カンボジア日記

2006.1.1(25日目)

「おもわずカンボジア」

突然、昨日の夜、ふと思い立ってバンコクからカンボジアに来てしまった。3日後には再びバンコクからネパールに飛ばなくてはいけないというのに、なんと無計画なものか。
移動は280キロの鉄道の旅。今日は新年のめでたい日だから代金はいらないよと駅員さんの言葉に踊らされた。
さて、イミグレーションつくとタイ側の出国手続きには大量のタイ人が並んでいる。しかし、入国手続きをするカンボジア側のイミグレにはタイ人はいない。どうやら後で聞いた話では100バーツぐらいでバンコクからカジノツアーがあるのだとか。タイ側ではカジノは違法行為となっているからカンボジアでやりたいが、ビザ代は払いたくない人のためにカンボジアがタイ政府との合意で8年ぐらい前に、グレーゾーンを作ってカジノを建設したのだとか。現在は6つのカジノがある。海外のカジノといえば、タダ飯!適当に客みたいな顔して豪華な飯にありつこうという技がある。しかし、どうやら近年になって不届き者対策で、5万円分ぐらいのチップ交換をして、やっと食事クーポンがもらえるのだそうな。でも、ごねたら、なんとクーポンがもらえ、無事豪華な食事にありつくことができた。
カンボジアのイミグレーションでは賄賂の要求があると聞いていたが、今日は正規のビザ代1000バーツで通れたようだ。国境付近にたむろしている乞食子たちが強欲に観光客の行動を伺っている。

 

2006.1.2(26日目)

「ポイペト探索」

今日は本格的にポイペトを歩き倒した。ポイペトの情勢を知っていたら到底歩く勇気など起きなかったと思う。後で知ったところによると、まだポルポトの流れをくむヤクザが汚い商売をしているとか、地雷撤去不完全地域に指定されているとか。ガイドブックなどには、国境でありながら、絶対に立ち止まってはいけない町に指定されているのだ。
こういった状況は、旅人にとって一長一短で、珍しい訪問者を手厚く歓迎してくれるという面もあり、なかなか面白い体験ができる。今日だけで3軒の現地民が家に来てくれと招待してくれた。 子供に限らず大人までもが興味津々に近づいてくる。
写真にあるように飯食えと言われるのだがさすがに手をつけられる物ではなかった。虫と草と・・・・・子供たちの目はとても冗談を押し付けているような感じではない。何とかごまかすが、ふと自分が慈悲深い顔をしているのに気がつき、精一杯の笑顔を取り繕った。これでは失礼極まりない。
夜、宿で今日であった人たちの顔が浮かんできてしばらく眠りにつけなかった。少しでも、純粋すぎる彼らがまともな生活ができるよう助けてあげられないかと。

(サナギ飯食っていって!)

2006.1.3(27日目)

「分別収集」

200バーツの宿にしては豪華な物だった。テレビ、ホットシャワーがついて清潔感も漂う。久々にぐっすりと眠れた感触がある。しかし、どうやら5階まであるこの立派なホテルには今日の時点では自分しか泊まっていないようだ。
今日はごみ拾いをしている子供たちについていくことから朝が始まった。タイでもそうだが、公共のゴミ箱というものがない。好き勝手に皆捨てているが、しっかりと分別しながら集めている子供たちがいる。どうもお金になるようで、学校に行けない子供たちの収入になっているようだ。ある日本人に言わせると、彼らの食い扶持が無くなるから、ゴミはポイ捨てするのが常識だと言っていた。酷い見解だ
そういえば、この国、極端に老人が少ない。クメール・ルージュの爪あとなのだろう。
カジノで中華料理をたらふく食い、バンコクへとVIPバスにのって帰った。陸続きで他国と接するというのは現地の人にとってどういう印象なのだろうか。そのために汚い歴史があったと言っても過言ではない。タイ編

2006.2.23(77日目)

「カンボジア再来」

またカンボジアに来た。前回は国境付近の町しか見ていなかったので、今回はカンボジアの象徴であるアンコール遺跡群を見る旅である。タイ側アランヤプラテートから学生旅行できていた日本人二人組とトゥクトゥクを国境までシェアしてイミグレーションに。3人で話していたのがまずかった。イミグレーションの係員(警察官)になめられ賄賂を200バーツとられた。しかもそこから日本語が出来る係員風の男につきまとわれ、言われるままにシェムリアップまでのバスに乗せられることになった。ピックアップトラックで行くつもりだったのだが、最近は外人観光客を乗せなくなったらしい(本当か嘘かわからない)。タクシーと交渉しようとすると強引に間に入ってバスの方が安いと言い張る。逃げて国境付近を離れると柄の悪いタクシー運転手しかいない。結局バスに乗る羽目に。「地球の歩き方」でさんざん言われている問題のバスにだ・・・・・。 二時間ぐらいのろのろ運転を続け、お約束の故障。「クーラーが壊れた。ガスを入れたら涼しくなる」と訳のわからないことを言って、修理工場に勝手に入りトンカントンカン始める。二時間経ったところで出発。これで乗客の夕飯の時間をコントロールするわけだ。時間通りに走ると昼の15:00につくのだが、故障したといって、時間を稼ぎ、契約している食堂へ飯時に入ることができるわけだ。さらに、夜到着する場所は安宿街から外れた場所の契約ホテル前。「夜は危険だから歩かない方がいい」とか言いながら、そのホテルに泊まらせるといった手の込みよう。ガイドブック通りの汚い策略に、ただ感心するばかり。時間にゆとりのない旅行をしている者は途中で降りてタクシーを呼ぶ始末である。問題のホテルにおろされたのは、21:00、他の日本人と一緒に行動していては、次に何のカモになるか解らないので、一人バイクタクシーで安宿街へ逃げる。明日からのアンコール観光に使ってくれるならタダで宿探しを手伝ってやろうと言うバイクタクシーの若者は人が良さそうに見えたが、カンボジアでバイタクは諸悪の根源だ、使うだけ使って一ドルチップでおさらばした。ちょうど大学生の卒業旅行シーズンらしくどこの日本人宿も満室状態。粘ったところでヤマトゲストハウスに修理中の部屋があり、我慢してくれるなら宿泊OKということでここに決定!

2006.2.24(78日目)

「ゲテ物」

ヤマトゲストハウスの居心地がいいので10日分キープして、ここを拠点にアンコール巡りをしようと思う。DVDの貸し出しもしていて自分の部屋でみられる。何の勉強をせずして望むには、少し込み入った歴史を持つ国なので、「地雷を踏んだらさようなら」、「キリングフィールド」あたりを見てみようかと思う。
他の日本人宿で情報ノートに有用な情報がないかと探しているうちに、日本人のオッサン二人と友達になった。片方のオッサンはNPOとしてカンボジアに来ているらしく、苦労話に加え、政治の裏話をたくさん聞きながらの宴会になった。なぜ一月の平均収入が20ドルのはずのカンボジアにたくさんのランクルが何台も走っているのか、アンコールワットは政治家企業の持ち物だと言うこと、ポルポト派は現在も活動中で、リーダーの名前は○○だとか、フンセン首相の義眼を巡って日本の政治家が・・・etc。(帰宅後インターネットで調べてみたところ断片的にしか出てこないがすべて事実っぽい)と、まあ 一気にカンボジアに詳しくなった気がした。
今日は、今回の旅の中でたぶん一番えげつない物となるだろう食べ物を食べた。オッサンが是非食べてみろというその食べ物は一見普通のゆで卵と同じなのだが、割るとホクホクヒヨコが出てくる。スプーンで掘ると生えかけの羽毛、目玉が出てくる。目隠しをしながら食うとうまかった。

 

2006.2.25(79日目)

「ベンメリア」

早朝4:00に起きてアンコール遺跡を巡る旅が始まった。最初に選んだ場所はベンメリアという遺跡だ。最近、宮崎駿の「ラピュタ」の世界そのものだと、日本人に評判の場所だ。
バイタクで55km走り2時間かかったこの場所は、なるほど!古代遺跡が亜熱帯のジャングルにされるがままに浸食されている最中で、神秘的な雰囲気抜群の場所だった。
朝の8:00から行動を開始。観光客は私以外見当たらず、巨大遺跡を満喫できそうだ。驚いたことに立ち入り禁止の札とかが無く、どこまで踏み込んでいいのか初めのうちはビクビクしてレリーフを手でなぞっていた。しかし、どうやらそういった管理はまったくなされておらず、屋根を伝って隣の建物によじ登ってみたり、回廊の上段橋桁を歩き回るなど、インディージョーンズ気分だ!修復作業も行われていないこの場所では、転がっている石ころを裏返すと綺麗なレリーフが現れたり、貴重そうな石仏の破片が瓦礫の山を作っていたりする。
結局朝の八時から夕方5時までベンメリアで写真を撮ったり、瞑想をしたりしていた。11時頃になるとゲストハウスで組まれたツアーなどが訪れていたが、1~2時間の間、感性の違う物同士が一緒になって急ぎ足見物をしていく。こういう観光だけは絶対にしたいとは思わない
それにしても暑い、昼飯時には普段日本ではビールは飲まないのだが、瓶を一本速攻飲んでしまった。
今日の撮影は失敗だった。ビューアで確認しながら設定を変えつつやっていたが、どうしてもねらった写真が撮れない。日差しが強すぎて適正露出が得られなかった。帰ってから気が付いたのだが昨晩ISO800にまで上げて撮影していたのを忘れていて、そのままの設定でとり続けてしまった。また別の機会に来て思う存分撮影したい。それは苔がむした雨期がいい、蔦も伸び放題で緑が多い季節がいいだろう。

 

 

 2006.2.26(80日目)

「シェムリアップ散歩」

今日の午前中はゲストハウスのアンコール遺跡についての書籍で勉強し、DVD「地雷を踏んだらさようなら」の映画を見て過ごした。この映画、戦争カメラマンの一ノ瀬青年が取り憑かれたようにカンボジアで撮影するといった作品。私はカンボジアの悲惨な歴史を勉強するつもりで臨んでしまったから、正直この映画の良さが解らなかった。
午後からは、一時ポルポトによって根絶やし寸前にまでなっていたカンボジアの伝統を見るために、アプサラダンスの練習場に行ってきた。世界公演も行ったことのある団体の練習場では小さな子供たちが必死にダンスの練習をしている。栄養が行き届いていないから、見た目だけでは年齢がわかりにくいが、10歳に満たない子から、教える役の2~30代の人が4名いた。知識層の処刑の際、踊り手たちも殺された。そんな過去を持つ踊りは洗練という言葉にはほど遠いが、確実に復活させようという意気込みが感じられ心打たれる。ささやかな寄付と、ジュースの差し入れをした。

2006.2.27(81日目)

「バイヨン」

今回の旅では時間があるため、レンタル自転車での移動をメインにした。比較的大きな遺跡は一日ゆっくりと見て回り、撮影し、瞑想して古代の文明に触れるよう心がけるつもりだ。そのため、アンコール遺跡への入場券1週間分(60$)を買った。世界遺産として修復費などに当てられると書いてあるが、カンボジアの人が必死に3ヶ月働いて得られる額に相当するこのチケット代は卑怯な奴らの懐に入っていく仕組みになっているらしい。
アンコール遺跡入場券を持っての初日はアンコール・トム内にある「バイヨン遺跡」だ。12世紀にジャヤヴァルマン七世が作ったという仏教寺院跡である。メール山(神々の住む山)を象徴化しており古代インドの宇宙観を具現化した場所として知られている。
まずバイヨンと言えば観音菩薩四面塔。遠くから見ても複雑で神秘的な印象を与える遺跡だが、壁に触れるところまで近づいてもレリーフが施されておりその繊細さに驚いた。
今、やっと自分のお気に入りの場所を見つけて日記を書いているところだ。あまり信心深い人間ではないはずなのだが、こういう場所に来ると、感慨にふけりたくなる場所が、ふとした瞬間見つかる。
今日は朝から夕方までバイヨンで過ごすつもりだったのだが、どうやら無理なようだ。冬のはずのカンボジアだが、これほどの灼熱は日本でも体験したことがない。14時で限界を感じでゲストハウスまで戻ることにする。
一時間三〇分かけて11kmの道のりを自転車で帰る。この国の交通は危険きわまりない。詰め込めるだけ人を詰め込んだバイク、トラクター、乗用車がものすごい勢いで走り、車同士が二重、三重追い越しをかける。歩行者や自転車の人権は無視されてるがごとくクラクションの嵐をうける。灼熱の中、ほこりだらけ、空気悪い・・・。

 

2006.2.28(82日目)

「タ・プローム」

今日も昨日に引き続きジャヤヴァルマン七世の作った代表的な寺院を見るためタ・プロームへと向かう。創設時は仏教寺院だった物が、後にヒンドゥー教に改宗されたという経歴を持つこの寺院は、歴史的な意味を持つ以上に興味深いことがある。どうやら、樹木の撤去や修復作業を行わず自然のままで放っておくと、どうなるのかの研究材料であると言うことだ。先日訪れたベンメリアに比べると、観光化されて長いのだが。
ゲストハウスから15kmはなれたタ・プロームまで自転車で移動。移動途中にいくつもの遺跡が修復されている現場を見た。修復現場には、「○○○国の援助によって、修復され、同時にカンボジアの育成に努めている。」と言った趣旨の看板が立っている。確か昨日のバイヨンの一角には日本の支援の様子が写真付きで宣伝されていた。しかし、これだけ様々な国が名乗りを上げている姿は、どうも押しつけがましい政治の力が働いているように感じるのは私だけではないだろう。中国の関わった修復は元の形を無視したむちゃくちゃな方法で、顰蹙をうけていると、現地人の話もあった。
その点タ・プロームは充実した内容だった。大きいものだと直径3mにもなるガジュマルの木のツタが遺跡を飲み込んでいる。栄枯盛衰の美を感ぜずにいられない。一つ残念なことを挙げるとすれば観光客が多すぎて気に入った場所でのんびりくつろぐことが出来ないことだろうか。

 

2006.3.1(83日目)

「北朝鮮の罠」

夕飯を変わったところで食べてきた。なんと、カンボジアは北朝鮮と国交がある貴重な国だ。そして、北朝鮮は外貨の取得のために喜ばせ組を派遣してレストランを開いているというのだ。もちろん一人で行って拉致されるのは御免なので、安全のため日本人二人を誘っていくことにした。 
「Pyongyang friendship restaurant」と看板を掲げるその店を見つけ入る。どうやら韓国人団体旅行客がバスで来ていて、なかなか盛り上がっているではないか。事前にこういう状況になることは噂で聞いていたのだが、客は韓国人(バス一台分)と日本人(我々3人)。何故よりによって喧嘩当事者同士がこのような場所で席を共にすることになるのだろうか。しかも、今日は停電が多く、状況が状況だけにその都度緊張が走った。
日本人だと、どういう反応をされるのか緊張してしまい「アンニョン・ハセヨ」と韓国人っぽくウェイターに切り出してみる。と「いらっしゃいませ」との返答。すでにばれていた。日本語の挨拶程度と、英語がわかる女性(写真真ん中)が我々のテーブル係としてすでに任命されていたようだ。メニューの方も英語の表記がある。北朝鮮と言えばトラディショナル料理の「冷麺」しか思い浮かばない我々は3人そろって冷麺を注文することにする。メニューの中で一番安い冷麺だが、値段は7$と結構なお金を取る。前菜には豆と卵焼きが出され、いよいよ冷麺の登場。写真にあるように鉄のボウルにアイスクリーム状に盛られた謎の食材。じゃんけんに負けた私が毒味係になる。5分経って異常がなければみんなが食べるという設定だ。3人まとめて拉致されるのはいただけないからなぁ
そんな風に、日本人三人がコソコソやっている間に、舞台が騒がしくなってきた。。我々のテーブルに付いてくれていた女性がシンセサイザーに合わせて歌いだし、他の店員が踊り出す。韓国の歌を歌っているのだろうか?、それとも昔の共通に歌っていた民謡を歌っているのか、韓国人客の中には一緒になって歌っている人がいた。韓国人団体はだいぶ酒が回って日本の居酒屋状態、時々こちらに話を振ってきたりする。20~30分ぐらいの舞台で、我々も緊張をほぐしほぐし楽しんだ。 
結局、前菜あり、デザートあり、ショータイム以外はテーブル係が付き接客してくれた。7$はぜんぜん惜しいとは思わないレベルだった。大満足!!あとは、自分らの金によって作られたテポドン弾道ミサイルを日本で待つだけだ・・・。

 

2006.3.2(84日目)

「タイゾー、タイゾー!」

早朝5:30より行動開始。これまでも幾度と無く、アンコールワットの前を自転車で通っているのだが、良いものは最後にとっておこうと思い、まだ入ったことがない。朝日の時間から多くの観光客でにぎわっていた。なかなか今日の日の出は良さそうだったので外観だけでも、と思い入ってしまった。これが間違いの始まりだった。昨日ピョンヤンレストランに付いてきてくれた友達とばったり会い、一日3人で行動することになった。
まずは「地雷を踏んだらさようなら」の主人公一ノ瀬の墓があるから見に行こうと言う。映画でたいした感銘も受けなかった私は興味がなかったのだが、成り行きで行くことに。アンコールワットから15km程のところにトゥクトゥクをシェアして向かう。到着すると子供たちが集まってきて「タイゾー、タイゾー」とか言っている。映画さながら、と言うか映画の再現セットのつもりなのだろうか。道路から15分ほどの道を10人ばかりの子供を引き連れて歩くことになる。墓らしき物に到着すると大人が一人これ見よがしに墓の掃除をしている。せっかくだからと子供を集めて写真を撮る。そして、当然のように寄付を求められ、子供の口からはワンダラーの声しか出なくなった。相当腹が立ってきたのでもちろん拒んだ。
気を取り直して遺跡めぐりに切り替える。自転車では回りきることだできないだろう場所をこの機会にまわっておいても損はないだろう。東洋のモナリザと称され有名なバンティアスレイ遺跡とタ・ソム遺跡を見てまわった。

 

 

2006.3.3(85日目)

「カンボジアの影」

今日は早朝5:30からタ・ソムに自転車で向かった。観光客は日の出が見えるポイントに集中している。そこで、日の出と日没にアンコールワット以外の遺跡に行くとほぼ独占できる。今日は、先日気に入ったタ・プロームにてゆっくり撮影。9時頃になり、観光客が押し寄せて来た頃にはオサラバだ。同じ遺跡を見て回るのに、見所だけを見ながら数多くの遺跡を回るツアーを尻目に、遺跡で昼寝などしながら上等な時間をすごす。
私がシェムリアップの町に来てから、ゲストハウスの前の寺院でずっと祭りが行われている。朝の4:00ぐらいから坊主が爆音スピーカーでしゃべり続けている。どうやら新しく出来た寺院らしくそのお祝いをしているのだとか。この祭り、なぜか物乞いが数百人いる。手足がないもの、栄養失調の子供、さらに、奇形児を並べているお母さんもいる。明らかに行き過ぎた光景に吐き気を催す。全国から物乞いツアーがあって祭りがあるところに物乞い集団を運ぶのだとか運ばないだとか・・。この風景が、こちらでは当たり前のようで、物乞いにやるために、わざわざ小さい金額の紙幣に両替を専門にしている人もいたりする。  日が沈む頃になると、いろいろな低レベル娯楽が渦巻いてくる。サイコロ賭博の輪ができ、少年がシンナーの袋を口にうつろな目をして徘徊している。お布施の皿にお金をおくと、すかさずボロぞうきんまとった子供がくすねる。
写真二枚目は移動式遊園地回転木馬(鉄馬バイク)の様子だ。車のエンジンに直結した回転木馬で、安全性が微塵も感じられないこの遊び道具で子供たちがはしゃぐ。そして、今日の最後の写真にはショッキングものを貼付しよう。もしも、道徳的にふさわしくないと言う読者がいたとしたら、まずはカンボジアに行き、そして何人もの母親に道徳心を説いてから文句を言ってほしい。
本当のカンボジアの姿を見たければ寺院に祭りを見に行くといい。まさに、根深い悲惨な歴史と、混沌としたカンボジアの性質が凝縮されている。

 

 

 

2006.3.4(86日目)

「アンコールワット」

カンボジアシェムリアップに入ってから、十日経ったところで、やっとアンコールワットに入る。ラテライトという粘土のようなもので作られた外装はイメージしていたほど繊細さが感じられなかった。しかし、ここに大昔大都市の中心があり、多くの人が崇めていただけのことはあり、パワーがみなぎっていた。回廊の一番上のところで一日中瞑想などしてのんびりしようと思っていたのだが、邪魔者が入った。現地の子供が私の持ち物を興味深げにいじる。日記を書いていると、女の子にMP3プレイヤーのイヤホンを奪われ、隣にチョコンと座って音楽を聴いているではないか。少し経つと飽きて、日記のノートとボールペンを貸してくれといい、勝手に絵を描き出した。どうやら似顔絵を描いてくれているようだ。悪気はまったく感じられず、私も暇だったのでノートの切れ端で折り鶴を折ってやることにする。そして途中まで折ったところで、これまた奪われる。驚いたことになんと正確にその後完成させてしまった・・・・・。なんだそりゃ!私より前にも日本人がこの子の好奇心に負けて鶴の折り方を教えてやったのだろう。当初の目的はことごとく壊されてしまったが、改めていろいろなことを考えさせられた一日。文明が発達するにしたがって削り取られていく「子供らしさ」は日本には、もう取り戻すことは出来ないだろう。言葉が通じなくても出来るコミュニケーションの方がずっと心地よいものだともこの子に教えてもらった気がする。

 

2006.3.5(87日目)

「アンコール最終日」

カンボジアに来てからと言うもの、空気のせいで朝のどが痛くてたまらない。今日はそれに加え体もだるく軽い風邪気味のようだ。しかしアンコールチケットが今日で切れてしまう。結局午前中は動く気力が出ず、ゲストハウスの住人たちとの会話にいそしみ、出発は14:00を過ぎた。体調が思わしくないが、アンコールチケット最終日で出かけないわけにはいかない。しかし、なんとゲートにたどり着いてポケットを探るとチケットがない、忘れてしまった。こうなるともうヤケになってゲストハウスまで自転車をこぎ、もう一度戻ってきた。アンコールワットにたどり着いたのは日が傾き始めた16:00頃となった。途中の回廊には目もくれず入り口から一直線にてっぺんを目指す。朦朧とした思考能力も手伝いスケールの巨大なアンコールワットの映像が頭の中で、より神秘的になる。回廊の奥の方がうねり、見上げると神々しく逆行に照らされた塔。柱と天井からのぞく中心の塔は、「ハイビジョンスペシャル世界遺産」のカメラワークのごとく遠近感で迫る。一時間ほどアンコールワットを見たところで、急にバイヨン遺跡に行きたくなった。何故か最後を飾るにふさわしい遺跡としてアンコールワットよりもバイヨンに魅力を感じたのだ。到着した頃にはもう暗くなっており、欧米人一人と私の二人だけしかバイヨン遺跡にはいなかった。人目を気にすることなく、レリーフを手でなぞり多くの古代情報を探った。目を閉じるとここに費やされた時間、労力の一部を少しだけイメージとして伝わってきた。
帰り途中「MOIMOI」というレストランの名前に惹かれ夕食を食べる。白身魚のココナッツ煮を食べたのだがこれがうますぎた。

 

2006.3.6(88日目)

「カンボジア最終日」

 早朝4時に起きる。とは言っても昨晩はモスキートに悩まされて寝た気がしない。やっとの事で混沌としたこの国から出られると思うと、うれしさがこみ上げてくる。刺激が多くて、見るべきものもたくさんあるが、深入りできない危険が付きまとうこの国にもう未練はない。
近くのゲストハウスの掲示板で見かけた、タクシーシェアの張り出しで集まった4人でタクシーに乗り込みタイ国境へと向かう。カンボジア入りしたときシェムリアップまでのバスは7時間かけて来た。しかし、なんと今日のタクシーは70kmのスピードを保ち3時間で国境に我々を運んでくれた。極端すぎて呆れるばかりだ。タクシーは一日どれだけの客をピストン輸送できるかに命をかけ、バスは癒着している場所に客がお金を落とさせることに命をかけている。