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風神雷神図屏風

 

 1030

1030  国宝 風神雷神図屏風 (雷神・部分) 俵屋宗達筆 江戸時代 健仁寺蔵 便利堂
2000・11・22入手    
雷太鼓(連鼓)

 

  

のカデンツ

 

実はこれ、 ↑↓ てっきり同じ作品だと思いました。

印刷の色めの違うカードは多々ありますし

カットの仕方の違いで カードが 縦だったり横だったりしてるのかな と。

ま、こういうカードも コレクターとしては極めなくちゃね、みたいなノリで購入

よくよくみたら 作者が別人だったのです。

日本でも 同じような絵を書いた人がいたんだ  と びっくり。

 

 

3573

3573  重文 風神雷神図屏風 (雷神・部分) 尾形光琳筆  江戸時代 東京国立博物館蔵 便利堂
2005・4・12入手    
雷太鼓(連鼓)

 

その後 

出光美術館で(2006年9月9日から10月1日) 

国宝 風神雷神図屏風 〜宗達・光琳・抱一琳派芸術の継承と創造〜

という 66年ぶりに三つの風神雷神図屏風を揃えた企画展が

開催されたことを 知りました。

え?! もう一人 同じ絵を描いた人がいたの?

 

国宝「風神雷神図屏風」(建仁寺蔵)は、

桃山から江戸時代初期の琳派絵師・俵屋宗達が描きあげた一世一代の傑作です。

遠くインド・中国に由来する神々の姿を、古典絵巻などに想を得て描いたこの屏風は、

完成からおよそ1世紀後に、同じ京の絵師・尾形光琳が模本を作り、

さらに幕末には江戸で琳派を再興した酒井抱一が、再び模作に挑戦しました。

本展では66年ぶりにこれら三つの風神雷神図を一堂に展示し

琳派芸術の伝統と創造の秘密に迫ります。

 

 

う〜〜ん、

こんな貴重な展覧会を   は なぜ見逃してしまったのでしょう。

 ちょうどその頃 忙しくしてはいたのですが・・・残念!

で この展覧会のことを ネットで調べてみたら

宗達と光琳のカードを 同じ絵と勘違いしたのも無理はない ということが分かりました。  

 トレースしたそうですから。

 

 

1030 宗達    3573 光琳

 

 

  Fuji-tv ART NET  に掲載されていた 

内藤正人氏(出光美術館主任学芸員)の解説を引用しますと

 

いちばん有名な風神雷神図屏風は、

桃山から江戸初期に活躍した謎の多い都の天才芸術家

俵屋宗達によって描かれました。

仏画などで脇役として描かれることの多かった風神と雷神の姿を

それらのみ単独で、金屏風にとりあげる発想のユニークさ。

明るく開放的な神々が

おおらかな姿で天空を浮遊する姿に 宗達の代表傑作として

現在では非常によく知られた作品です。、

ところが意外なことに 江戸時代には この屏風はほとんど世の中には知られておらず、

この作品を目にした事実を確認できる人物は ただひとりの絵師しか いないのです。

宗達の絵が出来てからほとんど百年近く経った江戸中期に

この屏風を確かにみたその人物こそ

同じ都の絵師で 亡き宗達を慕った あの尾形光琳なのです。

光琳は宗達の作品と出会い 感動するのみならず その秘密に迫るために模本を作ります。

神々の輪郭線をトレースしながら ここに 二つ目の風神雷神図が完成しますが

詳細に見比べてみると 光琳は意図して描き変えた部分のあることがわかります。

実際に会場で確認していただきたいのですが

そこには明らかに光琳自身の創意が読み取れ

単純な模写作業に終始したのではないことがわかるのです。

さて 時代はさらに下って幕末期。

光琳の風神雷神図屏風は江戸の地にあり なんと将軍の父親が所有していました。

そのお宝を拝むことができたのが

大名姫路藩主の次男で光琳の信奉者であった 酒井抱一です。

宗達の屏風があることなど夢にも思わなかった抱一は

その作品を 光琳オリジナルの作品と誤解し

かつての光琳と同じように風神と雷神に向き合い 模本を制作するのです。

これが三つ目の風神雷神図屏風の誕生であり

一見同じような しかしながら細部には絵師の個性を感じさせる作品が

再び出来上がったわけです。

 

 

そういうことなら 

3枚目の 出光美術館蔵の酒井抱一のカードも 是非 ゲットしたいもの。

この展覧会が終わって半年もたっていましたが  出光美術館に出かけてみました。

案の定ショップには もうカードは置いてありませんでしたが ダメもとで 

「あの〜 こちら所蔵の風神雷神図のカードが欲しいのですが・・・」 

と申し出たところ

係りの方が わざわざ奥から探し出し持ってきて下さいました。 

なんて親切な対応でしょう!

  感激するとともに 年々ずうずうしさが備わってきたようで 心中 複雑でした。

とにかく こうして手に入れたカードが ↓ こちらです。

 

 4328

4328   風神雷神図屏風 (雷神図)  酒井抱一(1761〜1828)  日本 江戸時代 出光美術館蔵
2007・4・6入手   
雷太鼓(連鼓)

 

 

念願叶って 三者そろい踏みしたので もういちど比較です。 

1030 3573 4328

 

 


 

 

<追記>

2010年 NHK 日曜美術館で 尾形光琳の特集があり

100年前の俵屋宗達の絵と それを研究した光琳の絵を 2枚並べて比較していました。

光琳の絵は  宗達より画面を広くとり 外にはみ出していた太鼓を中に入れて バランスをとり

黒雲を大きく描くこことでくっきりとした姿を表現している。

そして姿はそっくりでも 目が決定的に違う。

宗達のほうはあっけらかんとした表情をしているが

光琳のするどいシニカルな目は 物事の裏の裏まで見通しているようだ

との 説明がありました。

 


 

 

<追・追記>

2013年 NHK BSアーカイブスで 

2007年放送の 『天才画家の肖像 俵屋宗達 永遠の風神雷神図』 

の再放送がありました。

それによると この風神雷神図の構図は 宗達のオリジナルではなく 

先人の図からヒントを得たという 面白い内容でしたので

ご紹介したいと思います。

例えば

↓ こちらは 6世紀の敦煌莫高窟 249窟壁画に描かれた風神雷神

 

(この画像は NHK シルクロード 美の回廊 I  絶景と芸術が刻まれた道 より)

 

 

この躍動感とユーモラスな構図は 宗達のものと共通します。

前述の内藤氏の解説にも

仏画などで脇役として描かれることの多かった風神と雷神の姿を

それらのみ単独で、金屏風にとりあげる発想のユニークさ

と ありました。

 

↓ こちらは14世紀の 松崎天神縁起絵巻

 

TV画面より

 

 

宗達が この絵からヒントを得たのは明らかだとか。

風神の足の踏ん張り 手の広げ方 

雷神の大きく開けた口 後ろになびく髪 など そっくりですね。

 

 

 

 

 

 

次は 先人の絵を コラージュしたもの。 

コラージュ技法とは 過去の図像を そのまま使って 新たな作品を作る手法。

その名人としての宗達の作品を 紹介していました。

 舞楽図屏風 です。

これは 日光輪王寺にある 宗達と同時代の作者不明の 

舞楽図屏風(下段の六曲一双屏風) からの コラージュ。

↓ 24の演目を カタログのように描き出した屏風のなかから 

宗達が数点選び 全く違う独自の空間の中に入れて 屏風を仕上げました。

TV画面より

 

 

 

↓  俵屋宗達の 二曲一双  舞楽図屏風

 

 85978595

 

8597 重文 舞楽図屏風(左隻)  俵屋宗達筆  醍醐寺  2016・4・6入手    撥を持つ

8595 重文 舞楽図屏風(右隻)  俵屋宗達筆  醍醐寺  2016・4・6入手   大鉦鼓

 

 

↓ それぞれ左側がオリジナル 右側が宗達  

  

TV画面より

 

 

 宗達は また

たらしこみ技法を駆使して 雲の描き方を工夫した ということで 

尾形光琳の作品と比較しています。 

↓ 作品の並べ方が 左右逆になっていますが どちらも 黒々している雲のほうが 光琳の作。

たらしこみ技法とは 墨と銀泥をまぜ その上から 水をたらしこむ描き方ですが

銀泥は 時がたつと 黒く変色してしまうそうです。 

なので 宗達の絵は

 これよりもっと白かった という説と 黒ずむことまで想定して描いた という説があるそうです。

真っ黒な雲の光琳は どうだったのでしょう? 

これが想定どおりの黒さだったのか?

 

  TV画面 (左・光琳 右・宗達)

 TV画面 (左・宗達 右・光琳)

 

 

 


 

 

<追・追・追記>

 

上記レポから ほどない 2013年暮れに 

BS朝日 『世界の名画』 尾形光琳〜京・江戸 華麗なる琳派の旅〜

という番組がありました。 

江戸時代初期の俵屋宗達 元禄華やかなりし頃の尾形光琳 幕末の酒井抱一

時を超えて受け継がれためずらしい琳派一門の 象徴的存在が 

この風神雷神図 との興味深い内容でした。

 

 

 TV画面

 

 

番組の内容をご紹介すると

光琳は 京都の高級呉服店の次男として生まれ 

元禄という幕府が安定していた時代に

成熟した京の雅な貴族的文化に親しみながら 裕福な暮らしの中 

自由を満喫して育ちました。

30歳のとき 父が亡くなり家業廃業となったため 

そんな暮らしも40歳ごろには破綻。

困った光琳は 起死回生をはかり 絵師の仕事を始めます。

この頃 琳派の祖といわれる 光悦や宗達の作品にふれ

 贅沢な 趣味豊かな美学を学びます。

しかし 絵師となっても 享楽的生活を続けたため 暮らしは苦しく

 47歳のとき 後援者であり資産家の中村内蔵助の勧めで 

江戸で絵師として名を上げるため 東くだり を決意します。

江戸では 室町から続く名門で 盛大な勢力を誇っていた幕府おかかえの 

狩野派 という絵師集団が存在していました。

中村の口利きで 光琳は さまざまな大名家に出入りし 狩野派を学ぼうと挑戦します。

そのころの作品 竹梅図屏風では 

京の貴族的雅な文化をあらあす梅と 質実剛健な江戸文化をあらわす竹を 

見事に表現しました。

しかし結局 江戸にはなじめず 5年後には 京に戻ります。 

失意の光琳の心に明かりを灯したのが 建仁寺でみた 宗達の風神雷神図。

心の師と仰ぐ宗達の 

色を塗り 乾かないうちにまた色をさし、にじませることによって独創的な効果を生む 

たらしこみ技法をつかった 自由闊達な この絵図を模写することで

光琳は 再び描く喜びを取り戻し 意欲的に創作活動を続けるこになります。

光琳が生きた元禄の世は 

平安から続く京の都の文化を 裕福な町衆が受け継いだ時代。

文化が爛熟した世で 華やかな絵画を生み出した光琳

その活躍の場は 絵の枠におさまらず 

工芸品など幅広い分野におよび デザイナーとしての才能も発揮しました。

風神雷神図においては 大きさもほぼ同じで 忠実な模写をしているものの

バランスを整え 色彩を強く そして金地に収まるように描いています。

とくに 光琳の独自の解釈は 風神雷神の目の描き方にあり 

両者の視線が交わるように描くことによって

神々の力強さや威厳といったものより 親しみやすさを打ち出しています。

 

 

 TV画面

 

 

また宗達の たらしこみ技法 を活用することで 

金地を 空間として意識されるよう 墨を使って立体感を出し

雲の量を増やすことで 色彩のコントラストも 際立たせています。

(黒々とした雲は やっぱり 想定内だったのでしょうか)

この100年後

 酒井抱一が光琳の風神雷神図を模写するのだが

抱一は かつて光琳が江戸にいた頃 仕えていた酒井家の出。

抱一は 光琳の風神雷神図を より明るく軽快に仕上げている。

このように 三世紀にわたって 直接会うことのなかった三人が 

この風神雷神図を模写することによって

琳派の流れを継承し続けてきた といえる。

 

 


 

 

<追・追・追・追記>

2015年2月 BSジャパン {『KIRIN-美の巨人たち』 という番組で 

酒井抱一の風神雷神図屏風を取り上げてくれました。

これで 三者それぞれにスポットをあてた番組の完結編となります(笑)

では 番組にそって ご紹介しましょう。

 

酒井抱一は異色の絵師。 

兄は 姫路藩・藩主 酒井忠以(ただざね)という名門大名。

しかし 20代の頃から 

当時江戸の文化人のサロンともなっていた 吉原遊郭の常連となり

狩野派 南画 やまと絵 など 古今東西の絵の研究に没頭  

肉筆浮世絵でも その才能を発揮した。 

1797年 姫路藩主・酒井忠道(ただひろ)の弟忠実(ただみつ)を

養継嗣にする許可がおり 

代替わりの準備で 抱一は表舞台から降ろされ 出家の身となる。

抱一にとって それは 解放され好きな絵に没頭できるということだった。

そして尾形光琳など 琳派の絵とも出会う。

武蔵野美術大学教授 玉蟲敏子氏によれば

抱一が これまで学んできた狩野派や浮世絵は 線で描く美術だったが

琳派の 線より墨を面的に用い金泥の線で葉脈を起こす

というような描き方に 惹かれたのだとか。

1815年 根岸の抱一の庵 『雨華庵 うげあん』 で

光琳の100回忌の法要が営まれた。

この時 江戸の武士や商人が持っていた光琳の作品を探し出し

100点を選んで 抱一自らがスケッチした作品集 『光琳百図』 を刊行した。

この仕事を通して ますます深く 光琳の画法を学びとり 我ものにしていった。

そんな光琳熱を知ってか 

11代将軍家斉(いえなり)の父 一ツ橋治済(はるさだ) が

所蔵していた尾形光琳の風神雷神図屏風(二曲一双)の裏に絵を描くことを

抱一に依頼。

抱一は 光琳への リスペクト(畏敬の念)で  『夏秋草図屏風』 を描きます。

雷神図の裏には 雨にうたれ しおれる夏の草花 を

風神図の裏には 風にふかれ なびく秋の草花 を

そして 許しを得て 光琳の風神雷神図屏風の模写をしたのです。

江戸に暮らした抱一は 光琳の絵が 

俵屋宗達の模写だったことは 知りませんでした。

宗達(?− 1640)

光琳(1658− 1716)

抱一(1761 − 1828)

宗達が描いて その80年後に光琳が模写 

そのまた100年後に抱一が模写した 風神雷神図屏風。

光琳の模写は 

顔や上半身の輪郭線がまったく同じという 徹底した模写ぶりで

唯一 雷神のはみだした太鼓を きちんと屏風内に収めたところが違うだけ。

抱一は 

宗達 光琳とつづく 琳派の流れを リスペクトすると同時に 現代性をおりまぜ

ただ 伝統を墨守するだけではなく 活性化させ 時代にあわせた継承意識をもって描いた。

それが一番あらわれているのが 風神雷神の目線。

 

 TV画面

 

宗達は 八方にらみ で 人知を超えた神々しさを演出。

光琳は 上から目線で 洗練されたデザイン性で美を表現。

そして抱一は 風神と雷神の目を 向き合わせることにより

  当時 江戸庶民にコミカルな守護神として愛されていた風神雷神を

庶民感覚の 親しみやすいユーモア溢れるキャラクターとして 

より人間味ある存在として描いた。

 

いかがでしょう?

三者それぞれの視点からの 各番組の考察 

とても楽しく 勉強させていただきました。

 

 


 

 

<追・追・追・追・追記> 

展示室 大津絵の鬼 で 神坂雪佳のカードを ご紹介したのですが  

彼は 明治から昭和にかけて 京都画壇で活躍し  

さらに 琳派の流れを継承した近代デザインの先駆者としても 

功績を残した人物だったと知り

ポップなカードとばかり思っていた ↓ このカードも

実は 神坂雪佳の 雷神図 ということに ようやく気が付きました。

 遅ればせながら アップします。

 

 

 5437

5437    神坂雪佳   雷  2008・10・3入手   雷太鼓

 


 

 

 

こちらは ボストン美術館から 〜 海を渡った川鍋暁斎の 風神・雷神図

 

8106

8106 川鍋暁斎  風神・雷神  Fenollosa-weld Collectio 11.3605  William Sturgis Bigelow Collection .7514
Museum of Fine Arts, Boston   2015・5・2入手  
雷太鼓

 

 


 

 

 

こちらは デザイナー福田繁雄氏を父にもつ 1963年生まれの女流画家 福田美蘭さんの作品

 

 8961

8961  福田美蘭  FUKUDA MIRAN  風神雷神図 Wind God and Thunder God  2013   
アクリル絵具 パネル 181.8 x 227.2 cm   2016・11・19入手   
雷太鼓

 

 

 


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