2007年03月20日
【比留間賢八先生の墓碑】
東京都 12期 竹内
東京マンドリ宮田楽団の常任指揮者の向井先生と2月に多磨霊園へ行って来ま
した。それは、マンドリン界の創生期にご活躍された比留間賢八先生のお墓を訪
ね、マンドリンの歴史に少しだけでも触れてみたかったためです。
霊園のある西武多摩川線多磨駅
向井先生
多磨霊園は1923年に開園し、武蔵野の面影を残す大霊園です。面積は128ヘク
タールと都立霊園の中で最大の規模を誇ります。
その霊園には、北原白秋、江戸川乱歩、与謝野晶子、岡本太郎、中村歌右衛門、
三島由紀夫、東郷平八郎、山本五十六・・・たくさんの文化人、英霊、著名人が眠っ
ています。
この中に、比留間賢八先生のお墓もあります。
北原白秋のお墓です。
2月のまだ寒い中、広大な霊園を行ったり来たりと長い時間探してしまいましたが、
ようやくお墓にたどり着きました。
(以下ウィキペディアより)
比留間賢八:(慶応3年3月15日(1867年4月19日)〜昭和11年(1936年)4月15日)
は、日本のマンドリン・ギター奏者、音楽教育家。
東京生まれ。1883年、音楽取調掛伝習生となりチェロを専攻する。1887年、音楽取
調掛を卒業後、アメリカのニューヨークに留学。1889年にはヨーロッ
パに渡り、1891年に帰国。
このときにはじめて日本にハーモニカとツィターを持ち帰っている。1898年に再び
渡欧し、ドイツとイタリアでマンドリン・クラシックギターと出会う。1901年にマンドリン
とギターを持ち帰って帰国し、マンドリン・ギター教室を開いている。以後その普及に
尽力し、日本のマンドリン音楽・クラシックギター音楽の源流となった。
その門下には音楽家の齋藤秀雄、華族の徳川義親・武井守成・土方与志、作家の
里見ク、詩人の萩原朔太郎、画家の藤田嗣治、陶芸家の富本憲吉がいる。
また娘の比留間絹子もマンドリン奏者として活躍した。(以上ウィキペディアより)
尚、1902年(明治35)鈴木政吉は比留間賢八が欧州より持ち帰ったマンドリンを見
本として1903年(明治36)日本で最初のマンドリンを製作しました。これが、現在のス
ズキマンドリンとなるのです。
宮田俊一郎先生の履歴には、宮田信義先生と比留間絹子先生にマンドリンを師事
したと記載があります。
比留間家のお墓
比留間家の墓の横には、娘の比留間絹子先生が建てた墓誌がありました。
この墓誌には、比留間賢八先生の略歴が彫られています。その全文を書き写しま
したのでご紹介します。
お墓と墓碑
向井先生が指差している部分には、マンドリンとギターが彫刻されていました。
比留間賢八先生のお墓にふさわしいもので、感動しました。
比留間先生没後 約70年。日本マンドリン界の歴史に接し、今 こうした先駆者の
方々の努力があったからこそ、我々はマンドリンを楽しく弾いていられるのでしょう。
遠くから来た甲斐がありました。
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