運命というものは本当にあるのだろうか。
今のこの現代社会において、運命を信じているような人間はどれくらいの数がいるのだろうか。
そして・・・
もし、自分自身で運命を左右できるなら、2人は互いに出会う運命を選択したのだろうか。
身長は小学5年生にして、150pを超えていた。
その当時で小学生5年生の平均身長は140p未満だったことを考えれば、彼は周りの小学生から頭ひとつ程飛び出していた。
また、彼の家庭は特殊だった。
彼は特にそれをひけらかすようなことをするわけではなかったが、周りはそんな彼を放っておこうとはしなかった。
大人から得たのだろう拙い情報が、善と悪の区別をすることが不得意な子供である彼のクラスメイトを駆り立てていく。
無視と陰口
それは典型的な子供のイジメである。
しかし、それを止めるクラスメイトはいない。
加担するか見て見ぬふりを貫くかの2者択一。
教師は触らぬ神に祟りなしとばかりに気付かない素振りを続ける。
それは彼のクラスメイトと同じ、無視というイジメに繋がるのだとは少なからず気づいていた・・・
普通の小学生ならすぐに登校拒否になる状況。
にも関わらず、彼は淡々と日常をこなしていく。
登校し、1日誰とも話さないこともある。
それでも彼は表情一つ変えることはない。
同じクラスメイトであったとしても、彼が何かに感動したり、笑ったり、怒ったり・・・表情を変える場面に出会うことはなかった。
無視と陰口
ここまで考えれば、子供達は彼をイジメているようであり、違うようにも受け止められる。
無視をしているのではなく、話し掛けられないのである。
子供達の中でも彼をどの位置に置けばいいのかわからないまま、陰口の対象以外に当て嵌めることができないのが真実かもしれない。
彼は小学生というには異質な存在でしかなかった。
「坊ちゃん」
彼が校門を出ると、どこからか声が掛かる。
それはとても静かな声だったが、放課後を学校のグランドで遊びまわっている子供達が一瞬黙ってしまうような緊張感を与えるような声音を含んでいた。
彼は無言のまま、ただ右手を伸ばす。
その右手には校門を出るまでランドセルが持たれていたはずだったが、伸ばした手を下に下げた時にはなかった。
代わりに、スッと寄り添うように彼の半歩後ろを歩くスーツ姿の男の右手にランドセルが存在していた。
「坊ちゃん」
再び声が掛かるが、彼はそれを無視するようにひたすら歩いていく。
学校から数百メートル離れたところには一台の黒い車が横付けされていた。
彼はその車をも無視して歩いていこうとする。
しかし、
「狂慈(きょうじ)」
いつの間にか車の後部座席、一つの窓が開いていた。
窓からは手が出ており、手招きをするように振られている。
「狂慈」
そして再び声が車の中から聞こえてくる。
彼は車から少し離れたところで立ち止まっていた。
振り向くことはしない。
ただ、そこに立っているだけ。
その間にも同じ小学校に通っているのだろう子供達が彼の側を走り去っていく。
子供達は彼から少し離れると、何人かが集まり話している様子だ。
何度か彼のことを振り返っている。
しかし、彼がその中の一人と目が合えば驚いた表情を浮かべ、友達と一緒に再び走り去っていく。
「坊ちゃん」
声が掛かり、ふと彼が横を見れば車がすぐ横に止まっていた。
「狂慈」
後部座席の窓からは中年の男性が顔を覗かせていた。
彼は男性をチラッと一瞥すると、小さくため息をつく。
「お前を連れていかないと意味がないからなぁ」
男性がそう言うのが聞こえる。
彼は無表情を崩さず、そして小さく唇を動かす。
「早漏野郎」
変声期なのか、彼の声は少年のようなソプラノと大人のテノール、どちらともとれるような掠れた声音だった。
とても小さく、その言葉はほとんど周りには聞こえなかったようだが
「坊ちゃん」
すぐ傍にいた男には聞こえていたのだろう、彼を窘めるような口調になっている。
彼は再び唇を閉じると、ようやく次の一歩を踏み出そうとした。
「あー!!」
ところが、その彼の一歩が思わぬアクシデントを引き起こした。
今までジッと立ち止っていたため、彼が動き出すという予測ができなかった人間がいた。
また、彼もまだ変声期を迎えていないと分かるようなボーイソプラノの大きな声に驚き、次の一歩を出すのが遅れた。
それがさらに災いをした。
子供、それも自転車に乗った子供が彼に突進してきた。
自転車を走らせている子供は慌ててブレーキを握るが、子供の力であるためなのか急に止まることができなかった。
子供はぶつかるのを覚悟しているのか、目をギュッと瞑っている。
人とぶつかればお母さんに怒られる、そしてお母さんから話を聞くだろうお父さんにも怒られる。
しかも、お母さんには校区内だけでと言われていたのに内緒で遠くまで走ってきてしまった。
珍しい建物、いつもの違う風景。
それに目を奪われていた。
キョロキョロと走りながらよそ見をしていた。
何人か自分と同じ様な小学生とすれ違い、近くに学校があるんだと思っていた瞬間だった。
前を見れば、もうすぐ目の前には人が迫っていた。
子供の頭の中では一瞬にしていろんな思いが錯綜していた。
親への言い訳、そして相手への謝罪。
カシャン!!
次の瞬間、大きな音とともに子供は自転車ごと倒れていた。
彼は何もせずただ立っていた。
ただ、彼の前には大きな背中があったが・・・
彼を坊ちゃんと呼んでいた男が、突進してきた自転車を倒したのだ。
子供が乗っている自転車は小さく、そして乗っている子供も小さい。
そんなに大きな力も必要なかった。
子供は自転車から離れ、歩道へと倒れている。
その顔と足、服を着ていない皮膚が傷つき、血がジワジワと滲んできていた。
彼は何も言わず、ただその子供を眺めていた。
「大丈夫か」の言葉もない。
「うっ・・・っ・・・」
やっと子供にも自分の状況が理解できたのか、目にうっすらと涙を滲ませていた。
子供を自転車ごとなぎ倒した男は、何もなかったかのように再び彼に向き直り、
「さ、坊ちゃん」
と彼を先へと促す。
彼もそのまま子供を振り返らず、車へと向かおうとした。
ところが、視界の隅に子供の傷ついた右半分の顔が入り込んできた。
泣かないように歯を食いしばり、少し離れたところに倒れている自転車を取りに行こうとしている。
右膝の横からも出血していたし、地面に打ったのかもしれない少し引きずっている様子だった。
彼は車へと向けていた一歩を、子供へと向けた。
「坊ちゃん?」
傍に控えていた男が怪訝な声を上げる。
それを無視しながら、彼は子供へと近づくと
「な、何?」
「血」
「え?」
自転車を立て直した格好の子供は、自分に何が起こったのか分からない様子で呆然と立っていた。
よそ見をしていた自分が悪かったのだが、まさか自転車ごと倒されるとは思っていなかった。
人にぶつかったとしても、両親の怒りを買うだろうが、自転車で怪我をしたというだけでも怒られるかもしれない。
小学生の子供にとって、親に怒られるかもしれないという恐怖がまず先に頭をよぎるものだ。
そんなことを考えていると、不意に影が目の前に現れ、見上げると自分がぶつかろうとしていた相手が立っている。
自分よりも大きく、そしてその顔には表情はない。
恐怖を感じさせるには十分だった。
声が少し震えたかもしれないが、目の前に立っている彼に問いかける。
次の瞬間、眼尻に生ぬるい感触が触れる。
それも1度ではなく、2度3度と・・・・
「坊ちゃん!」
慌てたような男性の声が聞こえてくる。
そこで子供は自分が何をされているのかを意識し始めた。
「お前の血はなんだか甘くて美味い」
そう、彼は子供の傷から溢れ出ていた血を舐めとっていた。
「名前・・・ふじのかおる・・・か」
彼は自転車に平仮名で書かれた文字を読み取った後、唇の端にできていた小さな傷も舐めとると、初めて表情を崩した。
崩したといっても大きく変わったわけではなく、口元だけが微かに歪められ
「ごちそうさま」
そう言った。
子供は呆然としている他なかった。
彼がその後、車に乗り込んでいくのが分かったが何も言葉を発せなかった。
ようやく子供が次の行動に出ることができたのは、すでに彼が乗った車が見えなくなってからだった。
彼を乗せた車はネオン煌めく繁華街へと向かっていた。
横に座っている男性はさっきの出来事については何も言わない。
男性にとってはどうでもいいことだったからだ。
男性にとって、この後の出来事の方が重要であった。
「服は・・・まぁそれでもいいだろ」
男性は彼の服装をチェックすると、あとは何も言わなかった。
彼も、何も言わずただ車の中から外の景色を見ているだけだった。
会話の無い社内。
どれくらいの時間が経ったのか、ゆっくりと車がスピードを落としていく。
「組長」
運転手の隣に座っていた男が声を掛けると、男性は
「着いたか」
と下卑た笑いをその顔に浮かべながら車を降りていく。
しかし、彼は降りようとしない。
「坊ちゃん」
男に声を掛けられ、ようやく彼は車から降りていく。
目の前に広がるのは繁華街には特有のネオンの眩しい光だった。
男性はその中の一つに吸い込まれ、彼もその重い一歩を踏み出していく。
彼は自分が男性にとってどんな立場なのかを理解していた。
彼を連れていくことによって、若い女達が寄ってくる。
男性だけでは相手にされないが、彼の小学生とは思えない大人びた顔つきや体が女を引き寄せてくれるのだ。
そして、男性はその女の中から自分とベッドを共にしてくれる女を探す。
子供に比べれば自分は金という切り札を持っている。
それを女達に振りかざせばいいのだ。
男性の隣には20歳過ぎの女が座っているが、女の視線は自分を通り越し彼を見つめている。
彼は女にされるがまま、唇を吸われていた。
どんな女に囲まれようとも、どんな女に迫られようとも、彼はその表情を変えることはない。
彼の隣に座り、彼の唇を貪っていた女がようやく離れる。
すると、珍しく彼が言葉を発した。
「かおるの方がうまかった」
その言葉がどれだけ影響を与えるのか、彼は分かっているのかいないのか・・・
それから、何人もの女が彼の唇を奪っていった。
が、彼の言葉は同じだった。
男性はまるで蚊帳の外だったが、それには敢えて気付かない振りをした。
今の環境が彼を将来どんな男に育てていくのか、考えれば恐ろしいことだったが男性は考えようとしなかった。
自分が楽しければ良かった。
彼を餌に、若い女の子と遊べる今の状況が全てであった。
それからも彼の生活はほとんど変わることなく続いていた。
そして、変わることがないのではないかと思われていた。
「淺川狂慈(あさかわきょうじ)」
担任だという教師が名前を読み上げていく、高校の入学式。
彼は都内でも優秀だと有名な、高校へと無事に進学することとなった。
受験勉強はほとんどしなかったが、まずまずだったと思う。
何人もの生徒の名前が呼ばれていくのを彼はただ、じっと眼を瞑って聞いていた。
「藤野芳(ふじのかおる)」
その懐かしい名前が耳に入った瞬間、彼は呼ばれた生徒の顔を見るために瞼を上げる。
「はい」
あの頃より、若干テノールがかった声が耳に心地よく響いていく。
そして、あの頃より青年へと成長した彼がそこにいた。
「かおる」
彼は思わず口にしていた。
かおるの血はあの頃より旨くなっただろうか。
彼は意識をしないまま、ゆっくりと口角をあげていた。