ウイグル自治区日記

 

2007.1.13(44日目)

「敦煌」

昨 日は、駅で客引きに連れられるまま10元の激安招待所に泊まることに。朽ちたコンクリートの打ちっぱなしに、裸電球は妙に中国らしい。朝起きてみると、宿 屋の親父曰く,月曜日までお前の行こうとしているところのバスはないから、今晩もとまってけと。眼が疑わしかったので、チェックアウトしチケット売り場ま で行くと、普通に9時に敦煌行きのバスに乗り込むことができた。どういうつもりだったんだろう・・・
高度はみるみる下がっていき4000m近くに住んでいた自分は低山病の兆しが見えはじめる.そして、風景は砂だらけの砂漠へと変わっていく。初めて実際に 見る砂漠は美しくもあって、生きものを寄せつけない厳しさがひしひしと伝わってきた。

2007.1.14(45日目)

「敦煌Ⅱ」

オ フシーズンでドミトリーが見当たらなかったため、敦煌での観光は、タクシーで済ませることにした。メディアで取り上げられ注目を浴び ている莫高窟、あとは友人の言葉を信じて「鳴沙山」だけにしぼることにした。莫高窟はオフシーズンで、遺跡も日本語ガイドも貸し切り状態
地理的な条件から仏教弾圧等を受けておらず保存状態が良いらし。壁画自体もシルクロードによってもたらされた異文化色が取り入れられており、極彩美。午後から は、鳴沙山に行って、ラクダに乗りひときわ大きな砂丘を目指す。砂丘の稜線をひとり歩くと、独特の砂崩が起きてサァァーと数十秒にわたってつづく。 その余韻は時間を忘れさせ、子供のようになんども崩して遊んでいた。そして、近くにある月牙泉という場所 にそのままラクダで行く。何も下調べがなく、一体なにがあるのか分からず行ったので仰天。ふと砂漠の真ん中に池をたたえたお寺が出現。なんとも不釣合なも のを見事に融合させる中国の力に感心。

2007.1.15(46日目)

「早々と敦煌お別れ」

朝一番のバスに乗って敦煌市街から約30kmはなれた駅に向かう。とおもいきや、タクシーが同じぐらいの値段でいってくれるというので他の中国人3人とシェアして向かうことに。
そして、いざ次の目的地までの列車チケットを買おうとすると20:25発の列車しかないらしい。8時間の待ち時間だ、やることが思いつかな かったので、ネットカフェに行くことにする。辺ぴなところとはいえ、パソコンはペンティアム4の3GHzを積み、メモリはなんと3Ghzが刺してある。良い機会なのでこれまで撮りためてきた写真データの整理をすることにし た。60Gのハードディスクも今後のことを考えると少し余裕がなくなってきている。7時間も写真整理に費やしていたが、隣で座っているよい年のオッサ ンは、俺がいる間ずっとゲームしてるが、このような辺鄙な場所では娯楽がほかに無いのだろう。

2007.1.16(47日目)

「中国語・・・」

早 朝4時、車掌に起こされて、ものすごい寒さの中を駅に降ろされる。トルファンという町だ。夏場は50度になる灼熱、冬場は軽く-20度まで行くと極端な町 だ。乗り換えのために立ち寄っただけなので、早速切符を買いに行くと、15:00発の便しかないらしい。たまっていたブログの更新や友人 へのメールをして過ごし、早々に引き上げることに。トルファンからカシュガルまでの25時間の移動は硬座で337元、他に3人の中国人と相部屋である。こ れだけの間、中国で過ごしてきた割には中国語に進歩がない自分は、せっかくフレンドリーに話しかけてきた中国人と会話にならなかった。こう いった機会がたくさんあれば、前回のタイを旅行したときのようにすぐに覚えていくのだが、冷たくあしらわれたりすることが多いせいで、勉強の意欲がわかな いのだ。特に風景も単調な砂漠が続きチベットについて書かれた本を読みながらチベットの余韻に浸っていた。

2007.1.17(48日目)

「折り返し地点カシュガル」

い よいよ、距離的にも時間的にも旅の折り返し地点、カシュガルに到着。一番気の弱そうな客引きタクシー運転手を捕まえて、色満ホテルにチェックイン。町をタク シーで流すと、以外にも都会だった。イスラムの香りがする町をイメージしていただけに少しがっかり。変わったといえば、顔の堀の深い美男、美女が増えた感じ。それだけに親近感が沸かないし、チベットで感じた、繕わない、にじみ出てくるような生 活者の「美しさ」が懐かしく感じられる。ホテルは、ドミトリー20元の部屋。ドミトリーとは名前がついていたがダブルルームを相部屋として使うだけのなか なか住み心地のよい場所だ。夕方にスイス人のアドリン君がチェックインしてきた。彼は英語をしゃべったので、久々に意思疎通できた喜びで夜遅くまで話して いた。

2007.1.18(49日目)

「文化交流」

 今日は、観光名所である「エイティーガールモスク」というのに行ってみることに。町で見かける人たちは、すでに民族衣装などは 着ておらず現代的になっている。男性の変な帽子、女性がスカーフをしてほとんど肌を見せないくらい。モスクに入ると、ナイスタイミングで棺 が運ばれてきて葬式らしきものが始まる。なぜだろ、うまったくイスラム文化に対して興味が沸かない。チベットで受けたような衝撃や、文化に対する勉 強意欲がまったくわいてこないのだ。もしかすると、今強くなりつつある自分の中の仏教に対する意志が、他宗教に対する敵意として現れているのだろうか。 夜 は、アドレン君とチェスをしたり、話をして深夜まで遊んでいた。持ってきた抹茶を点ててやり簡単に作法をレクチャーするとものすごく喜んでい た。スイスのジュネーブ出身だということで時計の話を振ると食いついて来て、なかなか興味深いことが聞けた。また、彼はこの2ヵ月後に日本にも寄るという ので、ぜひ家に招待したい。

2007.1.19(50日目)

「衝撃未遂」

く毎日毎食ラグメン、シシケバブ。途中であった日本人は皆口々に薦めてくれたウイグルの伝統的な料理。ウドンにトマト、肉、ニンニクの茎で味付けしたラ グメンは日本人の口にすんなりと入ってくる。中国で激辛、過剰な油の使用に参ったら、ぜひ食いに来る価値はある、栄養価も抜群。
今日はATMと格闘。plusのマークが画面に出ており、シティーバンクカードでいつもどおり金を下ろす。カシュガルではおろせないと聞いていたので、レ シートに書いてある「1000元おろしたよ」という記入を見て一安心・・・5時間ぐらいたったところで、自分の手元に下ろしたはずの1000元がないこと に気がつく。おぉおおおおおおお、何てことだ金をとり忘れた!!顔面蒼白である。ここまで何も問題なく来ているのが不思議なくらいだが、ちょっと気を抜き すぎではなかろうかと反省。泣きそうな顔でATMに戻り、同じように1000元おろすことに。と・・・「1000元おろしたよ」というレシートだけで金が出てこな い・・・(間10秒ほど)。なぁーるほどぉ!!!そういうことか・・・まあ、気がつかず5時間も過ごした自分はあまりに緊張感がなさ過ぎる。が、とりあえ ずカシュガルではシティーバンクのカードは使えません、皆さん気をつけましょう。

2007.1.20(51日目)

「粋な職人たちの町」

今 日も、日が昇りだす11時ぐらいから行動開始。向かったのは寺院裏の職人街。皆自分の仕事に誇りを持ってやっている感じで、良い味を出している。 子供たちも純粋に元気で、こっちまでうれしくなってしまう。 今日特に印象的だったのはトンカチトンカチやっている鍛冶屋を覗いていたら、そこにロバ馬車を引いた老人が到着、蹄鉄の付け替え作業が始まった。磨り減っ た蹄鉄をペンチで抜き、ナイフで余分な蹄を削って形を整える。そして先ほど作っていた蹄鉄を楔釘で打ちつける。さすが日常的にロバを使用し ている町だ、職人は20分ぐらいで4本の足の蹄鉄を付け替えてしまった。

2007.1.21(52日目)

「誕生日なのに・・・」

 

楽 しみにしていたサンデーバザールの日、そして記念すべき26歳の誕生日。しかし昨晩からものすごい熱に襲われ関節の節々が痛む。 今回のカシュガルでの一大イベント、雰囲気だけでもと、バザール会場に足を運ぶ。これが間違いの元だった。あまりの寒さにのため、途中で食いたくもないシ シケバブを頼み、店内のストーブに当たり暖をとる。うーむ、バザールどころではない早くホテルに帰らなければ危ない状態。帰りのバス は見当たらず、意識が遠のいていくのを必死で繋ぎ止めながら歩いて帰り、そのままベットに沈む。 今日相部屋にチェックインしてきた人は、なんと日本人で、話しているうちに、同郷人(岐阜県民)、しかも同い年ということがわかった。状況が状況だけに あまりにうれしい出会いだった。こんなときに言葉も通じない人間と相部屋というのは酷過ぎる。粉末ポカリをもらったりと感謝感激です。

2007.1.22(53日目)

「硬座という選択」

一 昨日の時点で列車の切符を買っていたのが最悪な結果をもたらした。ちょっとした遊び心で軟臥(最高ランクベット車両)→硬臥(硬いベット)とこ れまで経験 してきたので、次は硬座(最下位ランク)の列車の旅を経験しようと買ってしまったのだ。しかし、体調は最悪、まだ熱がある状態でカシュガル→ウ ルムチ20 時間の移動となった。通路に面した席で風景は見れない。近くの子供がうるさくて眠ることもできない。ようやくうとうとしてくると、1番耳にしたくないトー ンでオバンがまくし立てるように話をしだす。今回に限ったことではないが、いろんなものを食い散らかすし、そこらじゅうで唾を吐く中国人、我慢にも 限度がありますって。

2007.1.23(54日目)

「メイヨゥ」

カシュガルからの移動、結局25時間の移動時間だった。そして、当然体調は悪化するばかりだ。 こんな寒い場所からはすぐに逃げ出すため、ウルムチからも即効出る手続きをしに駅まで行ってみる。すると、一週間分のピアオ(チケット)メイヨゥ(無 い)の一言が駅員からでた。売り切れらしい。出たぁー!!中国の得意技メイヨゥ。いったいこの言葉に何度泣かされたことか。大概強制的に会話はここで途切 れてしまう。言った本人から代替手段の提示がなされることは無い。とにかくこの言葉が出たらどんなに食い下がったところで邪魔者扱いだ。お客様は神様じゃないんです。半べそ状態でホテルを探して死ぬように眠りに着いた

2007.1.24(55日目)

「死に物狂いの中国語講座」

中国人には、眉間にしわを寄せながら堂々と日本語、英語で話しかけよう、オーバーアクションで。するとどうだろう態度ががらりと変わり意外にも事がうまく いく。下手に「指差し会話長」で自信なさげにヘコヘコ中国語を話すより遙かに良い結果をもたらすことがわかった。 ここのところ、風邪気味であまり会話はしたくないし、 気分も斜めになりがちだったので、意識せずにこういった投げやりな会話をしていて気がついた、この国では何でもかんでも強気が物事を進ませるのだ。今日は、考えた末、成都まで飛ぶ26日付け エアーチケットを取っておいた。気を取り直して、明日はウルムチの観光をする

2007.1.25(56日目)

「乾燥美人」

体調が良くなりつつあったのと、昨日のうちに航空券を買ったことで気分的に余裕ができ、かるくウルムチ観光をしてきた。行った先は「ウルムチ自治区博物 館」。世界で一番美しいミイラが見れるとあっていかないわけにはいけない。きれいな近代的な建築の美術館で他にも5000点におよぶ展示品があり、ウルム チの文化歴史を知るのにすごく役に立った。寒さ見て周りたくても見れなかった場所の出土品や、カシュガルで見た職人の様子、個人的にかなり楽しめた。そし てメインのミイラはやはりすごかった。すでにイタリアのカタコンベで1000対にも及ぶミイラを見ていたりと、見慣れてはいるが、これほどまで癒される顔 をしたミイラを見たのは初めて。

2007.1.26(57日目)

「ウルムチ脱出」

朝 6時に起きて、飛行場に向かう。チェックインは8時からだが、昨晩から雪が降っており、交通機関がうまく働いているか心配だった為だ。タクシーは他の皆が そうであるように普通タイヤで意外に飛ばす。「おいおい、今!ケツが横滑りしただろぉーよー」とか通じないのに独り言がでるw。BMW、ベンツ、レクサ ス・・・こんな高級車も平気で雪の中を普通タイヤ。基本的に中国にスタッドレスタイヤという物がないのだと思う。
飛行機は悪天候を理由に3時間遅れてのチェックイン。とりあえずは、成都のSim's Cozyゲストハウスへと明るいうちに滑り込むことができた。この ゲストハウスは沈没(旅行者があまりの居心地のよさに長く留まること)してしまうことで悪名が高い。なるほど、痒いところにまで手の届くサービス。イン ターネットが無料、日本語書籍、DVDなども見放題!その割一日、20元ときた。日本人も何人か泊まって居るようなので、また情報交換できそうだ。