「武蔵円明流は秘して陰流と言う」
陰流とは、陰胎剣を表にして躰陽剣を含めて居る兵法。故に秘して陰流という。

●無相とは、躰躰なきこと空気なり。
●有相とは、躰あること肉身なり。
●陰胎剣は、中曲に当たるまでを陰胎剣と言う。
●中曲より、躰陽剣とする。
●陰胎剣は、無相なり。躰陽剣は、実相なり。これ二刀なり。陰胎剣、躰陽剣二刀合一にして、躰用一源にして顕微無間なり。これ中道の直刀にして当たる所なり。
●無間とは、左右に片寄り隔たる処なきを以て、無間と言う。
大辨宰相大江維時は醍醐天皇延長元年5月に入唐伝来して帰朝し、兵学の書が大江匡房(1041〜1111年)へ伝わりその後源義家(八幡太郎義家)へと伝わる。義家は兵学の書を大切に秘蔵して鞍馬寺宝蔵に納める。
牛若鞍馬に於いて稽古の時分は、平家の世盛りにて剣術謀叛の者をは罰するなり。故に深く密して剣術を習い、故に陰流ともいう。
鞍馬にても法師等は、天狗と号し、老猿と号し、種々の妖言あり。皆平家の聞えを恐れて如くこれを幻言するものなり。この天狗というものは、一山の諸坊剣術の相手となりたるものなり。これを幻言して天狗秘法義経流という。
鞍馬寺の一演僧正と言う者が技芸剣術を牛若に授け、牛若は鞍馬寺に封する所の兵書数巻を得る。牛若は藤原秀衡を頼って奥州平泉に向かった。源氏の大将源義経を勤める事世の知る所なり。
この一演僧正の弟子に俊乗房重源(1121〜1206)と言う者あり。技芸剣術の達人にして、技芸剣術を日向守愛洲移香に伝えるなり。愛洲移香は大明国に渡海して専ら剣術を明兵に伝授し、帰朝して剣術を伝えその名高し。俊乗房はこの技芸剣術を陰流と号してより一流万派に別れる。また俊乗房は焼亡した奈良東大寺の再建を60歳を過ぎてから約25年間奔走した。
俊乗房重源は陰流の原祖であり円明流の流祖なり。
宮本武蔵義貞は村上天皇の後胤赤松圓心の庶流なり。
武蔵義貞の弟、宮本武蔵政名は武蔵円明流の流祖なり。(慶長5年・1610年創流)
武蔵円明流は代々大江匡房剣術一流の流なり。
(最終更新:161021)
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