リレー連載企画
シリーズ「今さらながらに自主上映を考える」F
機関紙「ぱん・ふぉーかす」第126(最終)号('01. 3. 2.)掲載
[発行:高知映画鑑賞会]

 高知映画鑑賞会の活動を通じて約十五年くらいの間に、いくつもの主宰による自主上映活動というものを眺めてきて、その動機づけには大まかに三つくらいの要素があると思うようになった。
 まずは、その土地の映画館で今現在において上映されない観たい映画・観せたい映画の鑑賞機会を提供し、多くの人と共有したいという動機。二つ目に、映画ファンとして強い思い入れを抱く作品を自分たちにとって特別な意味合いを持つものとして、刻み込みたくて自ら上映するというもの。三つ目は、どのような作品を上映するのかということによって自らを表現する手段の一つにしたいというもの。(本当は、これに加えて、活動の継続のために一定の収益性が見込める作品を上映して稼ごうとする場合もあるのだが、これは活動継続のための必要性であって、そもそもの自主上映の動機づけとは異なるものだと考えたい。)
 自覚しているかどうかは別にして、ある程度の期間を通じて上映活動をしてきているところには、そのウェイトが各上映グループによって異なりながらも、この三つの動機の総てないしはいずれかが窺えるように思う。そして、僕が観てきたところでは、大概の場合、まず最初の動機から出発し始めて、次第に二つ目や三つ目の動機というものの色合いを濃くし始めてくるような気がしている。
 特に上映活動として継続を果たしていくうえでは、二つ目や三つ目の動機は、重要な意味を持っている。経営面からは、財政的にも人員的にも常に困難な状況のなかで続けていくためには、こういった極めて個人的な欲望と密接に繋がった部分がないと、実際問題として、なかなか難しいものだ。
 しかし、僕としては、最初の動機という原点の部分をどれだけ濃厚に持ち続けられるかをもって自主上映としての面目を測りたいと思っている。どの地にあっても、必ず起こるという作品の取り合い意識を興行映画館との間にさえも持つようになるのは、全く以て本末転倒だと思うのだ。そういう意味では、昨年は、自主上映にとってとんと暫く思い当たる年がないという、ちょいとした事件が起こった年だった。高知では今や、年間150本を超えるオフシアター上映があるというのに、2000年のキネ旬ベストテンのうち、外国映画は8作品が高知公開されながら、そのなかに自主上映によるものが一本もなかったことだ。
 それは、自主上映の作品選定力が衰えたからではない。映画館でもそういった作品が、ようやくにして、ほとんど上映されるようになったということだ。これは自主上映の最初の動機という観点からは、おおいに喜ぶべき事態なのだ。どんなに短期興行であっても、自主上映で上映するよりは多くの上映回数を劇場は構えてくれる。物理的には、より多くの人が作品を観る機会が得られるわけだ。それが自分たちが上映したいと思えるほどの作品であればこそ、この機会により多くの人が観に行くよう応援するのが、自主上映の最初の動機にもっとも即した対応だと思う。かつて高知映画鑑賞会では、そういう形で今はなき名画座や土電ホールでの上映作品の宣伝に関して、微々たる力添えに取り組んだことがあるように聞いている。
 しかし、残念ながら自主上映グループとして、昨年そういう取り組みを果たしたところは、高知映画鑑賞会を含めて皆無だったように思う。むしろ、逆の声を仄聞したりもした。
 そして、2000年のキネ旬ベストテンに関連して言及すれば、外国映画は、そのほとんどが高知公開されながらも、日本映画は、半分しか公開されていないという、全く以て御粗末な状況がある。キネ旬発表時点での既高知公開作5本のうち、自主上映の手によるものは、高知映画鑑賞会で上映した『ナビィの恋』だけだった。状況に対して、自主上映として取り組んでいくべきところは、まさしくこういうところにあるのだが、外国映画の上映会以上に動員困難がつきまとうのが、日本映画の上映会であるのもまた、現実だ。
 そういうなかにあって、この2月にムービージャンキーが『金髪の草原』(犬童一心監督)を上映して、3月には高知シネマクラブが『愛のコリーダ2000』(大島渚監督)、シネマLTGが『独立少年合唱団』(緒方明監督)を上映しようとしているのは心強く、また嬉しい限りである。
by ヤマ

'01. 3. 2. 高知映画鑑賞会機関紙「ぱん・ふぉーかす」第126(最終)号



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