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比留間賢八の墓誌


【比留間賢八先生の墓誌】

比留間賢八先生の墓誌全文です。
昔の漢字が混ざり、とても読み取りにくかったのですが、向井先生と二人掛かり
で読み写しました。
これはとても貴重な資料です。


                            墓誌全景


                         墓誌の一部

《注記》
  1:《 》内の青文字は墓誌にはありません。
  2:一部現在使用されていない漢字は現代漢字に直してあります。
  3:文章は下記のように年代で改行されていません。連続で彫られています。

慶應三年三月十五日 東京市麹町比留間安五郎ノ四男ニ生ル
明治十六年 外国語学校ヨリ音楽取調掛(現東京音楽学校)ニ入学
仝二年 全科卒業後直ニ 授業補助 並ビニ一ツ橋高等商業学校唱歌 擔富ヲ命ゼ
   ラル
仝年 幸田故納所山田ノ諸氏ト本邦最初ノ四重奏ヲナス
仝十二月 音楽及ビ織物研究ニ渡米紐育市《ニューヨーク市》ヴァンタイン商会ニ勤
   務仝市音楽学校教授ショルツ氏二セロヲ コンラード氏ニチッターヲ学ブ
廿二年《22年》七月渡欧 仏蘭西《フランス》独逸《ドイツ》ニ在留 独逸国立染色学校
   ニ織物図案ヲ修行
廿四年一月 我ガ国に初メテ ハーモニカ ト チッターヲ携エ帰朝 織物直輸入業ノ
   傍ラ右楽器ノ教授ニ務ム
廿九年東京音楽学校同窓 並ビニ 宮内省楽部有志者ト共ニ管絃楽団 明治音楽
   会ヲ組織ス
仝年 東京音楽学校セロ講師ヲ嘱託セラル
丗年頃 靜浦御用邸《現沼津市》ニテ當時東官ニ在セシ 大正天皇御前ニ ハーモニ
   カ獨奏ノ光栄ニ浴ス
丗二年十月 農商務省海外實業練習生トシテ再ビ渡独 此際 ステッチエンニテ八
   雲軍艦ノ通訳ヲ命ゼラル
其後伯林《ベルリン》ニ在留 伊太利《イタリア》ヘ アッティレ・コルナデイ氏ニ マンドリ
   ン及ビ ギターヲ学ブ 次イデ 伊太利ニ赴キ音楽状況ヲ見学
仝丗四年三月 初メテ我国ニ マンドリン 及ビ ギターヲ携エ帰朝 教授所好楽会
   ヲ開キ普及ニ勤ム
丗五年 陸軍被服廠ニ通訳ヲ命ゼラレ
丗六年 伊太利ヨリ持参ノ楽器ヲ見本ニ共益商社楽器店ヨリ鈴木政吉氏ニ命ジ初メ
   テ和製マンドリンヲ製作セシム
丗八年 学習院禰仁会ニ
尚翌丗九年 東京美術学校生徒有志者ニ マンドリン合奏団ヲ組織 又
仝年十一月 慶應義塾ワグネルソサイティ演奏会ニ本邦初ノマンドリン合奏ヲナス
四十年八月 マンドリン通信教授ヲ開始
翌四一年 マンドリン独習書ヲ著ス
大正十一年五月 平和博ノ楽器審査ヲ嘱託セラル
大正十三年 東京市赤坂ヨリ松澤村《現世田谷区松沢》ニ移住 庭園作り 長唄ノ研究
   ニ過ス
昭和十一年四月十五日 七十歳ニテ没ス

                                  為賢八之建 比留間絹子
 


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