日本大学マンドリンクラブOB会
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NHKのラジオ番組ラジオ深夜便の『こころの時代』に宮田蝶子先生が出演しま
した。放送は2009年9月17日(木)午前4時から約40分間でした。
アンカーの水野アナウンサーと宮田蝶子さんの対話で、マンドリンに対する想い、
東京マンドリン宮田楽団の歴史、そして新会長としての抱負など様々な話が語ら
れました。
2009年10月25日
『こころの時代=マンドリンの魅力を伝えて90年』完全放送 その@

  
                    水野アナウンサー          宮田蝶子
川野アナウンサー=
9月17日木曜日 午前4時6分になりました。
今夜は、川野一宇がお伝えしております。
4時代は、ラジオ深夜便「こころの時代」です。
今日はマンドリンの魅力を伝えて90年、東京マンドリン宮田楽団会長の宮田蝶子さ
んにお話を伺います。

 大正6年(1917年)祖父宮田信義さんが作った東京YMCAマンドリンクラブ、現在
の東京マンドリン宮田楽団の会長に今年の7月、母に替わって、娘の宮田蝶子さん
が就任されました。
 祖父の宮田信義さんは、大正末期から昭和にかけて、古賀政男さん、服部正さん
とら共に、マンドリン隆盛期をささえてきた方です。
 昭和44年(1969年)宮田信義さんの死で、息子の宮田俊一郎さんが楽団を引き
ぎ継ましたが、俊一郎さんも昭和51年 49歳の若さで亡くなられました。
その後は、妻であり母である吉子さんが楽団を継がれていました。
 昭和22年に始まった定期演奏会も今年で128回目を迎えました。
 一つの楽器で90年以上の長い演奏の歴史を作ってきた楽団は、他にあまりあり
ません。
 マンドリンのおかげで今日の私があると言う東京マンドリン宮田楽団会長の宮田蝶
子さんにお話を伺います。
聞き手は水野節彦アンカーです。


水野=セミの声が聞こえておりますが、今日は鎌倉市腰越のきよこホールと言うとこ
にろお邪魔しています。かなり高台にありましてちょうど腰越のこんもりとした場所で、
川でしょうか、それが下の方に見えます。そして目を右の方にちょっと転じますと海の
向こうに江の島です。さらに右の方へずっとパンをして行きますと、本来ですと富士山
が見えるはずなのですが、さすがにこの時期ですからちょっと富士山は無理のようで
す。今日は宮田蝶子さんにお話を伺います。

水野=宮田さん、今、富士山の事を口にしたのですが、どうしても富士山と言うとこの
辺では鎮魂歌である『真白き富士の嶺』を思い浮かべます。
これはマンドリンではよく弾く曲なのですか。

宮田=特にいつも弾くということではないのですけれども、私にとってはゆかり深い曲の
一つですね。私の卒業しました学校の校長先生ではなかったかと思うのですが、三角
先生がこの曲に詞を付けておられると思います。記念行事の時にもこの曲をマンドリ
ンクラブで演奏いたしました。
注:三角錫子(みすみすずこ)東京都目黒区のトキワ松学園中学校・高等学校の設立者)

水野=今日も演奏していただいてよろしいですか。
宮田蝶子さんとマンドラテノールの冨田隆さんとギターの江上博司さんにも来て頂き
しまた。ではよろしくお願い致します。


『真白き富士の嶺』の演奏

水野=ああ、やっぱりジーンと来ますね

宮田=そうですね。歌詞は真白き富士の・・ですけれども、メロディーが私はとても好き
です。

水野=マンドリンと言うと華やかですから、ちょっと鎮魂歌には向いていないかなと言う
気もしたのですが、今うかがうとそんな事はないですね。

宮田=そうですね。とてもきれいなメロディーだと思います。

水野=今から99年前の1月に、この湘南の海で逗子開成中学の12人の生徒さんが
転覆して全員亡くなられました。もう今から99年前ですものね。

宮田=でも、音楽はずっとずっといつまでも響いているかなと思っています。

水野=なるほどね。ところで、マンドリンと言うのは、最近ではちょっとギターに押されて
いるような感じもしますが・・そんな事はないですか。

宮田=日本では、100年以上前にマンドリンと言う楽器が入って来ているのですけれ
ど、結構ファンは沢山いて、日本中・・北は北海道そして沖縄県・・北から南まで、それ
と、年齢の高い方、中学校、高校生など意外と年代層は幅があると思います。
ただ、マンドリンはとっつきにくいかもしれません。ギターは、指、爪など何も使わなくて
音を奏でる事が出来るのですけれど、マンドリンの場合にはピックというものを使って
弾くのですけれど、そのピックを使う事が大変難しいのです。トレモロを弾くのも難しい
のです。それがなかなか出来ないので、ギターの方になってしまうのかもしれませんね。

水野=ギターは直接、指ではじいたり、爪を使ったりして出来るわけですね。マンドリン
の方は、そのピックを持って弾くのですね。

宮田=ピックをいかに持って演奏するかというところで、全然音色が違ってくるのです。

水野=マンドリンの演奏する曲目は結構幅広いのですか。

宮田=マンドリンが古くはモーツァルトのオペラの中に入っていたり、ベートーヴェンが
譜面を書いてくれたり、ビバルディがマンドリンためにコンチェルトを書いてくれたりと
いうような曲もあります。

水野=ほう、結構昔からあるのですね。

宮田=日本に入ってきてからは、いろいろな形で・・、特に明大のマンドリン倶楽部の
古賀先生がいろいろな形でマンドリンをさらに広めました。

水野=古賀政男さんですね。

宮田=そうです。また、私の父も誰にでも弾けるようにということでいろいろなポピュラ
ーな曲をアレンジいたしまして、本当にマンドリンと言ったら日本の楽器じゃないのと
思われる位にいろいろな形で演奏されていると思います。

水野=マンドリンが日本に伝わったのは1894年の明治年間です。かなりの歴史が
あります。

宮田=祖父がマンドリンをこよなく愛し、マンドリンを弾きながら学校の先生をしている
祖父を見て、私の父もマンドリンを弾き出して・・一人でも多くの人に弾いてもらいた
い、聴いてもらいたいという事で父はいっぱい譜面を書いています。
うちの中にはその譜面がいっぱいあります。
 
2009年10月26日
『こころの時代=マンドリンの魅力を伝えて90年』完全放送 そのA

水野=宮田蝶子さん自身は何歳からマンドリンを始めたのですか。

宮田=私は中学校3年の終わり頃からですね。それまでは私の家庭の中では、父が
マンドリンを弾くし、母も弾くし、姉も弾くし、もちろん祖父も祖母も弾くしということで、
みんな演奏する人達で、私だけマンドリンを弾けない人だったのです。

水野=そうなんですか

宮田=でも、中3の時にやっぱり大人になってどうするのがいいかしらと考えた時に、
この家に生まれた以上はやっぱり一生続けられるものはマンドリンかなと思って突然
と言っていい位にマンドリンを弾き出しました。私の姉もマンドリンはすごく上手だった
んです。

水野=私達考えれば、マンドリン一家だから小さい時から見様見真似でその中に溶け
込んでいたのかなと思っていましたが、実はそうではなかったのですか。

宮田=姉が英才教育のように幼稚園からしっかりとマンドリンを祖父に習ってお稽古し
ているのをずっと見ていました。でも姉がそうやっているので、私はやらなくていいの
だと思って、私はクラシックバレーをずっと小学校時代やっていました。どっちかと言う
と体育会系ではないのですが、クラシックバレーをやったり、バスケットボールをやっ
りたという事で音楽は私はやらなくていいのだという思いが強かったのですね。でもや
りだしたらそれまでの情熱を全部マンドリンに向いたという感じになりました。
とってもマンドリンを愛しています。誰よりも・何よりも。

水野=どういう点が一番良かったのですか。

宮田=よく"はまる"と言う言葉がありますけれど、やればやるほど、練習すればする
だけ、必ず自分の方に向いてくれる感覚があって。やっぱり中学校3年位になると、ち
ょっと恋心みたいな事もあってもすてきだなと思ってもその気持ちはなかなか伝えられ
なかったりして、思いにならないじゃないですか。でも、マンドリンは私がいっぱい愛し
あてげると必ずそれに答えてくれる・・そんな感じがして・・・それがとっても夢中になり
ました。

水野=あそうですか。

宮田=マンドリンに恋しちゃったんですね。そう思います。マンドリンって不思議な魅力
があって、多分マンドリンを好きでいて下さる日本中のみなさんって、みんなはまっち
ゃっている人かなって思います。それ位不思議な魅力がある楽器だと思います。

水野=他の楽器にない魅力ですかね。

宮田=そう思います。ピックで弾いた音も楽しいし、トレモロでコロコロコロっていう音も
魅力的ですし、すごく楽しいテンポのある曲も演奏出来るし、ちょっとしっりした様な感
じで・・よく心に響いて来るって言っていただくのですが、多分マンドリンというのはコロ
コロコロっていうのは自然にみなさんのハートの中にじかに響いて行くのかと思ってい
ます。

水野=なるほどね。ところで先ほど、1894年にマンドリンが日本に伝わったとご紹介
したのですが、東京マンドリン宮田楽団が今年で出来てから92年、今年で128回目
の演奏会だそうですね。

宮田=祖父、父とコンサートは無料でみなさんご招待と言う事をずっと続けさせていた
だいています。それは何故かと言うと、演奏する者も、見えていただいたに方、もとに
かくお祭りのように楽しんでいただくという事です。以前父がプロとしてNHKの東京放
送管弦楽団にいましたので、自分以外はみんなアマチュアなのでお金を取ってはい
けないよという事で、あえてお金を取らないコンサートでずっと通してきています。団員
はみんな社会人ですね。学生も含まれます。

水野=じゃあ年齢的にもそうとう幅があるのですね。

宮田=はい、よく言っていただくのですが、宮田楽団の年齢幅は他の楽団にない位広
いと思います。10代から80代までのメンバーの幅のある楽団です。

水野=そうですか。パンフレットを見ますと、すごいですね舞台の上で演奏している人
の数は。

宮田=はい、そうですね。記念のコンサートで父の教え子さん達に出ても良いですよと
言った時には、百人を超えてしまい、舞台に乗り切れない状況になってしまいました。

水野=そうですか。

宮田=今は純粋な楽団員です。それと私が関係している大学の学生さん達がお手伝
いに来てくれています。今は大体90人位です。

水野=今年は128回目の定期演奏会ですが、昭和28年の秋から始まったという事
ですけれど、年に2回やっていた事もあるわけですね。

宮田=そうですね。今128回ですけれど、80数回までは年に2回やっていました。そ
れからホールを大きくしました時に、年2回は大変なので、年1回としました。それか
ら大体40年位経ちました。

水野=じゃあ、楽団員の方も年1回ですけれども、定期演奏会を目指してという方も大
勢いらっしゃるわけですね。

宮田=そうですね。1年がだんだん早く感じるのですが、今年の演奏会も今までこんな
に練習したことないよねとコンサートに向けて一生懸命練習していますね。

水野=お客様も本当にマンドリン好きな人が見えるのですか。

宮田=そうとは限らないという気がします。今年初めてアンケートをとらせていただい
たのですけれど、お客様の中にはマンドリンを弾いているとか、マンドリン大好きという
方でなくてもファンでいて下さる方がいらっしゃるのかと思いました。

水野=ああ、そうですか。じゃあやっぱり本当にマンドリンだけでなく、音楽そのものを
楽しんでいる方が多いのかもしれませんね。

宮田=そうですね。でも、そう言いながらもやっぱりマンドリンが好きという方だからこ
そ来て下さるのでしょうし、でも初めて友達から声を掛けられて来たのですと言う方も
結構いらっしゃいました。やっぱり、ファンは沢山いらっしゃるようなので1500人の会
場はいつも満員になって、すごい行列でお待ちいただいているのです。どうにかして
皆様にご迷惑掛けないようにしなくてはいけないかなと考えています。
 
2009年10月27日
『こころの時代=マンドリンの魅力を伝えて90年』完全放送 そのB

水野=演奏する曲目にはどういうものがあるのですか。

宮田=大体、例年マンドリンオリジナル曲をやって、クラシック曲をやって、研究所の
方達のために有名な楽曲を何曲か選んで、後半にはポピュラーなもので皆さんが親し
みやすいような耳慣れた曲を沢山選んでやっております。『天地人』とか『篤姫』など、
何故かここのところ毎年NHKのテーマ曲を演奏させていただいています。

水野=結構、歌謡曲も人気がありますよね。

宮田=はい、そうですね。私がスタジオで大変お世話になった佐伯亮先生が去年お亡
くなりになってしまったのですが、『悲しい酒』や『柔』などのアレンジをなさった先生で
すが、その先生の音楽をここのところずっとマンドリンでやらさせていただいていまし
たが、やはりどの歌謡曲にもマンドリンはほとんど入っていますね。

水野=今おっしゃったのは、美空ひばりさんの曲ですよね。

宮田=はい、美空ひばりさんの曲です。一昨年でしたかレコード大賞を受賞した氷川
きよしさんの楽曲も私が演奏させていただきました。

水野=なんという曲でしたっけ。

宮田=『一剣』ですね。あの曲もなかなかすてきな曲でしたね。あれも佐伯亮先生のア
レンジです。

水野=そういう有名な方達のマンドリンを手がけていらっしゃるのですが、宮田蝶子さ
んのおじいさんである宮田信義さんが東京マンドリン宮田楽団の前進である東京YM
CAマンドリンクラブというものを大正年間にお作りになったそうですが。

宮田=祖父はコーヒーが大好きでした。宮田東峰は私の叔父なのですが・・。

水野=ああ、あのハーモニカの。

宮田=はい、叔父が「コーヒーおじいちゃんはどうしてる」って言う位、祖父は毎朝目黒
通りの三春堂さんという所でまず起きるとコーヒーを飲むのが日課だったのですね。
それが一日に2回か3回位コーヒーを頂いていました。おいしいお菓子もあって、
私も3〜4歳位からそこにくっついて行って、コーヒーは飲まないですが、クリームソー
ダとケーキを食べていました。

水野=でも、自分がマンドリンを弾くようになったら、叔父様が偉大な方だったというの
が実感できましたか。

宮田=やはり、マンドリンに恋をしていた人だろうなという感じのマンドリン大好きな人
であったのだろうなと思っています。
水野=宮田信義さんが楽団を作った時には、まだ22〜23歳の頃だったという風に聞
いていますが。

宮田=そうですね。本当にその頃って、日本にマンドリンが入って来て、流行出す頃だ
ったのではないかと思うのです。あちらでもこちらでもそういう様な人が一寸づつ出て
きたところで、うちの祖父もマンドリンの楽団を作ろうという事で始めていたのではない
かと思います。

水野=明治年間に日本に入ったマンドリンが大正に入って花を開き始めたのですね。

宮田=そうですね。ですから幾つかのグループがあったと思います。

水野=あ、そうですか。

宮田=幾つかといっても沢山ではなく、1つ、2つ位だと思います。その当時のコンサー
トのプログラムが私の家にあります。

水野=ほお、それは貴重ですね。1917年に東京YMCAマンドリンクラブを立ち上げ
られて、それが名前を変えて、今年128回目の演奏会を開いた東京マンドリン宮田
楽団に繋がっているという事なのですね。それで今年の演奏会から、宮田蝶子さんが
会長に就任されたのですね。

宮田=はい。

水野=これで何代目になるのですか。

宮田=祖父がやっていた始めた頃は祖母が一緒にいつもやっていたと思います。そし
て、祖父から父になった時は私の母の宮田吉子がいつも支えていました。父が亡くな
った後は、母の宮田吉子が宮田楽団をやって行くのだという事で一所懸命頑張ってい
ましたね。その時に、母はあなたがマンドリンをやってくれるんだったら私も頑張るとい
う事でした。

水野=お爺様、お婆様、お父様、お母様と5人目という事になりますか。

宮田=そう数えるとそういう形になりますね。

水野=数えやすいのは三代目と言う事ですかね。

宮田=という事になりますね。でも母は本当に父、祖父、祖母達の事をいつも思って、
一生懸命支えてきて、また父亡き後は本当に自分が頑張って引っ張っていかなくて
はいけないという事でずっとずっと頑張って来てくれています。楽団員からはみんな
から『お母さん』と慕われていて、それでいて先生でいてと言う事で、役をいっぱい持っ
ていました。ついこの間まで、あなたに負けたくないと言っていました。

水野=今、お幾つですか。

宮田=80歳になります。

水野=ああそうですか、お元気ですね。もらっていますね。DNAを。

宮田=そうですね。私も負けていられませんね。

水野=なるほど、会長就任は回りの人もごくごく当たり前の事として、受け取ってくれ
たのですね。
 
2009年10月28日
『こころの時代=マンドリンの魅力を伝えて90年』完全放送 そのC

宮田=そうですね、私もこの10年位は、母が60になり、70になりと年を重ねる中で
私がもう一寸頑張らなくてはいけないなという思いもあって、今から10年前、うちの
演奏会ではゲストを全然お招きしなかったのですけれど、母が70歳のお誕生日に
なった時に、その時初めて歌のゲストをお招きしたのです。その時に父の大好きだっ
た『カタリ・カタリ』を歌っていただいきました。ゲストに歌っていただいて、私達が演奏
して、それを母にプレゼントしたいという思いで持木弘さんというテノールの方をゲス
トに迎えました。とても素敵に歌って下さいました。それから宮田楽団の演奏会もマン
ドリン演奏だけじゃなくてということで時々、ゲストをお招きしする事の切欠にもなりま
した。それが今から10年位前になりますね。
その頃から母も私の事を少しは頼りにしてくれるようになったのかなと思っています。

水野=そういえばマンドリンの伴奏で歌う事は、あんまりないですね。そんな事はない
ですか。

宮田=そうですね。マンドリンオーケストラだけでということではなくて、いろいろな楽曲
の中にマンドリンが入っている事はあります。マンドリンオーケストラだけで歌うと言う
事はなかなかないと思いますね。でも私はちょっとそれに魅力を感じていて、近い内
にそういうコンサートを11月にやろうかなと思っています。やっぱりイタリアの『カタリ・
カタリ』のような曲をマンドリンでやったら絶対にいいに決まっているじゃないですか。

水野=なるほどね。

宮田=実は11月に私どもの定期演奏会ではなくて、豊島区の音楽祭がありまして、
そこにまた坂本和彦先生を指揮にお招きします。
豊島区は、文化・芸術活動がたいへん盛んな区で、音楽祭の時に、オペラがありまし
て、小学生・中学生の人達がとってもすてきな歌を聴かせてくれたのです。
日本の緑や水がいっぱいあることを題材にした歌がありまして、私は出来ればその
歌を演奏できればいいなと今考えている所です。

水野=ああそうでか。音楽祭の日はいつですか。

宮田=11月8日に豊島公会堂と決まっていますが、曲目は今決めている最中でなん
です。オペラで聴いたその歌を是非歌ってほしいなと思っています。

水野=じゃあ、その歌手も胸の中にはあるのですか。

宮田=はい、そのオペラに出ていたお子さん達に歌ってもらいたいと。あまり小さくは
いなですが高学年か中学生位の方達です。

水野=それはいい記念になりますね。

宮田=そう思います。日本ってすごくすてきな国なのであって、ちょっと感動したオペラ
だったので、その歌とその場面を作りたいなと思います。

水野=着々と宮田蝶子さんは会長としての仕事をされているのですね。
 
2009年10月29日
『こころの時代=マンドリンの魅力を伝えて90年』完全放送 そのD

水野=蝶子さんの「蝶」は蝶々の蝶なのですね。

宮田=はい。

水野=蝶子さんというと相当年配の方かなと思っていましたが、またまだお若いですね。

宮田=いえ、いえ。多分、蝶子と言うと都蝶々さんかしら、飯田蝶子さんかしらと。よく
小さい頃そういう名前と似ているねと言われました。漢字を宮田蝶子と書く時に非常
に画数が多いのと、字が難しいのと、他の方と間違えられるので、私は最初蝶子とい
う名前に抵抗を感じていたのですね。でも、父が付けてくれた大事な名前ですし、この
日本中探しても誰もいらっしゃらないと思います。今、父の付けてくれた大事な大事な
名前は、大好きです。

水野=ああそうですか。その蝶子の名前を引っさげて、真新しいそのマンドリンの演奏
を今模索していらっしゃるのですね。
先ほども言いましたけれど、マンドリンは明治に入って来て、大正で花開いて、一番
盛んだったのは大正の終わりから昭和にかけてでしょうか。先ほどおっしゃった古賀
政男さんとかお祖父様の宮田信義さん、あるいは服部正さんもやっていらして、服部
正さんが慶応義塾、古賀政男さんが明治、お祖父様が日大の医科と、いろいろな所
で花開かせていましたけれど、やっぱりそれを継ぐというのが役目ですか。

宮田=そうですね。おかげさまで、東京マンドリン宮田楽団の演奏会は128回を積み
重ねて参りまして、皆様に喜んでいただいていますし、演奏する方もみんな楽しんで
やっていると思います。やはり祖父の大好きだったマンドリン、父の大好きだったマン
ドリン、そして母も、そしてこれからも益々みなさまにマンドリンを楽しんでもらいたい
し、聴いていただきたいという思いだったでしょう。私ももちろんそのように思っていま
す。
是非これからも活動を続けて行きたいと思っています。

水野=お祖父様は楽団を作って、マンドリンを広げてきて、発展させて来た。お父様
は、戦中から戦後にかけて弾くだけではなく、指導者を作ったり、演奏会の指導をされ
たりして来たわけですね。
 
2009年10月30日
『こころの時代=マンドリンの魅力を伝えて90年』完全放送 そのE

宮田=本当はリストを持って来ようとしたのですが、クラシックのベートーヴェンの曲で
すとか、シューベルトの『未完成』ですとか、チャイコフスキーの『胡桃割り人形』ですと
か、いろいろなクラシックをマンドリンオーケストラ用にアレンジしたり、マンドリンオリジ
ナル曲に編成を加えてアレンジしたり、みんなが知っている曲をマンドリン用にアレン
ジしたりしています。地方へ行くと「あなたのお父様の本を見て、私達は大正琴を学び
ました」という方にもお会いしました。

水野=大正琴ですか。

宮田=そうなのです。あまり大正琴譜面がないので、父が書いたマンドリン用の譜面を
用いて演奏活動したりしているのですね。ですからマンドリンのお弟子さんだけではな
くて、そういう所にも、父の譜面が行き渡っているようです。
父が早く亡くなってしまったのですが、夜中、父が譜面を書いている姿が私の思い出
の中にあります。夜中寝ないでいつも夢中で譜面を書いている人というような印象が
あります。
だから自分が書いた譜面を大学生のためにアレンジしたり、楽団の為にアレンジした
り、本当に取り付かれたように譜面を書いていたのを思い出します。だから作品がい
っぱいあります。それをこれから世の中に出さなくてはいけないかなと。その役目も私
にはあるような気がしています。

水野=なるほどね。クラシックの曲もマンドリンでも弾けるというようにアレンジをされた
わけですね。

宮田=最近では『新世界』をやったりしています。

水野=ドヴォルザークのですか

宮田=はい、お客様にこんなにマンドリンって表現できるのって驚いていただいたよう
です。今年は、『詩人と農夫』もやらせていただきました。こういう曲も父が残していてく
れて、マンドリンで合奏させてもらっています。
父にせっかく書いてもらった楽譜がいっぱいあるので、そういうものを世の中に出し、
みなさんにも弾いていただけるよう、父の作品を知ってもらうよう、私も努力しなくては
ならないと思っています。
もちろん父の作曲したものやアレンジしたものがいっぱいあります。

水野=そういえば、先ほどお父様の事を、東京放送管弦楽団に入って演奏されていて、
例えば紅白歌合戦でもマンドリンやギターを演奏されていたという事なのですね。お
父様は演奏面でも活躍されたのですね。

宮田=NHKでは、紅白に1回目から出させていただいて、いつも大晦日は父不在の
家でした。まあ、テレビを見れば父が出ているので毎年紅白を見ていました。『今週
の明星』ですとか『NHKのど自慢』等いろいろやらせていただいていました。ですか
ら、NHKの仕事をしながら譜面を書いていました。また、お弟子さんもいっぱいいらっ
しゃいましたので、本当に寝ていなかった人だなあと思います。
 
2009年10月31日
『こころの時代=マンドリンの魅力を伝えて90年』完全放送 そのF

水野=そうですか。
お爺様の信義さんが昭和44年にお亡くなりになられました。73歳でした。お父様の
俊一郎さんは昭和51年、49歳でお亡くなりになりました。

宮田=そうですね。50歳になる時ですね。

水野=ああ〜

宮田=突然にいなくなってしまいました・・・。びっくりと言う言葉を超える位、びっくりし
ました。風邪が治らないと言う事でしたが、寝込んでしまうと言う事もなく、普通にして
いて、病院を移る時に、病院へ行く車中で苦しくなって、そのまま息を引きとってしま
いました。
本当に、マンドリンを愛してくれる人達のために、「この譜面を書いたらこんな風に演
奏してくれるのかな」という思いで、NHK仕事が終わって帰って来てからでも、寝ない
で譜面を毎日書き続けていました。頭の中は、音楽がいっぱいでいたのかなと思って
います。いつもそういう生活をしていた気がします。
でも間の時間には、いろいろな大学の学生が私の家にみなさん来て、父を待っている
ような事もあって、父は休む暇がなかったと思いますね。
学生達が先生を待って、「じゃあ、お酒飲んで待っていようか」という感じで、いつも宴
会場だったですね。いつも大学生が来ていましたね。
近日、9月26日に、父が顧問として編曲をしてあげていた日本大学マンドリンクラブの
50周年記念のコンサートがあります。私もその日はゲストで演奏させていただきます。
父の作品で『武蔵野の秋』を。

水野=『武蔵野の秋』ですか。

宮田=けっこう、高校生の全国大会やその他にも演奏されている曲です。
マンドリンオリジナルは最近では若い方のいろいろな作品が生まれてきています。多
少前衛的な感覚の作品もありますね。オーソドックスな今までの流れや形とは少し違
う感じでおもしろい曲もありますね。

水野=マンドリンの世界にも前衛的な曲が出て来ているのですか。

宮田=はい、ありますね。

水野=郷愁、それから新しいもの・・それに向かってのチャレンジが続きますね。

宮田=はい。
 
2009年11月1日
『こころの時代=マンドリンの魅力を伝えて90年』完全放送 そのG

水野=それでは、お父様の俊一郎さんが編曲されたビゼーの『真珠採り』を演奏してい
ただいてお別れにしたいのですが、よろしくお願い致します。
演奏は、宮田蝶子さんとマンドラテノールの冨田隆さんとギターの江上博司さんにも再
び加わっていただきます。じゃあ、お願い致します。


『真珠採りのうた』の演奏

宮田=この曲を父はタンゴのようにアレンジしてあるのですが、私も大好きな曲でよく
演奏する曲ですね。
音楽を愛する人、マンドリンを愛する人はみんな素敵な人だと思います。

水野=自分を含めてですか。

宮田=いやいや。それは周りにいらっしゃるマンドリンを好きな方やマンドリンを弾きた
いと言って下さる方って本当に素敵な人ばかりなのですよ。
私も長年マンドリンをやっていますけれど、あ 私もっと素敵にならなくてはいけない
といつも思わせてくれるのが、私の周りの人達かなと思いますね。
だから、父が早く亡くなってしまいましたけれども、マンドリンがある事によって、色々な
方に巡り合って、色々な方にいろいろな事を感じさせてもらったり、教えてもらったりし
ています。そうすると、いつもきれいな気持ちでいなくてはいけない、素敵な気持ちでい
なくてはいけない、本当に真っ青な澄んだ青空のようなハートでなくてはいけないかな
と思います。そうする事によって、マンドリンの音もにごりなく、きれいな澄んだ音が出
なくてはいけないと思っています。
それを言うからには、いつも自分の気持ちもすっきりしたものでなくてはいけないと思っ
て、私の周りの人達と接しているつもりなのですね。
だから、いつもそのように言っています。いつも楽しく演奏し、楽しく合奏し、それと楽に
演奏しましょうねと言っています。
演奏するには、きっちとした形があるので、それを先ず守る事によって、そこからきれ
いなものが出されると言って私は演奏しています
でも、私が今日あるのは、そういった素敵な人達のおかげかなといつもそう思って感謝
しています。

水野=どうも今日はありがとうございました。
 
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【水野節彦】 みずの さだひこ
1964年NHK入局。オリンピック、ワールドカップサッカー、プロ野球などスポーツ実況
を中心に活躍。2001年から、月1回『ラジオ深夜便』で、障害者・福祉などをテーマに
したアンカーコーナー《輝いて生きる》を自分で企画担当。
NPO法人『耳から聞く図書館』理事長。2009年11月3日に藤沢市で『ラジオ深夜便』
をテーマに講演会を行う。
 

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