密はこの三年で少しの単語は話せるようになっていた。

まず覚えた言葉は「虎城」だった。

「勇生」と呼ばせるようにと八嶋は考えていたが、虎城自身が

「密、『虎城』って言ってみな。ほら、こ・じょ・う」

と何も考えずに虎城と躾てしまったがため、

「こじょ・・・」

「そうだ、虎城。もう一回」

「こじょ・・う」

密は素直に虎城の教えるがまま、虎城のことを「虎城」と覚えてしまった。

虎城は後で

「これだと親父と間違えられるかもしれねぇな」

そう気づいたけれど、その時はすでに密はどこででも

「虎城」

と呼ぶまでになっていた。
虎城ももう一度密に言葉を教えるのが面倒で、

「まあ、親父なんて死んだもどうぜんだからいいか」

そんなことを言って開き直っていたが、

「計画性がなさ過ぎです」

と八嶋にはチクチクと嫌みを言われていた。

それからも少しずつ言葉を覚えていったが、外に一歩出ればほとんど口を開くことはなかった。
虎城か八嶋が一緒にいる時だけ、それも一言や二言、口にするだけだった。

その一方で密が虎城の身を守ったという話が一人歩きし、いつの間にか密のことを『虎城の守護天使』と呼ぶ人間もいた。
虎城もそんな噂があることを八嶋から聞いていたが、面白がってそのままにしていた。




「密、そろそろ紫陽花が綺麗に咲き始めたらしい」

「あじ・・・さい」

いつものように虎城の膝の上、テレビを見ていた密だったが、虎城の声に振り向き、首を傾げながら虎城の言葉を繰り返す。

「ほら、図鑑持ってこい」

そんな密の仕草に虎城は密を膝から下ろすと、そのお尻をパチンと叩く。
密はそれを合図に、リビングを飛び出すと虎城から買い与えられている図鑑を持って戻ってきた。

図鑑には植物や昆虫そして動物が様々載っている。
ただ密は字が読めず、載っている写真を見ている状態だった。

そして虎城はそんな密に写真を見ながら説明してやることが多く、時には実物を見に行くこともあった。

「ほら、これが紫陽花だ。確かあそこには赤紫と水色があったと思うんだけどな」

写真には虎城が言う色とはまた別の色をした紫陽花が写真と共に載っていた。

「あじ、さい。・・・綺麗」

「おう、庭に咲いてるのを見ればもっと綺麗だぞ」

虎城は密を膝に乗せながら話すが、密の気持ちはすでに紫陽花の咲き誇る庭に飛んでいるのかもしれない。
虎城が『あそこ』と呼び、密が思いを馳せている庭はあの桂邸の庭のことだった。

桂は桂樟会解散後、すぐに沖縄の別宅へと移り住んだ。
ただ、虎城の周囲はまだまだ危険が多くセキュリティに不安がある桂邸に移り住むことはできなかった。

さらに桂邸には若い組員達が住み込みで暮らしていることもあり、寝首を掻かれる可能性があった。

一方で密は桂邸の庭をいたく気に入っているため、虎城は広すぎる部分を一部取り壊し、庭部分を増やすような改築を夏に行うことに決めていた。
今住んでいる若い組員達は他のマンションなり引っ越しをさせる予定になっている。

「来年の春にはあそこで花見ができたら・・・そうだ、桜の木でも貰ってきて植えるか」

「さ・・くら?」

「そうだ。この春にも見に行っただろ?ああ、密はパンダに夢中で桜どころじゃなかったか?」

虎城は新たに出来上がる庭に、密が好きそうな花や木をたくさん植えることや、動物を飼うことを話してきかせた。




「ようこそ、お待ちしておりました」

「「「ようこそ」」」

虎城と密が桂邸に実際に足を運んだのは、話をしてからちょうど一週間後だった。
前日には雨が降ったが、虎城は

「紫陽花を見るならこんな日の方が最高だろ」

と最高のロケーションに機嫌は最高だった。

そんな虎城の隣に佇んでいる密は、膝上四センチ程度の花柄のギャザースカートに胸元に大きなリボンがあしらわれた白いブラウス。
生足にハイソックスでスカートとの間、絶対領域的な部分が妙に艶めかしくも見えたが、一見すれば深窓の令嬢にしか見えなかった。

虎城と密、そして八嶋が揃って桂邸へと入る。

自分達の長である虎城が来るということで、昔ながらの門扉をくぐれば若い組員達が両脇に並んで出迎てくれた。
その中央を三人が歩くことになるが、密はあまりの光景に初めてでもないのに足を竦ませていた。

そして

「しょうがねぇな」

と笑う虎城に抱き上げられ、移動するのが常だった。

ただ、「しょうがない」と言いながらも虎城の顔は全く困った様子もなく、むしろ嬉しそうに笑っていた。
密は虎城の腕の中では奔放で、抱き上げられた途端に虎城の首に腕を絡めると頬にキスを落とした。

そんな光景を見慣れてる組員もいれば、初めてみる人間もいる。

密は組員達の視線を気にすることもなく、虎城は見せつけるようにして組員達の前を通る。
さらに密は虎城の耳元に桜色の唇を寄せると、何か小さな声で話しかける行為を見せ、組員達の目を釘付けにしていた。

二人が来ると庭に面した座敷が大きく解放されることとなる。

まずは昼食ということになるのだが、密は庭に咲く紫陽花の美しさに目を奪われていた。
紫陽花の花びらや葉にはまだ雨の滴が残り、それが光に反射してキラキラと輝くことで紫陽花がいつもより綺麗に映しだされている。

虎城はそんな密を好きにさせ、自分は酒を煽っていたが

「勇生さん、私はむこうで少し打ち合わせをしていますから」

「おう」

「密のこと、ちゃんと見ててくださいね」

「おう」

八嶋は改築の手配や計画について、打ち合わせがあると言って席を離れると、虎城は密を肴にさらにピッチを早めていく。

そんな密は縁側で紫陽花を見ているだけでは飽きたらず、もっと近くで見たいと思ったのか、縁側に置いていた雪駄を履くと紫陽花の方へと近づいて行った。
虎城は

「みーつ、あんまり遠くへ行くなよー」

と笑っていたが、当の密には届いているのか分からなかった。

「勇生さん」

「おう」

八嶋が桂邸改築の設計図を手に戻ってくると、座敷に広げる。

「さっき言ってた桜の木ですが、この辺にどうですか?」

「そうだな。
ま、俺はあんまり木のこととか分かんねぇから、庭師とお前に任せるわ。ドーンと立派な庭にしてくれれば文句ねぇよ」

「ドーンとって・・・手入れが大変なんですよ。大きい庭になればなるほど定期的に庭師に入ってもらう必要がある。
そうなれば、せっかくのセキュリティにも穴が・・・って、勇生さん」

「んだよ」

「密はどこですか?」

「あぁ?そこに・・・」

虎城と八嶋が設計図に視線を向けている間、密から視線を外していたが虎城達は密がすぐそこにいると疑うこともなく話していた。
しかし、実際に虎城達が設計図から密がいるはずの庭に視線を戻した時、そこには密の姿はなかった。

「密・・・?」

虎城はゆっくりと立ち上がると、縁側の方へと向かう。
もしかして、自分の視界から見えなかっただけなのかと思ったからだった。

「みーつ」

この三年間で密は虎城と一緒に住むマンションの中、二人きりの時には虎城が名前を呼ぶと「こじょー」と返事をするまでにはなった。
ただ外に出れば虎城がいくら名前を呼んでも密は返事はしない。
いくらそのことを知っているからといって、虎城は名前を呼ぶことを止めなかった、いや止めることができなかった。

「密〜、どこだぁ?」

八嶋もおかしいと感じたのか、虎城の横に立つと庭を見渡す。

しかし、そこには密の影も形もなかった。

「勇生さん」

「はぁ」

虎城はため息を付くと、

「みーつ、密〜」

屋敷内の探索が始まった。




その頃の密は、屋敷内を歩き回っていた。


紫陽花を見ていたはずの密だったが、その傍にいたバッタへとすぐに興味を移していた。
密がバッタに触れようとすると、当然ながらバッタは大きくジャンプをしながら逃げていった。

「むううううう」

密は逃げていくバッタを諦めきれず、ドンドン虎城達がいる場所から離れていくことになった。

そして気づいた頃には自分がどこにいるのかも分からなくなり、仕方なく近くの廊下から屋敷内へと戻った。
ところが、屋敷内をいくら歩いても虎城達はどこにも見当たらない。

密は虎城がいないことに腹を立てながら、屋敷内をただウロウロしていた。

屋敷内には当然ながら組員達もいるのだが、そんな組員達は密を見かけても、声を掛けることもしなかった。
もしそんなことをしているのが虎城に分かった時のことを考えると、見て見ぬ振りをすることが一番だと知っているからだ。

フラフラしながら歩いていた密は、次第に屋敷内の探検に夢中になっていき、たまたま開いていた部屋に入った。

薄暗い部屋は密をドキドキさせたが、ふと視線を落とせば雑誌が畳に散らばっている。
密は雑誌に興味を示すと、その場に座り込み雑誌を手にした。

いくつかの雑誌は読みかけのようで、ページが開いたまま放り出されていたが、そのどれもが女性のヌードが写真として載っているものばかりだった。
密は教育として何冊か本を虎城から買い与えられていたが、写真が多く載っているという点では今密が手にしている雑誌と変わらなかったが、その写真の内容は全く異なっている。

密は訳が分からないまま、それでもページを捲っていけば写真は生々しく、そして過激になっていく。

虎城が探しているとは全く考えず、散らばっている本を見ていた密だったが、

「みーつ、お前はこんなとこで何してんだ」

組員達の目撃情報を元に探していた虎城についに見つかることになった。



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