その後、芳は狂慈が自分を捕まえるためにやって来るのではないかとしばらく不安な日々を過ごしていた。


着信音があれば、恐る恐る相手の名前を確かめる。
アパートの呼び鈴が鳴れば、たいてい居留守を使うようになっていた。

しかし、そんな芳の警戒は無駄だったようだ。

電話やメールは一切なく、狂慈の部下が家にやって来ることもなかった。

何も起こらないのだと分かると、それまで張りつめていたものがなくなり、反対に無気力になってしまう傾向があった。


”俺は何を期待してたんだか・・・”

芳はアパートで一人考えていた。


それまでと何ら変わらない毎日が再び戻ったようだが、芳の大学生活は少しの変化がみられた。

狂慈と一緒にいるところを見られた翌日、芳は彼女が忘れていった荷物を渡すために彼女を探していた。


メールをしても、返信がないため講義室を探していくしかなかった。



そうしてようやく見つけた彼女は、男女入り混じったグループの中にいた。

芳の目が、彼女をその中から見つけだすのと同時に、彼女の方も芳に気づいた様子だった。

しかし、二人の目が合った瞬間、彼女の顔が険しいものへと変化した。

それは周りにいた人間も気づいたようで、たくさんの目が芳に注がれることになった。

彼女はきっと芳の話をしたのだろう、その視線は蔑むようでいて、好奇の色が強くみられた。

そんな視線にさらされると、まるで高校時代に戻ったかのような錯覚に陥った。
狂慈との肉体関係は高校中の人間が知っていると言ってもいいぐらい、知れ渡っていることだった。

ただ、生徒達は狂慈の凶暴な面を知っていた分、その視線には同情の色合いが大きかったような気がする。
好奇な目で見るような人間もいたが、それは生徒の中でも一握りぐらいだった。

高校時代のこともあり、人の視線を浴びることに慣れているつもりの芳だった。

しかし、向けられる視線の種類は当時とは違う。
視線の種類が違うだけでこんなに心が揺れるとは思っていなかった。



「あの、これ。
昨日忘れて帰っただろ」


芳が彼女の前まで歩み寄り、差し出した荷物。
彼女はそれを奪い取るかのように芳の手から取っていった。

その目はつい最近まで芳に向けられていたものとは明らかに違っていた。


「じゃあ」


芳はその視線を避けるように、背中を向けて歩き始めれば、その背中越しに彼らがヒソヒソと何かを話しているのが分かった。

ただ、芳がそれに反論を示すことはなかった。
何も言い返せないまま、芳と彼女の関係はその時点でプツリと切れてしまった。


”まあ、長く続くとは思ってもなかったし。面倒な別れ話もいらなかったんだからいいか”


芳は彼女とのことを心の中で区切りをつけた。
それで終わるはずだった。


しかしそれ以降、彼女やその友達に聞いたのか、キャンパス内を歩いていると、たまに好奇の目で見られることがあった。

ただ、彼女がサークル活動を熱心にしていなかったおかげで、サークルの仲間が 一連の流れに気づくことはなかった。
そのおかげで貴重なサークル活動時間は侵されることはなく、芳は今まで彼女へと費やしていた時間をサークル活動にあてることができた。


このサークルでは年に一度、作品の発表を行うことになっている。
ほとんど活動らしい活動はないのだが、サークルの実績ということで義務的に行われるものだ。

義務といいながらも、実際に作品を仕上げてくる人間は数人しかいない。

そんな中でも芳は彼女にも以前言われたことがあるように、サークル活動には熱心な方で、去年も作品集に原稿を載せた。
今年もその為の作品を制作中だ。

すでにその作品は完成間近だったが、芳はその最後の部分で迷っている状態だった。



原稿の締め切りはあと3週間。



家にこもり原稿を考えていても仕方がなく、芳はバイトに行くことで気分転換をするつもりだった。

いつもならアンケート集計をするのだが、今日はお遣いに行くことになった。


「バイト君、これ届けて来てくれ」


稀なことだったが、芳はこうしてお遣いを頼まれることがあった。
決まってそれはインタビューなどした相手側に確認してもらうため、出来上がっ た原稿を届けるといった簡単なもの。


「分かりました」


原稿と届け先の地図を受け取り、出発する。
目的地までの交通費は出してもらえるので、芳にはさらに良い気分転換にもなる。


着いたところは都心に位置するビルの一つ。

高層ビルではないが、ビルそのものがある一つの企業とその関連の企業によって成り立っているようだった。

自動ドアをくぐれば、正面に受付嬢が2人座り芳を出迎えてくれた。
本来ならその受付嬢に事情を説明し、原稿を渡すだけで終わる。


「すみません、この原稿を・・・」


受付嬢はニッコリと笑うと、


「分かりました。預からせていただきます」


そう言い、原稿を受け取ってくれる。

お遣いは終わったと芳が出版社へと帰るつもりで数歩、歩いたところだった


「あ、すみません。少しお待ちください」

「え?」


何か不備があったのかと芳が振り返れば、受付嬢の一人が受話器を片手に芳を引き留める。
電話を通じて誰かと話していたようだが、すぐに会話は終わる。

受話器を戻した受付嬢が芳を再び見ると、


「社長が原稿の方をぜひ直接受け取りたいとのことです」

「え?」


それは芳にとって予想していない展開だった。

受付嬢は一度は受け取った原稿を芳に渡すと、右手を軽くあげ


「そちらのエレベーターで最上階へお上がりください」


とニッコリ笑いながら答えた。


どうしようかと一瞬迷うが、そのまま原稿を置いて行くことはできない様子だった。
それに原稿を渡さなければ芳のお遣いは達成されない。

芳は軽く受付嬢にお辞儀をすると、教えられたとおりにエレベーターに乗り込む。


最上階は5階。

軽い振動と共に到着すれば、そこには2人の人間が机に座って仕事をしていた。
2人とも男性で、スーツ姿が社会人の証だった。

普段着のままだった芳は思わず恐縮してしまう。

2人のうち、右側に座っていた男がゆっくりと立ち上がると


「お待ちしていました。こちらに」


男に案内されるまま、右奥へと進めば曇りガラスのドアがすぐに現れる。
そして、ノックを2回。


「社長、お客様が到着されました」

「どうぞ」


中から声が聞こえてくれば、男がドアをゆっくりと開けていく。
しかし、男はドアを開けただけで中へは入ってこない。

視線だけで芳に命令してくる。

”中に入れ”と・・・


「失礼します」


芳の声は多少なりとも緊張していた。
頭を下げながら部屋に入れば、想像していたよりも若い声が聞こえる。

「こんにちわ、藤野君」

「え?」

いきなり名前を呼ばれ、芳は正面から相手の顔を見る。


「あんた・・・」


窓を背に、広い部屋に1人座っていたのは”Ryo”で会ったオーナーだった。


「まさかこんな形でまた君に会うことができるなんて思いませんでした」

「俺も、まさかあんたに会うとは思ってなかったよ」


男はゆっくりと立つと、そばにあったソファに芳を促す。
しかし、芳はそれに従うことはなかった。


「バイトの途中だ。これをあんたに渡して、俺はバイトに戻る」

「そう言わずに、ゆっくりしていってください」


芳はその言葉にも首を横に振ると、原稿が入っている封筒をソファの上に置く。


「確認してくれってことですので。それじゃ」


それだけ言うと、今入ってきた扉から再び出て行こうとする。


「そうですか、原稿は受け取りました。
あぁ、そうだ聞きたかったんですよ」


芳はドアノブに手を触れたまま、次の言葉に動けなくなった。


「自由を手に入れてみてどうでしたか?」


それは思いがけない言葉だった。


”どうして・・・どうしてこの男がそんなことを言うんだ”

『藤野君が知らないことも・・・全て』

店で会った時に言われた言葉が頭を掠めて行く。

芳は振り返ることなく、尋ねる。


「あんた、本当に全部知ってるのか?」

「ええ。知ってますよ・・・『俺はこれでお前から解放されるんだな』でしたか、それとも『俺はこれで自由だ』でしたか?」


”俺は、もう解放されるんだな”


高校時代に芳が狂慈に言った言葉とほとんど変わらない言葉を、男は口にした。
それは、本当に男が全てを知っているのではないかと芳に思わせるには十分だった。

しかし、芳はそれ以上聞かなかった。


「俺はあんたみたいに暇じゃないから答える時間はない」


ドアノブを掴んだ手は微かに震えていたが、芳はそれを誤魔化すように無意味に乱暴な態度でドアを開けると部屋を後にした。


”なんなんだ、あいつは・・・本当に全部知ってるのか?”


案内してくれた男を振り切るようにして歩く芳は、タイミングよく開いたエレベーターに飛び乗る。
やっと一人きりになった空間で、混乱した頭を整理しようする。


”自由”


それは今、芳が一番悩んでいる事柄だった。


高校時代、芳には自由はなかった。
まるで本当に籠の中の鳥だった。

だから、籠の外へ出たいと願っていたのだ。

何が外に待ち受けているのか、それは今よりも素晴らしいのではないか。

そう考えていたのだ。


束縛された生活と、そして不実な狂慈。
その矛盾した2つの事柄が芳にはストレス以外の何物でもなかった。


そして、ある日それはやってきたのだ。

芳がたまたま見つけてしまった狂慈は、女連れだった。

その時の芳は狂慈というストレスに加え、勉強というストレスまで抱えている状態であった。
ストレスが溜まれば、どこかでダムが決壊するかの如く感情が溢れる時が来る。


芳はそれをそのまま、狂慈へとぶつけていったのだが、答えはあっさりと下された。


『出してやるよ』

『え?』

『籠からしばらく、出してやる』


あまりにあっさりした答えに芳は呆然とするしかなかった。

『俺はもう、解放されるんだな』

それが最後だった。


それから芳は自分なりに自由を満喫していたつもりだった。
しかし、それが今は本当の自由なのか分からなくなっている。


”自由ってなんなんだよ”


エレベーターが1階まで芳自身を運び、そのまま出版社へと戻る。
その帰り道の間にも、芳はグルグルと考えていた。


”籠から出てきて、手に入れたものはなんだ?いや、そもそも手に入れたものなんてあるのか?”





出版社へと戻り、原稿を渡して来たことを報告すると

「ああ、さっき先方からも連絡があった。御苦労さん」

と労いの言葉を掛けられる。

それからの数時間は、いつものようにアンケートの集計。
休憩時間になればレポート用紙を取り出し、自分が今まで書いてきた物語の流れを順に辿る。


「籠の鳥は・・・・」


芳はゆっくりとペンを走らせた。


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