古文書、文献による各地の三浦一族
by三浦 只(Tadashi-Miura)
last modified 01/9/4*代筆)正巳
「各地の三浦一族」目次:
★各地の「三浦一族(さん)」情報をお持ちの方、是非お知らせください。
#そ〜いえばこんな話し知ってるよ、とか
武蔵国(東京.埼玉)
埼玉郡十二天社.上院、権現社の神司に三浦氏が多い。久良岐郡にいた
三浦氏はその後、綿貫氏となった。義連が使者として安房社(千葉県)に詣でた。
光信の妻は三浦義村の娘。里晃初代義実の家臣に三浦時高。
上総(千葉)
三浦若狭守時明は市東郡内の年貢の中から五十貫文を寄進。
上総の正木氏の祖は三浦時綱。三浦良俊の居館がホリコメという所にあった。
下総(千葉.茨木)
千葉系図に三浦三郎の妻、三浦伊藤児玉党などの記事。小金本土寺過去帳に
三浦五良作、元禄の記録がある。
常陸(茨城)
常陸の三浦氏は清和源氏の流れをくむ昌義に従って入国したもの。
久滋郡野上に住んだ三浦氏は野上氏を名乗った。
磐城(宮城.福島)
岩城郡八幡宮縁起に「好島御庄領所.三浦左衛門尉平義村」とある。
田村郡の三浦氏もこの一族。
岩城(福島)
会津郡天満村の条に(風土記の)十二天神宮は久寿元年に(1156)
三浦大介義明が建立したとの記事がある。小田村には三浦介盛隆の墓があった。
三城潟村条には「三浦経連が猪苗代に来た時子経泰、赤房、義泰の
三人を連れ三つの館に住まわせ、三城という地名に改めた」とある。
大沼郡砂子原村条に能野宮の神職は三浦大偶。
耶麻郡荒分村条に館にはその昔三浦左七直成が住んでいた。
陸奥(青森)
建武2年9月(1335)の文書に、三浦介平高継は勲功の賞として糠部内主戸
を賜わったとある。高継は義明-義連-盛連-時連-頼連-頼盛-時明-時継-高継となる。
出羽(秋田.山形)
柞山誌には浦大町、浦横町はもともと一つの村で高嶽神社あたりにあった城
の城主は三浦五郎義厄といって秋田実季の家来であった、とある。
越後(新潟)
建武元年の文書に(1334)、三浦彦四郎茂実と三浦平四郎がいた。
観応3年の文書に三浦下野権守茂美に属し、黒河城において軍忠をつくすとある。
上野(群馬)
三浦義村の二男で景泰は初めて上州利根庄沼田を拝領して姓を沼田に改めた
とある。
甲斐(山梨)
当地方の三浦氏は八代郡本価村の名族といわれ、信長-信経-時信(甲斐守)-
貞連とある。
駿河(静岡)
家譜に駿河守義村-朝村-朝信-朝久-宗久-高久(遠江守)-範時-氏俊
-儀持とある。また、範時の長男に正勝(雅楽助)-正次(五百石)-正定
(弟に正之)という人物その他義就の名前も出ている。
三河(愛知)
この国の三浦家譜に長門守為通の末孫で直元、息子の慶岳、弟の直竹-直正
-直利---子孫は幕臣とある。寛政系譜に行経-朝常-朝胤-正胤-重明-正明-重村
-正村-正重-正次(志摩守)とある。この家系は後に諸候に列せられた。
またその他三河には数多くの三浦にかかわる記録がある。抽出すると、
高通-高救-義同-義意、時綱-安次-明敬-明喬-義理-明次-矩次-前次-田比次-
(以下は別掲系図参照)以下-誠次-俊次-義次-朗次-弘次-顕次-基次となる。
明治元年以降(1764)美作の国(岡山県)の勝山で2万3千石の領主となった
とある。家紋は三引、三沢
尾張(愛知)
伊勢(三重)
東鑑元久年の条に三浦盛時にかかる記事がある。松坂の西南にある大黒田
には紀州徳川家の宰臣三浦長門守の塞堡があったと神都志に記載されている
志摩(三重)
三国地誌に「国分寺は国府村にあったが、ここの堡趾には三浦義同
の末の子三浦新助が居住していた」とある
そのほか各地の三浦一族
大和、河内、加賀、丹後、美作(岡山)----資料多い。(前記、三河の項に
記載の基次以降は美作で九世代続いており明治まで継続している)、出雲、石見、
備後、安芸、防長、紀伊、讃岐、土佐、豊後、肥前などにも資料、記事がのこって
いる。
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