難しい事は解りませんが、今までの経験上、この領域に興味の有る方やいろんな修法を勉強、実践されている方で霊視に興味のない方は居られないと思います。
興味が無いと言われる方が居られたとしたら、それは嘘だと思います。
興味が有るとすれば、
興味が有ればある程、正確な霊視から遠ざかって行くのがこの種の常ではないかとも思います。
「見たい」、「見てやろう」、「解明してやろう」、という思いが少しでもあると、先ず正確な霊視は出来ないし、正確な霊視ではないし、下手をすれば間違った霊視をしているかも知れません。
「見たい」、「見てやろう」、「解明してやろう」、という欲(私欲)の隙間に、この領域の輩が入り込んでいろんな形を見せる事が往々にして有ります。
下手をすれば、その方(ほう)のほうが多いのではないかとも思います。
霊視に関してもいろんな修法が有りますが、やはりその最初に私欲や雑念というものがあって、それを課程を得て捨てて行った後にたどり着く世界から初めて霊視というものが成り立つわけですので、中々一般の方では不可能ではないかとも思います。
もしその様な修法を自分のものにされた方が居られても、いろんな条件の環境下で正確な霊視が出来るのかというのはやはり無理があるのではないかとも思います。
修法を体得された、体を鍛えて自身の心身に絶大な信頼をお持ちの方の観る角度からの霊視と、修法を体得された、そうでない方の観る角度からの霊視とでは、自ずと違いが出て来るものと思います。
私欲を捨てて、いろんな条件下の中で正確な霊視をするというのは難しいものがあります。
むしろ全くこの領域に興味のない方の、
ふと見る霊視というものが一番正しいのではないかと思う時が有ります。
勿論それは、
その方の精神的、肉体的に安定して異常のない状態の時の霊視を意味します。
つい先日、ある会社の事業繁栄の一回目の釜の祈祷時、全くこの領域に興味のない社長が、
「釜が鳴ったら、白く波打った細長いものが目の前を横に進んで行った・・・」、と言われました。
「あ・・・此処の地神さん・・・見せたな・・・」、と思いました。
「面白いもんやな・・・」、と思いました。
祈祷を依頼された他の方は、「何も見えなかった」、と言われます。
「それで当たり前や」、と思いました。
他の方は、「見てやろう・・・、と思って目を瞑っていた」、と言われます。
「見てやろう」、と思ったら見えないものです。
社長には、「この家の地神様が姿を見せたのですよ」、とお伝えしました。
この家の地神様が、「わしが居るから心配要らんぞ」、という意味で姿を見せたものと観ます。
そして声に出さずに、「地神さん(私の方の)、○○家の地神さん、○○家の伏見稲荷さん・・・この後二つ目の釜を焚きますが、今度は
社長に強烈なものを見せてやってください」、と頼んだところ、全ての神様がうなづきました。
この願いは、祝詞の後も、お経の後も、釜が鳴り出す前も確認しましたが、全てOKでした。
「見せてやる」、という返事でした。
沸騰して来た釜に米を入れる前に社長を見ると、
一生懸命に目を瞑って、両手に力を入れて手を合わせているのが見えました。
釜は大きな音で鳴り出して、やがて止まって行きました。
「どうですか?。今度は何か見えましたか?」、と社長に尋ねると、「何も見えない。全く何も見えなかった」、と言われます。
「そうやろな・・・」、と思いました。
神様はこの
社長だけに解る強烈なもの?を見せたはずですが、見る側の、
「見てやろう」、という私欲が強すぎた為に見えなかったのだと思います。
この二つ目の釜で会社の事業発展を祈願したわけですが、今回は、「釜が鳴ったらこの会社のこの先がどうなるのか?、この会社のこの先の状態を見せてください」、と口に出して頼みました。
私にしても、釜は正直に反応して教えてくれますので、経営がややこしい様な所ではこの様な事は声に出さずに聞くのですが、この会社は大丈夫だと思いましたので口に出して聞いてみました。
「釜が鳴ると釜の上一面にキラキラとした金色のものが舞っていたわ・・・」、と妻が言いました。
もし
社長が何の私欲もなしに社長だけに解るものを見ていたとしても、妻の観たものとは違うものを見ていたと思います。
祈願は同じでも、霊視は観る者によって様々な形を取って見えて来ます。
私達夫婦の観る、釜が鳴ったら見えて来るものは私達だけが観える形であって、他の釜を焚く方が私達と同じ様なものが見えて来るというのは有り得ない事です。
釜が鳴って、私達夫婦が観る形と同じものが他の釜を焚く方に見えたとしたら、それはその方が正確な霊視をしていないという事です。