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OB・OGなんでも投稿(その2)

       マンドリン関連でなくても何でも結構です。生活の事、社会に言いたい事、お仕事の事、
       世の中に言いたい事・・何でもご自分で感じた事を気楽に投稿して下さい。
2007年01月26日
【ギリシャ旅行記】 その3
                              東京都 8期 三坂

 昨年の2006年5月13日〜17日に、私たち夫婦は定年退職記念旅行をしまし
た。ギリシャ本土でアテネ、メテオラ、デルフィを見学したあと、エーゲ海にあるクレ
タ島、サントリーニ島を巡りました。

 サントリーニ島からアテネにもどり二人で市内を散策していたところ、お土産屋兼
楽器屋のお店を発見しました。
そこに陳列されていた楽器はマンドリンに良く似ていて違うもの。ギリシャでは人気
のある楽器、ブズキ(Buzuki)でした。複弦で4組タイプと3組タイプのものがありま
す。ネックはマンドリンより長く、フレットがありました。
 記念にブズキのCDを買い、自宅でゆっくり聴きましたが、どの曲を聴いても皆同
じように聞こえました。大中小3台のブズキと太鼓の合奏でしたが、和音の進行が
感じられない、はっきり言って面白くない音楽でした。しかしギリシャではバスに乗っ
ても、町を歩いていても、お店の中でも良く聴き、ギリシャでは人気のある音楽らし
い。
直感で感じたことは日本の三味線の世界だということです。


 後日、HPの管理人さんの紹介で「マンドリン物語」(著者 有賀敏文氏)を読んだ
のですが、その中にギリシャのブズーキとして紹介されていました。
それによるとブズーキはギリシャ古来のものではなく、またイオニア海をはさんだ西
側のイタリアのマンドリンの流れをくむものでもなく、エーゲ海をはさんだ隣国トルコ
の民族楽器サーズが20世紀になって改良されて入ってきたものだった。さらにサー
ズの前身はモンゴルから11世紀頃トルコに伝わってきたとのことでした。
 また三味線の日本へのルートはモンゴル帝国の元朝に西アジアから入ってきたア
ラブの楽器が中国人の手によって改良され、三弦として沖縄を経て室町末期に日本
へ渡来したのが通説だそうです。つまり三味線とブズキは遠い親戚ということになり
ます。
 私の買ったCDはたまたまサーズの流れをくむ古典正統派のCDだったようで、コー
ド進行のある現代音楽のブズキ曲も沢山あるらしいが、ギリシャ文字の読めない私
には判りませんでした。
 そのお店にはマンドリンが1台飾られていました。有賀氏によると、ギリシャではマ
ンドリンは人気がないとのこと。しかし10前後のマンドリンオーケストラがあるとも記
しています。

 
2007年01月24日
【ギリシャ旅行記】 その2
                              東京都 8期 三坂

 昨年の2006年5月13日〜17日に、私たち夫婦は定年退職記念旅行をしまし
た。ギリシャ本土でアテネ、メテオラ、デルフィを見学したあと、エーゲ海にあるクレ
タ島、サントリーニ島を巡りました。

 写真はフィラの朝です。
イアから車で30分ほどのフィラはそこから眺める夕日がきれいなことで有名な街
です。街は一番大きくにぎやかです。崖にへばりつくように街があります。
サントリーニ島は幻の大陸「アトランティス」の伝説が残るロマンティックな島で、太
古の火山活動のため、島の周囲は断崖絶壁となっていて、エーゲ海の中でも独自
の景観を誇っています。



 
2007年01月22日
【ギリシャ旅行記】 その1
                              東京都 8期 三坂

 昨年のOB会総会の日(2006年5月13日)に、私たち夫婦は定年退職記念旅行
をしました。
場所はギリシャ。日程は5月9日から17日までです。(実質7日間)
 ギリシャ本土でアテネ、メテオラ、デルフィを見学したあと、エーゲ海にあるクレタ島、サントリ ーニ島を巡りました。

 写真はサントリーニ島で撮ったものです。
 この島は火山島で、その山体が一部陥没したカルデラに海水が入り込み、中央火
口丘と外輪山からなります。人が住む町は外輪山にあります。
港から町までは数100mの急な絶壁を登らなくてはなりません。登る方法はロバの
背に揺られるか、ケーブルカーに乗るか、バスに乗るかです。この島の天気はいつ
も晴れで、この日も晴れていました。
 イアの町からの夕日が素晴らしいということで、添乗員さんに勧められて、路線バ
スでその町まで行き、撮影ポイントで日没時刻の1時間前から場所取りをして撮っ
た忍耐の記録です。


 下の写真はイアの昼下がりです。
 イアの町は建物、塀、道路などすべてが白一色、窓枠は青と全体が統一されロマ
ンチックな雰囲気を漂わせています。
これを見るとわかるように、日中地元の人は歩いていません。歩いているのは観光
客だけです。



 
2007年01月16日
【2006年12月26日 朝日新聞 夕刊より】
                                   ホームページ管理者

【マンドリンの復権・普及を/
  「ナポリ・マンドリン・オーケストラ」が日本デビュー】

 イタリア・ナポリを発祥とするマンドリンの普及を目指す「ナポリ・マンドリン・オー
ケストラ」を、日本に紹介するアルバム「カフェ・ナポレターナ」(リスペクト)が11月
に発売された。来日したリーダーのマウロ・スクイッランテ=写真=に現地のマン
ドリンをめぐる状況などを聞いた。
                  
 かってはイタリアの国民的楽器だったマンドリン。しかし、「ファシズムのプロパガ
ンダに使われた反動などから、戦後は衰退の道をたどった」。奏者の教育機関「ナ
ポリ・マンドリン・アカデミー」も閉鎖状態となった。
 これを仲間と1992年に復活させ、校長に就任。マンドリンの復権、普及を目指し、
教え子らとオーケストラを結成した。
 「クラシックの楽器の印象が強いが、庶民に親しんでもらうために地元の伝統音
楽ナポレターナとの融合を考えた」
 ナポレターナは「オー・ソレ・ミオ」「フニクリ・フニクラ」など、日本でもおなじみの曲
がある。そうした曲をギター、フルート、クラリネットなどとマンドリン9人の計16人編
成で演奏。この楽器特有の軽やかさ、温かみに分厚いアンサンブルの迫力が加わり、伝統に 新たな息吹を吹き込んだと評価された。

 楽団結成から10年余り。41歳のスクイッランテは、「今、若い世代が過去に興味
を持つようになり、マンドリンもまた注目されている」という。
 「多くの人にこの楽器の魅力を伝えたい。実験的な取り組みもして、可能性を探り
たい」
                   
                    CD「カフェ・ナポレターナ」
   1. ア・モールテエ・スッベート 2. フニクリ・フニクラ 3. 5月だった 4. こおろぎの鳴く頃 5. ダンス 
   6. オ・ソレ・ミオ 7. タランテッラ・ク・プリチェネッラ 8. ナポリへの手紙 9. タランテッラ 10. マルジェ
   リーナの海 11. 帰れソレントへ 12. マレキアーレ 13. ひわ 14. ア・モールテエ・スッベート
2007年01月04日
【最後の演奏会】
                             栃木県 6期 成瀬

 新年おめでとうございます。6期 成瀬です。

 HPの管理人が何と40年以上前の第6回定期演奏会をCD化してくれました。
このCDが同期 三浦君を通じて送られ、何か書けというので聊か内輪の話で申
し訳ありませんがこれを書きました。

第6回定演の1部と2部は録音テープが紛失してしまいましたが、幸いな事に3部
と4部が残っており、これがCD化されたものです。
                  
                         【2枚組のCD】

 私は41年振りに自分の演奏を聴くことが出来ました。そして、「荒城の月を主題
とする2つのマンドリンのための変奏曲」を聴いて、僕は当時の自分の姿が目に
浮かんで胸が熱くなるのを禁じえませんでした。

 それには下記のような事情があったのです。
昭和40年(1965年)4年生、僕はコンマスとなり、就職も研究室トップを切って5月
に決まり、しかも東京マンドリン宮田楽団の定演ではソロを弾かさせていただく(今
思うと汗顔のいたり )という得意の絶頂期にありました。
ところが、好事魔多し、その夏の合宿、長期の演奏旅行の最後で疲れからでしょう、
扁桃腺炎から胃炎症状となり、山手線に乗っても気持が悪くなり、一駅で降りる始
末。研究室の卒論実験もままならず、定演前の合宿に這うように出、このような状
態で最後の定演を迎えてしまいました。
当日1部のクラシック、2部のオリジナルをなんとかこなし、ややほっとした途端、
次の休憩時間に嘔吐、控え室に横たわってしまいました。
幸い3部はギター合奏ですが、まだ4部ポピュラーが一時間ほどあり、しかもその
真ん中に大事な「荒城の月」があるのです。
それまで気力と体力が持つか、窮余の一策で4部の最初に「荒城の月」を持ってき
てもらい、僕はその後引っ込むという、前代未聞?の変更となってしまいました。

 このような状態で演奏した曲、CDの最初のトレモロを聴いた途端、お!、昔はう
まかったなとは思いましたが、良いわけがありません。音がやはり弱々しいのは致
命的です。それと宮田先生の言われる通り、ちゃんとダウン・アップでもっと速く弾く
べきでした。

 この曲はレコードで聴いて大変気に入り、慶大マンクラに楽譜を借りに行って、随
分練習したものですが、後輩諸君はもっとうまく弾いた事と思います。

 以上御礼方々、また周りの皆さんに多大なご迷惑をかけた事を40年ぶりに改め
てお詫びする意味で長々と書かさせていただきました。

        
    「荒城の月を主題とする2つのマンドリンのための変奏曲」を中央で演奏中
     の左から 1st Solo:成瀬(6) と 2nd Solo:高橋(6)。指揮者は三浦(6)。

 
2006年10月25日
浜松市楽器博物館
                            東京都 12期 古賀

12期の古賀です。
この間の夏、妻と伊勢旅行の途中で昼食時にうなぎが食べたくて浜松に寄りま
した。ついでに『浜松市楽器博物館』に寄ったらマンドリンが展示してあったの
で撮ったものです。
写真は鈴木政吉氏製作の初期のスズキマンドリンです。
名古屋「鈴木バイオリン」の鈴木政吉氏は明治36年に国産マンドリンの第一号
を製作しましたが、大正時代の製作かもしれません。かなり古そうな感じでした。

他に、大正13年の紅洋楽譜出版社発行のバイオリン、マンドリン三部合奏曲
『月光の曲』(ベートーベン)の楽譜が展示されていました。

『浜松市楽器博物館』は、世界中のめずらしい楽器を見ることが出来る博物館で
す。音楽好きな方や、楽器に興味のある方には、とても面白い場所です。
こちらに行かれた方は是非お立ち寄り下さい。

『浜松市楽器博物館』は下記のアドレスをクリックして下さい。
ホームページだけでも楽しいですよ。JR浜松駅より徒歩7分です。 
2006年10月13日
【新交響吹奏楽団】
                             東京都 19期 村岡

 こんばんは、19期 村岡です。
さて、今回は私の所属する新交響吹奏楽団の演奏会とPRです。

 皆さんに吹奏楽のイメージを変えて頂きたいと思います。
昔は軍楽隊、ちょっと前なら自衛隊、警視庁、消防庁・・・。
どうしても、ブラスバンド=勇壮なマーチ・・なんですよ。
実は、日本の吹奏楽経験者は人口10人に1人と言われる程、メジャーな世界なの
です。しかし、その団体の殆んどが、吹奏楽連盟の主催するコンクールで、各地の
予選を勝ち抜き、全国大会の会場 "吹奏楽の甲子園" と言われる杉並区にある
普門館のステージに乗るため、 朝昼晩と休みなく、365日練習の日々なんです。
ここで勝つために野球の越境と同じく、大阪のP×学園や奈良の天○高校などは
各地に人買い?がやってきます。
 村岡も中・高 6年間コンクール漬けの毎日、付属高校だったので、大学の吹奏
楽推薦なんてのもあったのですよ・・・ 音楽を楽しむ事より勝負の世界なんです。
大学に入ってもそんな世界に入りたくなかった私は、異次元(すいません)のマンド
リンクラブにお世話になりました。
そこで、この世界ではNO、1の宮田俊一郎先生に出会い、純粋に演奏を楽しむ楽
団のお手伝いをさせて頂き、8期 長谷川さんの音楽に対する幅広い感性を勉強さ
せて頂き、4年間でひとつ進化して、現在の自分が在ります。

 さて、今年創立45周年になる新交響吹奏楽団は、コンクールには出場せず、独
自の演奏形態で活動しています。
この新交響吹奏楽団には、21期 小谷君も所属していますが、今回の定演には、
小谷君は仕事の関係で残念ながらお休みです。村岡も一部だけの出演となります。
年2回の演奏会に、仕事とのバランスを取りながら活動できる環境が、細く長く続
けられる要因だと、この団に感謝しています。今年、私は在籍25年、古株8番目に
なります。

 OBの皆様、お子さんが吹奏楽部に所属している方もお在りかと思います。
是非当団の演奏会にお子さんとご一緒にお越し下さい。ブラスバンドの観点変わり
ます!!
お子さんには、こんな吹奏楽の演奏形態があるのだと見て頂けたら幸いです。

  2006年11月28日に『創立45周年記念/第68回定期演奏会』を
  東京・なかのZEROホールで開催します。

   第1部:「フィンランディア」(シベリウス)「モルダウ」(スメタナ)
        原曲はオーケストラなのだが、吹奏楽の方がマッチしている。

       「トランペット協奏曲」(フンメル)
        ソリストは当団の在籍40年で2番目の古株。しかし、素人とは
        思えぬ技巧派

   第2部:「交響曲第1番」(カリンニコフ)
        カリンニコフは、ロシアの作曲家 32歳で亡くなったので 殆んど
        マイナーな作曲家です。しかし、この曲はチャイコフスキー並の泣
        かせるメロディーが癒してくれます。

 観覧御希望の方は、HPのメールフォームから村岡までお知らせ下さい。
 チケットを私の方で用意させていただきます。
 御連絡お待ちします。
 では宜しくお願い致します。長々と失礼致しました。
2006年10月02日
【OB会ホームページ】
                             東京都 8期 三坂

 ホームページ管理人さんへ

 いつもホームページの編集ご苦労様です。
 ホームページ上に「還暦を祝う会通信」コーナーや「思い出写真館」コーナーが
作られたことにより、8期生の卒業後の活動がホームページ上で紹介されました。
「還暦を祝う会通信」は8期生向けに書かれたものですが、若いOBの方達に参考
になると思い掲載させてもらいました。
 せっかく日大マンクラ在学中の4年間に得た、お金では買えない「友達・友情・絆」
を人生の片隅に埋もれさせるのではなく、その絆を再確認するためには、昔の仲間
が集まって行動を共にすることが必要です。
 単なる親睦のための飲み会や親の葬儀のときだけ集まる関係ではなく、一歩踏み
込んだ関係作りを目指したのが「還暦を祝う会」でした。これは私が言い出したこと
ではなく、同期の氏家が言い出したことです。
そして私は賛成し、大浜と共に氏家の後について行ったのです。
 我々が起こした行動がきっかけとなって若いOBのみなさんの「絆」が復活されるな
らOB会ホームページの立ち上げは大きな意義があったと思いますし、OB・OGのた
めの「日大マンドリンOBクラブ」の演奏活動も重要な意味を持ってくると思います。

 私はこれからも三浦会長はじめ、竹内君や開澤君たちのOB会役員のみなさんの
活動を陰から支えていきます。頑張って下さい。
 
2006年9月18日
【真珠とりのうた(真珠採りのタンゴ)】
                            東京都 12期 竹内

 『真珠とりのうた(真珠採りのタンゴ)』のあれこれ (Song Of The Pearlfisher)

           
 日本大学マンドリンクラブのアンコール曲といえば近年まで『真珠とりのうた』
(真珠採りのタンゴ)と決まっていました。
定期演奏会はもちろんですが、演奏旅行や学部祭でもなんでも、とにかく最後
の曲は、『真珠とりのうた』です。この曲が終わると間をあけず『日本大学校歌』
が演奏されました。
頭の中では、『真珠とりのうた』と『校歌』がメドレーのように感じています。

 『真珠とりのうた』も『日本大学校歌』編曲はもちろん宮田俊一郎先生でした。
『真珠とりのうた』は、中川信良先生や服部正先生など様々な方がマンドリン合
奏用として編曲をされています。
私は、宮田先生の編曲がシンプルで味わいがあって一番好きです。今でもこの
曲を聴くとマンドリンクラブの思い出が次々と湧き出て来ます。それは、映画音
楽のテーマ曲を聴くと映像が頭に浮かんでくるようなものなのでしょう。

 『真珠とりのうた』は、日本大学マンドリンクラブでは、1960年11月16日神
田・共立講堂で行われた第1回定期演奏会に、クラシック曲として、歌劇「タンホ
イザー」〜タンホイザー行進曲(ワグナー)の次に、歌劇 「真珠とり」〜真珠採り
の唄(ビゼー)がクラシックの一曲として演奏されたのが最初になります。

 あまりにも有名なのでポピュラー曲と思われている方が多いのですが、本来は
クラシック曲なのです。

 さて、この『真珠とりのうた』は、他に『真珠とりの唄』、『真珠採り』『真珠採りの
タンゴ』など様々な名前で呼ばれていますが、どれも原曲としては同じものです。
日本大学マンドリンクラブでは『真珠採りのタンゴ』と呼ぶ事が多いようですが、
宮田俊一郎先生はこの編曲に『真珠とりのうた』とタイトルを付けられていますの
で、編曲者を尊重する呼び方は『真珠とりのうた』になるのでしょう。
この呼び方の違いは、これからお話するこの『真珠とりのうた』の原曲がクラシッ
クの曲であり、タンゴその他のリズムを付けて編曲されて来た事にあるようです。
少なくとも、どの呼び方も間違いとは言えません。

『真珠とりのうた』の原曲は、歌劇『カルメン』で知られるジョルジュ・ビゼーの初
期の歌劇『真珠とり』の劇中歌(アリア)です。
 歌劇『真珠とり』の初演は、1863年9月29日パリのリリック劇場です。この
第一幕で、「今でもまだ聞こえるような気がする(耳に残る君の歌声)」が歌われ
ました。

【第1幕】 未開時代のセイロン島
 荒涼とした海岸で漁夫と女たちが賑やかに酒盛りを繰り広げています。部族
長のズルガがやって来て、新たな長を選ぶ時期が来た、と告げと、皆はズルガ
に長の地位を与えると答え、彼はこれを受けることになります。
その場に長く村を離れていた漁夫のナディールが戻ります。ズルガが彼に帰郷
の真意を尋ね、二人は美しい尼僧のレイラを争って、互いが恋敵となった思い出
を語り合います。ナディールは、その女性レイラがいない今では、もう二人の友
情を壊すものはないと言います。
その時、一槽のカヌーが島へ近づいてきます。村の長老が、遠方の国から巫女
を連れて戻ったのです。ズルガは、ベールで顔を覆った巫女に、一生ベールを
下ろし、決して顔を見せないこと、処女のまま、村の真珠採りたちの安全を祈り
続けることを誓わせます。誓いを守れば、最高級の真珠を捧げるが、もし、破っ
たときは、死をもってあがなうようにと申し伝えます。
ところが漁夫のナディールは、巫女の声を聞いて彼女がレイラであることに気付
くのです。ナディールは耳に残るレイラの声をまた聞きたいと願うのですが、この
時に歌われるのが『耳に残る君の歌声』です。

    いまも耳に残っている
    椰子の葉かげに隠れて聞いた、あのやさしい、よく響く声
    まるで小鳩の歌のようだった
    ああ、魅惑の夜、天にも昇る酔い心地
    心そそる思い出よ、狂おしい胸の乱れ、甘い夢
    満天の星の光に いまもまだ目に残る
    暖かい日暮れの風に、長いベェールをそっとかかげた彼女の姿
    ああ、魅惑の夜

 高僧ヌラバッドによって岩の上に伴われたレイラは、そこで皆の無事を祈る歌
を歌うよう命じられ、一人取り残されます。そこにナディールが近づき、一瞬ベー
ルを上げた彼女の顔を見ます。二人は、運命の再会を果たしたことを知るので
す。(これが物語の出だしで第4幕まであります。)

 さて、この『耳に残る君の歌声』がポピュラー曲として有名になったのは、昭和
初期にかけてヨーロッパ各国でタンゴの名作と呼ばれる作品が続々と誕生した
時です。
 ドイツ人のガーツはビゼーの歌劇『真珠とり』のアリアを編曲して『真珠採りのタ
ンゴ』を、ヤコブ・ガーデは『ジェラシー』を、ヨゼフ・リクスナーは『碧空』を、アー
ウィンは『奥様お手をどうぞ』を、シェリエールは『バラのタンゴ』を、マルドレンは
『夢のタンゴ』を・・・など、タンゴは世界的大ブームになりました。
 『真珠採りのタンゴ』はタンゴの定番曲の一つにもなっていて、様々な音楽家に
よって演奏されています。ドイツの名門コンチネンタル・タンゴ楽団 アルフレッド・
ハウゼ・タンゴ・オーケストラやウェルナー・ミューラー(リカルド・サントス)楽団は
日本で大ヒットしました。また、ポール・モーリア・グランド・オーケストラ等のオー
ケストラ演奏は数限りなく存在します。
変わったところでは、リチャード・クレイダーマンによるピアノ・バージョンやロック
グループによるディスコ・バージョンも存在します。
また2000年には、イギリス映画「耳に残るは君の歌声」の主題歌としてヒットし
ました。

 1962年3月10日発売の、唄:藤崎世津子、作詞:中川満佐、編曲:飯田三
郎の『真珠採りのタンゴ』には、このような歌詞が付いていました。訳詩ではなく
オリジナル詩です。

 【歌詞】
   赤い珊瑚の彩り(いろどり)映した
   水底(みなそこ)光るは真珠の瞳か

   あ〜星降る渚に巡らす
   想いはやさしい彼(か)の人
   夜なぎの彼方か

   南十字の輝く夜空を
   風に乗せ流れくる
   忘れ路(じ)の愛の歌

   あ〜星降る渚に巡らす
   想いはやさしい彼(か)の人
   夜なぎの彼方か

 他にも1963年に、玉木長美 作のオリジナル詞『真珠採りの歌』もあります。

 【歌詞】
   白い波間に 面影浮かぶよ
   懐かし君は いずこに いずこに

   想い乱れて 青空仰げば
   悲しみ溢れて 我が涙ほほ 伝うよ


 2007年2月21日発売の三オクターブの澄んだ美声と優美な容姿が魅力的
なコロラトゥーラ・ソプラノ歌手Yuccaのデビュー・アルバム『千の風になって』に
収録されているのは、真野響子が作詞した『真珠採りのタンゴ』です。

 【歌詞】
   もういいわ 私がバカだった
   そうあなたに救いを求めて
   もうわかったわ 私は生きてく
   あなたのぬくもり脱ぎ捨て
   生まれかわるわ

   もういいわ 私は去ってゆく
   そう あなたを後ろに残して
   もうわかったわ 私ははばたく
   あなたの残り香 振り払い
   天高くへ

 この思い出の曲、『真珠とりのうた』(真珠採りのタンゴ)が、最近は演奏される
事がなくなってしまった事は残念です。仕方がないといえばその通りなのですが、
残しておいてほしい名曲ですね。
 

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