んだりしないお陰か、ひどいビール腹ということはない。

一方で彼のことを考えると、身体型を維持するためにも鍛えているように見える。
スーツに隠れているけれど、少しだけ触れた胸板や腕の筋肉質な感じを思い出す。

きっと想像だけではなく・・・それ以上に理想的な身体型をしているんだろう。
誰に見られたとしても恥ずかしくはない身体。


”私も、もっと引き締まった身体でいたかった”


そこまで考え、私は彼とキス以上のことをする前提に物事を考えているような自分に気づく。


”そんな、そんなつもりじゃ・・・”


少し落ち着いてきていた気持ちがまた興奮してくる。
そして、赤面しながらも

「そういう意味じゃない、決して・・・」

と呟きながら部屋の中を再び周回する。


”やっぱり、どんなことになるか分からないから”


いろいろ考えた結果がそれで、風呂場に向かう。

隅々まで洗い、風呂から出た後は身体が睡眠を欲するまで本を読み耽った。





次の日、いつもの朝であっていつもとは違う朝だった。

「今日は遅くなると思うから、先に寝てくれていいから」

お母さんにそれだけ言うと、家を出る。


出勤しても、退社後のことをつい考えてしまう。

ただ、昨日の夜とは違い少し冷静に物事を考える余裕もでてきた。

”キスをしてくるということは、彼は私なんかのことを?”

私はと言えば、実際のところ彼が好きなのか分からないでいた。

会えばドキドキして、話もまともに出来なくなってしまう。
正直言えば、恋をした経験がないからこのドキドキの種類を判別できずにいる。

それに、彼のような人に私が釣り合うのかという点も気になっている。


身分違いの恋。


自分が好んで読んでいる本のような展開。
ただこれは本の中の出来事ではなく、現実のことだ。

私はただのサラリーマンでしかなく、彼はと言えばどれ位の規模かは分からないが会社の取締役。

それじゃあ彼からの誘いを断るのかと考えてみれば、そんなことできない自分がいる。


”今の私には彼と会いたい、話をしたい、それだけが真実”


いつものように腕時計で時間を確かめる。


あと1分。


秒針が退社時刻を示すと、


「失礼します」


その一言だけ残し、会社を後にする。


会社の玄関を出れば、前に見た車が止まっているのがすぐに目に入った。
そして、その車の横に立っている人間にも気づく。

彼がじっと私を見ているのが分かる。

いつもなら『御木さん』と笑いながら声を掛けてくれるのに、今日は声を掛けてくれない。
きっと私から声を掛けなければ、彼はそのまま何もなかったかのように帰ってしまうのだろう。


私は・・・一歩を踏み出した。


彼の近くまで、お互いの声が聞こえる位置へと移動すると、

「あの、お待たせしました」

と私は彼に向かって告げる。



すると、それまで何も言葉も発することもなく無表情に近い状態だった彼が


「いいえ、全然待ってませんよ。丁度良かったです」


といつもと変わらない笑顔を見せてくれた。

私はそんな彼の笑顔と言葉にホッとしながら、さらに彼に近づいていく。


「どうぞ、良隆さん」


彼は『御木さん』ではなく、『良隆さん』と、そう言いながら助手席の扉を開けてくれる。

その言葉で昨日の出来事が嘘ではないんだと教えてくれた。
それと同時に、彼に対して

”あの唇に触れたんだ・・・”

と、彼の唇に視線が吸い寄せられた。


「良隆さん?」

「あ、すみません。ありがとうございます」

「いいえ」


彼は私の視線に気づいていながらも、


「行きましょうか」


と彼は私の不躾な視線にも笑顔を崩さず、私の荷物をさり気なく持ってくれた。


「ありがとうございます」


私は顔が赤らむのを自覚しながらも、それをどうすることもできないまま彼に従う。


「先に携帯を買いに行きましょうか」

「はい、お願いします」


車に乗るとすぐに彼が話し掛けてくれる。

それがあまりに自然で、昨日のことが嘘のようにも思えた。

”意識し過ぎているんだろうな”

彼の態度を見ていれば、もう少し落ち着くべきだと自分に言い聞かせる。


「良隆さん、後ろの座席を見てください」

「え?」


そんな私に車が走り出してしばらくして彼が声を掛けてくれた。
私はその言葉通り後ろを振り向く。


「私の鞄・・・」


そう、そこにあったのは昨日私が奪われ、忘れてきた物だった。


「どうして?」

「返してくれたんですよ」

「え・・・」

「私の部下が車に残っていた”それ”を見つけたんです。
誰のものか分からなかったみたいですが、中に免許証が入っていたので」

「そうなんですか、ありがとうございました」

鞄も何もかもなかった今日。
私は適当に鞄を選んで出勤していた。
まさか手元に戻ってくるとは思っていなかった。

「また新しい鞄を買いに行かないとと思っていたんです」

「それは良かったです」

鞄も手元に戻り、そして今の会話で少しばかり緊張も解れた。

たわいもない会話をしながら車は進んでいく。
ただ、車がどこを走っているのか、普段の交通手段が電車ばかりの私には分からなかったけれど。

そんな私が得る情報は道路標識からで、かろうじてどの辺に来ているかが分かる。
しかし、それさえも駐車場を探すためにも路地へと入ってしまえば分からなくなってしまった。

私はたくさんの駐車場がある中、空車探しに目を凝らしていた。


「あ、前中さん、あそこ」


見ている前で1台の車が駐車場から出て行った。
思わず私は大きな声を出してしまう。

「あそこに停めましょうか」

彼はクスッと笑いながらも、

「ちょうど見つかって良かったですね。良隆さんが見てくれていたお陰ですね」

と私を立ててくれる。

「いや、そんな・・・」


しかも、その駐車場から携帯ショップまでは歩いてすぐで


「こんな近い場所に見つかるなんて、本当にラッキーでしたね」


彼は私を心地よくしてくれた。


その ショップに到着後はと言えば、何がいいのかも分からない私を今度は彼がサポートしてくれた。


「良隆さん、これなんかどうですか?」

「はあ、そうですね・・・」

「これだったら、迷子になってもすぐ自分がどこにいるか分かりますよ」

「そんな機能があるんですか・・・」


私は彼の勧めもあり、GPS機能を搭載した機種に決めることになった。
幸いというべき、個人情報の入っているメモリーカードが無事だったため、手続きにそう時間は掛からなかった。

携帯の購入は思ってもみない出費だったけれど、これでまた彼からの電話やメールを受けることができる。

そう考えれば必要経費だったんだと思えた。


「思ったよりも早く終わりましたね」


”彼も私と同じ感想をもってくれたみたいだ”
そう心の中では喜んでいても、

『私も同じことを考えていたんです』

と言うことすらできず、

「そうですね」

と素っ気ない返事になってしまった。


「良隆さん」


それなのに彼は私の態度に嫌な顔をせず、また話し掛けてくれた。


「せっかくですから、これ」

「え?」

「私とお揃いなんですよ」


しかも彼が私に見せてくれたのは、シルバークロスのストラップ。
そのクロスもただのシルバーアクセサリーとは違った。
クロスのちょうど真ん中に宝石のような石が組み込まれていて、それが印象的だ。

2つの内の1つ、黒みがかったシルバークロスが彼の携帯にすでに付いている。

そして、もう1つ。


「少し色は違うんですけど、ほぼお揃いってことで。付けさせてもらってもいいですか?」

「え、そんな・・・・いいんですか?」

「いいんですよ。というより、良隆さんの方が拒否する権利があるんですよ」

「そんな拒否って・・・」


彼とお揃いのストラップ。
そんなものを貰ってしまっていいのだろうか。

私はそんなことをされると、また変なことを考えてしまいそうな自分が怖かった。

頭の中身を見られることはないと分かってはいても、後ろめたい気持ちはなくならない。

私がそんなことで返事に迷っていると、


「やっぱり嫌ですよね。・・・すみません」


彼がストラップをポケットに仕舞いそうになる。


「いります」

「え?」

「ぜひ付けさせてもらいます」

「いいんですか?」

「はい、ぜひ」


慌てたように私が言うと、一瞬曇り掛けていた彼の表情が元に戻る。


「じゃあ、私が付けさせてもらっても・・・」

「は、はい」

私は『どうぞ』と言う気持ちで、彼に真新しい携帯を渡した。

彼は私の携帯を受け取ると、すぐにストラップを付けてくれる。
そして付け終わると、自分の携帯と一緒に持ち


「これでお揃いですね」


と微笑んでくれた。

その笑顔は眩しく、私はどこを見ていいのか分からなくなった。

「そ、そうですね」

彼の顔をまともに見ることもできず、そしてあまりにも素っ気ない言葉しか出てこなかった。


「良隆さん、どうぞ」

「あ、ありがとうございます」


私の手元へと戻された携帯。

ついつい私は携帯本体よりも、ストラップに目がいってしまう。


「じゃあ、次の場所に行きましょうか」

「え・・・」


彼の言葉でようやくストラップから目を離す。


「さあ」


”これは本当に現実なんだろうか”

そう私が思うのも仕方がないだろう。
彼が私の手をひいてくれている。

あまりにも信じられない状況に頭が混乱したまま、車に乗せられ次に到着した場所。


「ここは・・・」

「この中にあるイタリア料理の店が美味しいんですよ」

「イタリア、料理」

「もしかして嫌いですか?」

「いえ、そんなことは。ただ・・・」


『私の財布の中身はそんなに充実していないんです』と言いたかった。


「いいんですよ、私からのプレゼントということで」

「そんなわけには」

「昨日は怖い思いをしたんですから、今日は楽しいことをということで」

「でも・・・」


私が渋っていると、


「それとも、私と一緒に食事が嫌ですか?」


と彼に余計な心配をかけてしまったようだ。

「いえ、嬉しいです。こ、こんな一流ホテルのレストランで食事ができるなんて」

私は慌てて否定をする。
すると、彼も

「喜んでもらえて、良かったです」

と再び笑顔を見せてくれた。

”やっぱり彼には笑顔が似合う”

そんなことを思いながらも、やはりホテルで食事をするということに緊張してしまう。


車が正面玄関に停まると、すぐにベルボーイが扉を開けてくれる。
そして、彼は慣れた仕草で車から降りて行った。

一方で私は、

「すみません。あ、ありがとうございます」

と恥ずかしさに何度も変な挨拶を繰り返してしまっていた。


「うわぁ・・・」


車を降りるとロビーへと続く扉が待っている。
その扉越しに中の煌びやかな様子が見えた。


「良隆さん」


彼が笑顔で待ってくれている。
眩いぐらいの光を背景に立つ彼。

そんな彼を見ると、本当に出会えたことの奇跡に感謝したいと思った。


「良隆さん」


もう一度呼ばれ、私は一歩を踏み出す。

彼との差を感じながらも、今はまるで自分もその光の住人になった気分だった・・・




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