狂慈が出て行った後、芳はテーブルに用意された朝ご飯をいただくことにした。
”この飯達には罪はないからな”
というのが理由である。
メニューは純和風で、芳の空腹を充分満たした。
狂慈は食べた皿などをそのままに出掛けて行ったが、その食べ終わった様子から狂慈のメニューはパン食だったとすぐに分かる。
実は昔から朝はご飯と決めている芳だったが、そんなことを狂慈が覚えていたのだとは考えたくはなかった。
余計なことを考えたくはなく、芳は自分と狂慈が食べた後を簡単に片付ける。
その間にも狂慈が出掛ける時に言った言葉が気になったが、それはあえて意識から遠ざけるようにした。
片づけを終え、時計を見ればすでに昼前になっていた。
午後からの講義に出ることも考えたが、きっと眠っているだけで意味がないだろうという結論に至る。
だからといって、このまま部屋の主が帰ってくるのを待つことは芳にはできなかった。
自宅アパートへ帰ることに決め、玄関を出る。
「うわっ」
扉をあければ、そこにスーツ姿の男性が一人立っていた。
年は20代後半から30代前半といったところか。
鞄を持って道を歩いていればサラリーマンに見えなくもない。
ただ、そのスーツの上からでもはっきりと分かる筋肉の付き方はただのサラリーマンとは言い難い。
芳は「どうも」と挨拶をしてその場を去ろうとするが、彼が横に突き出した片手に阻まれてしまった。
「家まで送るように言われてますので」
「いや、自分で帰れるから」
芳としてはぜひとも遠慮したい申し出であったが、そんな芳の微妙な気持ちは彼に通じることはない。
「いえ、上司から聞いてますので」
「上司・・・?」
芳はその聞き慣れない単語に戸惑いつつ、再度断るつもりで口を開きかけるが
「さあ」
と強引に腕を引かれながら、エレベーターに乗せられた。
彼はそんなに強く掴んでいるつもりはないかもしれないが、もともと体を鍛えていない芳にはその腕を振りほどき、逃げることは不可能なことだった。
エレベーターを降りると、すでにマンションの正面ロビーから白い車がスタンバイよろしく留まっているのが見える。
”いかにもって感じの黒塗りベンツじゃなくて良かった”
芳はそう思いながらセダンの後部座席に腰を下ろすと、すぐに芳を乗せた車は走り始めた。
車の振動は思ったよりも芳には心地よく、いつの間にか深い眠りへと引きずり込まれていく。
そうして芳が次に目を覚ませば、そこは自分の住んでいるアパートの布団の中だった。
思わず今までの全てが夢だったのではないかと疑ったが、全身を襲う倦怠感 が現実のことだと教えてくれた。
芳はそのまま一日中布団の中で過ごし、明日への体力や気力を取り戻すつもりだった。
”俺は繰り返さない・・・・”
明日からはまたいつもの日常が用意されていると信じていた。
それから2〜3日は何もなく、芳も普段と変わらない生活を送っていた。
ただ、芳を待ち構えていた彼女は怒りを露わにしていた。
「1回だけならいいけど、これで2回目。マジで最悪」
芳が自分を置いて行った後、メールをしたがそれは不発だった。
その後の電話も同じく・・・
もし、このことが原因で彼女と別れることになったとしても、芳は特に気にならなかっただろう。
多少面倒くさい話し合いがあったとしても、それで済んでしまう。
しかし、怒っていた彼女が別れるという選択肢を選ぶことはなかった。
それだけ芳のことを好きなのか、それとも自分の言うとおりに動いてくれる便利な彼氏という利点を考えて別れないのか・・・
後者の可能性が高いだろうが、彼女としては自分が別れを切り出した時のことを考えれば今は別れる時ではなかった。
もし別れを切り出し、あっさりと芳に承諾されれば、それだけ自分のプライドが傷つくと無意識にも計算していた。
彼女としては別れを切り出した時、芳に別れたくないと言われる。
それを自分から切り捨ててこそ、自分のプライドが保たれると信じていた。
芳にはそんな彼女の気持ちが何となく伝わっていたが、だからといって自分から別れを切り出せば逆に彼女は頑なに拒むのも分かっている。
ご機嫌窺いをするわけでもなく、だからといって邪険にするわけでもない。
彼女が自分に飽きる時をただ待っているだけだった。
それが狂慈の家から帰った翌日には彼女を連れてショッピングに行くことになったとしても・・・
「芳。今日はマキ達と一緒にカラオケ行くからね」
そして今日も芳の隣には彼女がピッタリとくっ付いている。
芳の腕に自分の腕を絡ませ、当然芳もそのカラオケに参加するのだと目が語っていた。
「俺、歌えないけど」
「いいの、いいの。芳はそこにいるだけでいいんだから」
マキという彼女の友達は彼氏を連れてくることが彼女には簡単に予測できることだった。
そこで自分が芳を連れていかなければ、カラオケをする数時間負けた気持ちを引きずることになる。
彼女としては歌うか歌わないかではなく、芳という存在が欲しいだけだった。
「まあ、いいけど」
その芳の一言で彼女は満足そうな笑みを浮かべ、2人は待ち合わせをしているというカラオケ店へと向かった。
ただ、そのカラオケ店での数時間は芳にとって無意味なものでしかなかった。
自分が歌うわけでもなく、人の歌をひたすら聞くだけ。
それも、本当にそれが合っているのか分からない音程やリズムの音。
彼女の友達、マキとその彼氏だという男トモ君。
マキと彼女、そしてトモ君は代わる代わる歌う。
時には3人で・・・
そんな盛り上がる中、芳は冷めた目で3人を見つめていた。
”俺って、こんなバカ騒ぎをしたくて大学進学したんだっけ?”
大学受験のため、ひたすら勉強していた時。
芳は大学合格を夢見ていたが、その先を考えてはいなかった。
そして、大学に入学してから味わう虚無感。
”俺はこんなことを望んでいたんじゃない”
目の前で騒いでいる3人から急に離れたくなり、芳は席を立つ。
ただ、それを熱唱しているはずの彼女が見逃すことはなかった。
大音量の音楽が流れている中、マイクを通し
「芳、どこに行くの!?」
ほとんど叫んでいる状態に近い声で聞いてくる。
帰ると言いたい気持ちを抑えこみ、芳は
「トイレだよ」
彼女とは対照的に普段と変わらない声量で答えた。
ただそれだけの会話で彼女は満足し、次の瞬間に視線は画面へと戻っていく。
一方でマキとトモ君は次に自分が何を歌うか、分厚い本を見ることに必死で顔を上げることすらなかった。
こんな状態で彼女の歌を本当に聞いているのか怪しいものだが、友達同士で行く カラオケにおいてはよく見る光景だろう。
芳は大音量の音楽に満ちあふれた部屋を出ると、途端に静寂な空気に包まれる。
出てきた部屋以外にも沢山の部屋があり、それぞれが大量の音に沈んでいるのだろうがそれも廊下に出てしまえばほとんど聞こえてはこない。
やっと音の洪水に解放され、芳は大きくため息をつく。
彼女にはトイレに行くと告げたが、無意識に足は出口へと向かっていく。
”外の空気を少しすうだけだ”
廊下に出たものの、意味の分からない息苦しさが続いていた。
外へと続く階段を一段ずつ下りて行けばひんやりとした外気が芳を襲う。
部屋の中、空調が整っていたため羽織っていたジャケットを脱いでいた。
ジャケットを取りに行こうとは思わなかった。
外の冷気が芳のぼんやりとした意識を少しだけ覚醒させる。
階段を降りてしまうと、たくさんの人間が前を通り過ぎて行く。
誰も店の前で目的もなく立っているだけの人間を気にするわけがない。
そして、芳自身も通り過ぎていく人間を意識するわけもなく見ていた。
”携帯も中に忘れてきた”
ジーンズのポケットを手で探るが、そこに目的のものはなかった。
部屋を抜け出してきたが、気分がそれで変わることもない。
だからといってジャケットや鞄、携帯を置いたまま帰ることもできない。
部屋に戻るしか道はない。
後ろを向き、階段の手すりを持ったところで芳の肩に手が掛かる。
「え・・・」
それは想像していた以上に力強く、芳はそのまま後ろへと倒れていくしかなかった。
「こんなとこで何してんだ?」
声は芳の脳を揺さぶるように響く。
耳朶に歯が当たるのが分かる。
「痛っ」
反射で芳の手が挙がる。
しかし、それは簡単に後ろの人間に掴まれてしまう。
そして掴まれた手の指が一本ずつ生暖かく、湿った感触を伝えてくる。
小指にはヌルっとした何かが絡みつき、付け根から指先まで、ゆっくりと時間をかけて辿る。
「・・・やめ」
たったそれだけでも性的な刺激となり、芳は目を閉じて襲い来る波をやり過ごそうとする。
ようやく指に絡んだ何かが離れて行く時、指の付け根に再び痛みが襲う。
「覚えてろ、お前の飼い主は俺だってな」
そう言うと、手が離される。
後ろにそれまであった温もりが離れていく。
「狂慈、お前・・・」
『何してくれたんだ』と言いたかったが、後ろを振り向けばそこには誰もいなかった。
しかし、今までそこに存在していた証明が指に残っている。
「くそっ」
さっきまでの肌寒さはいつの間にか忘れ、身体が火照っていた。
小指にはくっきりと歯型が残り、まるで指を飾るアクセサリーにも見えなくもない。
さっきまで息を吹き込むように言葉を送り込まれた耳朶に触れれば、そこも熱くなっている。
「狂慈・・・」
もう一度芳はさっきまでいた男の名前を呟く。
”俺は・・・・自由なんだ・・・”
そう考えれば考えるほど、男の言葉が蘇る。
芳はその場から暫く動くことはできずにいた。
そんな芳を動かしたのは上から降ってきた声だった。
「ちょっと、芳!」
いつまで経っても戻ってこない芳を探しに彼女は店の外まで来た。
まさかトイレが外にあるわけがなく、彼女は芳に対して不快感を隠そうとしない。
「トイレって言ってたじゃん」
「ちょっと・・・」
「ちょっと何?」
顔を上げれば彼女の顔が見え、その表情を見れば怒っているのは明らかだった。
「涼みに来ただけ」
「じゃ、もう十分だよね?もう私一人でなんか恥ずかしいんだからね」
「ああ」
”俺は恥ずかしい思いをしない為の道具か?”
心の中だけで悪態をつき、一段と重い足でなんとか階段を上って行く。
”これが・・・・自由?”
それからの数時間は芳にとっては拷問に近いものだった。
怒っているはずの彼女はマキとトモ君の前ではそんな素振りを見せない。
マキとトモ君が仲良く腕を組めば、同じ様に自分も芳と腕を組む。
「マキ達はこの後どうする?」
芳の腕を離さず、向い合せに座るマキに彼女は問いかける。
マキはトモ君に身体を寄せながら
「どうする?」
と小さな声で聞いている。
「あの、俺・・・」
「いい店知ってるんだぁ、行かない?」
芳の言葉を遮るように彼女は勝手に話を進めていく。
「えー、どうしよっか?」
「行こうよー」
マキは困った振りをしている様に見えた。
彼氏のトモ君は何も言わず、マキの頭や頬に何度となくキスの雨を降らせている。
「もう、決まりね!」
そう言うと、彼女は芳の腕を引っ張るようにして部屋を出て行く。
彼女はマキ達を待つつもりはないようだった。
「店って、どこに行くつもり?」
「この間行ったでしょ、”Ryo”に行くの」
それはこの間、芳と狂慈が再会することになった店だった。
まさか短期間のうちに何度も行くことになるとは思っていなかった。
「でも、予約が取れないんじゃ・・・?」
「そんなこと行ってみなきゃ分かんないじゃん」
前に彼女は自分が予約が取れにくいと言っていたことを忘れているのか、それともそれだけ焦っているのか、このまま店に行くのは決定のようだった。
自分たちがいる場所から店までは電車で2駅だった。
きっと恋人達にはそんなに長い距離ではないのだろう。
マキ達は店の場所を聞いても不満の言葉はなかった。
彼女の方も駅へと歩きながら、この間行った店の良さをアピールしている。
そして芳は彼女に腕を取られながら、数時間前に歯型を付けられた小指が疼くような錯覚に襲われていた。
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