目の前に広がる世界はぼんやりとしているのに、
やけに明るさだけが目に痛い。

眼を閉じたいと思うのに、それが叶うことはない。

まっ白い世界。
それが、いつの間にかどこかの部屋に変わる。
見たことがある、ベッド。

振り返ると、また場面が変わる。

なんとなく分かる。

これは夢だ。

そう認識したと同時に、背後に人の気配がする。
これもよく知っている気配。
自分にある程度の緊張を与える。

ただ、その緊張は恐怖の類ではない。
甘くて、そして切ない感覚。

何も言わず、何もしない。
立っていると耳に指が触れる。

ゴツゴツとした男の指。
指が口元へと移り、唇を割って中へと入ってくる。

侵入してきた指に舌を絡ませると、掻き回すように指が動き回る。
そうしている間にも、耳に痛みを感じる。

後ろにいる男が耳を食む。

まるで大好物を与えられた猛獣だ。

耳朶を伝うように血が流れるが、それこそが猛獣を興奮させる。

ざらざらした舌がそれを舐めとる。

そして、言うんだ。

『お前の血は、本当に美味しい。もっと、もっと俺に飲ませろ』

どれだけ与えれば猛獣は満足するのか分からない。
それに、俺のだけで満足するのだろうか。

そうだ、一人だけで満足するはずない。

口腔内を犯す指に歯を立てようとすると・・・そこにはもう存在しなかった。

慌てて後ろを振り返ると、さっきまで纏わりついていた男はすでにいない。



夢らしい、夢だ。


そう考えながら一歩を踏み出せば、また場面が変わる。

学生服を着ている自分はどこに立っているんだろう。

どこかビル街で、夜なのかネオンが目に眩しい。

早く帰らなければと思う。

今日は両親に泊まるなんて言っていない。

・・・・泊まる?
どこに?

とにかく、家に帰るための一歩を踏み出したところで思い出す。

ダメだ、目を閉じなくては・・・
間に合わない・・・

どこから来たのか、男とそして煌びやかなドレスを身にまとった女が唇を重ねているのが眼に映る。
女はその身体を男に摺り寄せている。

やめろ

男は女にさせたまま、抵抗することもない。

やめろ

逃げたい、逃げたいのに足はそこに固定されたかのように動こうとしない。

瞼を下ろし、耳を手で塞ぐ。
何も見たくない、聞きたくもない。

それなのに言葉は頭に直接響いてくる。

あれはどっちから言い出したことなんだろう。

俺は疲れていたんだ。
だって、あいつは俺だけじゃ満足しない。

あいつは俺だけが独占していいような男じゃない。
それは分かっている。

でも、心はそんな気持ちを裏切る。

俺だけで十分だろ。

やめてくれ。

何度も言いたかった言葉は言わないまま終わってしまった。


『芳、しばらく鳥かごから出してやるよ』

『何・・・?』

『お別れだ』


やっぱり来てしまった。
こいつは俺ではなく、誰かのモノになってしまうのか。

いいじゃないか、これで解放される。

いやだ、こいつは俺のモノなのに。

俺は自由だ。

いやだ、自由になんかなりたくない。




部屋に響き渡るアラーム音に芳は起こされる形になった。

目を開けると、そこはいつものベッドで・・・芳はしっかりと携帯を握りしめて眠っていた。

「最悪だ」

夢見は最悪。
頭が痛い。

まず携帯を見れば、昨日道端に放ってきた彼女からのメールが数通と着信履歴。

彼女はきっと怒っていると簡単に想像できた。

当然だ。

芳は男の顔、姿を見た瞬間にその場から逃げた。
彼女が芳の方へと向かってきていたが、その時の芳には彼女のことを気遣う余裕はなかった。

走って、走って・・・たとえ心臓が張り裂けようとも、あの時は走っていたと思う。

それから一番早い電車へと飛び乗り、アパートに辿り着く。
ただ、電車の中でも芳は落ち着かず、誰も自分を見ているものはいないかと不安だった。

そんな不安もアパートまで来ればようやく薄れた。

たった数分にも満たない再会であったのに、精神的に疲れさせるには十分なものだった。
そして、彼女と歩いた4時間以上の運動のお陰ですぐに睡魔が芳を襲う。

深い眠りはそのまま、芳にとって嫌な思いまで連れてきた。



気持ちを切り替えるべく、芳はシャワーを浴びることにするが、その前に怒っているだろう彼女に謝罪のメールを送る。
それで彼女の怒りが収まるはずはないが、一応形だけでも示しておこうという考えからだった。

週明けに大学へ行けば、彼女に責められるのは間違いないのだが、芳には仕方がなかったとしか言えないだろう。


”嫌なことは全て洗い流せればいいのに・・・”


生温いシャワーを全身に浴びながら、芳はそんなことを考えていた。

シャワーを浴びている間にも彼女から返信があったようだ。
携帯の待ち受け画面には、メール受信の表示が映し出されていた。
しかし、今の芳には彼女からの非難メールを読む気力はなく、もう一度携帯を閉じた。


Tシャツを着ただけでは少し肌寒く、上からパーカーを羽織る。
ジーンズを履くと、ウォレットが付いた財布をジーンズの後ろポケットに入れ、パーカーのポケットには携帯を忍ばせると再び部屋を後にする。

芳の父親は公務員で、区役所に勤めている。
母親は専業主婦。

そんな両親は大学の費用と、家賃を出すだけで精一杯な経済状況だった。

食費代や服飾代といった1人暮しをする上で必要な経費はバイトをすることで補うしかない。

てっとり早く力仕事はどうだろうと考えてみたが、一緒に仕事をする人達の体つきが自分とはかけ離れていた。
力がないわけではないし、筋肉がなく痩せているわけではない。
ただ、彼らとは鍛え方が違うらしい。
1カ月もしないで辞めることになった。

接客業をすることも考えたが、知らない相手に愛想を振り撒いたりするのが面倒だったので除外した。

結局は事務的な作業が一番楽だと考え、データ入力を中心にした仕事を転々とするようになった。

今はある出版社で日々送られてくる読者アンケートの集計をしている。
それぞれの葉書には読者の気持ちが色濃く反映されていて、芳はその集計をしながらもバイトを十分楽しんでいた。

バイトは朝10時から19時の間で、1時間の休憩がある。
アンケートの集計ばかりではなく雑用を言い渡されているのが現状。


アパートから駅までは徒歩10分。
立地条件はそんなに悪くはないが、住んでいるアパートは古かった。
築何年だっただろうが、家賃は安いので我慢をするしかない。

今はまだ9時を少し回ったところで、そんなに慌てて駅へと行くことはなかった。
ゆったりとした足取りで歩いていると、前から男性が歩いて来るのが芳の視界に入る。

2人の距離が縮まるにつれ、緊張が高まる。

昨日のこともあり、もしかしてあの男の部下ではないかと身構えてしまいそうになる。

”そんなことはないのにな・・・
今更、あいつが俺のことをどうこうするわけがないと分かっているのに”

男とすれ違い、何もなかったことで芳は一気に肩の力が抜けた。

やっぱり違ったという安心感。
そして、かすかな失望。

芳は思わず振り返るが、相手は何も無かったように歩いている。

「馬鹿みたいだな」

思わず口に出してしまいながら、再び駅へと歩き始めた。
すると、携帯が着信を知らせる。

芳はメールを送ったにも関わらず、返信がないことに怒った彼女からの電話だと思い込み、名前を確認もせず出た。

「もしもし。昨日は悪かった」

芳は怒っている相手に何を言っても無駄、謝り続ければいいという考えで、電話に出るとすぐに謝罪の言葉を口にした。

「もしもし?本当に悪いと思って・・・」



『悪いと思ってるなら、お前の血を飲ませろ』



しかし、受話器越しに聞こえてきた声は彼女ではなかった。
誰からの電話なのかなんて考えるまでもなかった。

耳から離すと、芳はすぐに電話を切る。

しかし、再び着信を知らせる音が聞こえてくる。

今度は名前を確かめるが、そこには誰の名前も表示されていない。

そのまま電源を切り、携帯をもう一度ポケットへと戻す。
芳はその場に立ち止まり、周りを見渡したのだが、それらしい人間はいなかった。

駅のすぐ近くまで来ていたのだが、芳の足はその場から動けなくなっていた。

久しぶりの男の声に、芳の体が強張っているのは明らかだった。
昨日会った男の顔や表情までが頭をよぎる。

歩いてきた道を戻ろうかという考えも浮かんだが、バイトへ行かなければ芳が生活をしていくことは無理だった。

”大丈夫だ。電話は電源を切ったんだから・・・”

そう芳は自分に言い聞かせると、重くなった足取りを無理に駅へと向ける。

ところが、”どうして電話番号を知ってるんだ”という疑問に思い当たると、”すでに住んでいる場所も知られているんじゃないか”という考えが浮かび上がってくる。

一度そう考えると、芳は電車が構内に入ってくる間も、どこかにあの男がいるんじゃないかとビクビクしてしまう。
そして、電車に乗れば別の車両にいるんじゃないかと扉付近から動けない。
目的の駅までは20分ほどかかるのだが、その間中震える手でポケットの中の携帯を握りしめていた。


バイト先まで来ると、ここまでは来ないだろうという安心感が全身を覆った。


「おはようございます」


出版社だけあり、一つのフロアには何十という机があり、日曜日だというのにそれぞれが自分のデスクで働いていた。
ただ、バイトの身分では机は用意されていないので、フロアの隅に置かれている7人掛けのテーブルに腰を落ち着かせる。

座ると、芳は思わず安堵のため息を漏らした。

それはバイトをしている間は大丈夫だという気持ちの表れだった。


「バイト君、これ」


ここでの名前は”バイト君”で、芳は”藤野”という名前で呼ばれたことはない。
だからといって不満はなく、

「分かりました」

と溜まったアンケート用紙を受け取る。
アンケートの集計をしている間は無心になれる時間だった・・・はず

「ちょっと、バイト君」

「はい」

「君って、藤野って名前だっけ?」

「はい」

「電話」

「え?」

芳は嫌な予感がした。
取ってはいけない気がしたが、受話器を自分に向けている相手にそんなことを言えるはずはなかった。

強張る手で受話器を受け取り、

「ありがとうございます」

と儀礼的にお礼を述べる。

そして、耳に当てると


『携帯の電源は切るなよ』


予想していた声が聞こえてきた。
受話器を戻し、電話を切ろうとするが

『切るなよ。どうなるかその身体で体感したいなら、切れ』

そこまで言われ、受話器を下ろすことができなくなる。

「どうして」

芳にはそれだけの言葉を発するのが精一杯だった。

『明日の夜7時に、昨日会った店に来い』

「な・・・」

『まあ、来たくなかったら別にいいぜ。その代わり・・・・俺の好きな方法を取らせてもらうだけだからな』

「ちょっ・・・・」

用件だけを告げると、そのまま相手は芳の返事を聞かないままに切ってしまう。
仕方なく芳も受話器を下ろし、もう一度電話を受け取ってくれた相手にお礼を言うと、机に戻る。

しかし、それからは心ここにあらず。

アンケートの内容がほとんど頭に入ってこないばかりか、ふと意識が途切れた時に聞こえてくるのはあの男の声だ。



『明日の夜7時、昨日会った店』



行かないという選択肢は用意されていなかった。

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