八嶋には密が何を見ているのか、その視線を辿ればすぐに分かった。
その上で

「密、向こうに蝶のオブジェがあるみたいですから」

と密の意識を虎城から移そうと試みた。
しかし、

「こじょ・・・」

密はその場から動こうとはせず、ただジッと虎城達を見ていた。
虎城は密の視線に気づいていないのか、さっき密にしていたのと同じように女性の腰に腕を回していた。

「うぅうぅうう」

「密、密。勇生さんをここに連れてきましょう」

唸り声を上げる密のテンションは、負の方向へ傾いているのは明らかだった。

密の精神年齢から考えると、大勢の人間がいるパーティー会場で機嫌が悪いままなのは危険を伴う。
怒りのままに大声を出したり、駄々をこねるように暴れ出したり、このままでは何が起こるか分からない。
そして、その何かでパーティーをぶち壊しにしてしまうかもしれない。

想像するだけで八嶋は頭が痛い思いだった。

「密、勇生さんのところに行きましょう」

そう言っても密の機嫌が直る気配はなく、八嶋は強硬手段で密の手を取って虎城の方へ向かおうとした。
しかし、密は虎城がいる方とは逆の方へと八嶋の手を引っ張り始めた。

「密?」

八嶋は驚きながらも、そのまま密の思う方向へと付いていくと、パーティー会場の外へ出ることになった。
小さな洋館を貸し切ったパーティー会場は、メインホールを出れば、そこはエントランスになっている。

いくつか小さなソファも設置されていたが、密はそのソファの一つに座った。

八嶋は密の隣に腰を下ろすと、密の表情を窺う。
密は唸ることを止めたものの、グロスで艶めいた唇を尖らせ、眉間に皺を寄せて怒っているんだと身体で表現していた。

「密が気にすることじゃないですよ」

八嶋が慰めのつもりで話すが、密は黙ったまま会場の入り口を睨んでいた。

密としては、自分が会場から出てきたことにすぐ虎城が気づき、追いかけてくると考えたのかもしれない。
子供がわざと親から離れ、親が心配しながら自分を探してくれることを期待するようなものだ。

密がしているのはまさにそれと同じようなことだった。
蜜は虎城の愛を確認しようとしているのだろう。

「密、勇生さんが心配するから戻りましょう」

いくら八嶋が声を掛けても、密はソファから立ち上がる気配は全くなかった。

さらにタイミングが悪いことにさっきまで虎城と一緒にいた女性がホールから出てきた。
密も八嶋もつい女性を見てしまったが、女性の方も密のことをチラッと見ると、その唇に笑みを浮かべたままエントランス奥にある化粧室に消えていった。

密は女性の消えた方を見つめたままで視線を外さなかった。

「密、戻りましょう」

八嶋は女が化粧室から出てくる前に、どうにかして密をこの場から離したかった。

化粧室に入る前の女の顔が何かを企んでいるように感じて仕方がなかったのだが、八嶋の願いも虚しく女は思いの外早く化粧室から出てきた。

密はそんな女から視線を外さなかったが、女性の方も密を見つめたままだった。
八嶋はまだ姿を現さない虎城に苛立ちながらも、この状況にどう対処するべきか頭をフル回転させていた。

ゆっくりと女が歩き始めると、その方向はホールではなく密の方へと近づいてくる。
その顔には相変わらず勝ち誇ったかのような満面の笑みを浮かんだまま、ついに女が密の前に立った。

「こんばんは」

女は優しい言葉遣いで密に話しかけてきた。
密の隣には八嶋が座っていたが、まるで八嶋のことは眼中にないようだった。

密は女を見つめたままで、挨拶を返すこともなかった。
いつもは挨拶にうるさい八嶋も今は何も言わず、見守っている。
女の方は気にしていないのか、密が黙ったままでも嫌な顔をすることもなく、

「今日はあなたの虎城さんを借りるわね」

と話しを進め始めた。

密は女が話している意味を理解してるのかどうか、その表情からは分からなかった。
ただ黙って女を見上げている。
女の方はそれを逆手にとり、

「借りるっていう言葉はおかしいわよね。だってもともと虎城さんはあなたの物でもないんだから。
私聞いたのよ、あなたは知り合いから預かってるだけだって。
それに、まだまだお子様ランチを食べるような子供と、虎城さんがセックスしてるわけないわよね」

「ちょっと・・・」

クスクス笑いながらも露骨なことを話す女に八嶋が間に入ろうと立ち上がる。

女の方はそこでようやく八嶋の方を見ると、

「何?私は間違ったことは言ってないわよ。今日はこの後、虎城さんは私と家に帰ってセックスするんだから」

そう言い放つと、再び密の方を見下ろし

「だからごめんなさい、あなたはこのままこの人と一緒に帰ってちょうだい」

女は『この人』というところで八嶋のことを見ながら、綺麗に整えられた手で密の頭を撫で

「じゃあね。明日の朝には虎城さんを返してあげるわ」

そんな台詞を言い残し、ホールへと戻っていった。

女にとっては自分よりも可憐で人の視線を釘付けにする密が気に入らなかったんだろう。
だからといって密を傷つけるような言葉を言い放って良いとは言えない。

「密・・・?」

何も言葉を発しない密に、八嶋は声を掛けた。

立ち去った女性の言葉は嘘ではないだろう、虎城は今日あの女をお持ち帰りし、セックスをする。
八嶋にもそれを止める権利はないが、『もっと品のいい女を選べよ』と虎城に言いたかった。

「密、気にする必要は・・・」

八嶋が必死の思いでフォローしようとしたが、そんな八嶋の言葉を遮るように密は動き出した。
さっきまでいくら八嶋が言っても立たなかったのが嘘のように、密はスッとその場に立つと

「帰る」

と小さな声で呟いた。
八嶋もそれに異論はなく、

「帰りましょうか」

密と共に出口へと向かい歩きだした。
そんな頃になってようやく

「みーつ、探しただろ」

何も知らない虎城がパーティー会場から密を探して出てきた。
いつもの密ならすぐに虎城の方を振り返り、抱きつきに行くぐらいのことをするが、

「密?」

虎城がいくら呼んでも密は虎城の方を振り返ろうとはせず、八嶋の腕を引っ張って出口を目指そうと歩き続ける。
そこまでくると虎城も密の様子がおかしいことに気づく。虎城は八嶋の方を見るが、八嶋は口だけで

『自業自得』

と伝えた。

「何だよ、おい」

納得のいかない虎城は密のことを追いかけようとするが、

「虎城さん、どうしたの?」

虎城のことを追いかけて来たんだろう、さっきの女が再び密の前に姿を現した。
あまりにもベタな展開に八嶋は不謹慎にも笑いたくなった。

しかし、虎城の手前笑うことはせず、

「密、勇生さんが迎えに来てくれましたよ」

と密のことを促してみる。
虎城は自分を追いかけてきた女をそのままに、

「密、どうした?お前が好きなキラキラしたもんが一杯だっただろ?」

と声を掛けたが、密は虎城の元へと戻ることはなかった。
それどころか、女の出現をきっかけに八嶋のことを引っ張る力が増した。

「密?」

これには八嶋も驚いたが、誰よりも驚いたのは虎城だった。

「おい、密」

いつもとは違う密の態度に、虎城も少し苛立ちを覚えたのか、密の名前を呼ぶ声が普段よりも堅い。
それは密も感じ取ったのか、チラッと虎城の方を見た。

しかし、そこで密の目には

「虎城さん、子供は寝る時間ってことでしょ。これからは大人の時間ってことで・・・」

女性に腕を取られている虎城の姿だった。

密は唇をきつく噛みしめると、また出口を目指し歩き始めた。
この中で唯一全ての事情を知っている八嶋は

「密は自分のことを構ってくれなかった勇生さんに拗ねてるんですよ」

「は?」

「私達は先に帰りますから、勇生さんはそちらの女性と楽しんできてください」

「おい・・・」

「もしそちらの女性より密が大切なら、早くマンションに帰ってくることを提案します」

それだけを言うと、密を連れてパーティー会場を後にした。

密は何も言葉を発することなく、八嶋と共に車に乗り込んだ。
車内での密の表情は何かを考えているようにも見えた。

「大丈夫ですよ。勇生さんはすぐに帰ってきます」

八嶋としては密を安心させるつもりで声を掛けたつもりだったが、


「・・・セックス」


「え・・・?」

「セックス」

「密?」

「セックス」

密が何を言おうとしているのか分かった八嶋だったが、あまりの衝撃に何も言葉が出なかった。

密はやはり女の言葉を全て理解していた訳ではなかった。
ただ、『虎城さんは今日は帰らない』という言葉に怒ったのは確かで、なかなか虎城が密を探しに来なかったことに怒っていたのも確かだった。

そして、子供が自分のおもちゃを取られるのが嫌なのと同じで、虎城が蜜以外の人間と仲良くしていることに嫌な気分になっていた。
それも八嶋と車に乗りマンションに帰ることになり、虎城や虎城にまとわりつく女が密の前から消えると密の心もようやく落ち着きを取り戻したんだろう。

すると、さっき女が話していた言葉が密の脳裏に蘇ってきたのだが、その中でも密にとって『セックス』という言葉が分からなかった。

いつもならすぐに答えてくれる八嶋も、今回ばかりは言葉に窮していた。

「あー、密」

「セックス」

「それは、まだ密には早いんだ」

八嶋の説明はいつもとは違い、曖昧なものだった。

それで密が納得するわけもなく、

「セックス、セックス」

車内で何度もその言葉を繰り返すことになった。

「密、もう少し大人になったら・・・」

宥めようとする八嶋だったが、密は言うことは聞いてくれなかった。
可憐な美少女が卑猥な言葉を連呼する光景に、八嶋は

「もう、分かった。マンションに帰って、勇生さんに聞きなさい」

「こじょ・・・?」

「そうだ。俺は教えられないからな」

「こじょ、帰る?」

「ああ、今頃慌ててマンションに向かってるさ」

八嶋の言葉に密のテンションは一気に上昇したようで、

「こじょ、こじょ・・・」

今度は虎城の名前を連呼し始めた。

そんな八嶋は、無邪気に『セックス』の意味を聞く密を目の前に、虎城が紳士でいられるはずがないと分かっていた。
だからといって八嶋自身が教えてやるわけにはいかない。

八嶋は

「なんて爆弾を落としてくれたんだ」

と密にはまだ必要のない言葉を吹き込んだ女を恨んだ。
そして、

「密。明日勇生さんの仕事は休みだ。ゆっくりしろよ」

とだけ言った。

身体だけは子供という枠を越えたように見える密だが、八嶋から見れば、まだ自分が拾ってきた時と同じ子供だと言えた。
密を虎城に会わせ、密と虎城の関係を間近に見ていた八嶋には当然な成り行きだと心のどこかで感じている部分もあった。

二人がそういう関係になるのも時間の問題だろうとは分かっていたが、まさか今日だとは思ってもいなかった。

いくら密が女性のような体つきであったとしても本来は同じ男性を受け入れる機能を持ち合わせてはいない。
きっと明日、虎城はそんな無理をさせた密に付きっきりとなり、自主休業の状態になることは明らかだった。

密は単に明日は虎城の仕事が休みで、一日一緒にいられるという言葉に喜んでいる。

その姿を横で見ていた八嶋は、まるで娘を嫁に出すような複雑な心境で、小さく、そして深いため息をついた。




密達がマンションへ戻ると、すでに虎城が部屋で待ちかまえていた。

玄関で密を出迎えた虎城は明らかに不機嫌そのものだった。密を見てもいつもの笑顔はなく、八嶋を睨みつける。
普通の人間なら、そんな虎城の表情に凍り付くことは間違いない。

しかし、子供時代から虎城を知っている八嶋にそれは通用しない。

八嶋は悪びれもせず、出迎えた虎城に

「お早い到着で」

と嫌味にもとれる発言だった。

「あんなこと言われれば当然だろ」

「密、良かったですね。勇生さんは迷子にならずに帰ってきてましたよ」

「おい、誰が迷子・・・」

虎城が八嶋の言葉を止めようとするが、それを遮るように

「こじょ、おかえり」

密がいつもと同じ台詞と共に虎城に抱きついた。

たったそれだけで虎城の表情は柔らかいものに変わり、

「みーつ。いつもとは反対だから、お帰りじゃなくてただいまだろぉ?」

言いながら、密をいつものように抱き上げた。

抱き上げる姿も慣れたものだが、さすがに数年前のように肩まで抱き上げることはできなくなっている。
ドレスを着ている密には、むしろお姫様抱っこの方が似合っているようにも感じられる。

「それじゃあ、私は失礼します」

「おう。帰れ、帰れ」

八嶋は軽く虎城に頭を下げるが、

「密。さっきの言葉、勇生さんに聞ききなさい」

意味深な言葉を密に告げると、本当に帰っていった。

「何だ、さっきの言葉って」

虎城は顔を歪め、密は虎城の腕の中で目を輝かせて八嶋を見送った。
そして、八嶋がいなくなった部屋は虎城と密だけの空間になる。

「みーつ。なんだろな、すげぇ複雑な匂いだ」

虎城が密の耳元へと鼻を近づけると、いつも二人だけの時に醸し出される濃厚で甘い香りに混じり、柑橘系の香りも混じっていた。

「密、何で怒ってたんだ?」

リビングに移動する間に虎城は密に尋ねるが、密は

「こじょ、こじょ・・・」

と虎城の名前を呼びながら、虎城の頬にキスを落としていく。そして、

「セックス」

なんの前振りもないまま、いきなり虎城に言葉の爆弾を投下した。


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