「虎城の使いの者です。申し訳ないですが、今日を含め3日以内にマンションを引き渡していただきます。
不要な物はこちらで処分いたしますので、そのまま置いてくださっていて結構です。用件のみですが、これで失礼します」
淡々とした八嶋は事務的な内容だけを伝えた時点で留守電は終わる。
そして約束の3日後。
八嶋からマンションの片づけを申しつけられた部下達が部屋を訪れると、一見するとゴミ屋敷のような有り様だった。
廊下と言わず、各部屋にゴミが散乱していた。
ゴミは食物や食器もあれば、衣類、そして雑誌。
「汚ねぇなぁ」
とゴミ袋に手当たり次第にゴミを入れていっていた部下達だったが、そのゴミの中に不要物とし捨てられないようなものが残されていることに気づくと、一気に手が止まった。
「おい、どうする」
「そりゃあ、決まってるだろ」
部下達は協議の上、八嶋に連絡を取ることにした。
「もしもし」
『どうした?』
「あの、子供が残ってるんですが」
『・・・あぁ!?』
連絡を受けた八嶋は驚きのあまり言葉を失っていた。
「あの、八嶋幹部?」
『・・・それは、赤ん坊か』
虎城の子供であるならば問題になるのは必至だった。
その上での八嶋の言葉だったが、
「いえ・・・赤ん坊ではないです」
部下の言葉にホッと胸をなで下ろした。
だからといって状況が好転したわけでもなく、八嶋は
『今からそっちに向かう』
と告げると、通話を打ち切った。
八嶋は状況を確認するため、急いでマンションに向かうが、エントランスで部下の1人が八嶋の到着を待っている状態だった。
「どういうことだ」
部下と共に問題の部屋に向かう。
「あの、ゴミを処理していたんです。そしたら、そのゴミの中から・・・」
部下が先にドアを開けると、異臭が八嶋の鼻を襲いかかった。
「な、んだこの臭い」
「いちおう窓を全開にしてるんですけど、なかなか・・・」
八嶋はハンカチで鼻を押さえながら部屋の中へと入っていくが、リビングのゴミだめを囲むようにして部下達が立っていた。
「どけ」
八嶋の一言で部下達はその場を離れるが、その中心には小学生ぐらいの子供がスースーと寝息を立てている。
子供が着ている服は明らかにサイズが違っていた。
母親の物だろうワンピースに埋もれながら寝ている子供はパッと見ただけではその性別は分からない。
八嶋は小さく息を吐くと、子供を起こすべくその肩に手をかけた。
想像していたよりも薄いそれは、力加減を間違えると脆く破壊してしまいそうな気持ちにさせられる。
「ちょっと・・・」
「・・・んん」
何度か声を掛けていると、ようやく子供は目を覚ました。
ゴミの上にゆっくりと上体を起こした子供は髪はボサボサで、長さも揃っていない。
短い部分では耳の上でだったり、長い部分は肩につきそうな部分もあった。
さらに身体を起こした際にその細い肩から服がずり落ち、子供の上半身も露わになってしまう。
「男・・・か?」
さらにその下、子供はブリーフを穿いていることでようやく性別が判明した。
その上で
「名前は?」
と八嶋は聞いた。
「・・・」
「名前は?」
八嶋はまだ眠そうな子供に向かって何度か話しかけたが、当の子供の方は曖昧な笑みを浮かべた状態で首を傾げた。
「日本語が通じないんでしょうか?」
八嶋と子供のやり取りを見ていた部下の1人がそんなことを言い出した。
一瞬だが八嶋もそれを疑いたくなった。
ただ、子供の髪は真っ黒で瞳の色も黒。
「ここにいたのは日本人だよな?」
「はい。確かエミだったかと」
子供は八嶋や部下の言葉も理解できていないのか、再びゴミ溜めに埋もれそうになっていた。
「ちょっ・・・」
八嶋が慌てて子供を抱えると、その子供は八嶋のことをジッと見つめ、
「んー、んー」
腕の中でぐずり始めた。
部下達は八嶋がどういう決断をするのか、待つことしかできなかった。
そして、
「仕方ねぇな」
八嶋はそう言うと、ワンピースをもう一度子供に着せると肩に担ぎあげた。
子供は思いのほか軽く、八嶋を驚かせた。
一方で子供も突然のことに驚いたようで言葉を失くしていた。
しかし、すぐに高い目線にキャッキャッと喜び始めた。
手足をバタつかせる子供をモノともせず、八嶋は空いている手で携帯を操作する。
「もしもし」
『何だよ、今イイトコなんだよ』
元凶ともいえる相手に電話をしたが、言葉の通り真っ最中だったようで、バックに女の喘ぎ声が聞こえた。
ただ八嶋が電話をする意味というのを十分理解しているから、こうして電話には出る。
「面倒なことになりましたよ」
『あぁ?何だよ』
「子供が産まれました」
『は・・・?』
「今すぐ帰ってきてください」
八嶋はそれだけ伝えると、相手の返答も聞かずに通話を切った。
それまで黙って流れを見ていた部下達はどういうことなのかと戸惑っていたが、
「これ以外は全部処分してください」
そんな部下達を残し、八嶋は子供を抱えたまま部屋を後にした。
虎城が現在住んでいるのは、都心に近い1等地にある邸宅だった。
義父である桂からは本宅に住めと何度も言われていた。
妻である貴美子も実家に住みたがったが、
「いっつも見張られてるみてぇだ」
と虎城が言うため叶えられることはなく、結局虎城一家が住んでいるのは都心から少し離れた高級マンションと呼ばれる部屋だった。
この時、大学4年生の虎城だったが、卒業論文も無事に終え後は卒業を待っている身だった。
誰もが虎城が卒業後、桂樟会に入るだろうと考えない人間はいなかった。
ところが、虎城自身は進路についての明言は避けていた。
貴美子は何も言わなかったが、貴美子自身も虎城の卒業後は父親の右腕になるべく修行するはずだと疑っていなかった。
普段は愛人の家を転々とし、気が向いた時や八嶋に呼び出された時に帰って来るだけ。
そんな虎城は八嶋の電話を受け、数日ぶりにマンションに帰って来た。
ゆっくりとした足取りで居間に向かうが、近づくにつれ小さな子供の笑い声や大人達の楽しそうな声が虎城の耳に入ってきた。
ただ虎城が居間に顔を出した途端、さっきまでの楽しそうな声は全て消え去ってしまう。
居間にいたのは、虎城の子供である勇気(ゆうき)と貴美子、それから義父の桂から守役にと命を受けた男達2人。
そのたくさんの目が突然部屋の中に入ってきた虎城に注がれた。
虎城はそんな視線を気にすることなく、キッチンへと向かう。
冷蔵庫を開け、ビールを片手に戻って来るとソファにどっかりと座った。
誰も何も話さない。
虎城の息子である勇気だけが無邪気に玩具で遊んでいた。
そんな重苦しい空気を破るように、子供を肩に乗せた状態の八嶋が部屋に入って来る。
「なんだ、そのガキ」
「忘れ物です」
「何だよ、大きな忘れ物だな」
八嶋はその場にいる誰にも挨拶をすることなく、虎城と話しながらようやく子供を床に下ろした。
床に座り込んだ子供はキョロキョロと周囲を見渡した後、目の前の虎城へと視線を固定させた。
同じく虎城も子供と視線を合わせたまま動かない。
「こいつ・・・女か?」
「いえ、付いてました」
「でもこの服・・・」
「母親の物でしょう。部屋はゴミ溜めになっていて、子供の服を探すことなんて出来ませんでしたよ」
「ふん」
子供は何も喋ろうとしなかったが、ゆっくりと赤子が這うようにして虎城の足下へと移動する。
虎城はそんな子供の行動をただ観察していた。
周囲もこれからの展開をただ見守っているしかない。
「名前は?」
「さあ、何も言わないんで分かりません」
「喋れねぇのか?」
「それも分かりません」
八嶋がそこまで言うと、虎城は子供の目を見て
「おい。お前の名前は何だよ」
と子供に問いかけた。
子供は虎城の声に驚いた様子だったが、やはり何も言葉を発することはなかった。
ただ、
「あー、あー」
と虎城に向かって手を広げた。
そして虎城はそれに答えるかのように子供を抱き上げた。
「恐らく、今年で10歳ぐらいかと」
「恐らくって何だよ」
「出生届は出されてませんでしたから」
「ふーん」
「もちろん戸籍もありません」
「そうか」
虎城と子供の視線はいまや対等の位置にある。
子供はしっかりと虎城の二の腕を掴んだまま。
「名前もねぇのか、母親はこいつのことを何て呼んでたんだろうな」
「さあ」
虎城は話しながら、子供の身体を嗅ぐように鼻を近づけていく。
「ゴミの中で寝てたんですから臭いですよ」
八嶋が虎城に忠告するが、虎城は特に気にする風もなく
「なんか甘い匂いがすんだよな」
そんなことを言い始めた。
八嶋は眉を潜めながら、
「いつから鼻が悪くなったんですか」
と言った。
「いや、マジで甘い匂いがするって」
「さっきから一緒にいた私にはゴミの匂いしかしませんでした」
「そうか?」
「そんなことより、どうします?」
ようやく八嶋が本題に入った。
周囲も虎城の次の言葉をジッと待っていた。
八嶋の言うどうするのか、というのはある程度その意味が決まっている。
商品としての価値を見いだしていくのか、それとも・・・
子供には戸籍もなければ、唯一の母親も行方不明。
母親が子供を取り戻しにさえ来なければ、いや戻ってきたとしても知らぬ存ぜぬを決めてしまえば、子供をどうしようとも知る人間は限られる。
「そうだな、蜂蜜みたいな匂いがするから・・・『密』だな」
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