水原・ソウル

第3日目 水原(スウォン)からソウルへ

  朝、7時半ホテルを出発したバスは京釜高速道路を通って水原に向かいました。京釜高速道路は当時の朴大統領が提唱して
19702月、2年の歳月をかけて完成したものです。当時韓国は不景気でこの計画には反対するものの多かったと聞きますが、ソウルと釜山を6時間で結ぶこの道路は今となっては不可欠のものとなっています。旧盆の帰省時には大渋滞となるそうですがバスは快調に飛ばしていきます。
  大田の朝はマイナス3度ぐらいに冷え込みました。朝はきれいに晴れていましたが少し曇ってきました。外気温も低いらしくバスの窓が曇ってきました。

    940分、バスは水原[수원]に着きました。ここで見学するところは水原華城[수원화성](スウォンファソン)です。ただしここは百済の遺跡ではなくて朝鮮王朝代22代、正祖(チョンジョ)が29ヶ月をかけて1796年に完成させた城郭で西洋技術を駆使した城郭都市です。

  正祖王はここに遷都することを考えていましたが4年後に亡くなったため、その夢は果たせませんでした。城壁の長さは5.8キロにも及びます。東に蒼龍門、西に華西門、南に八達門、北には長安門がありますが、時間の都合で長安門(チャンアンムン)しか見ることができませんでした。八達門と華虹門(水上楼閣)は是非見たかったのに残念でした。

    長安門の上から万里の長城のように続く城壁の彼方に想像するしかありません。ここでもあちらこちらで復元工事が進められていました。

  見学を終えていよいよソウル[서울]へ入りました。ソウルは1394年、李朝(朝鮮王朝)の太祖、李成桂(イソンゲ)が開城(ケソン)から都を移して以来、約600年間、都として歴史を刻んできたところです。高麗時代は揚州(ヤンジュ)、李朝時代は漢城(ハンソン)または漢陽(ハンニャン)、日本植民地時代は京城と呼ばれ、大戦終了時から現在の名前になりました。ソウルとは「都」の意味で漢字表現はありません。  漢字と言えば地方ではおびただしい数のハングル文字の看板を見ましたが漢字はほとんど見ませんでした。ソウルに来て「現代」の文字を始め、時計・貴金属など漢字の看板を見ることが多くなりました。人口は1070万人の大都会です。韓国民の4人に1人はソウルに住んでいる感じです。  李成桂はもともと高麗の将軍でした。高麗は明との争いを起こし、李成桂将軍は王命により軍を出兵しますが明と戦えば国が滅びると兵を率いて都に引き返し、反明派の文人や武人を追放しました。李成桂のもとに集まった改革派と僧侶を中心とした守旧派が激しく対立する中で1392年、李成桂は王位につきました。ここに高麗王朝は滅んだのです。

    高麗は仏教によって栄え、仏教の退廃によって滅んでいったのです。李成桂は国号を朝鮮と変え、朝鮮王朝の始祖となりました。彼は朱子学者を中心に据え、儒教による国家作りを目指しました。仏教は国の保護を絶たれ、僧侶は賎民階級に落とされました。韓国の寺が街の中にないのはそのためです。

  この時から儒教を国教として両班(ヤンバン)政治が始まりました。両班とは東が文官、西は武官の両方の班という意味です。この両班が朝鮮王朝500年の政治を担ったのです。東の文官を優位とする文治主義がとられ、最後まで続きました。両班でなければ人間にあらずといった厳しい階級社会を作り上げていきました。第4代の世宗(セジョン)大王は「王の中の王」とたたえられた名君で「ハングル文字」の創製は有名です。

  ソウルにつくとバスはロッテ免税店に寄りました。高級ブランドの店がたくさん並んでいます。近くのロッテワールドにきたのだろうか、ちょっと不釣合いな日本の高校生の一団に会いました。特に欲しいものもありませんでしたが、記念にとアメジストのブローチを買うことにしました。175ドルでした。

    昼食は新羅カルビ店で石焼きビビンバでした。鍋のような熱く熱した器の中にビビンバが入っている。味噌汁を少し入れて良くかき混ぜてキムチを1枚載せて食べる。なかなかおいしい。韓国のご飯は良くこのようにかき混ぜることが多いようです。もちろんご飯は箸(チョッカラ)ではなくて匙(スッカラ)で食べます。

    食後、宗廟[종묘](チョンミョ)に行きました。李王朝の歴代の御霊をまつる霊廟です。政殿には李成桂から19代までの霊が永寧殿にはそれ以外の王・王妃がまつられています。横に長い建物でした。毎年5月の第1日曜に王家の末裔である全州李氏の一族が集まるのだそうです。

    境内は公園のようになっていてお年寄りがたくさん集まって時間を過ごしていました。ここでもカササギを見かけました。

  続く見学場所は景福宮[창덕굼](キョンボックン)です。李成桂が遷都した翌年の1395年に竣工した正宮ですが、1592年、壬辰倭乱(文禄の役)で消失し、1867年再建されたものです。12万6千坪の広さがあると言います。正殿の勤政殿の広い前庭には正1品から従9品までの位階を示す石標が参列する朝臣の立つ位置を示しています。勤政殿の内部中央には重々しい雰囲気の玉座がありました。続いて思政殿、康寧殿などを見て回りました。ここは1895年、日本人による閔妃暗殺の舞台となったところです。いわゆる乙未(ウルミ)事変です。

    日本時代の遺物として目の敵にされていた朝鮮総督府の建物(旧国立中央博物館)は取り壊されて消えていました。

    宮殿の中庭では結婚の記念写真を撮るカップルがたくさんいました。カメラマンと助手がいろいろとポーズをつけている。熱いカップルには寒さは気にならないのかもしれない。   

  最後は南大門市場(ナムデムンシジャン)の西側のロータリーに聳える、堂々たる木像の門、南大門[남대문]を見ました。正式名は崇礼門(スンニエムン)、1398年創建の古い門ですが数々の戦火をくぐり抜けてきた都の正門です。近くの市場は東大門市場と並ぶソウルの2大市場です。大変な人出で、歩くにも大変でした。あまり広くない道路の真ん中にも店が出ているのです。深夜から明け方にかけてアジュンマ(おばさん)達で賑うのだそうです。

    その他、東和免税店や新羅免税店などを巡り、お土産の韓菓を買うなどショッピングに忙しい日でした。

  夕食は魚扶家と言うところで海鮮鍋でした。ここは日式つまり和風の店です。ここではこれまでと違い金属のお箸ではありませんでした。韓国では箸と匙そしてご飯の入れ物は皆、金属製でステンレスでした。高級になると銀や金製だそうです。箸はおかずを取るためのもので、ご飯は匙で食べます。食器は手にとって持ち上げることはありません。食卓においたままです。

    鍋の内容はたこ、エビ、魚などで、肉よりも魚が好きな私としてはホッとしたひとときでした。私は辛い料理はあまり好きではありません。

  今夜の宿はスイスグランドホテルです。ソウルオリンピックの年に建てられたと聞きますが大変きれいで豪華な西洋式ホテルでした。ここではシャンプー、リンス、歯ブラシなどの洗面用具もすべてサービスになっていました。部屋も広くゆったりとしていました。