先祖供養の大切さ・・・宗旨変えについての私見
私は無宗教者だから特定の宗教を信仰しない・・・、私は無神論者だから神の存在を認めない・・・と言う方も沢山居られます。
信教の自由は憲法に保証、定められているので特定の宗教を持たず、また次から次に宗教を変える方も沢山居られます。
無神論者は別として、特定の宗教を持たず次から次に宗教を変える方が居られますが、私は、出来れば宗旨変えはしない方が良いと思いますが、自分勝手な理由ではなく、止むに止まれぬ理由が有れば、それもしょうがないかなと思います。
私の本職?は美容師ですが、年配者のお客さんとの会話の中でよく話題に上がるのが檀那寺(菩提寺)への不平、不満です。
確かに、何故、檀那寺(菩提寺)というものが在って、その檀那寺が檀家に取ってどの様な役割を果たしてくれているのか等、解っておられないという事も不平、不満の原因になっていると思います。
美容室での会話を書くと、「お寺さんは・・・口を開ければお金。普段は何も連絡がないけどお金の請求だけはして来る・・・。高額な寄付を要求して来る・・・。銀行で借りてでも寄付をしてくれと言う・・・。分割でも良いので寄付をしてくれと言う・・・・、寺の役の人がお寺さんの子供の入学祝も集めに来る・・・」・・・等々。
美容室での会話をもう少し書くと、「・・・寺の奥さん、偉そ〜うにして・・・、主人もむつ・・・として、本当は寺を変えたいけど近所の寺も評判悪いし・・・寺同士が話をして他の寺に変われないみたい・・・」・・・等々。
美容室での会話をもう少し書くと、「寺の表の車庫に軽四入れて・・・裏の車庫に高級車が入ってるわ・・・、沢山、儲けてるんやろね・・・」、・・・等々。(注:檀家によっては、「良い車に乗って来てください」、と言われる家が在ると、お寺さんの奥さんに聞いた事があります)
美容室での会話をもう少し書くと、「お盆に・・・「こんにちわ・・・」、とお寺さんが来て・・・、若〜いアルバイトの子で・・・「ではどうも・・・」、と玄関を出て行くのを計ってたら、丁度10分やったわ・・・、あれで¥・・・・・円やろ・・・」・・・等々。
美容室での会話をもう少し書くと、「・・・・が亡くなった時、式も何もかもが終わってお布施を渡したら、「もう一度見直してください」、と返して来たわ・・・」・・・等々。
「そやけど・・・一回は世話にならんとあかんやろ・・・」、という定番の言葉で大概会話が終わります。
何故、檀那寺という制度が存在して、何故、檀家の一人一人が普通の仕事に就けて生活が出来るのかというのを檀那寺の方も檀家に説明しないと、アマゾンで話題になってる様な流れは止められないと思います。
そして一般の方も、寺の住職や其処に住む家族を低い次元で批判したりするのも考えものだと思います。
今まで、途中で宗旨変えをした家を数え切れない程知っていますが、だんとつに多いのがその寺の住職や家族への批判から宗旨変えに至ったという事例が多いです。
中には寺と喧嘩をして宗旨を変えたという家も沢山知っています。
何とも程度の低い話ですが、これが現実だと思います。
しかし、これも止むにやまれぬ理由として受容すれば、それも良しだと思います。
また、上記した理由とは別に、今まで生きて来て・・・、何故か、希望する様な人生とは程遠く、何か原因が有ってその様な流れになっているのかと思い宗旨を変えた。
また、他の宗旨の住職と気が合って宗旨を変えた・・・等。
これも止むにやまれぬ理由として受け入れれば、それも良しだと思います。
問題はこの後です。
宗旨変えをして、その変えた宗旨で一生懸命に御先祖様をお祀りする家もあれば、宗旨変えをしたが、その変えた宗旨をも一生懸命に祀らないという家もあります。
これから書く事はお坊さんや神主さんをも含め、普通の方?には解らないと思いますし、批判も受けるかも知れません。
仏教でいえば、その家に代々続いて来た宗旨から違う宗派の宗旨へ、また、その家に代々続いて来た宗旨からキリスト教や神道へ、神道でいえば、その家に代々続いて来た神道から仏教、キリスト教へ、キリスト教から仏教、神道へ・・・等等、いろんな形があると思います。
それも良しだと思います。
遡って行くと、大概の家が、どこかの時代で宗旨変えをしています。
何か理由が有ってそうなったのだと思います。
それも良しだと思います。
私は、大元は一つだと思いますので全てのケースに良しだと思いますが、現実に宗旨変えをした家の御先祖様の状態を霊視すれば、やはり安易に宗旨変えをする事は一概に良しとも言えない現実にあたる事が往々にしてあります。
全てがそうではない事を明記して、宗旨変えをして相当な年月が経っている、経っていないに関係なく、その家の御先祖様を霊視すると、「戸惑っている。落ち着かない。居場所がない」、という訴えをはっきり知る事が出来ます。
御先祖様にしても、代々続いて来た祀り方やお経が変わると戸惑われるのだと思います。
この、「戸惑っている。落ち着かない。居場所がない」、という御先祖様の訴えは、今、生きてる子孫の、心優しい性格の人に届きます。
頑強な体、精神力、物事を論理的に考える頭を持ってる方には、このお知らせは行かない事が多いです。
間違ってでも、人を蹴落として前に行く様な性格の人には、このお知らせは届きません。
不条理ですがしょうがない事です。
向こう(御先祖様)がそう決めるのですから、しょうがなくそのお知らせに従わなくてはなりません。
理屈の世界ではありません。
この御先祖様の窮地のお知らせを、「生きていたらいろんな事が起こって当たり前・・・」、と取って流せる方は、それはそれで良いと思います。
犠牲はあっても、その人なりに乗り切れると思います。
「自分の先祖が、何故そんなきつい知らせを送って来るのか・・・仮に、自分が死んで、何か言いたい事が有っても、間違ってでも自分の子供や孫にそんな知らせを送るはずがない・・・馬鹿げている・・・」、と思われる方はそれで良いと思います。
亡くなった方の子孫に欲する念がどの様な形で届けられるのかを解らない方はそれで良いと思います。
しかし、現実に、そのお知らせに戸惑い、苦労をされている方(子孫)が居られる事も事実です。
宗旨変えは出来ればしない方が良いのですが、止むにやまれぬ訳が有っての宗旨変えは良しとして、その宗旨変えをした理由を御先祖様に説明して、御先祖様の了承を得る事が大事です。
自分の子孫が頼む事ですので、大概の御先祖様も許してくださいます。
この大事な事を省くから・・・というより、この大事な事を御先祖様に説明、説得して、御先祖様の許しを得るという橋渡しが出来る方が少ないのも事実ですが、気持ちが有れば素人の方でも可能ですので実践されたら良いと思います。
前置きが長くなりましたが、つい先日行った祈祷の始終を書ける範囲で書いてみたいと思います。
この家は5年前に仏壇の開眼に行かせて頂いた家です。
この家は、「稲荷勧請 4」に登載させて頂いた後、お寺さんに来てもらい仏壇の開眼をされました。
若いお坊さんが来られて20分位お経を上げ、何も言わずに帰って行かれたと言われます。
それが余りにも簡単過ぎたらしく、後日、私達に開眼供養に来てくださいと言われますので行かせて頂きました。
観方はいろいろ有りますが、その仏壇を観て、やはり何も無い、空の仏壇でした。
鳴釜神事をもって仏壇の開眼をさせて頂きました。
釜が鳴ると、「どん」、と一気に仏壇の中に光が入って行ったのを覚えています。
その後、別室に祀られている伏見稲荷様の前で釜を焚き、この家族を守って欲しいと頼んで帰って来ました。
その時、伏見稲荷様は、「守ってやる」、と言われましたが・・・どうも・・・力に欠ける姿が気になりました。
・・・・と言うのは、この家の御主人は必要以上に神経質に手を合わせられますが、奥さんの方は全く無宗教の家で育ったせいか、神仏に手を合わせる意義、意味が解らない様子がうかがえました。そして用事が有ったのか、祈祷を始める前に出かけられました。
朝、仏壇(御先祖様)に、「お早うございます」、と挨拶して、美味しいものがあればお供えして、楽しい事があれが仏壇(御先祖様)に報告して、辛い事がある時は仏壇(御先祖様)に救いを請い、夜になると、「今日も有難う御座いました。お休み」、と挨拶して一日が終わる環境で育ったらその意義、意味が解るのですが・・・といっても、この家の御主人の方も親が勝手に宗旨を変えてしまい、お墓もその宗旨の墓で建ててしまっている環境で大きくなった経緯があります。
その事に気がついて、今、自分達が住んでいる所に御主人の実家に代々続いている宗旨の仏壇を祀られました。
この後も、ご主人は一生懸命に手を合わせられますが、中々ご自分の思う様に現実が進まない事に何回も連絡をされて来ました。
その都度、この家の御先祖様と伏見稲荷様をお呼びしてみますが全く何の反応も有りませんでした。
神仏をお祀りしてまだ年月が経っていませんので、私の方にしても、「大丈夫ですので一生懸命に祀ってください」、としか言えませんでした。
何故、全く神仏の反応が無いのか、その理由は解っていましたが、本当の事は言えませんでした。
ある時、地神様にきつく頼み、この家の伏見稲荷様を呼んで聞いてみました。
男の稲荷様一体だけのお姿が出て来ました。
私、「○○家の伏見稲荷様・・・、主人、よく手を合わせていますか」、と尋ねてみました。
妻、「「良く祀ってくれる・・・」、とうなづいているわ」、と言います。
私、「奥さんの方はどうですか?・・・」。
妻、「「何もこっちが嫌がっとる訳やない・・・向こうが嫌がっとるだけや・・・」、と言ってるわ・・・」、と言います。
要するに、この家の伏見稲荷様は、この家の奥さんの方が勝手にわしら(稲荷様)を嫌がってる、稲荷様は奥さんを嫌がっていないという意味です。
この家の仏壇にしても、私達が開眼供養をさせて頂いたのですが、いくらお呼びしても御先祖様の反応が有りませんでした。
月日が流れて、約一年位前、「やりがいの有る仕事に就けました」、という知らせが有りました。
神仏をお祀りして、良い方向に行く時間のかかる家は在りますが、それにしても時間がかかったなと思っていました。
そうこうしていると、「子供の事で・・・・入院している・・・」、という知らせを受け取りました。
「あ・・・・出たか・・・」、と思いました。
これを恐れていました。
この家の御主人には、以前、何回も遠回しにお伝えしたはずです。
最初、5年前に行かせて頂いた時、この家の子供さんは小学5年生でした。
少し障害があると聞いていましたが、その時私達は普通の小学5年生よりはしっかりしている子供さんだなと思いました。
そして、初対面の私達にいきなり、「○○○○は○○○○だ」、とはっきりと言われました。
どんな理由が有っても、まだまだ○○を信じる歳の子供が、「こんな事・・・言うか・・・」、と思いました。
勿論、その場に親は居ませんでした。
あれから5年経っていますので、「・・・やっぱり・・・出たか・・・」、と思いました。
「某月、某日、(282)(284)」、に登載させて頂きました通りです。
希望の職場に就職出来たお礼に釜を焚きに来てくださいと言われましたが、その為に行かせて頂く気は有りませんでした。
今回は、この家の子供さんの病気の平癒、因縁解脱、霊障消除、心願成就だけの為に行かせて頂く事に決めました。
祈祷に行く一週間程前に見せて頂いたものです。
この領域から観る、今回の子供さんの病気と関係のある内の一つと観ます。
此処の奥さんの方(実家)から来ているものと観ます。
奥の方から手前に向かって人間の目が縦に並んで出て来ました。
奥の方にある目は普通の目ですが、手前から三つ目の目から鋭く吊り上っています。
この家の子供から観て、三代位前の先祖から宗旨をさわり、無宗教の状態になったのかも知れません。
その宗旨をさわった代の仏様の状態です。
宗旨をさわった代の仏様本人が目が吊り上る様な窮地になっているのでしょう。
宗旨をさわった本人が亡くなった後も中々成仏出来ない状況に居られるのは、祈祷を通してよく目にする事です。
祈祷の二日前に見せて頂いたものです。(@)
妻、「地神さんの前に小さ・・・い巳さんが出てるわ・・・。向かい合ってるわ・・・」、と言います。
妻、「その下の方に・・・前も出ていたけど・・・こんな格好のものが出てるわ・・・」、と言います。(A)
祈祷の前日に見せて頂いたものです。(B)
妻、「地神さんの目が・・・薄い水色になってるわ・・・」、と言います。
「あ・・・慈悲の気持ちやな・・・やる気やな・・・地神さん・・・」、と思いました。
祈祷に行く前のこの時点では、この小さい巳は、この家の息子さんを守る為に地神様が縁をつけるつもりなのか、または、この家の建つ敷地に本来縁のある巳神をこの家の子供さんにつけるつもりなのかな?・・・と思っていました。
祈祷の順序、段取りについてはすごく悩んでいましたので前日までには決まらず、、当日此処に着くまでの車の中で考えました。
先ず、この家の伏見稲荷様の前で一つ目の釜を焚いて、子供さんの病気の障りになっているものに対処します。
それが何かというのが解っていますので、その後、仏壇で供養します。
その後、伏見稲荷様の前で二つ目の釜を焚いて病気平癒、因縁解脱、霊障消除の祈願をします。
尚、この家族は、この家の奥さんのお祖母さんが建てた家屋敷をもらって住んでいます。
先ず、あえて、この家の伏見稲荷様のお姿を請わずに稲荷様の前で釜を焚きます。
私、「地神さん・・・、此処の息子さんの病気の障り・・・対処するもの・・・出してください。・・・地神さん、この家、屋敷、土地の障り・・・出してください」、と言いました。
妻、「・・・目?・・・だと思うけど・・・下を向いて閉じた様な目?が、反対向きに出てるわ・・・眉の様なものがその下にあるから・・・反対向きの目やと思うけど・・・・」、と言います。
反対向きの目の意味が全く理解出来ませんので紙に描いてもらいました。(@)
妻、「また出てるわ・・・この前も出ていた・・・・」、と言います。
これも紙に描いてもらいました。(A)
私、「地神さん・・・、○○○君の病気の障り・・・出してください」、と言いました。
妻、「縦の線が一本だけ出て来たわ・・・」、と言います。(B)
目を閉じて下を向いた様な目が上下反対に出て来たのは、この家を建てたお祖母さんの状態と観て・・・、その次の形の意味するものは解りますが、釜を焚いたらもっと解ると観て・・・、最後の縦の線の意味するものが全く解りません。
地神様には何回も聞きましたがその後は何も教えてくれませんので、
私、「地神さん・・・釜、焚いたら解りますか?」、と聞きました。
妻、「うなづとってやわ・・・」、と言います。
一応、土地の祓いの表白だけを読んでコンロに火をつけました。
湯が沸騰して来ます。
米を入れます。
釜は極普通の音で鳴り出しました。そして短時間で鳴り終えました。
当然な鳴り方だなと思いました。
私、「どや?・・・反対向きの目・・・正常になったやろ?」。
妻、「・・・・普通の向きに出てるわ・・・」、と言います。
私、「あの、階段みたいなのは消えたか?」。
妻、「まだ出ているわ」、と言います。
「まだ出てるか・・・、しかし、仏壇で供養したら消えるやろ・・・」、と思いました。
私、「縦の線は消えたか?」。
妻、「まだ出てる・・・」、と言います。
妻、「・・・縦の線の横に、何か分からない程小さいものが動いてるわ・・・」、と言います。
私、「地神さん、その縦の線、斬ります」、と言って手刀を下しました。
私、「縦の線・・・消えたやろ?。巳さん・・・出たやろ?」。
妻、「線が消えて、小さ・・・い巳さんが動いてるわ・・・」、と言います。
反対向きに出ていた目が正常な向きになった事・・・仏壇で供養をしたら階段を上って(御先祖様が)成仏されるやろ・・・と思いました。
縦の線が何を意味するのかは横に置いて、この縦の線を消したら出て来た小さい巳は、この家の息子さんの窮地の形を頭の悪い私達でも解るように表してくれた形と観ます。
次に、仏壇を祀る横の部屋で先祖供養をします。
仏壇を観て、「あ・・・此処の主人、ようお経を上げとってや・・・よう祀っとってや・・・」、というのが解ります。
これだけお経が入っていれば、もっと安定した、落ち着いた毎日になるはずだと思いますが・・・・。
御主人の家の仏壇をお借りして、奥さんの方の御先祖様の供養をします。
「今から○○家の仏壇をお借りして、○○家の御先祖様の供養をさせて頂きます」、という旨を御主人の方の御先祖様にしっかりお伝えしてお経を上げます。
私、「○○家(奥さんの方の)の御先祖様、今から○○家の仏壇をお借りして供養させて頂きます。どうか御姿をお見えください」、と伝え、「どや?。来とるか?」、と妻に聞きました。
妻、「・・・何か?・・・形の一定しない・・・ドロ〜とした様なものが動いてる様な?・・・色はグレーぽい色で・・・」、と言います。
この形は反対向きに出ていて正常な向きに戻った?目の存在と、奥さんの方の御先祖様の窮地の状態を意味するものですが・・・、この・・・ドロ〜とした形で出るものには大変きついものがあります。
奥さんの実家の宗旨は仏教からキリスト教へと変わって今はどちらも信仰していない状態の様です。
私、「○○家の御先祖様、今からお経を上げますので聞いてください・・・楽になりますので・・・・」、と伝えて、「正信偈」を上げました。
「正信偈」、を上げ終わった後で、再度、奥さんの方の御先祖様を呼んでみました。
妻、「目が・・・奥から続いて出て来たわ・・・・」、と言います。
私、「どないや?。手前から三つの目・・・まだ吊り上っとるか?」、と聞いてみました。
妻、「いや・・・、皆、普通の人間の目やわ・・・」、と言います。
「やれやれ・・・」、と思いました。
地神様に聞いても、「これで良し」、と言われます。
「「阿弥陀経」、も上げましょうか?」、と聞きましたが、「これで良い」、と言われます。
この後、この家の御主人が、「私の方の御先祖様は祀り方など、満足しておられますか?。聞いてください」、と言われます。
この家の御主人の実家も・・・、宗旨変えをし・・・、お墓もその宗旨の建て方で建て・・・、それで安泰なら良いが、その正反対な状態に誰も気がつかない事に嫌気がさして、御自分で代々の宗旨に戻して一生懸命にお祀りされてきました。
私、「○○家(主人の方)の御先祖様、どうか御姿をお見せください・・・地神様、お呼びしてください」、と伝えました。
妻、「出とってやわ・・・・。両手を合わせとってやわ・・・」、と言います。
私、「向こうから此方に向かって合わせた手やな?」。
妻、「そう」、と言います。
私、「○○家の御先祖様・・・、グジャグジャになった宗旨を○○さんが一生懸命に元へ戻して、一生懸命に祀って、お経を上げさせてもらっているが、何か不満は有りませんか?、満足されていますか?。そうなら手を上げてください」、とお伝えしました。
妻、「両手を合わせた格好で、その手を上げているわ・・・」、と言います。
○○さんには満足されていると取ります。
その後も、○○家(主人の)の御先祖様にはいろんな事をお聞きしましたが、良い返事を頂きました。
そうこうしていると妻が、
妻、「最初、仏壇の前に座った時からこんなものが三つ出ているけど・・・・」、と言って、手でその格好を作りました。
稲荷神の宝珠と観ます。
祈祷のこの段階まで、あえてこの家の伏見稲荷様をお呼びしませんでしたが、やはり「守っているぞ」、という意思表示を宝珠の形を取って知らせていたのでしょう。
本当に有り難いものだと思いました。
そして妻が、
妻、「少し前から・・・受け取る様な格好の掌が一つ出てるけど・・・」、と言います。
有り難いな・・・・と思いました。
この掌は・・・○○家の(主人の)御先祖様の方の意思表示と観ます。
その後の二つ目の釜は、この家の伏見稲荷様のお社の前で焚きます。
先ず、この家に祀る伏見稲荷様をお呼びします。
私、「○○家の伏見稲荷様、どうか御姿をお見せください」、と言い、「稲荷大神秘文」、と上げました。
私、「どや?。出てあったか?」。
妻、「・・・・出てあった・・・」。
私、「男の稲荷さんやな?」。
妻、「・・・そう思う・・・」。
私、「一体だけやな?」。
妻、「そう」、と言います。
この家は稲荷様夫婦と子供の稲荷様の三体が居られますが、男の稲荷様だけが出て来られた様です。
この家の稲荷様には、今日までの守護に対するお礼を述べ、この先、この家族が良い方向に行くためのお願い、そしてこの家の息子さんの病気平癒、因縁解脱、霊障消除、心願成就を祈願しました。
表白、祝詞の詳細は省きます。
妻が稲荷社の前の榊立てを見て、
妻、「あ・・・これやわ・・・仏壇の前にこんな形が出ていたわ・・・」、と言います。
仏壇の前に出ていたのは、稲荷様をお祀りする備品に描いてある宝珠です。
妻、「・・・・今もそれが三つ並んで出てるけど・・・・・」、と言います。
この家の伏見稲荷様のお姿は一体しか出ないが、「稲荷はちゃんと三体居て、お前達を守っているぞ」、というお知らせの形です。
妻、「・・・・それと・・・地神さんの前に小さな巳さんが居て・・・地神さんと向かい合ってるわ・・・」、と言います。
コンロに火をつけます。
湯が沸騰して来ます。
米を入れます。
釜は一回目の釜の音よりは大きな音で鳴り出しましたが・・・極、普通の音です。
波の少ない音です。
やがて音は止んで行きます。
私、「どやった?」。
妻、「釜が鳴り出したら、三つ並んだものから朱色の炎が出て、それが一つになって燃えてたわ・・・・」、と言います。
私、「あっ・・・そう・・・」。
この家の三体の伏見稲荷が力を合わせてこの家族を守るぞ・・・という稲荷の意思表示と取ります。
声に出さず、
私、「地神さん・・・この家の息子さんやが・・・、病気・・・大丈夫ですか?」、と尋ねてみました。
声に出して、
私、「何が出た?」。
妻、「・・・掌を上に向けて・・・受け取る様な格好の両手が出て来たわ・・・・」、と言います。
妻、「・・・あっ・・・その上に、小〜さな巳さんが居るわ・・・・」、と言います。
この家の伏見稲荷様も、この家の御先祖様も、力をあわせて息子さんを守ると取ります。
途中にも書きましたが、この家の息子さんを小さい巳の姿で私達には見せていますが、この息子さんに小さい巳が守護神として入っているという訳ではないとは思い、それを聞いたのですが何も教えてくれませんでしたので、この事は一応横に置きます。
また判明するでしょう。
この家にしても、御主人の実家も奥さんの実家も途中で宗旨を変えて今に至っています。
止むにやまれぬ宗旨変えは良しとして、宗旨変えをした後の御先祖様へのフォローが大切だと思います。
宗旨変えをされた後、何らかの不都合があって私達が行かせて頂き、その私達の祈祷を見た方は分ると思います。
その家の御先祖様を出して、
私、「・・・家の御先祖様、勝手に宗旨を変えた事は、それはあかん。謝ります。ほんまにアホな事をしたもんや。しかし、もう変えてしまって大分月日も経っとる。新しい仏さんの戒名も違う宗旨の戒名がついとる。ほんまに勝手な事をしてすみません。謝ります。・・・・と言うて、現実問題として、宗旨変えをしたお寺さんとも今までの付き合いがある。今から元の宗旨に戻すといってもいろんな無理がある。どやろ?・・・もうこの宗旨で行かなしょうがないと思うが・・・。もう・・・この宗旨で祀る事を許したってくれんやろか?。頼むわ。お願いします・・・・・」。
これだけ頼めば・・・子孫がこれだけ頼めば・・大概の御先祖様は宗旨変えをした事は許してくれます。
宗旨変えをした事を御先祖様が許してくれたら、その変えた宗旨で祀れば良い事です。
これを抜くから、後でややこしい事が起きて来るのだと思います。
一応、今回の祈祷が終わって、まだこの家の伏見稲荷様と私の方の地神様のお姿が出ている時に、
声に出さず、
私、「「地神さん・・・、此処の奥さん、ほんまに手を合わす事の大事さを心底解っとってやろか?・・・」、と尋ねてみました。
途端に、
妻、「地神さんと稲荷さんが同時に顔を見合わせてあったわ・・・何?」、と言います。
・・・・まあ・・・いろんな取り方は有りますが、私は大丈夫だと思っています。
宗旨を変えるというのは知と動の労力が要ります。
その労力の有る人は力(エネルギー)が有ります。
力(エネルギー)の有る方は宗旨変えから来る御先祖様からの不都合なお知らせは何故か届き難いものです。
そのエネルギーが御先祖様からのお知らせを跳ね返してしまうのでしょう。
そうなると、その不都合なお知らせはどうしてもエネルギーの弱い方に届く事になります。
不条理ですがしょうがない事です。
その御先祖様からのお知らせを素直に受け止めて、早く対処したら良いだけの話です。
しかしそれもその時期が有ります。
その時期を逃したものは案外時間がかかる事が往々にして有ります。
結論として、先祖供養は難しい事を考えず、代々その家に続いて来た宗旨(宗教)を淡々とお祀りしていたらそれだけで良いと思います。
案外それが出来ていないので、御先祖様からの不都合なお知らせを自分自身が満たされない不安定なものと勘違いして、他の宗教に安定を求めて変わられる方が多いのではないか思います。