芳があの男、淺川狂慈と一緒にいたのは高校時代だった。
一般的な高校生だった芳に比べれば、相手は異質な存在でしかなかった。

土曜日に会った男はあの当時と比べ、さらにその精悍さが際立っていたように感じた。


”明日…行くしかないよな”


バイト中に掛かってきた電話は芳を不安にさせた。

相手は自分の携帯の電話番号も、バイト先ですら知っていたのだ。
きっと住んでいる場所も知られているだろうと、簡単に想像することができた。


”今さら何の用があるんだよ”





芳は高校2年の2学期終わりあたりから予備校に通うことになった。

大学受験を控えているのだから当然だと、両親の指示に従った。

芳とその男、狂慈は当時男同士でありながらも身体の関係があった。
しかし、狂慈は芳以外の女も当然のように抱いていた。

芳が予備校に通い始めると、互いに会う時間が減っていった。


いや、それまでにも会う時間が減っていた。

狂慈の周りで何か大変なことが起こっているのではないかと芳は感じていた。

しかし、芳がいくら聞き出そうとしてもそれは叶うことはなかった。


最後にはあの男の方から別れを切り出してきた訳だが…あの男は今さらどうしようとい うのか、芳には全く予測できなかった。

二人の間には昔を懐かしむような、そんな清らかな思い出はないように思えた。



ただ、芳にはなくとも男の呼び出しを無視することは難しい。


3年近く男と関係していた芳自身がそのことを知っていた。
そして、たとえ一方的であったとしてもその約束を反古にすればどうなるか分かっていた。
分かっているが、人間だから迷うのも当たり前だ。


行きたくないが、行かなくてはならない。


そんな結論が出ないことを1日以上考えていた。



そして考えることに疲れ、いつもよりも早く布団へ入る。
眠ってしまえば何も考えなくてもいいという安易な考えだった。


明日なんて来なければいいと思っていても、そんなことは現実にはありえないことだった。


朝は無情にもやって来る。


月曜日でどうしても足取りが重くなりがちなのに、今日はさらに足が前に進むの に労力と気力が必要だった。

講義を受けている間も、このまま時間が止まればいいのにと何度も思った。





約束の時間まであと数時間、まだ芳は迷っていた。

しかし、そんな芳には男以外にも考えるべきものがあった。


「芳!!」


いきなり声をかけてきたのは、土曜日の夜に街中に放ってきた彼女だった。
彼女の表情から分かるのは怒っているということだ。

日曜日に1通だけメールを送っただけで、それ以降は携帯の電源も切っていたのだ。

メールを受け取った時はこれで何かお詫びの品を買ってもらえれば許してやるつもりだった。
街中で派手にこけてしまい、しかもそのまま自分を放って走りかえってしまった彼氏。

恥ずかしくて、腹が立った。

その分、高価なものをねだるつもりだった。

謝罪のメールを受け取った後、次のデートについて連絡しようとした。
メールを受け取り、すぐに返信するのは癪だったので時間をおいてからメールをする。

ところが、しばらく待っていてもメールが返ってこない。

どうなっているのかと思い、電話をしてみるが電源が入っていないのか繋がらない。


イライラしながら、ようやく月曜日で講義に出ていた芳を捕まえる。


「あ・・・」


ところが、肝心の芳はそれまで自分のことを忘れていたのかのような様子だった。
まずいという顔をしている。


「昨日、メールしたんだけど」

「あ・・・悪い」

「その後、電話もしたんだけど」

「えっと・・・」

「今日は付き合ってくれるよね?」


当然だろうと彼女は芳に断れる可能性を考えず、これから食べに行く店のことを考えていた。


「悪い」

「え?」

「今日は、無理だ」


彼女は芳に断られたことを理解するのに少し時間が掛かった。


「ちょっと、どういうこと?」

「悪い、今度埋め合わせはするから」

「最悪」


完全に彼女がへそを曲げたのは分かったが、芳にはどうしようもなかった。
まさかここで彼女をとるわけにはいかない。


「あ・・・」


かすかにズボンのポケットに入れていた携帯が震えるのが分かり、芳は彼女の視線から逃げるように携帯を見る。
知らない番号からの着信。

芳は彼女が目の前にいるにもかかわらず、ぎこちなく震える指先でボタンを押す。


「もしもし」

『もしもし、芳さんですか?』


携帯を通じて聞こえてくる声を芳は知っていた。
あの店で会った、いつも狂慈のそばに控えている男からだった。


「はい」

『今日のことですが、店には”淺川”で予約していますので。坊ちゃんは楽しみにされてます』

「・・・・そんな」

『それでは、お待ちしておりますので』


芳が何か言う前に、その通話は勝手に切断された。


「芳、私が目の前にいるのに電話に出るって・・・」


彼女は何か言おうとしていたが、芳はすでに心ここにあらずだった。


「悪い、今日は帰る」

「ちょっと、芳!」


怒っている彼女をそのままに、芳は一歩を踏み出す。



”別にあいつと会ったからって何があるわけじゃない”



芳はそう考えることにした。

狂慈に別れを告げられた後、芳は自分で思っていたよりも落ち込んだ。
男同士、不毛な関係だと分かっていたはずだった。

何がいけなかったんだと、自分はあいつが大人の女性と一緒に腕を組んで歩いているのを見ても怒らなかったのに・・・

それなのに、自分があんな女達よりも劣っていたと言われたような気がした。

落ち込んだ後にはあいつに対して怒りを覚えるようになった。


”絶対見返してやる。次に会った時には、別れなきゃ良かったと言わせてやる”


そう気持ちを切り替え、勉強に打ち込んだ。
両親はそんな芳の気持ちの変化に気づくことはなかった。

芳が男と身体の関係をもっていたなんてことも知らなかっただろう。

予備校に通い、それ以外の時間も部屋にこもり勉強をした。


そして勝ち取った合格通知。
しかし、両親が喜ぶ姿を眺めながらも芳の気持ちは冷めていた。
虚しさだけが残っていた。


まさか、再び狂慈に会うことがあるなんて思っていなかった。
会った時に言う文句を考えていた時もあったが、実際に会ってしまえばそんなことはすっかり忘れてしまっていた。



”そうだ、これはチャンスなんだ。言ってやればいい、全部・・・”



芳は自分の心を奮い立たせるように、いろんなことを考えた。



”これ以上、俺に関わるな”
”俺にはもう彼女もいるんだ。女だって抱けるんだ”
”昔とは違うんだ”





芳は電車で土曜日に来たばかりの店へと向かう。

変わった店だった。
そう何度と行くような店ではないと思っていた。

店の前まで来ると、初めて来た時よりもさらに龍のモチーフが印象的に見えた。

そして、龍の身体に飲み込まれていくような感覚。
中に入ってみれば、龍に乗っているような感覚すら覚える。

約束の時間には10分早かった。

そう待たずに店員が近付いてくる。
土曜日に来た時に部屋まで案内してくれた女性店員だった。

「あの・・・」

芳が何か言う前に、店員は少し微笑みながら

「淺川様からご予約を承っております。お部屋にお通しするようにと伺っておりますので」

そう言うと、芳の2〜3歩前を歩きながら薄暗い店内を案内してくれた。


どうして自分が狂慈と待ち合わせをしていることを知っているのか気になったが、そこはあえて何も言わなかった。


店員はただ、

「淺川様はまだおみえではないんですが、好きなものをご注文くださいとのことです」

と言うだけだった。


フロアを歩いていると、店員は黒い壁の前で立ち止まった。


土曜日の時には目の前の壁なんかに目をむけることなんてなかった。


「え…」

しかし、今芳の目の前で急に壁が横に動いた。


目を見張るような仕掛けだった。


黒い壁は一般客に対するカモフラージュの役割を担っているようで、有名 人やこの店にとっての大切な客はこの壁の向こう側に案内されるのだろう。
彼女やその他一般的な客はそんなことを知らず、店に足を運び、有名人に会えるかもしれないと夢みてるんだろう。


しかも店内は全て個室。
もしかして自分の隣の個室に誰か有名人が…という客の心理を煽る。

有名人側としても一般客に煩わされることなく、ゆっくりと料理と店の雰囲気を堪能することができる。


そして、全ての利害が一致することでもっとも利益を得るのは店側だ。

壁の向こう側は、一般のフロアに比べると分かりやすい造りになっていた。
個室が4室横並びになっているのみ。


そして部屋の扉はそれぞれ、青い龍・青い羽を持つ蝶・白い蛇・白い羽を持つ蝶といったモチーフが客を迎え入れる形になっている。
龍と青い蝶、蛇と白い蝶は向かい合い互いを見ているようにも見える。

芳は龍の部屋に案内される。

中は土曜日に利用した部屋と違う点が2つあった。
1つは、机と椅子の違いだった。

机はローテーブルで、しかも黒曜石でも使われていそうな重厚な趣がある。
そのテーブルを挟むように、黒いソファーが置かれていた。

2つ目は、壁に描かれている絵だった。

そこには龍のような鱗をまとった人間と蝶の羽を付けた人間が描かれていた。
龍の化身のような人間は逞しい男性だった。
そして、蝶の化身のような人間は・・・どちらだろうか。

男性のようにも見え、女性のようにも見える。
その性別を連想するような身体的特徴部分がぼやけている。
中性的と表現すればいいのかもしれない。

しかし、芳にはそれが男性にしか見えなかった。

2人は互いに見つめあっている。
互いの手は重なっている。

芳はその絵を前に動けずにいた。


「こちらのお部屋を用意させていただきました。ここの4つの個室はいずれも防音がしっかりしておりますので・・・」


そんな時間を動かしてくれたのは、芳をこの部屋まで案内してくれた店員だった。

芳はその声でようやくソファに座るきっかけを掴むことができた。

店員は芳がソファに座るのを確認すると、メニューを手渡してくる。
そのメニューを開けば、そこには飲み物の名前しか記載されておらず、値段は書いていなかった。

”何でも頼んでいいって言ってたんだしな・・・”

そう腹を決めると、芳は名前だけでどんな種類のものか分からないままに適当な銘柄を指しながら

「これで」

と告げる。

「かしこまりました」

店員は一礼すると、静かに部屋を出て行った。


店員が扉を閉じると、再び芳は絵の方を見る。


”これって・・・男と男に見えるのは俺の間違った見方なのか?”


2人は互いを見つめあい、そのまま重なりあいそうな雰囲気を醸し出している。

他の部屋の壁にも絵が描かれているのか、興味が湧いてくる。
もし描かれているというのならば、どんな絵があるのか・・・


芳は席を立つと、扉付近へと近づく。
あわよくば、隣の部屋へと行き絵が描かれていないか見に行こうと思った。





そして、扉をゆっくりと開けた。




「あ・・・」

「手厚い歓迎だな、芳」

扉の向こう側に、芳を悩ませていた張本人が立っていた。
昔と変わらない、不敵な笑顔を貼り付けながら・・・・



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