”ヒデくん” は ”チッチ” を とりかご から だして あげました
チッチ は あおいはね を パタパタ と うごかし そらへと とんでいきました
ヒデくん には チッチ が とてもうれしそうに そらを とんでいるように みえました
R駅から徒歩1分。
今ではどんな駅の周辺にでも1つ、2つ必ず見かけるコーヒーショップ。
土曜日の昼間、大勢の人が店の中に入って来ると、注文した飲み物を受取り空いている席へと座る人もいれば、そのまま忙しそうに出て行く人もいる。
そんな人の流れをぼんやりと見つめながら、自分もその他大勢の中の一人にすぎないんだろうと、冷静かつ客観的な考えがよぎる。
自分の目の前にあるのは、カフェラテが入ったほんのり温かいカップ。
そして、書きかけのレポート用紙。
今時、レポート用紙に何かを書く奴なんてほとんどいないだろう。
自分が知っている限り、他の連中は文明の利器であるパソコンを駆使している。
それに、提出するレポートはパソコン書きでというのが注意事項として書かれていたり、
書かれていなくても、それが暗黙のルールってやつだ。
別にパソコンを持っていないわけではない。
ただ、型が古く持ち運ぶには重すぎるだけだ。
その点レポート用紙なら鞄に入れて持ち運びに便利だし、かさばらない。
そして、筆記用具さえあればどこでだって自分の考えを文字に表すことができる。
考えをある程度まとめれば、そこからはパソコンの出番というわけだ。
そして M大学3年 藤野芳 にとってそれが普通だった。
ほとんど空に近い状態のカフェオレをチビチビと飲みながら、これからどうしようかとカップを手に迷っていた。
「ごめんね、ちょうど出かける時に電話があって・・・」
その声はあまり謝罪の気持ちがこもっているようには聞こえてこなかった。
芳はコーヒーを再び買いに行かなくて良かったと感じていた。
後ろを振り返れば、待ち人来たる。
ニコニコと笑顔を浮かべた女性が、芳の座っている席から数メートルというところに立っていた。
もうテレビの報道では秋だというが、目の前に立っている彼女にとってはそんな報道は関係ないようだ。
まだ彼女的には季節は夏らしい。
ブーツを履いている。
それだけが秋を感じさせるアイテムだ。
他に身につけているものはカラフルな色彩のミニワンピ、そして鞄は眼に痛いぐらいの輝きを放つ赤・・・
きっと約束の時間に30分も遅れてきたのは、念入りに巻かれている髪のセットと化粧、そして遅れてもいいかという軽い気持ちからだろう。
こちらが何か言葉を発する前に彼女は鞄を机に置くと、財布を片手にカウンターへと向かう。
その財布も多くの女性が好きなブランド物だ。
鞄は赤なのに、財布はシックとも言えるような茶色。
どんな色彩感覚なのかと言いたくもなるが、そんなことを言うと
「じゃ、この鞄に合う財布買ってよ」
と、ブランド店へと連れて行かれる事態に陥る。
声をかけるタイミングを逃し、ぼんやりと彼女の後姿を目で追いかける。
そんな自分は客観的に見れば、ずいぶん滑稽だろうとまた冷静に考えてしまう。
その考えを打ち消すためかもしれない、再びレポート用紙に目を落とす。
すると、書きかけの用紙がスッと机から消えてしまう。
レポート用紙は片手に自分が注文した飲み物を持った彼女の手の中にあった。
「ちょっと・・・」
”返してくれ”の言葉を最後まで言わせてもくれない。
「何これ、もしかして」
「もしかしてじゃなく、見たら分かるだろ。サークルの資料」
「ふーん。芳ってば、あんなサークルの活動をマジメにがんばってるよねー」
意趣返しのつもりで彼女の言葉を遮ってみたが、彼女は気にも留めていない様子だ。
”暖簾に腕押し”ってこういうことなのか、と何を言っても無駄だと諦める。
そして、彼女の手からレポート用紙を奪い取る。
そのまま自分の鞄に放り込む。
不愉快だというのを表現したつもりだったが、やはり彼女には伝わることはなかった。
芳の目の前の席に座ると、すぐに携帯をいじり始めた。
人が目の前にいるというのに、何の断りもなく携帯をいじっている彼女にますます苛立ってくる。
「で、今日はどうするんだよ」
「えっとね、Mタウンで買い物してー、その後は”Ryo”で晩御飯を食べる」
話す時ぐらい、ボタンを押す手を止められないのか。
そう言いたいのをグッと我慢をしながら、店の名前らしい”Ryo”という聞きなれない言葉を不審に考える。
「そのRyoって?」
「なんか、最近いっぱい芸能人が通う店なんだって。やっと予約取れたんだよね」
「あ・・そう」
彼女は芸能人が通うという店になぜか行きたがった。
その店に行ったからといって、芸能人に会えるなんて確率はほとんどない。
しかも、そういう店に限って料金が高い。
彼女が勝手に予約してしまうが、晩御飯に関してはなぜかいつも支払いをするのは自分だった。
今日もそういう類で呼び出されたんだろうという予感はあった。
だから、いつもより財布の中身は充実させていた。
彼女はやっと携帯から視線を外すと、鞄を手に席から立ち上がった。
「じゃ、先に買い物ね」
スタスタと前を行く彼女に、正直疲れを感じながらも自分も一緒に席を離れる。
『俺はどんな奴と付き合っても、振り回される役柄なんだな』
遠いようで、近いような記憶が蘇ってくる気配に頭を振ることでなかったことにする。
どうしてこんな彼女と付き合うことになったのか、それはただ断るのが面倒くさかったというのが1番の理由だった。
彼女は1学年下で、同じサークルだった。
他の奴からの話では、彼女はサークル勧誘のためにチラシを配っていた自分の顔にピンときたということだった。
芳は自分の顔がそんなに際立って目立つような造形をしているとは思っていない。
アイドルのようにクリっとした大きい眼をしているわけではなく、鼻も特にスッと高いわけもない。
ただ、特徴があるとするならばいつも濡れているように潤んだ唇だろうか。
唇だけはグラビアアイドル並みにふっくらと厚みがあり、人目を引くほどに赤く色づいている。
「なんか女の子みたいな唇だよね。それに、血を吸った後みたいにきれいな赤」
大学に入学してから数人と付き合ってみたが、歴代の彼女達がみんな口を揃えて言う言葉だ。
ほどなくして彼女は芳の所属しているサークルのドアを叩くことになるが、芳を目当てに参加しているだけにサークル活動に対しての意欲はほとんどと言っていいほどない。
「藤野さんはどうして絵本サークルなんて入ったんですか?」
「絵本を通じて、子供達にどれぐらいの心理的影響を与えられるのかを研究したかったこと。
それと、大人が子供に読ませたいような絵本を自分で作ってみたいと思ったから」
まだ彼女と付き合う前の段階の時、会話したことだ。
芳が所属しているサークルは「絵本サークル」といって、子供達が読む絵本が好きな人やそんな絵本を自分で作りたいと思うような人が参加している。
基本的なサークル活動はほとんどないというのが現状だが、そんな中でも数名は地道に絵本作りをこなしていた。
そして、芳もそんな一人だった。
彼女は何かとサークルでの活動を餌に芳のことを誘うようになる。
何度か同じことで呼び出されれば、気づきたくないと思っていても周りがそれを許してくれない。
「付き合ってみる?」
簡単な一言で、芳と彼女でもある倉井妙(くらい たえ)はサークル仲間という関係から、恋人という関係へと移行した。
しかし、彼女への愛情をほとんど持たないままの付き合いは芳には多少のストレスの原因でもあった。
特に休日の呼び出しは最悪ともいえる。
芳は不快指数をそのまま顔にだすのだが、彼女はそんな人の気持ちを察するという機能が欠如しているようだった。
だからといって、自分から別れを切り出すこともしない。
向こうから別れたいと言ってくれるのをひたすら待つ。
もし自分から別れを告げたところで、彼女が自分に対しての気持ちが残っていれば面倒くさいことになる可能性があるから。
それとに別れ話とはいえ、彼女と話し合うことがすでに面倒くさい事項だと思っているから。
彼女はそれからたっぷりと4時間、大型商業施設の中を歩き回ってくれた。
ある程度ヒールの高さがある分、足の負担は大きいはず。
それなのに、スニーカーを履いている芳よりもさらにタフだった。
「これってどうかな?」
「冬に向かって着る分にはいいんじゃない?」
「そうだよねー。でも、さっきのお店のヤツしか良かったかな?」
「どっちも似合ってたと思うよ」
どこかのテレビで、女性が迷っている時などは変に”こっちがいい”とか”あっちがいい”などと言ってはいけないというのを聞いたことがあった。
たしかに、迷っている時にヘタに意見を言うと彼女の機嫌を損ね、面倒なことになることがある。
だからといって、何も言わないというのも彼女の機嫌が悪くなる。
彼女は何軒もの店でそんなことを繰り返しながら、4時間で3着の服を買った。
「あー、大満足かも」
何の目的も持っていない場所へと自分を連れてきて、何時間も歩かせた上での感想が『満足かも』というのに納得いかなかった。
なぜ『満足』で止めないのか、”かも”という仮定形なのか。
まさかそんな疑問を芳が抱いているとは考えることもなく、彼女は
「結構、いい時間だね」
と、少し離れて歩いていた芳の方へと駆けてくる。
そしてショッピングバックを持っていない方の腕を、芳の腕に絡ませてくる。
今までは自分でお金を払って買っていたが、この後の食事は芳に奢ってもらうつもりなのだろう。
芳のご機嫌取りをするように、腕に体を擦りつけてくる。
「そうかな?」
芳は時計を見るふりをしながら、彼女の腕から抜け出そうとする。
彼女の女としての自分を主張する行為に、吐き気すら覚えてくる。
彼女とはセックスもしている。
ただ、そのセックスも義務でしている感じはある。
反対に、彼女はセックスをさせてあげているのだという感じかもしれない。
させてあげるんだから、食事ぐらい奢れということだ。
「店は、ここから歩いて10分ぐらいかな?」
彼女は芳の気持ちを考えることもなく、再び腕を絡ませてくる。
時間は夕方の6時を過ぎた頃。
周りを見渡せば、同じ様な男女が何人もいるのが目に映る。
自分と同じように彼女と腕を組んでいる者もいれば、軽く手を繋いでいるもの。
彼女もそんな周りに感化されているのだろう、もしくは自分も彼氏がいるという優越感に浸りたいのかもしれない。
振りほどくことさえ面倒になり、そのままの状態で人ごみの中を歩いて行く。
店の場所は知らない。
ただ、彼女が歩くから一緒に歩いている気分だった。
「あそこ、あそこ」
どれくらい歩いていたのか、いい加減足がだるくなってきた頃に彼女があるビルを指さして嬉しそうに声を上げた。
「もう予約してあるんだぁ。全部が個室になってて、誰と一緒にいるかとか秘密にできるんだよ」
「へー」
「だから、芸能人とかも彼女とかおんなじ芸能人とかと一緒に来るんだって。もしかして、今日も誰か来てるかもー」
いや、個室だったら来てるのかどうかも分からないだろうと冷静に彼女の言葉を否定している自分がいた。
たしかに、店の外観はシックだった。
黒を基調にしながらも、ところどころに銀や金のラメのようなもので壁に龍が描かれている。
龍だけではなく、不似合いな蝶も・・・
看板はなく、木製の扉―これも表面は黒で塗装されている―の横に小さなプレートが掲げられており筆記体で”Ryo”とだけ書かれている。
これだけでは一体何の店なのか分かりにくいが、そのプレートの下に、小さなボートが掲げられており、
そこには簡単なメニューと、値段が表記されていた。
ただ、そのメニューの名前も『Ryo風 龍と蝶の交尾』とか『龍の卵〜真っ赤な血のソースを添えて〜』といった、意味の分からないものばかり。
名前だけでは一体どんなメニューなのかが想像できないようなものばかり、しかも値段はそこそこする。
「あのさ、ここって・・・」
今日はすでに何回目になるのか、”どんな店なんだ”という言葉は彼女の言葉に打ち消される。
「このわけの分かんないメニューがいいんだよねー。何が出てくるのか楽しみだよー」
彼女の心はこれから入る店に移っている。
絡めていた腕を解くと、芳をそのままに店内へと続く扉を開ける。
”このまま帰ってしまおうか”
そんな気持ちがよぎるが、あと少しというところで踏みとどまる。
芳が付いてきていないことにすぐに気付いた彼女が、扉を再び開けて
「芳」
と不愉快だとでも言いたそうな口調で芳の名前を呼ぶ。
芳は諦めると、扉の奥へ吸い込まれていった。
そう、本当に吸い込まれるというのが合っているような店だった。
店内も黒を口調にしており、一つ一つの部屋の外装は龍の鱗をモチーフにしたようなデザインの装飾で溢れている。
そして、いつくかの部屋は蝶を思わせるような色鮮やかな色で飾られている。
店内を優雅に歩いているのは、若いけれどしっかりと接客教育を受けているような者ばかりのようだった。
服装は店内の雰囲気から、黒をイメージさせたが、以外にも薄い水色だった。
「いらっしゃいませ、ご予約は・・・」
「してます。倉井です」
「失礼いたしました。ただいま確認させていただきます」
一人の女性が嫌味にならない程度の微笑みを浮かべながら、どこかへと消えていく。
「なんか、かっこいい」
「ああ」
横に立っている彼女も、自分と今の店員との差が分かっているのか、素直な感想を漏らす。
あまりジロジロと見回すのも失礼かと思いつつ、惹きつけられる魅力がその店にはあった。
思わず身近にある龍の鱗に触れようかと手を伸ばしかけたところで、店員が戻ってきた。
「倉井様でご予約を承っております。2名様でよろしかったでしょうか」
「はい」
「ありがとうございます。では、ご案内させていただきます」
彼女は店員の後をスキップでもしそうな勢いで付いていく。
どれだけの広さがあるのか、全く読めないような店内だった。
まだまだ広く、どこまでも続いているのではないかと思えるほどだ。
「ここって、芸能人がいっぱい来るって本当ですか?」
彼女はバカの一つ覚えのように”芸能人”という言葉を使う。
店員は彼女をどんな風に見ているのだろうか。
そして、そんな女を連れている自分をどんな風に思っているのだろうか。
「さぁ、私どもは来て下さる方お一人お一人が大切なお客様には違いありませんので」
「最近は誰が来たか・・・」
「それは、お客様のプライベートなことですので・・・・」
白い羽が印象的な蝶が目の前にあった。
店員はその蝶の前で止まると、
「こちらでございます」
と扉を開ける。
扉はスライド式になっており、中に入ると個室の壁は空をイメージさせる薄い青で覆われていた。
部屋の中央には白い机と、白いソファが設置されている。
「メニューはこちらになります。もしお決まりになりました場合、このボタンを押していただければ伺います」
机の上にはこの店の雰囲気に合わせるかのように、花をモチーフにしたボタンが置いている。
また、よく見れば机の所々には蝶の絵が描かれていた。
店員が部屋を出ていくと、彼女は興奮したように話し始めた。
部屋がカッコイイだの、店員の接客態度がプロみたいだとか、まるで子供のような感想しか出てこないのがイタイところだが・・・
彼女の興奮を冷めた気持ちで流しつつ、メニューを広げる。
やはり、そこにはどんな料理なのか想像できないような名前しか載っていない。
芳が迷っていると、少しは落ち着いたのか彼女がメニューをさらっていく。
こうなれば彼女がメニューを決めてくれるだろうと、芳は飲み物だけを決めるだけだった。
数種類の注文したメニューが並ぶが、ここまでするのかというぐらいこの店は龍と蝶に拘っているらしい。
蝶の飾り切りをした食材を使っていたり、龍の髭を想像させるような細い麺類など様々だ。
飲み物も進み、芳は彼女と交代でラバトリーへと向かった。
戻ってきた彼女は、トイレも凄かったとこの店に対して大絶賛だった。
個室を出ても、どこに行けばいいのか迷ってしまう。
方向感覚をなくすには十分な店内の装飾だ。
「あの、すみません・・・」
「はい」
近くの店員に声を掛けると、親切にも案内をしてくれた。
ところが、用を済ませてからが問題だった。
自分がいた部屋が分からない。
白い蝶を探し、歩いていたところだった。
「すみません」
人と肩がぶつかった。
「いえ」
その声に、聞き覚えがあった。
視線を上げると、そこには知った顔があった。
「あ・・・」
「お久しぶりですね。今日はお食事ですか?」
芳は次の言葉が出てこなかった。
唇が喉が、声を発するという機能を忘れてしまったかのようだった。
「芳さん?」
その声で呼ばれるのは3年ぶりだった。
気持ちが、記憶が3年前に戻ってしまう感覚に襲われそうになり、芳は思わず後ずさる。
そして、近くを通りかかった店員を捕まえると
「白い、白い蝶の部屋を探しているんですけど」
とようやく声を発することができた。
ただ、その声は震えていたが・・・
「はい、こちらでございます」
店員はそんな芳を気にせず、誘導してくれた。
芳の名前を発した人物を再び見ることもできず、店員の足元だけを見て歩いた。
傍を通り過ぎる時、嫌な記憶が一瞬頭をよぎった。
『お前を解放してやるよ。お前を自由にしてやる』
不敵な笑いというのはアイツのためにあるんだと思った。
言葉と共に、口角だけを少し上げた独特な笑みが浮かぶ・・・
眼をギュッと瞑ることで、その記憶を消し去ろうとした。
「こちらでございます」
店員の声が聞こえ、ハッと顔を上げればそこには自分が出て行った個室があった。
「あ、ありがとう」
震えてしまう声を誤魔化しながら、店員にお礼を述べる。
店員は一礼すると、すぐに仕事へ戻ったようだが芳は扉の前でしばらく動けなかった。
手が震えてしまい、扉を開けることができなかった。
「何を動揺してるんだ。もう、もう3年だ」
そう呟き、ようやく個室へと戻る。
そこには、自分の動揺した表情や態度に気付かない彼女がいた。
「遅いよー。もう先にデザート食べちゃってるから」
彼女はデザートをほお張りながら、芳に文句をいうだけだ。
その何も考えていないような暢気さが、今は芳を落ち着かせる。
「あのさ、ちょっと気分悪いから・・・」
「え、帰るっていうの?」
彼女が何を心配しているのか分かる。
支払いをどうするのかと言いたいのだろう。
「ここの支払いはするよ」
「そう?ありがとー。そういえば、何か顔色悪くない?」
芳が支払うということが決まると、ようやく心配をしてくれる。
いつもなら、心の中で悪態をつくところだがそんな余裕はなかった。
早く鞄を手に取り、この場から消え去りたかった。
彼女を急かすように店を出る。
会計を済ませると、ほとんど財布の中にはお金が残っていなかった。
そんなことも今日はきにならない。
”帰るんだ”そのことだけが頭をグルグルと回っている。
「ねえ、芳。これからさ・・・」
彼女が腕を絡ませてこようとするのを振り切ると、早足で歩き始める。
「ちょっ・・・芳ー」
後ろから彼女が焦っている声が聞こえる。
自分を追いかけようとしているのだろう。
「キャッ!」
彼女が上げた声に、走る寸前までになっていた足を止める。
そして、後ろを振り返ると彼女が誰かとぶつかっているところだった。
「悪いな」
彼女がぶつかった相手はビクともしていなかった。
大きい背中が芳の立っている位置からもはっきりと見えた。
彼女は道端で転んでいたようだが、ぶつかった相手を見上げると顔を赤らめていた。
ダークスーツを着こなした男は彼女が顔を赤らめ、その顔を見つめさせるには十分だっただろう。
差し出された手をぼんやりと見つめていたが、すぐにその手に自分の手を重ねるとゆっくりと立ち上がった。
「ありがとうございます」
彼女が精一杯かわいい声を出している。
そして、彼女は芳の方へと向かうため一歩を踏み出す。
男は立ち去ることはなかった。
芳もその場から動けなかった。
「久し振りだなー。なぁ、芳」
男は記憶の中よりも逞しくなっていた。
そして、記憶の中と同じ表情。
不敵な笑いを浮かべながら芳の方を見ていた。
3年ぶりに見た淺川狂慈は、記憶と少し雰囲気が変わっているようで・・・・変わっていないようだった・・・・