扶余・公州

2日目 扶余[부며](プヨ)から公州[공주](コンジュ)へ 朝から快晴、雲ひとつない上天気です。今日はいよいよ、百済の文化に触れることになりました。9時にホテルを出発して扶余に向かいます。日本に似た田園風景が続きます。少し違うのは低い丘の上に土饅頭の墓が見えることと、どこに行ってもキリストの教会があることです。教会の高い尖塔はどこに行っても目立つ存在でこの国のキリスト教徒の多さを実感しました。それにしても日本でかつて見たような、なんとなく懐かしい田舎の風景が続くのです。

 やがてバスは扶余に到着しました。扶余は538年(聖王16年)から123年間、百済(ペクチュ)の首都が置かれたところです。かつては泗沘(サビ)と呼ばれていました。(注*はさんずいに比)百済文化の花開いたところで日本の飛鳥時代とほとんど一致しています。私たちはまず、定林寺跡[정림사지](チョンニムサジ)に着きました。1942年の発掘調査で「定林寺」という文字が刻まれた高麗時代の瓦のかけらが出土したことから定林寺と呼ばれるようになりました。昔は七堂伽藍があったのでしょうが現在は存在しません。国宝に指定されている8.3mの石の五重塔があるだけでした。伽藍の配置は中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ典型的な百済時代の様式(日本の四天王寺様式と同じ)です。金堂は現在修復中で毘盧舎那仏坐像は見ることができませんでした。

 定林寺跡から北に向かって程なく扶蘇山城[부소산성](プソサンソン)に着きました。海抜106mのなだらかな扶蘇山に築城された城で北は白馬江[백마강](ペンマガン)が流れています。百済聖王が熊津(ウンシン)(現在の公州)から泗 沘(サビ)(現在の扶余)に遷都してから百済が滅びるまで首都の中心的山城でありました。

 時折、黒と白の鳥、カササギが現れました。別名カチガラスといわれる日本では九州の一部で見られる鳥です。秀吉の韓国出兵のおり、日本に連れてこられたものが繁殖したという伝説がありますが百人一首に「鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」というのがあるので昔からいたのではないでしょうか。吉鳥とされ、佐賀県の県鳥に指定されています。

   整備された道をゆっくりと登って行くと百花亭(ペクワジョン)という小さな東屋に着きます。ここに有名な落花岩

[낙화암](ナクワアム)という断崖があります。悲劇は660年、百済滅亡のとき起こりました。

  新羅と唐の連合軍のおびただしい数の軍勢が百済に侵入したとき、百済の女性たちは敵に蹂躙されるより死を持って節義を守ろうと白馬江に身を投げたのです。その数、3000人と言われ、その姿は花が散るようであったとして「落花岩」と名づけられたと言う伝説があります。

 崖の下の中腹に皐蘭寺[고랃사

](コランサ)というこぢんまりとしたお寺がありました。落花岩から身を投げた女性の霊を慰めるために高麗時代にてられたといいます。寺の裏には薬水が沸いており、近くにはめったにないと言われる皐蘭草が自生しています。

 唐の高宗の軍は蘇定方将軍の率いる水陸合わせて15万の大軍、新羅は武烈(ムヨル)王と金 庾信(キムユシン)大将軍の精鋭5万でした。階伯(ケベク)将軍は5千の精鋭でこの大軍を迎え撃とうとしたのです。多勢に無勢でしたがお互いに一歩も退かず戦いました。しかし、新羅の花郎道(ファランド)の精神が百済の勢いを止めることになりました。忠君二字のために命を捧げて戦う少年、花郎の士気が戦運を変えたのです。

 階伯(ケベク)将軍は最後を悟り、自分の妻子の首を切り、「国を愛するものは私に続け」と叫びながら敵陣に突進、勇敢な戦死を遂げたのです。「百済は滅びるともそこに将軍あり」と金将軍も敵将を讃え、その死を悼んだといいます。

 百済は滅びた後も日本にいた百済王子の豊璋(ブンジャン)や王族の鬼室福信(クイシルボクシン)ら遺臣が再興を企て立ち上がりました。中大兄皇子(のちの天智天皇)が663年3月、援軍を派遣します。2万7千の水軍を編成して新羅軍と戦わせようとしますが錦江(白村江)の河口で唐の水軍に破れてしまいます。世にいう白村江(ペクチョンガン)の戦です。豊璋は高句麗に逃れ、百済は完全に滅んだのです。この戦いに敗れた日本は自国の後進性を痛感し、国家の整備に邁進しました。

 扶余郡庁前のロータリーには階伯(ケベク)将軍の銅像がありました。

 山を降りて街の田一観光食堂というところで昼食を取りました。参鶏湯(サムゲタン)と言う鶏のおなかに高麗人参や松の実、栗、銀杏などの薬味、お米を詰めてじっくりと煮込んだもので夏ばて対策には最適な料理です。

 食事の後、午後は公州(コンジュ)に向かいました。公州は百済第22代文周王(ムンジュワン)のとき、高句麗(コクリョ)に攻められ、475年ソウル近郊の漢城(ハンソン)から都を移したところで扶余に遷都するまで64年間百済の首都でした。当時は熊津(ウンジン)と言いました。 この地を世界的に有名にしたのは1971年、排水溝の工事中に偶然発見された武寧王陵[무령왕릉](ムリョンワンヌン)の存在でしょう。今回の旅で私が最も見たかった場所です。この王陵は未盗掘であったため、数多くの遺物が非常に良く保存されたままに発見され、百済文化研究の転機となりました。 この陵は武寧王とその王妃の合葬墓であり、遺物は108種、3000点であり、王と王妃の金製の冠や髪飾り、また墓誌の形をなしている買地券など国宝に指定されたものが数多くあります。その中で飾りのたくさんついた金属の靴がありましたが、これと同じものが群馬県箕郷町下芝の谷ツ古墳から出土しています。底にスパイクのような棘がついているところも同じです。

 さらに

私の家の近く、高崎市綿貫町の観音山古墳から出土した獣帯鏡は武寧王の頭部に置かれた鏡と同范鏡(同じ鋳型から作られた鏡)です。確かにここの文化は日本に伝わっていたのです。現在、保護のため古墳内にはいることはできませんが、近くに作られた実物大の模型展示館で詳しく内部の様子を見ることができます。陵の壁は磚(やきもの)で作られていますがこのようなものは日本では見たことがありません。また本物は国立公州博物館[국림공주박물관]に展示してありました。

 デザインの美しさ、細工の確かさはここで栄えた文化の完成度の高さを十分に示していると思います。百済は軍事よりも文化と芸術のイメージに彩られた国でした。百済文化は貴族文化であり、優雅で気品に富んだものでした。国が滅んだ後、新羅や日本に伝わり、花開き実を結んだのです。公州博物館の前にはレンギョウの花が咲き始めていました。

 博物館の見学を終えて、バスは大田市儒城区の儒城温泉[유성온쳔](ユソンオンチョン)に向かいました。今晩の宿は儒城観光ホテルです。

 夕食前に時間があったのでホテルに付属する銭湯に入ることにした。まさに銭湯の雰囲気なのです。入り口を入ると受付の女性が二人、ホテルの部屋の鍵を見せて、中にはいると下足番のお兄さんが一人、高価な革靴などはここで預かります。

 私の場合は靴を持っては入れという。そこにはさらに一人、お兄さんがいてノートに部屋番号と名前を記入するとロッカーの鍵を貸してくれる。ロッカーの構造は日本と同じ、ただ数はかなり多い。ここで衣服を脱いで浴場に向かう。入り口でタオルを借りて中にはいると、ものすごくにぎやかでした。体を洗い浴槽に入って周りを見渡してみると熱心に体中を石鹸だらけにして垢擦りをやっています。

 日本では見られない光景は洗い場に寝そべっている人が多いことです。もちろん、子供も大人も前を隠している人はいない。ちょっと目のやり場に困ってしまう。しばらく待ってみましたがカランが空く様子はない。湯の温度は熱いし、のぼせてきたので仕方なくでてしまいました。ホテルに付属していますが、外部から入りに来る人も多く、まさにここは銭湯なのだと実感しました。

 夕食は味噌チゲ鍋、ご飯にキムチ、なにやらメイン料理がかけているようで不評でした。キムチやご飯はどこでもお変わり自由ですが、一行の中では、ご飯をお代わりする人はほとんどいません。食後、街を散策しました。

 ホテルの部屋は昨日より少し狭く、シングルベッドが二つ、ドライヤーとバスローブがついていました。電圧は220Vでした。にぎやかな街の中にあり、夜遅くまで車の通る音が聞こえてきました。