畿内 |
山城(京都) | 大和(奈良) | 和泉(大阪) |
摂津(大阪) | 河内(大阪) |
山城国(京都)<やましろ> |
三条一派
三条一派は三条小鍛治宗近を流祖とし、京三条に住した山城国最初の流派です。藤原時代の優雅な公家たちの儀礼的な太刀を制作しています。
<作風>はばき元の身幅に比べ先幅が著しく狭く、小切先で反りの深い(物打ちあたりは無反り)、踏ん張りのある姿に、地肌は小杢目詰んで地沸が付き、沸本位で宗近は小乱れで刃縁に沿って打ちのけ、二重刃が交じり、技巧的ではなく、吉家は直刃に足入りやのたれに小乱れなど、兼永は丁子が目立ってくるなど宗近に比べて多少技巧的になりますが古調なものです。
宗近の作風 |
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■三条宗近(さんじょう むねちか)約1000年前
元々は公家で、余技で作刀したようです。その技量が抜きんでていたので、「三条小鍛治宗近」と呼ばれました。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛治」となり、歌舞伎などにも取り上げられた最高の名匠です。徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」、旧若狭小浜藩主酒井候から明治天皇に献上された御物の太刀、岐阜県南宮神社、福井県若狭彦神社所蔵品などがあります。「三日月宗近」の三日月は、三日月形の打ちのけという刃文が随所にあることからこう呼ばれるようです(打ちのけについては、「日本刀の見所」の働きを参照してください)。この太刀は佩裏に「三条」と銘が切られています。名前を切る場合は佩表に「宗近」と二字銘で切り「三条宗近」などとは切りません。
小鍛治とは大鍛治に対する言葉で、大鍛治とは砂鉄から鉄を作る人のことで、小鍛治はその鉄から刀や鍬などの製品を作る人のことですので、刀鍛治は全て小鍛治になる訳ですが、宗近だけ三条小鍛治と呼ばれるのはその代表者という意味があるのかもしれません。
※「三日月宗近」、「童子切安綱」(伯耆国)、「鬼丸国綱」(相模国)、「大典太光世」(筑後国)、「数珠丸恒次」(備中国)を天下五剣と言います。
三日月宗近(国宝)二尺六寸四分 徳間書店「日本刀全集」第5巻より ■三条吉家(さんじょう よしいえ)
宗近の子。旧幕時代には、備前一文字吉家の太刀がこの三条吉家作とされ秘蔵されていたようです。一文字吉家よりも三条吉家の方が時代も古く格も上なので、意識的に格上げされていたようです。つまりどう見ても鎌倉期の備前吉家の作と思われるもの(猪首風の切先でガッシリした姿に焼き幅に広狭のある丁子を焼いている)がこの三条吉家に極められているのです。
三条吉家の刀(二尺四寸二分六厘、大磨上無銘・重要美術品) 徳川美術館蔵品抄6より ■近村(ちかむら)
宗近の子。東京国立博物館に「宗近村上」という銘の太刀があり、これは「近村上」という銘に後で宗の一字が追加され、宗近が作ったかのようにされたもので有名です。「近村上」の上は献上するの意です。■五条兼永(ごじょう かねなが) 約970年前
三条宗近に学んだとも言われ、五条派を樹立した名匠です。五条は京都市中を東西に走る大路で、現在の松原通りになります。■五条国永(ごじょう くになが)
兼永の子。御物の「鶴丸国永」があります。享保名物牒(きょうほめいぶつちょう)に所載され、仙台の伊達家から明治天皇に献上された太刀です。※享保名物牒とは八代将軍吉宗が本阿弥光忠に命じ、将軍家をはじめ諸大名所蔵の名刀を調査し、所有者や伝来を記載したものです。「○○丸」という名前は、拵(こしらえ)の文様から付けられているものが多く、恐らく「鶴丸紋」の金具が使われていたのではないかということです。
鶴丸国永(御物)二尺五寸七分四厘 |
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講談社「日本刀の歴史と鑑賞」小笠原信夫氏著より |
粟田口一派
京都の東山区北端の粟田口に三条一派より約200年ほど後に開けた流派で、鎌倉初期から中期に渡って最も栄えた一派です。しかしながら南北朝の戦乱が京都を焼け野原とし、粟田口鍛治たちは住むに家無く京での注文も激減し、分散を余儀なくされ名門粟田口一派はわずか150年足らずで滅亡しました。
<作風>鎌倉初期のものは宗近などと姿に大差はないですが、中期に近づくとやや姿に強みが増してきます。粟田口系の特徴は地肌にあって、梨子地肌で地沸が一面に付き、その精良さは我が国最高の物と言われています。刃文は沸本位の直刃、小乱れが主で、小足、打ちのけ、金筋など充分な働きを見せています。特に直刃の短刀に優れたものが多いです。また彫刻では護摩箸が棟寄りになるという手癖もあります(下の図参照)。鑢目は切り、もしくは浅い勝手さがりとなります。またこの一派は短刀を多く造っています。
粟田口吉光の護摩箸 | 正宗の透かし胡麻箸 |
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■国家(くにいえ)約800年前
粟田口派の祖と言われますが、作品は現存しません。六人の子がおり、いずれも名匠と言われます。
■国友(くにとも)
国家長男。名匠。御番鍛治。
■久国(ひさくに)
国家次男。最も技量が優れています。
<作風>直刃仕立てに小乱れ交じり、金筋や食い違い刃を交え、金筋が働きます。地肌には細かい沸が一面に付き粟田口特有の梨子地肌となっています。
下の太刀は後世拵を造る際に中心を少し伏せてはいますが、家康の形見として紀州頼宣に渡り、のち分家の四国松平家に渡って伝来したものです。
久国の作風 |
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久国の太刀(二尺六寸五分三厘・四国松平家伝来・国宝) |
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徳間書店「日本刀全集」第1巻より |
■国安(くにやす)
国家三男。重要文化財指定の南部元男爵家重代の太刀があります。御番鍛治。
■国清(くにきよ)
国家四男。新井白石の愛刀が国清でした。
■有国(ありくに)
国家五男。
■国綱(くにつな)
国家六男。左近将監と称します。鎌倉幕府の招きに応じ、下向。相州鍛治の基礎となった名匠(東海道相模国参照)。天下五剣のひとつ「鬼丸国綱」の作者です。
■則国(のりくに)
国友の子。藤馬允(とうまのじょう)と称します。熱田神宮の重要文化財、因州鳥取城主池田家(備前池田家分家)伝来の国宝などが知られています。主に短刀を制作しました。
■国吉(くによし)
則国の子。左兵衛尉と称します。太刀の数が少なく短刀を得意としたようです。下の図は平造りの一尺七寸八分の脇差しで刀銘に切ってあります。いわゆる「打刀」なのですが、南北朝期に造られ始めるこの打刀の先駆けとも言える作です。群馬県の館林藩主秋元家伝来のものです。
国吉の大脇差(名物鳴狐・重要文化財) |
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徳間書店「日本刀全集」第3巻より |
■国光(くにみつ)
則国の子。左兵衛尉と称します。
■吉光(よしみつ)約750年前
短刀の名手。国吉の弟子などと言われます。江戸時代には相州五郎入道正宗、越中郷義弘とともに「三作」と呼ばれた名匠です。持ち主の名前や発見地、短刀の形などに由来する名前が付けられた「○○藤四郎」といわれる名物が多く残されています(藤四郎は吉光の通称)。現存する太刀は一口(ひとふり)のみで、後は全て短刀です。吉光は各大名家になくてはならないものでした。吉光の作は主君を守ってくれるという信仰があったからです。畠山政長が戦利なしと腰の吉光の短刀を腹に突き当てたところ、刃が通らず、家来が自分の短刀を刃味が良いからとこれで切腹をと勧めました。政長は怒って吉光の短刀を投げ捨てると、側にあった鉄製の薬研(やげん=薬を調合するときなどに使うすり鉢のようなもの)を突き通してしまったというもので、名刀吉光が主君の死を悼んで切腹をとどめたとして、「薬研藤四郎」と呼ばれるようになったという話があります。これからこぞって諸大名は吉光を所蔵したがったのです。そんなにたくさんの吉光が有るわけもなく、折り紙のみ付けた物や偽銘などがたくさん出たようです。
唯一の太刀は「一期一振」と呼ばれ、吉光生涯唯一の傑作で、秀吉がこれを所持していましたが、大阪城落城のさい焼けてしまいました。のち初代康継(武蔵国参照)が再刃したものが御物にあります。
<吉光の短刀の特徴>
内反り気味の姿で直刃を基調にし、焼き出しに小乱れを数個焼くのが癖で、ふくらのあたりで焼き幅が狭くなります。鋩子は小丸で沸が荒くなり地に食い下がるようになるのが見所です(左の図)。
★厚藤四郎(あつとうしろう)
寸法が短いわりに重ねが約1.2cmもあることから付けられた名前です。室町将軍家の御物で後秀吉に渡り、将軍家綱、一橋家を経て今日に至ります。
★鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう)
薙刀直しで、豊臣秀頼愛用のものです。大阪城落城の祭、焼けてしまったのを家康が初代越前康継に焼き直させました。尾張徳川家伝来品です。
★庖丁藤四郎
形が庖丁に似ていることからこう呼ばれます。「享保名物牒」の焼失の部に掲載されているも庖丁藤四郎は江州多賀城主の高忠の所蔵で、高忠は料理にも通じ、ある日政敵より鶴の料理を頼まれました。相手は高忠に恥をかかせるため、鶴の腹に鉄箸を入れておいたところ、察した高忠はこの短刀で鉄箸ごと鶴を断ちきって喝采を浴びたということです。秀吉、上杉景勝、秀忠、家康へと伝来し明暦の大火で焼失しました。図の庖丁藤四郎はこれとはまた別のものです。
★白山吉光(はくさんよしみつ)
石川県の白山比盗_社蔵。
厚藤四郎(七寸二分・国宝) |
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鯰尾藤四郎(一尺二寸七分) |
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庖丁藤四郎(七寸二分・重要美術品) |
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白山吉光(剣・七寸五分六厘・国宝) |
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綾小路一派
鎌倉中期から末期にかけて京四条大路の綾小路に住した一門で、かなりの数の刀匠が居たようですが、定利以外は定吉と銘のある太刀が現存するだけです。沸出来の小丁子を焼き、乱れが二個ずつ揃うという特徴があります。来国行とも親交があったと言われています。
■綾小路定利(あやのこうじ さだとし)約750年前
<作風>切先やや詰まった姿で、小板目よく詰まって地沸付き、沸出来の小丁子を焼きますが、丁子が2個ずつ揃って焼く箇所が所々あるのが特徴です。刃縁には打ちのけ、金筋などの働きも見られます。
明治天皇の愛刀で終戦後東京国立博物館所蔵の国宝の太刀があります。
定利の作風 定利の太刀(二尺六寸・国宝) 徳間書店「日本刀全集」第1巻より ■定吉(さだよし)
定利門人。
来一派
粟田口一派と取って代わるように鎌倉中期から南北朝期にかけて活躍した一派です、。「来(らい)」と名乗ることから、祖は高麗(韓国)からの帰化人であるようです。
<作風>姿は豪壮になり、猪首切先になってきます。ただ、中には優しい姿と二様ある刀工も居ます。地肌は粟田口に劣りますが、地沸がよく付き地景が現れています。局部的に皮鉄が薄いので綺麗な地肌の中に変わり鉄(芯鉄)が出ることが多く、これを「来肌」と呼び、一種の欠点としますが、これが来派の見所とも言えます。またこの来肌の裏側は皮鉄が厚いので地が綺麗なのも特徴です。刃文は小沸出来の直刃、高低差の少ない丁子(直丁子)などがあり、刃中はよく働いています。二字国俊は華やかな丁子を、国行、国光は直刃仕立ての丁子を焼いています。また来系は棟焼きが多いことでも知られています。鑢目は切り、もしくは浅い勝手さがりとなります。粟田口一派が吉光を最後に衰退していった反面、この一門は益々隆盛を極め別派などへも引き継がれていきました。
来肌 |
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■来 国行(らい くにゆき)約750年前
事実上の来一派の祖。重要美術品の「不動国行」、国宝「明石国行」など多数の名品が現存します。「不動国行」とは太刀表の樋の中に不動の浮き彫りがあることからこう呼ばれ、足利将軍家の宝刀で、のち織田信長に献上され本能寺の変後、明智光春が奪い光秀の居城に保管していましたが、豊臣方の攻撃を受け落城のさい、天下の名刀が焼けるには忍びず城中から釣り下げて豊臣方に渡し、名刀の今後を依頼したという美談のある名刀です。その後徳川家の重宝となりましたが明暦の大火で焼けてしまい、信国重包が再焼し代々将軍家に伝わっていきました。伝来を重んじ、再焼ながら重要美術品に指定されました。また、「明石国行」は播州明石城主松平家伝来の太刀です。
<作風>鎌倉中期の猪首切先の姿に地沸付き、沸本位の直刃仕立ての小丁子交じり、大丁子などを焼き、乱れの頭から蕨手(わらびのような形の砂流し風のもの)が出るのが特徴で、横手下から鋩子にかけて金筋や稲妻が現れています。鋩子の返りは浅いです。またこの一派は皮鉄が局部的に薄いので、来肌と言われる芯鉄が現れるのが特徴です(図の黒い部分)。樋のある場合は樋先は上がります。
国行の作風 |
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国行の太刀 |
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徳間書店「日本刀全集」第2巻より |
■二字国俊(にじ くにとし) 大業物
国行の子。「国俊」と二字に銘を切ったことからこう呼ばれ、「来 国俊」と切った刀工と区別しています。二字国俊の短刀は「愛染国俊」という加賀前田家伝来の、中心に愛染明王の毛彫りがあるものが唯一の短刀のようです。
<作風>姿は父よりも強さを増し、刃文も大模様になり、蕨手はなく芯鉄も多く出たものが多く、鋩子に金筋は入っていません。
二字国俊の小太刀(一尺九寸九分・重要美術品) | |
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徳川美術館蔵品抄6より | |
愛染国俊(九寸五分・重要文化財) | 愛染明王の毛彫 |
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徳間書店「日本刀全集」第1巻より |
■来 国俊(らい くにとし) 約700年前 大業物
孫太郎。二字国俊との関係について今だはっきりしないようですが、鑑定の上からは別人とされ、現存する作から年齢を推定すると、ゆうに百歳を越えてしまので、この来 国俊には二代あったとするのが有力だそうです。来 国俊の作刀は国宝、重要文化財など多数現存しています。下の図は国宝の太刀で、「来孫太郎国俊」、「(花押)正応五年壬辰八月十三日」と孫太郎、年紀、花押まで切った珍しい太刀で貴重な資料です。
<作風>来国俊は二字国俊に比べて優しい姿のものが多いです。刃文は小沸出来の直刃仕立てで、金筋や稲妻も小模様で寂しい感じの作風です。
ちなみに、同じ来でも国俊、国光、国次では「来」の字の二画目、三画目の鏨運びが違っています(下の図)。
来 国俊の作風 |
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来の銘の相違 |
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来国俊の太刀(二尺五寸五分・国宝) |
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徳川美術館蔵品抄6より |
■来 国光(らい くにみつ)
来 国俊の子。二代あったようです。来 国俊同様たくさんの作刀が現存し、国宝、重要美術品に指定されているものもあります。短刀では大阪御物(豊臣家蔵)で、のちに織田信長の弟で武将であり茶人である織田有楽斎が秀吉から拝領し、加賀前田家に伝来した国宝「有楽来国光」、備前岡山藩主池田輝政愛用の重要文化財「池田来国光」、徳川将軍家伝来の「新身来国光」などが有名です。ちなみに東京有楽町の有楽はこの有楽斎から来ています。
有楽来国光 |
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徳間書店「日本刀全集」第5巻より |
■来 国次(らい くにつぐ) 大業物
来 国俊門人。短刀の作品が多いです。古来「鎌倉来」と呼ばれ相州正宗に学んだとも言われます。来物中、相州風が最も強い異色の作風になっています。紀州徳川家伝来の短刀の国宝があります。
国次の短刀(一尺八分・国宝) |
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徳間書店「日本刀全集」第1巻より |
了戒一派
■了戒(りょうかい)約700年前 大業物
来国俊の子というのが通説ですが、国の字を継承せず異風な名前であるので、色んな説があります。後代になると了戒を姓に使い、「了戒○○」としています。鎌倉幕府が全国に切れ味の優秀な刀を書き出させた「注進物」の中に切れ味抜群の注記がしてあり、宮本武蔵の愛刀も了戒であったそうです。
<作風>一般的には優しい姿で流れた柾目が交じり、刃文沿って地に二重刃かかり、打ちのけかかる大和風の作ですが、直刃に小沸付く国光などに似た作もあります。
★秋田了戒
加賀藩主前田家伝来。刃長九寸で鵜の首造で薙刀樋に添樋があります。常陸国宍戸城主秋田城ノ介所蔵であったのでこう呼ばれます。重要文化財。
秋田了戒 徳間書店「日本刀全集」第3巻より ■久信(ひさのぶ)
初代了戒の子。九郎左衛門。
南北朝末期、戦災を逃れて豊後国へ移住、筑紫(つくし)了戒一派を樹立しています。豊後国参照。
■来 倫国(らい ともくに)
来 国俊の子。現存するのは短刀のみのようです。
■国真(くにざね)
来 国俊の子。摂津国中島へ移住し、「中島来」一派を樹立します。
信国一派
■信国(のぶくに)約650年前
初代。了戒久信の子などと言われます。相州貞宗門人とも言われ作風、彫りなどからは相州伝であると言えます(信国の彫りは相州彫りになっています)。同銘が室町まで数代続いています。刀身彫刻の名手。
<作風>信国には太刀は希で、身幅広い寸延び短刀、脇差が多いです。刃文は直刃と乱れ刃があり、乱れ刃は腰開きの乱れ刃で、乱れが二個続いて並び耳形になった「丁の刃」と呼ばれる刃や矢筈刃が交じるのが特徴です。国の字が南北朝期の信国と室町(応永)期の信国とでは、下の図のように変わると言われます(室町期の信国参照)。室町中期にその主力は豊前国へ移住し筑紫信国(豊前信国)一派を樹立しています。松平伊予守綱政が六代将軍家宣の長男の誕生を祝して献上した平造りの小脇差が代々将軍家に伝わり、重要文化財として現存します。
信国の脇差(無銘・重要文化財) | |
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至文堂「日本の美術」107より | |
信国の作風 | 信国の国の字 |
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三条吉則一派
■三条吉則(さんじょう よしのり)約650年前
現存する多くは応永以降のもので、初代のものと見られる太刀が岐阜県榊山神社にあり、重要文化財に指定されています。同銘が数代続いています。
平安城一派
■平安城長吉(へいあんじょう ながよし)
平安城とは平安京と同意で京都の別称です。祖は光長と言われ南北長期に京に住しました。その孫である長吉はこの時代に居たように古い刀剣書にはあるのですが現存する作が無く、年紀入りの作が現存する戦国期の伊勢国村正の師とも言われる長吉(室町時代)を初代として現在通説になっています。
長谷部一派
正宗十哲の一人に挙げられる国重を祖として、粟田口や来一派が衰退するのに代わって、信国一門と繁栄を競った流派です。正宗十哲については東海道相模国の正宗を参照してください。この一派については刃文はほとんど皆焼(ひたつら)です。また地肌は棟寄りと刃寄りが柾に流れるのが特徴です。
■国重(くにしげ)約650年前
初代。正宗十哲の一人。相模国の新藤五国光の子などと言われますが今だはっきりしません。しかし新藤五国光も「長谷部」姓を名乗っており、この国重は新藤五系の鍛冶であろうと思われます。長谷部という姓は大和国が発祥ですから、新藤五国光も大和と関係があると思われます(東海道相模国参照)。
信国同様、京の山城伝ではなく相州伝を鍛えた一門です。在銘の太刀は現存しません。国宝指定に「へし切長谷部」があります。大磨上(おおすりあげ=銘が無くなるほど寸法を短くすること)で本阿弥の金象嵌極め銘が入っています。信長の愛刀で無礼な茶坊主を成敗しようとした時、茶坊主が棚の下に隠れたので棚ごと上から押さえて切ったということから「へし切」と名が付きました。その後黒田長政の所有となり、立派な桃山拵が付けられています(大磨上、極め銘については日本刀の見所の銘を参照してください)。
へし切り長谷部(二尺一寸四部・国宝) 徳間書店「日本刀全集」第1巻より 国重の脇差 徳間書店「日本刀全集」第5巻より ■国信(くにのぶ)
初代国重弟。在銘の太刀が東京国立博物館などにあります。
国信の太刀(二尺六寸二分・重要美術品) |
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刀剣博物館「桃山時代の刀剣」図録より |
達磨一派
■重光(しげみつ)約650年前
大和国の出。山城国達磨に居住したからとも、初代が達磨みたいな顔をしていたので、周りの人が「タカシ達磨(タカシは他鍛治の意・よそから来た鍛治という意)」と呼んでいたのでこう呼ばれるとも言います。正宗、政宗と称し晩年入道して達磨と銘を切りました。作品希。相州五郎入道正宗とは全く関係ありません。後代は正光と銘し、美濃国蜂屋に移住。美濃蜂屋系を樹立しました。
■三条吉則(さんじょう よしのり)約550年前 良業物
よくある作刀は室町以降の吉則作です。中直刃に砂流しかかり、備前風の腰の開いた乱れ、美濃風の矢筈刃などを焼いています。
■国重(くにしげ) 約600年前
長谷部国重三代目。六郎左衛門尉。この頃の国重が兵庫県伊丹市へ赴き、伊丹家士の需要に応えています。
平安城一派
■長吉(ながよし) 約520年前
通常、この長吉を初代としています。伊勢国の「村正」の師と言われます。下の脇差の中心を見れば村正との関係も頷けます。
<作風>のたれ、互の目、箱がかった乱れ、矢筈刃など乱れ刃を主に焼き、乱れと乱れの谷が長くのたれ気味になり、多くは腰刃を焼きますが、希に直刃もあります。濃厚な彫刻も施されているものがあります。下の図は珍しい直刃の作で、表には草の倶利伽藍、裏に護摩箸と蓮華が彫ってあります(草の倶利伽藍など彫りについては「日本刀の見所」の彫りを参照してください)。
長吉の刀(二尺二寸九分) |
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徳間書店「日本刀全集」第3巻より |
長吉の鎧通し |
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徳川美術館蔵品抄6より |
長吉の脇差 |
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徳間書店「日本刀全集」第5巻より |
鞍馬一派
■吉次 約600年前
美濃国の直江志津系から分かれて山城国鞍馬山の山麓に移住。鞍馬関とも言われます。この時代の作は希です。■吉長 良業物
この時代の作は希。
応永信国
室町時代はじめの応永年間ころの信国一派をこう呼びます。南北朝期と室町期では国の字が変わるように、左衛門尉信国と式部丞信国とではまた下の図のように字体が違うと言われます。■源左衛門尉信国 (みなもとのさえもんのじょう) 業物
三代目信国。下の小太刀は図が小さくて見えませんが、表に玉を挟んで上り龍、下り龍が彫られています。
左衛門尉信国の小太刀(一尺九寸 徳川美術館蔵品抄6より ■源式部丞信国 約560年前 業物
左衛門尉信国の弟とも。。下の図は浅間神社所蔵の重要文化財で、一尺四寸五分、平造で表裏に幅広の樋を掻き、中心の中程で掻き流しており、表の樋の中に「浅間大菩薩」の文字と蓮花台、裏の樋の中には「天照皇太神」の文字と蓮花台を彫り、中心裏には年紀と「一期一腰(いちごひとこし)」と切られています。自分の生涯の内でこれほどの精魂込めた作はもうないだろうという意味で、信国自身の奉納刀です。式部丞と左衛門尉とでは銘の切り方が違い、左衛門尉は信国の国の字を左右反転したような切り方になっています。
式部丞信国の脇差(重要文化財) |
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徳間書店「日本刀全集」第1巻より |
信国の国の字比較 |
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鞍馬一派
■吉次(よしつぐ)約500年前■吉長(よしなが)約560年前
■平安城長吉(へいあんじょう ながよし)約530年前
村正の師とも言われます。■吉則 約520年前
三条。
※のち、長吉家と吉則家は縁組みをし、長吉の作に「吉則子長吉作」などと切ったものがあります。
古い伝統にこだわらない新しい工夫がたくさんの名匠によってなされ、いわゆる新刀特伝と呼ばれる技術革新の口火がこの地で切られました。
埋忠系
■埋忠明寿(うめただ みょうじゅ)約400年前
三条小鍛治宗近二十五代目と称しています。代々金工技術をもって足利将軍家に仕え、明寿は足利義昭に仕え、足利幕府滅亡後は織田信長、豊臣秀吉、秀次、徳川家康などに仕えました。肥前国忠吉、芸州輝広など多くの門人を育て、新刀の祖と仰がれ、新刀期以降の特徴でもある鍛え方が目立たないよく詰んだ地肌にする方法を発明したとされています。金工家として、彫刻、埋忠鐔の創始者としても知られています。刀は一口しかなく、刀に明寿の銘があるものが出てきてもそれは偽銘と思っても間違いありません。短刀は切刃造りがほとんどです。この場合、鎬筋が中心先まで通らず、途中で消えているのが特徴です(下の中心の図の左側。右側が普通)。徳川中期以降はほとんど作刀せず、埋忠鐔という作風で良品を残しました。重要文化財の刀、重要美術品の短刀、剣、槍があります。
一門に埋忠重義、埋忠吉信、肥前国忠吉、安芸国輝広などが居ます。★山城国西陣住人埋忠明寿
表が切刃造、裏が平造の短刀で、慶長拾三年八月吉日 所持 新蔵重代と裏銘があります。近親者に贈ったものと思われます。
★山城国西陣住人埋忠明寿(花押)
二尺一寸四分の刀で、太刀銘になっています。相馬藩主相馬家伝来。裏には年紀とともに「他江不可渡之」とあり他の誰にもこの刀を渡してはいけないという意味です。
明寿の短刀(重要文化財) 徳間書店「日本刀全集」第2巻より 明寿の刀(重要文化財) 講談社「日本刀の歴史と鑑賞」小笠原信夫氏著より 上の刀の彫り(表に龍の浮彫、裏に梵字と不動明王)
梅忠明寿切刃造りの鎬筋(左) ■東山義平(ひがしやま よしひら) 業物
本名埋忠美平。一説によると埋忠家を破門され、改名し鍛刀したとも言われます。晩年には大江慶隆と名乗りました。美平銘の時には目釘穴近くから鑢をかけているのが特徴です。
堀川系
■堀川国広(ほりかわ くにひろ)約400年前 大業物
信濃守。日向国飫肥(ひゅうがのくに おび)より流浪の末、京堀川に居を構え、摂津国の和泉守国貞、河内守国助、越前国の山城守国清など多くの名匠を育てました。江戸の虎徹(こてつ)と新刀鍛治東西の両横綱として最高の評価がなされています。
<作風>国広の作には古刀期に属す日州(日向国)古屋在住時の「日州打」、あるいは「天正打」と京都に居を移してからの晩年作である「堀川打」、あるいは「慶長打」に分けられます。日州打ちの作風は当時の末古刀一般的な田舎臭い作風で、小乱れに互の目交じりの匂い本位のものでした。堀川打ちになると相州伝の沸本位の作風に変わり多くの名作を残しています。堀川打の有名な物に加藤清正の指料であった相州正宗の写し(重要文化財)、長義写しの名物「山姥切り(やまんばぎり)」の刀(重要文化財)などがあります。
この一派の特徴は、板目肌が目立ってザングリとし、よく地沸が付いています。刃文はのたれに互の目を交えた物が多く、焼出しを刃区から中心へ深く焼き込むものが多く鑢目は大筋違いになっていますが、国安は逆筋違い、弘幸、在吉は切りになっています。。
国広の日州打 国広の慶長打 堀川系の焼出し 山姥切り国広 国広刀:講談社「日本刀の歴史と鑑賞」小笠原信夫氏著より ■堀川国安(ほりかわ くにやす)約380年前 大業物
国広の弟と言われています。相州正宗の写しを得意とし、偽物を作って破門されたとも。重要文化財、重要美術品の刀があります。銘は国安の二字銘のみです。■出羽大掾国路(でわだいじょう くにみち)約370年前 業物
他の多くの門人と違って美濃系の鍛治と思われます。三品系以外使わない「来」を冠したり、金道一門同様「道」を名前に付けているからです。長寿であったことから作刀数は多く一門中屈指の名手です。重要文化財、重要美術品の刀があります。
<作風>慶元新刀姿で、沸本位の焼き幅の広い大乱れ、大互の目を焼き、刃中よく働き稲妻が交じるものもあります。また弟子の代作も多く作品の出来不出来が激しいです。この国路だけは鋩子も「三品鋩子」になっています(下の三品系参照)。
出羽大掾藤原国路(重要文化財) ■越後守国儔(えちごのかみ くにとも)約380年前 良業物
国広の甥にあたります。師範代的立場で、国広の代作も行っていた名手です。重要美術品の刀があります。
<作風>沸本位の広直刃、大のたれなどを焼き、虎轍のような互の目に足入りも焼いています。■大隅掾正弘(おおすみのじょう まさひろ)約400年前
掾の字を様の下に一と書いたように切ったので「さまじょう」とも呼ばれます。国広代作者の筆頭と言われている名匠です。重要文化財の刀があります。■平安城弘幸(へいあんじょう ひろゆき) 約400年前 業物
丹後守を受領(ずりょう)し、晩年は広幸と改めました。(受領については日本刀の見所の銘をご覧下さい。)■阿波守在吉(あわのかみ ありよし)約400年前 業物
国広の最古の門人と言われています。
堀川住
■山城守歳長(やましろのかみ としなが)約340年前 良業物
元々阿波に住んだ古刀期の海部(かいふ)鍛治に属します。三代同銘で山城守が続いています。
三品系
この系統は美濃国志津三郎兼氏九代の孫と称する兼道が古刀末期に移住してきたことから始まります。
<作風>この一派は美濃系鍛冶ですので、鍛えは板目が流れて肌立つことが多く、越中守正俊には柾目の作もあります。後代は肌目が詰まって平凡なものが多いです。鋩子は「三品鋩子」と呼ばれる地蔵風の独特なものです。刃文は焼幅の広い沸本位の広直刃、のたれ、のたれに箱乱れや矢筈乱れが混じるもの、三本杉などがあります。この一門は関の尖り互の目などの地味な作風を相州伝を加味し華やかにしました。
三品鋩子 |
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■伊賀守金道(いがのかみ きんみち)約400年前 業物
兼道と区別するため「きんみち」と呼びますが、本来は「かねみち」です。武田信玄の抱え鍛治である美濃の兼道の子で、父らとともに京へ移住しました。三品(みしな)とは兼道の姓が三品であったことからこう呼ばれるようです。初代は名匠であるとともに政治手腕にも優れ、関ヶ原の役時に徳川家康に味方し、刀千口(ふり、振とも書きます)を納め、見返りに京鍛治の頭領であるという資格も得て、晩年には朝廷より「日本鍛治惣匠」という名称と菊花紋を中心に切ることを許されました。二代目以降刀匠が○○守などという受領名をもらうにはこの金道家を通さねばもらえませんでした。これにより金道家は多額の手数料を手にしていたそうです(日本刀の見所の銘参照)。この金道家は幕末まで十一代続きましたが、四代目以降はもっぱら上の手数料などで収入を得て作刀はあまりしなかったようです。ちなみに三代目から日本鍛治惣匠の惣を宗に変えています。重要美術品の刀があります。
銘は初代の初期は「金」ですが晩年には全のような文字になり、後代もこうなっています。また、「守」も初代は点が斜めに、二代以降は縦になっています。
初代金道の脇差 刀剣博物館「桃山時代の刀剣」図録より
金道の銘 ■来金道(らい きんみち)約380年前 業物
越後守。初代金道の弟。古刀期の名門来家を再興して「藤原来金道」などと切っています。二代目は和泉守を受領し、のち入道して法橋に叙され栄泉と号しています。五代目をして絶家しました。■丹波守吉道(たんばのかみ よしみち)約380年前 良業物
初代金道の弟で来金道の弟になります。以後七代続きました。初代は続に「帆掛丹波」と呼ばれる良工です。。丹波守の丹の字が帆掛け船が帆を張ったように切ることからこう呼ばれます。また初代は守と吉の字がほとんどくっついたように切っています。この一門は砂流しかかり荒沸の付く独特な刃文である簾刃(すだれば)を特徴としていますが後代になると技巧的になり、絵画的な刃文を焼いています。二代目は初代の長男です。朝廷より十六葉の菊花紋を切ることを許されました。三代目以降も菊花紋を切っています。この二代目の弟が大阪に分家して、大阪丹波として一門を築いています。重要美術品の刀があります。
帆掛丹波銘 簾刃 京丹波と大阪丹波の銘 ■越中守正俊(えっちゅうのかみ まさとし)約380年前 業物
初代金道の末弟です。四兄弟中最も傑出した名匠で、奥州仙台の名匠山城大掾国包(くにかね)の師匠としても有名です。作域は一門中一番広く、典型的な三品鋩子を焼くのも特徴です。二代目は初代の子で二代目以降菊花紋を切っています。四代続きました。重要美術品の刀、短刀があります。
越中守正俊の刀(二尺五寸五分八厘・重要美術品) 刀剣博物館「桃山時代の刀剣」図録より ■近江守久道(おうみのかみ ひさみち)約320年前 良業物
二代伊賀守金道門人。二代目来金道(栄泉)が近江国へ行ったときそこの旧家堀家の者が(久道)刀工志願であったので、連れて帰ったと言われます。三品姓を名乗れたのは栄泉が娘婿にしたからとも言われます。初代は菊紋、二代目は枝菊紋を切った物が多いです。三代続きました。二代目久道=業物
菊紋と枝菊紋 ※伊賀守金道、和泉守来金道、丹波守吉道、越中守正俊、近江守久道を「京五鍛治」と言います。■信濃守信吉(しなののかみ のぶよし)約350年前 業物
初代信濃守。伊賀守金道の一族。二代あります。初代弟の越前守信吉はのち下の弟阿波守信吉とともに大阪へ移住しました。
■南海太郎朝尊(なんかいたろう ともたか)約180年前
土佐生まれ。貴人と交わりながら刀剣の書物を書き、刀剣理論家でもありました。■千種有功(ちぐさ ありこと)約150年前
正三位権中納言。鍛刀に関してはおなぐさみ程度です。
■伊賀守金道 約230年前
六代目金道。七代目は播磨国手柄山氏繁家より養子に入り、以後十一代目まで続いています。五代目以降は「雷除(かみなりよけ)」の二字を中心に切り、本来の刀からはずれた物を作っています。■丹波守吉道 約250年前
六代目吉道。七代目は日向国へ移住、江戸で没。
摂津国(大阪)<せっつ> |
摂津、和泉、河内国は五畿内の一国として皇室や公家などの所領が多く、比較的平穏無事であったことから、古刀期は新刀期のような繁栄はありません。
中島来一派
■国長(くになが)約630年前
来国俊の弟子で、摂津国中島へ移住したので中島来(なかじまらい)と言われます。
裕福な大阪町人や上級武士を得意先として江戸に匹敵する繁盛をしています。江戸物が武用を求めたのに対し、実践的よりもむしろ華美と技巧に重点が置かれた作品が作られました。
■国幸(くにゆき) 約360年前 業物
堀川国弘門人。尼崎住。
国貞系
■和泉守国貞(いずみのかみ くにさだ) 約360年前 大業物
井上国貞。日向国生まれ。先輩の堀川国広門に入りました。国広死後は越後守国儔に学びました。大阪へ移住し、大阪新刀の創始者の一人になります。晩年には僧籍に入り、「道和」と号しました。晩年は病気がちのため、息子の真改(しんかい)が親の国貞銘で作刀したので、区別するため初代国貞を「親国貞」、真改の国貞銘を「真改国貞」と呼びます。重要美術品の刀があります。初代は沸出来の小互の目を得意としました。
初代国貞の小互の目
初代国貞の刀 徳間書店「日本刀全集」第2巻より ■井上真改(いのうえ しんかい)約330年前 業物
初銘国貞。のち真改と改めました。別名「大阪正宗」と言われている名工です。朝廷より十六葉の菊花紋を切ることを許されました。真改と名を改めた頃から藩主の命がなければ注文に応じない「お止め鍛治」になったので遺作は少ないようです。
<作風>作風は荒沸本位の広直刃にのたれが軽ものが多く、万治四年に菊花紋を切ることを許され、始め「和泉守国貞」、寛文元年より「井上和泉守国貞」、寛文十二年八月より「真改」と改銘しています。真改の菊紋は寛文五年七月迄は下の菊紋の左側のように、○の中が格子になっており、八月から十二年迄は○中にチョボ、真改と改銘してからは、また元の格子に戻ると言われています。重要文化財、重要美術品の刀があります。
真改の刃文 丸に格子 丸にチョボ 徳間書店「日本刀全集」第2巻より ■井上奇峰(いのうえ きほう)
真改の子。初め良忠。父真改死後、三代目国貞を名乗ったとも二代目真改を名乗ったとも言われます。のち祖父初代国貞の故郷日向国へ移住しました。■真了(しんりょう) 業物
土肥真了。真改門人。のち平戸へ帰り六代まで続いています。■北窓治国(ほくそう はるくに) 業物
真改門人。「八幡北窓治国」などと切り、大阪のどこかの八幡宮の北側に居住したようです。■国平(くにひら) 業物
真改門人。のち日向国へ帰国。国助系
■河内守国助(かわちのかみ くにすけ)約360年前 業物
伊勢国生まれ。国広門人。国広死後、国儔に学びました。大阪へ移住し初代和泉守国貞とともに大阪新刀の創始者の一人になった名工です。二代は初代の子で、別名「中河内」と言われ拳形丁子という独特の刃文の名手といわれます(業物)。四代目で絶家しました。重要美術品の刀があります。
拳形丁子 ■肥後守国康(ひごのかみ くにやす) 大業物
初代国助の三男。中河内に似た拳形丁子を得意としました。■伊勢守国輝(いせのかみ くにてる) 業物
初代国助養子と言われ、一生国助の代作に終わり、独立の作品は希なようです。のち門人が伊予国へ移住、伊予大掾国輝となり同銘が八代続いています。■石見守国助(いわみのかみ くにすけ)
初代河内守国助の弟。のち故郷の伊勢神戸へ移住しました。■池田鬼神丸国重(いけだきしんまる くにしげ) 約320年前 業物
備中水田派の出。二代河内守国助門人。摂州池田に住しました。津田助広一門
■ソボロ助広 約350年前 最上大業物
播州(姫路)出身。初代河内守国助門人。生涯津田という姓は使わず、藤原と名乗りました。「そ不路」と添銘のある刀があるので一般的に「ソボロ助広」と呼ばれます。ソボロについては諸説あり、倹約していつもボロボロの着物を着ていたからとか、古鉄の沸かし技法の一種だとかいわれますが、助広が住んだ大阪の土地名ソホロ小路が有力だそうです。作風は匂本位の一文字風丁子乱れを得意としています。
初代助広(ソボロ)の刃文 ■津田越前守助広(つだえちぜんのかみ すけひろ)約320年前 角津田大業物、丸津田 良業物
播州打出(芦屋市)出身。ソボロ助広の門人となり、のち養子になりました。二代目助広。濤欄刃(とうらんば)という焼刃の創始者として天下にその名を轟かせた名人です。井上真改とともに大阪新刀の双璧と言われています。三十八才までの作は銘を楷書で切り(角津田銘)、それ以後は近衛流の書風の草書(丸津田)で切ります。初期には初代と同じような匂出来の丁子刃を焼いています。この助広の作風は新々刀にも影響を及ぼしています。重要文化財、重要美術品の刀があります。
濤乱刃 角津田銘 角津田刃文(上)/丸津田刃文 丸津田銘
■近江守助直(おうみのかみ すけなお) 良業物
二代助広門人で、のち妹婿となり津田姓を名乗りました。■出羽守助信(でわのかみ すけのぶ)
初代助広門人。一説には初代の代作者とも言われる名工です。■常陸守宗重(ひたちのかみ むねしげ)
初代助広門人。美濃の兼重の後裔。播磨国の出。■助宗(すけむね) 業物
若狭守。初代助広門人。助高の兄。駿河国島田系。駿河国豊後守助宗の子。■初代助高(すけたか) 業物
二代助広門人。のち備後福山の藩工として後代におよびます。■大和守助政(やまとのかみ すけまさ)
助直門人。淡路島の鍛治の頭領役である山本家五代目。鈴木木久馬と名乗りました。
三品系
■丹波守吉道(たんばのかみ よしみち)約350年前 良業物
京の初代丹波守吉道の三男。大阪へ分家し大阪丹波守家をたてた名工です。大阪丹波は中心に菊花紋を切りません。■丹後守兼道(たんごのかみ かねみち)約330年前 良業物
京の初代丹波守吉道の子。祖父の名を継いで兼道と改名。この兼道のみ祖父の名を継いだ関係で伝統を重んじ大阪に居ながら中心に菊花紋を切っています。二代目が居ます。■但馬守兼光(たじまのかみ かねみつ)約300年前
二代兼道の養子。■高井越前守信吉(たかいえちぜんのかみ のぶよし)約320年前 大業物
京より移住してきた刀工です(山城国参照)。京初代信濃守信吉の弟。出来の良い直刃は井上真改に迫ると言われます。(鍛治備考では大業物から業物へランク下げされています)■大和守吉道(やまとのかみ よしみち)約330年前
初代大阪丹波守吉道の子。二代大阪丹波守吉道の弟。大阪二代河内守国助、多々良長幸とともに関西丁子乱れ刃の三名人と言われます。二代目大和守吉道=業物忠綱系
■近江守忠綱(おうみのかみ ただつな) 約340年前
粟田口の後裔であると言われます。子の二代忠綱に対して「親忠綱」と言います。■一竿子忠綱(いっかんし ただつな)約310年前 良業物
忠綱の子。二代目忠綱。号を一竿子といいます。彫刻の名手として有名です。津田助広、井上真改とともに大阪新刀三傑などとも言われています。重要文化財の刀があります。初期には父同様の匂出来足長丁子を焼き、一竿子と号してからは沸本位の大のたれ、濤乱刃風の焼刃を焼いています。
二代忠綱初期 一竿子忠綱
一竿子忠綱の彫り ■聾長綱(つんぼ ながつな) 業物
初代忠綱門人。聾であったことから、自ら聾と銘に切ったものがあります。■摂津守忠行(せっつのかみ ただゆき) 良業物
初代忠綱の弟。同銘が数代続いています。
大和手掻系
■文殊包保(もんじゅ かねやす)約400年前 良業物
大和手掻派の末裔。初代。左銘に切ります。■陸奥守包保(むつのかみ かねやす) 約360年前 良業物
通称「左陸奥」。陸奥守初代。左利きで銘を左文字に切ることからこう呼ばれます。板目が流れて柾が強く交じり、焼崩れがよく見られます。
左陸奥の銘 包保の作風 ■陸奥守包保二代
はじめ「陸奥守包重」と左銘で切り、改銘後「陸奥守包保」と普通に切ります。通称「右陸奥」。■伊賀守包道(いがのかみ かねみち)
初代包保門人。■陸奥守包次(むつのかみ かねつぐ)
左陸奥門人。大和国住。大阪や京都でも作刀したようです。■越後守包貞(えちごのかみ かねさだ)約340年前 良業物
本国大和。伊賀守包道門人。三代続きました。■坂倉言之進照包(さかくらげんのしん てるかね) 大業物
初代包貞門人。二代目を継ぎます。照包と改名後、包貞銘を初代の子に譲りました。津田助広同様濤乱刃を得意とし、助広に勝とも劣らない名工です。■信濃守弘包(しなののかみ ひろかね)約320年前 業物
大和系の鍛治。大阪へ移住。
紀州石堂系
■陸奥守為康(むつのかみ ためやす)約330年前
為康二代目。紀州の出。紀伊国の初代土佐将監(とさしょうげん)為康の子。一門を連れ大阪へ移住。石堂系は父の初代が紀州で起こした流派。丁子乱れを得意とします。この一派は大阪石堂と呼ばれます。■備中守康広(びっちゅうのかみ やすひろ) 業物
陸奥守為康の弟。菊花紋や、枝菊紋を切っています。■河内守康永(かわちのかみ やすなが) 業物
紀州出身。康広一族。多々良長幸の師。■多々良長幸(たたらながゆき)約320年前 最上大業物
河内守康永門人。大阪で本格的な一文字風の大丁子乱れを焼いた名工。
<作風>匂出来の丁子乱れを焼き、焼き出し小模様に、それより先大模様になり鎬にかかるものさえあり、物打ちでは再び小模様になります。乱れの頭が割れる所があり足が少ない点で一文字に劣りますが、映りも出しています。■花房祐国(はなふさ すけくに)約330年前 業物
備前守。紀州より移住。紀州石堂派。
■正光(まさみつ)約170年前
畠山。大和介。水心子正秀門人。大塩平八郎の脇差しを作っています。
月山系
■月山貞吉(がっさん さだよし)約140年前
先祖は代々奥州月山系の鍛治。■月山貞一(がっさん さだかず)約130年前
雲竜子と号しました。養子。明治三十九年帝室技芸員(人間国宝)になりました。明治以後、生計が得られず優秀な(?)偽物をたくさん作っておりました。長寿であったためその作刀数はおびただしい数になります。刀身彫刻に関しては新々刀三代名手(信秀、義胤)に上げられる腕前でした。各伝法を良くし、新々刀の最後を飾る名工で現代刀の復興者でもあります。
月山貞一の刀(二尺五寸八分)と彫り 雄山閣「日本刀講座」第5巻より ■高橋信秀(たかはし のぶひで)
出雲国長信門人。のち貞一門に入りました。
黒田鷹ェ系
■黒田鷹ェ(くろだ たかのぶ)約200年前
備後貝三原系。尾崎助隆の師。■尾崎助隆(おざき すけたか)
黒田鷹ェ門人。大阪新々刀屈指の名手。新刀の津田助広の濤乱刃写しを得意としました。■尾崎正隆(おざき まさたか)
助隆の孫。
■月山貞勝(がっさん さだかつ)
貞一の子。
■月山貞一二代目
貞勝の子。昭和四十六年人間国宝に指定されました。鍛刀場を奈良へ移しています。故人
大和国(奈良)<やまと> |
元明天皇が唐の長安を見習い和銅三年(710年)平城京を造営され、七十余年に渡り政治や文化の中心となり大寺院の建設も盛んに行われました。しかし京都に都が移されると衰退の一途をたどり、刀匠たちも注文主を失い衰退していきました。しかし平安末期になると実権者藤原氏の仏教振興策で、再び全国の仏教の本山として寺院の勢力も増強し、僧兵の出現となりました。僧兵の使用する大量の刀剣の制作にあたるため、再び千手院鍛治を筆頭とした大和鍛治が復活し、室町末期まで活躍しています。
大和鍛治の大きな特徴は、他の国では制作地はほとんど一カ所に集中している(備前の長船、相州の鎌倉、美濃の関など)のに対し、大和国全域にある大寺院の門下に付随しているということです。そしてほとんどがこれら寺院に関係する名を付けて千手院、当麻鍛治などと呼ばれ寺院と密接な関係をもっています。それ故これら寺院の盛衰と運命を共にし室町中期を過ぎると他国へと移住せざるを得なくなり、そのほとんどが分散し、消滅してしまいました。
■天国(あまくに) 約1300年前
平家重代の宝刀「小烏丸(こがらすまる)」という切先両刃造りの太刀があります(御物)。これが天国作と言われています。桓武天皇のもとへ一羽の鳥が飛んできて、伊勢の神宮からの使いですと言って飛び去った後にこの太刀があり、小烏丸と名付け、平将門追討の時に平貞盛に賜ったものがのち平家の重宝となったということです。大和物であることはほぼ間違いないですが、天国は奈良時代の人でまだ直刀の時代ですから姿形から時代のポイントに合わず、恐らく平安初期の直刀から鎬造りの日本刀への過渡期の作であろうとされています。それにしても千年の歴史を物語る大変貴重な作品です。
古千手院一派
大和国では一番古い伝統を持つ一派です。千手院(せんじゅいん)という寺院は、奈良の若草山の山麓の千手谷にあったものが、平安初期に東大寺の三月堂の北面に移されました。平安末期、行信が千手院に招かれお抱え鍛治となりました。鎌倉時代初期までの千手院鍛治を「古千手院」と呼びますが、在銘伝世品は希です。美濃国に赤坂千手院一派がおり、単に「千手院」と銘を切った作のほとんどはこの美濃国の室町期の作です。
<作風>千手院の作風は一定しませんが焼き幅の狭い沸本位の直刃仕立てに、小乱れが交じり食い違い、二重刃などが現れ鋩子は焼詰か火焔風です。大和物と見えるもので、手掻、保昌、当麻、尻懸ではなく、これらよりも古調に見える物を千手院とする傾向があるようです。
■行信(ゆきのぶ)約850年前
現存する有銘作はありません。
■重弘(しげひろ)
御番鍛治。現存する有銘作はありません。
古千手院一派
■重行(しげゆき)
千手院の在銘物で一番古いと鑑せられているのがこの重行で、銘は「大和国住人」以下は朽ちていて読めないようです。板目が柾がかり細直刃に小乱れ交じり砂流し、金筋、打ちのけなどの働きがあります。
重行の太刀 |
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至文堂「日本の美術」137より |
中千手院一派
鎌倉中期から南北朝にかけての千手院鍛治を「中千手院」と呼びます。力王、康重、定重、真宗、国吉、長吉などが居ます。
■国吉(くによし)約700年前 良業物
金王丸と称します。
■力王(りきおう)
栃木県鶏足寺に在銘の重要文化財の太刀があります。
中千手院一派
■康重(やすしげ)
尻懸一派
尻懸(しっかけ)という言葉は「しりかけ」がなまって「しっかけ」と言われるようです。奈良東大寺の裏側に当たる所で、東大寺祭礼の際、ここで神輿が順行の途中で腰を下ろして休んだことから出た言葉と言われます。
<作風>刃文は焼き幅の狭い中直刃ほつれ、小乱れ、小互の目の交じるもももあり、二重刃、打ちのけ、掃きかけかかって小模様の金筋、稲妻がかかります。鎬寄りが杢目で刃寄りが柾目になる「尻懸肌」となり、鋩子は掃きかけて焼詰風で返りは浅くなっています。鑢目は浅い勝手下がりです。
尻懸の作風 |
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■則弘(のりひろ)約730年前
祖則弘が尻懸へ移住、お抱え鍛治になりここを本拠地として鍛刀しています。ただこの刀工の作は現存していないようです。
■則長(のりなが) 大業物
則弘の子。事実上の尻懸派の祖。以後数代同銘が続いています。
則長の太刀 |
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至文堂「日本の美術」137より |
手掻一派
奈良東大寺の西の正門である輾磑門(てんがいもん)の門前に住して東大寺に従属し、輾磑がなまって「てがい」となり、包永を祖として鎌倉末期から室町中期まで続いた流派です。この一門はみな「包○」と名乗り、同銘が何代も続いています。
<作風>大和物の中で一番鎬高く鎬幅広い一派です。板目に流れ柾交じり地沸の強く付いた地肌に、中直刃に小乱れを交え、打ちのけ、砂流しかかっています。中には表裏異なる刃文を焼いたものもあります。鑢目は鷹の羽が多いです。
手掻の作風 |
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■包永(かねなが)約710年前 大業物
初代包永は大和国屈指の名匠で、水戸徳川家伝来の太刀がありましたが関東大震災で焼失し、他に国宝の岩崎弥之助氏が所蔵していた太刀があります。下の包永は物打ちあたりから深く二重刃になって、ほつれ、打ちのけ、金筋など働き豊富になっています。
包永の作風 |
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至文堂「日本の美術」137より |
■包清(かねきよ)約670年前
初代。初代包永門。
当麻一派
奈良県北葛城群当麻町の当麻寺所属の鍛治です。当麻は「たえま」と読みます。
<作風>大和鍛冶中穏やかな作風となっています。切先の横手の下から板目が柾目になるものがあり、これを「当麻肌」と呼びます。直刃は少なく、互の目調の刃文で鑢目は切りか、浅い勝手下がりです。
当麻の作風 |
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■国行(くにゆき)約710年前 良業物
兵衛尉。
国行の太刀(国宝) 徳間書店「日本刀全集」第5巻より ■友清(ともきよ)
国行の子。■有俊(ありとし)
長兵衛尉。
保昌一派
<作風>最も柾目が顕著な一派です。 保昌(ほうしょう)とは姓のようです。貞宗を事実上の祖とする一派で、純然たる柾目鍛えで知られる一派で、高市群曽我村を拠点としていたようです。太刀は少なく短刀が多いです。典型的な柾目鍛えで、鍛え目が密着せずに一部破れたような所もありますが、地沸が豊富で綺麗な肌です。鋩子の部分では。柾目が刃文に沿って棟に逃げるのが特徴です(図参照)。鑢目は檜垣で短刀の場合、中心尻は切りです。
保昌一派の作風 |
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■貞宗(さだむね)約700年前 良業物
■貞吉(さだよし)
貞宗の弟。短刀で国宝の「桑山保昌」があります。桑山伊賀守所持で、のち代々加賀藩前田家に伝来したものです。銘は「高市住金吾藤貞吉」、裏に「元亨二二年甲子十月十八日」とあります。銘の中にある金吾というのは左衛門尉の唐名で、水戸黄門の黄門が中納言の唐名であるのと同じです。また二二年のような特殊な銘の切り方については「日本刀の見所」の銘を参照してください。
貞吉の地肌 至文堂「日本の美術」137より 桑山保昌拡大 講談社「日本刀の歴史と鑑賞」小笠原信夫氏著より ■貞清(貞吉の弟)、その子貞興
竜門一派
■延吉(のぶよし)約750年前
竜門とは千手院一派の分派と言われますが定かではありません。常磐御前が今若、乙若、牛若丸の三人を連れ隠れていた里として有名な所で、桜の名所北野町の北門に当たり、竜門寺や吉野山口神社などがあった所です。現存するのは延吉のものだけです。国宝の後水尾天皇佩用の太刀があります。これには立派な金無垢総金具の付いた太刀拵が付いており、維新の井上馨候が所持、同家に伝来したものです。
■包氏(かねうじ) 約640年前
相州五郎入道正宗の門人となり、のち美濃国志津村に移住し包を兼に改めた志津三郎兼氏同人と言われますが確証はありません。手掻と相州伝をミックスしたような作でこの包氏の作を大和志津と言います。後代の包氏と見られる作が有り、初代が美濃へ移った後も大和国で後代が作刀したような形跡もあります。
中千手院一派
■義弘(よしひろ)約650年前
重要美術品の短刀があります。越中の「郷 義弘」とは別人です。
尻懸一派
■則長(のりなが) 約650年前
二代目則長です。
手掻一派
■三代包永、、二代包清などが居ます。約650年前
当麻一派
■次有(つぐあり) 約620年前
有法師と称し「アリホウシ」などと銘を切ります。■友長(ともなが)約640年前 業物
友清の子。
末手掻物
末手掻物とは応永時代以降の手掻一派の総称で戦国期に渡って同銘がおり、栄えています。末の包永、包清を初め、「包○」という銘の刀工がたくさん居ます。約600年〜410年前
■包永、包清、包貞、包真、包元、包吉など。
金房一派
金房(かなぼう)とは古刀末期の戦国時代ごろから新刀期に渡って繁盛した一派です。金房を姓のように使うことからこのように呼ばれます。手掻末流と自称していますが、大和の中では特異な作風で、どちらかと言えば備前伝、美濃伝風の作風で、切れ味の良さを誇っています。宝蔵院の御用を務めた関係で宝蔵院龍の十文字槍などの槍を多く制作しました。匂本位の広直刃、のたれが主で、鑢目は勝手下がりです。
■政次(まさつぐ)約440年前 業物
政次の十文字槍 |
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至文堂「日本の美術」137より |
古刀期とはうってかわって全く振るわず、名だたる名工はほとんど出ていません。いわゆる「奈良物」と呼ばれる数打物へと転落しています。
■包国(かねくに)約320年前 業物
越中守。大阪初代丹波守吉道門。
■筒井紀充(つついきじゅう) 業物
大和手掻末流。包国の子。
河内国(大阪)<かわち> |
■有成(ありなり)約1000年前
山城国三条宗近の子。
■友英(ともひで) 約140年前
舞鶴。江戸でも作刀しました。
和泉国(大阪)<いずみ> |
加賀四郎一派
■光正(みつまさ) 約640年前
加賀国藤嶋系の分派。のち、正清と改銘。この時代の作は希。一門は現在の堺に居住しました。
加賀四郎一派
■光正、正清、賀正、資次、資利、資正などが居ます。約400〜500年前
三条吉則系
■吉則(よしのり) 約520年前
山城国三条吉則の後代が移住してきています。