安倍政権は平成28年に働き方改革実現会議という会議を発足させ、平成29年3月に「働き方改革実行計画」を決定します。
この実行計画から長時間労働の規制や同一労働同一賃金、パワ‐ハラスメント防止が実際に法の改正に反映されました。兼業・副業の促進についても関連する法の改正やガイドラインの策定が行われています。しかし、先の3つが、細部についてはともかく、大きな方向としては労働環境の改善に役立つと思えるのに対し、兼業・副業の推進については、労働環境の改善という点で他の施策と本質的な矛盾があるように見えます。
本稿では、法改正の内容や、ガイドラインの内容を検討するとともに、問題点を明らかにしたいと思います。
目次
詳しい経緯については別稿「副業・兼業の促進政策の経緯」にまとめ、ここでは概要にとどめます。
働き方改革実行計画を受けて、厚労省は平成30年1月に「副業・兼業の促進に関する ガイドライン」を策定・公表します。
その後の「未来投資戦略201」「未来投資戦略2018」においても副業・兼業が謳われます。
令和2年2月には複数就業者への労災保険給付の賃金日額を就業先合算で算定する労災保険法の改正、65歳以上の複数就業者に雇用保険の適用を広げる雇用保険法の改正を含んだ「雇用保険法等の一部を改正する法律案」が通常国会に提出され同3月に可決されます。(労災保険法の改正は令和2年9月1日に施行されました。雇用保険法の改正は令和4年1日に施行されます。)
さらに令和2年7月の「成長戦略実行計画」では 兼業・副業環境の整備として以下について労働政策審議会の審議を経てルール整備を図るとされました
これに応じて、令和2年9月に「副業・兼業の促進に関する ガイドライン」が改定されます
「雇用保険法等の一部を改正する法律」の副業・兼業関係について説明します。
65歳以上の被保険者に限り、次の特例が規定されました(37条の5、37条の6)
次のすべての条件を満たすときは被保険者とする。
なぜ65歳以上のみなのかという事になりますが、これについては、複数の事業所で雇用される者に対する雇用保険の適用に関する検討会の報告書や労働政策審議会職業安定分科会雇用保険部会の報告書やそれに関する議事録を見ると、
等で65歳以上が適当という事のようです。
施行は令和4年1月1日です。
事業主が異なる二以上の事業主に雇用される労働者(複数事業労働者)に関する規定が設けられました。
重要な点は次の2点です。
本改正は令和2年9月1日に施行済みです。
副業・兼業の推進において本質的に困難な問題は、労働者の労働時間管理と健康管理をどうするかということです。これについては法令の改正は行われず「副業・兼業の促進に関するガイドライン」を公表することで、まさにお茶を濁しているように見えます。
「副業・兼業の促進に関するガイドライン」は平成30年1月に制定された後、改正労災保険法が施行される令和2年9月に改定されています。以下その内容を紹介します。なおこのガイドラインでは「・・・しなければならない」という断定的な書き方をしているところは少なく、「・・・という事が考えられる」「・・・が望ましい」など、指示することに対する責任は逃れつつ忖度によりある方向に誘導することを意図しているような書き方が目立ちます。無理があることを承知しているためにこのような書き方になっていると思わざるを得ません。以下ではこのような奥歯にものが挟まったような表現は適宜取っ払い従わなければならない指示であるとして書きます。できれば原文も参照ください。
なお労働時間の管理方法に関する内容については章を改めることにし、ここではそれ以外のことを説明します。
使用者は労働者の申告等により、副業・兼業の内容を確認すること。そのために就業規則、労働契約等で副業・兼業に関する届出制を定めることが望ましい。
労働者から確認する事項は次のとおりである
労働時間の通算の対象にならない場合とは、雇用契約でない場合、管理監督者、農業等の労働時間規制の適用除外になる場合です。
労働時間の通算の対象になる場合は、さらに次のことを確認すること
3.で説明したガイドラインの内容のうち、労働時間管理の部分を説明します。
ガイドラインだけでは理解困難な部分があり、パンフレット「副業・兼業の促進に関するガイドライン 分かりやすい解説」(以降パンフレット)、「副業・兼業の促進に関するガイドライン」Q&A(以降Q&A)を参考にしています。ただしQ&Aは令和2年9月の法改正、ガイドライン改正前の内容なので注意が必要です。
後から労働契約を締結した使用者については、時間外労働にならない部分のみが法定内労働時間となる。法定を超える労働時間を所定労働時間とすることは認められないので、同時に所定内時間となるはずであるが、ガイドラインではそういう考え方になっていない。それぞれの事業所であらかじめ定められている時間を所定労働時間と呼んでいます。本稿もそれに従います。
所定時間の合計で既に時間外が発生している場合は、所定時間外労働はすべて時間外労働となります。そうでない場合については時間的に後から仕事をする方の事業場は所定時間外労働をさせる場合は、前の事業場の所定時間と共に、所定時間外労働をどれだけ行ったかを日々把握しなければならないことになります。
5項までの規定について労働者に過剰な労働時間が課されないように制限する趣旨であると考えると、この解釈は違和感があると言わざるを得ません。
やや難解だが、他の事業所とは無関係に自分の事業場における労働について規定を満たせばよいという事でしょう。
健康管理の項はガイドラインの中でも最も疑問が多いところの一つです。そもそも健康確保措置(健康及び福祉を確保するための措置)は労働基準法で36協定に関して使われている用語であり、文脈の中で具体的に何を指すのか分かりません。パンフレットでは(労働安全衛生法68条の8の)長時間労働者に対する面接指導について、労働時間の通算は不要としています。この規定が長時間労働者の健康確保のためであることを考えると、とんでもない解釈と思わざるを得ません。それを意識しているのか説明では、通算した時間に基づくことが「適当である」とか、自己管理を指示するとか、労使で話し合うとか、「法律を超える」健康管理措置を行うことが適当であるとか、他の使用者との間で協議を行うことが適当であるとか、責任逃れと思われる記述が続きます。労働安全衛生法で「医師による面接指導を行わなければならない」「労働者は事業者が行う面接指導を受けなければならない。」と義務として定めていることを無意味にしてしまいます。
単月100時間、複数月平均80時間の規制を遵守する、あるいは健康確保のために「適当な」措置を実施するためには、各事業場での労働時間の通算が必要です。これはどのように実施するのでしょうか。
所定労働時間については3.4において述べた、副業・兼業の届出時に確認することになります。では所定外労働時間についてはどうするのでしょうか。これについてはガイドラインでは次のようになっています。
すなわち100%労働者の自己申告を基にすることになります。しかし待ってください。厚生労働省が制定している「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」において、
現状をみると、労働時間の把握に係る自己申告制(労働者が自己の労働時間を自主的に申告することにより労働時間を把握するもの。以下同じ。)の不適正な運用等に伴い、同法に違反する過重な長時間労働や割増賃金の未払いといった問題が生じているなど、使用者が労働時間を適切に管理していない状況もみられるところである。
としたうえで、使用者が始業・終業時刻を確認し、記録する方法としては、原則として次のいずれかの方法によること。
さらに、止むを得ず自己申告制を取らざるえ終えない場合については、労働者や労働時間の管理者に十分な説明を行う事と共に「自己申告により把握した労働時間が実際の労働時間と合致しているか否かについて、必要に応じて実態調査を実施し、所要の労働時間の補正をすること。」等とされています。つまり自己申告制は原則止める。やむを得ない場合については正しい申告が行われるように確認等の努力をするというのが基本的な考え方となっています。
それに対し、ガイドラインの労働者の自己申告によれば十分のような考え方は整合が取れていません
また一定の日数分をまとめて申告させる、上限規制に近づいてきた場合に申告させるというのは、労働基準法遵守の上で極めて信頼性、確実性の低いやり方です。上限規制を超えても「労働者の申告がなかったから」で責任を免れるという事なのでしょうか。日々の所定時間外労働を申告させ、管理することを義務付けない限り、時間外規制の抜け穴になってしまいかねません。
ガイドラインでは、3.2で説明した通りの労働者の自己申告による労働時間管理も労使双方に負担であるとして、簡便な労働時間管理の方法なるものも定めています。
これは次のようなものです。
これについては次のような疑問が生じます
これはガイドラインにおいても意識されており、平均80時間にするための事業者間の調整の必要が生じないように上限を設定することが望ましいとされていますが、それは単月上限を100時間未満ではなく80時間以内にするということしかないように思います。
副業・兼業に適合させた労災保険法、雇用保険法の改正は、実務上問題が生じないかどうかはともかく、方向としては間違ったものではなく、労働者にとってメリットのある改正でしょう。それに対しガイドラインで示された労働時間の管理方法については極めて問題が多いと思われます。この節ではそれについて考えます。
3節、4節において細部についての疑問は逐次書きましたが、大きく分けて次の2つであると思います。
副業開始にあたって副業の内容の届出が要求される。また副業中の労働時間についても逐次報告が必要になる。この実現は困難ではないか。また仮に、自事業場、他事業場、労働者の間で良好な関係が築け実現できたとしても、管理の手間が大変になりそうである。
副業・兼業のメリットとデメリットについて考えてみます。
先に紹介した「未来投資戦略」や「成長戦略実行計画」、あるいは副業・兼業の推進を肯定的にとらえる人たちの言い分によると副業・兼業には次のメリットがあるということのようです。
これら前向きなメリットとは他に、消極的な第2グループのメリットがあります。
一方デメリットとしては以下があるでしょう。
その他、他社でも働くことによる生産性の低下等があると思いますがこれらは管理コストの増加に含まれると考えます。
デメリットのうち特に問題なのは過重労働、健康管理の問題です。労働環境の悪化につながり、その向上に努めてきた今までの施策を反故にしかねません。
おそらく第1グループのメリットを目的に、副業・兼業をする人、推奨する会社にとってはあまり問題にならないと思います。余裕の中で生まれた方針です。労働環境の悪化につながるような過重労働にはつながらないはずです。
しかし第2グループのメリットを得ることを目的とする人や会社の場合、抜け道があればそれを利用することを考えるでしょう。必要な収入が得られないうちは倒れるまで働き、また労働者を徹底的にこきつかいかねない。 今までの労働行政はその防止に軸足を置いていたはずです。
それでも第1グループのメリットを今後の日本にとって必要とする考え方もあり得ると思います。その場合は、副業・兼業にとって足かせとなる労働時間規制、健康管理の強化を行ってきた今までの政策を改め、副業・兼業がやりやすいように法律を改正し、労働環境が悪化しない対策もルール化すべきです。
政府の施策で最もおかしいのは、労働時間規制、健康管理の強化と、副業・兼業の推進という、真逆なことを同時に推し進めようとしていることです。そのために法律も改正せず、ガイドラインなるものでお茶を濁し、しかもその内容が疑問だらけになっています。
このままでは抜け穴の利用を狙う第2グループのメリットを目的とする人、会社が横行するだけで、生産的な副業・兼業を担うべき会社や人からそっぽを向かれることになりかねません。
そもそも政府の施策自体本当に第1グループのメリットを目指すものなのだろうかという疑問があります。労働保険審査会の前会長等を務めた品田充儀氏は月間社労士10月号掲載の「副業・兼業の推進に対する事業主の立場と留意点」において、施策への疑問点を述べた後、「同施策推進の本音は、少子化に伴う労働者不足の補填、年金不安を補う定年退職後の収入確保、低所得者が生活保護に陥ることの防止といったことにあるのではないかと疑ってしまう。」と書いています。氏の意見は本当にそう思っているという事ではなく、そう疑われても仕方がないような(劣った)政策だという事だと思います。しかし私自身はあり得る事と考えています。またぞろ動いている竹中何とかが「労働者保護の制度に風穴を開ける」とか言って暗躍しているのではないかとさえ考えてしまいます(この件に関する竹中なんとか氏の関与については全く根拠がありません。全くの私の妄想です。念のため。)
私自身は第1グループのメリットよりも、第2グループのメリットを目的とする人たちが横行することによるデメリットの方がはるかに大きいと考えます。従って副業・兼業に当たって会社間の情報共有を義務付ける等の法改正を伴わない限り、副業・兼業の促進はすべきではないと思います。少なくともこのようなガイドラインで拙速に進めるのは問題です。
あとから分かったのですが、ガイドラインの時間管理とほぼ同じ内容の通達「副業・兼業の場合における労働時間管理に係る労働基準法第38条第1項の解釈等について」(令和2年9月1日基発0903第3号、都道府県労働局長あて厚生労働省労働基準局長通知)が出ています。
本文で述べた疑問がそのまま当てはまります。通達は本来は法律の行政解釈を示すもので、法律と矛盾があってはいけません。曖昧で不十分という通達はいろいろ見ていますが、内容自体に疑問がある通達を見るのは初めてかも分かりません。政治主導による厚労省のゆがみ極まれりの感があります。
初稿 | 2020/12/4 |
補足追加 | 2020/12/9 |