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『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化を読んで
竹内洋 著 <中公新書>

 ちょっと話題になっていると仄聞し、タイトルが気になって手に取ってみたら、ニ十三年前になる2003年初版の新書だった。2025年2月に17版を数えている。序章「教養主義が輝いたとき」終章「アンティ・クライマックス」に挟まれた五つの章題は「エリート学生文化のうねり」「五〇年代キャンパス文化と石原慎太郎」「帝大文学士とノルマリアン」「岩波書店という文化装置」「文化戦略と覇権」となっている。僕が十代時分に亡父や先生たちから聞いていたとき以来と思えるような人物や書名が続々と出て来て懐かしいやら、可笑しいやらだった。

 地方のなかでも郡部にあった旧制中学から同志社に進んだ大正十五年生まれの亡父は、歴史、哲学、文学などの人文系の書籍の読書を中心とした人格主義である3章P86)ところの教養主義の担い手たる“旧制高校から帝大に進学したエリート学生”ではなかったが、旧制高校への憧れがあったと見えて、好きな酒は今や廃業してしまった玉杯酒造の清酒で、酔っては時折♪嗚呼玉杯にぃ花うけてぇ♪などと旧制一高の寮歌を口遊んだりしていたが、本書を読んでまさに大正教養主義の申し子だったのだなと改めて思った。こうした時代の農村の若者にとって、高等教育に進学して、「インテリ」になるというのは、単に高級な学問や知識の持ち主になるというだけではない。垢抜けた洋風生活人に成りあがるということでもあった。インテリといわれる人の家には難しそうな本や雑誌とともに、洋間があり、蓄音機とクラシック・レコードがあった。紅茶を嗜み、パンを食べる生活があった。知識人の言説は、こうしたかれらのハイカラな洋風生活様式とセットになって説得力をもった。知識人が繰り出す教養も進歩的思想も民主主義も知識や思想や主義そのものとしてよりも、知識人のハイカラな生活の連想のなかで憧れと説得力をもったのである。5章P174)と書かれている「インテリ」への憧れがあった気がする。生活様式のほうは、経済的事情が許さずまるで及んでいなかったが、まさに経済的に貧しく、文化的に貧困な農村を「地」にして図柄である教養知が「自由な美しいコスモポリタンの世界」として輝いたP174)のだろう。

 そのためか、弟と違って長男の僕に対しては、その薫陶が及んでいた気がする。旧制高校生が愛読した倉田百三の『愛と認識との出発』や西田幾多郎の『善の研究』、阿部次郎の『三太郎の日記』なども必読書だった序章P8)と記された『愛と認識との出発』は昭和四十九年四月の改版二十版の角川文庫が僕の書棚にあり、『善の研究』は、今も書棚に収まっている大正十二年十一月八十九版発行の単行本<岩波書店>(亡父の蔵書)で、十代の時分に読んだ覚えがある。本書が二十年余りで十七版であるのに対して、同書は大正十年三月の初版から僅か三年足らずで八十九版というのだから凄まじい。読書文化の盛衰を如実に感じる。

 興味深かったのは旧制高校的教養主義はマルクス主義や実践と無縁でなかったどころか、しばしば双生児だったのである。このことを説明するためには、旧制高校の教養主義の誕生とマルクス主義の関係に立ち入って説明しておく必要がある。1章P39)として述べられていた部分と大正教養主義はマルクス主義を呼び、マルクス主義が弾圧されると再び、昭和教養主義が息を吹き返した。…大正教養主義が人格主義的教養主義、つまり教養的教養主義だとすれば、社会(科学)的教養主義だった。教養主義右派と教養主義左派の違いといってもよいだろう。1章P58~P59)として戦後の一九五〇年代と六〇年代の学生文化としての教養主義とマルクス主義をみることにしよう。P59)と述べている部分だった。

 目に留まったのは佐橋滋元通産省次官など、当時の高級官僚、銀行や保険会社、新聞社などの経営エリートの少なからぬものたちが若いときに労働組合で活躍していた来歴をもっていることに着目終章P215)した経済学者伊東光晴が『思想』(一九六七年十一月号)の「思想の言葉」に記した短いエッセーから引用していた(略)こういう人たちにとって革新の理論は…その後も―経営者になっても、政策担当者になっても―活かされようとしていることである。講座派の理論は日本社会近代化の論理として経済政策の中心を生きつづけた。また貨幣価値の安定を何よりも重視するというオーストリア・マルクス主義者の流れは、労農派を通じて、金融・財政政策担当者のなかでの軍部その他への抵抗の論理となっている等々、かぞえあげればきりがないP216)という部分だった。財務官僚を悪玉に仕立て上げ、軍備増強を目論む情勢が顕著になっている現在の日本が失っているバックボーンを観るような思いが湧いた。

 その前章では戦後日本における教養主義はマルクス主義といちじるしく接近した。旧制高校的教養主義の範型的人物である丸山眞男がマルクス主義者と同伴したことがその象徴である。丸山は、「ある自由主義者への手紙」(『世界』一九五〇年九月号)のなかで、共産主義にシンパシーをもつものが自由主義者だと言明している。旧制高校的エリート文化が軍国主義に抗しえなかったという弱さや罪責感を、マルクス主義に近づくことによって埋めあわせることができた。またマルクス主義のヴ・ナロード的要素によって旧制高校的エリーティズムを中和することができた。マルクス主義的教養主義によって教養主義と教養人士は生き延びた。5章P198~P199)と記されている。

 それらを踏まえたうえで(全共闘による)大学紛争は大衆的サラリーマン像を鏡に、教養知の特権的欺瞞性を喧騒の中で白日の下に晒したが、実は、その前にサラリーマン社会は、テクノクラート型ビジネスマン(経営官僚)像を鏡に、専門知(機能的な知識人)への転換による教養知(教養人)の無用化を静かに宣言していた。そのかぎり、全共闘運動における大学解体の地ならしは、すでになされていたのである。終章P218)としていた。その全共闘運動は教養知識人に対する糾弾と失望によって、教養主義文化の幻想を駆逐した。幻想の駆逐によって、全共闘運動はルサンチマンから遊戯性へと、パフォーマンスの面を露出していく。 このパフォーマンスの面に着目すると、全共闘学生は、一八九〇年前後の政治化した書生である「壮士」を彷彿とさせるものがある。壮士は漢文的語彙による演説と破れた着物やステッキの壮士ファッションで往来を闊歩した…。全共闘学生のアジ演説や立て看の生硬な社会科学用語とゲバ棒、覆面は、壮士の再来を思わせるものがあった。壮士が「腕力党」とされたように、全共闘学生は「暴力学生」とされた。壮士は、学生や青年という表象の誕生の契機となったが、全共闘学生の振る舞いは、学生や青年という表象の死滅を目前にした壮士という青年の原形への先祖返りだったのではなかろうか。ともあれ、教養エリートを中核とする大学文化の解体によってレジャーランド大学への敷石が敷かれていったのである。終章P213~P214)と記されていた。

 僕自身は全共闘世代ではなく、本書にて全共闘世代が大学の理念やキャンパスの教養主義文化に対する愛憎併存を抱えながらの「家庭内暴力」世代だったとしたら、しらけ世代(と当時いわれた)のポスト全共闘世代は、難解本など手にしないことによって、教養主義の文化共同体からの「家出」世代である。にもかかわらず、大学卒業の資格だけはほしいのだから、家出というよりも「家庭(大学)内別居」世代というのが適切かもしれない。終章P224)とされている世代だ。確かにかれらは全共闘世代のように大学知や教養主義に対する露骨な反逆はしなかった。しかし、四年間大学にいなければならないとしたら、軋轢をおこさず、最小限の努力で最大の満足感を得ようとする強かな適応だった。組織のたてまえの裏をかく、あるいはシステムを自分流に活用する「第二次」適応―本来の組織目標のもとで適応するのが「第一次」適応。それ以外のところで充足し、生き延びるのが「第二次」適応…―である。 高等教育の第二次適応型学生=遊民型学生は、高等教育の歴史とともに古く、キャンパスのサブカルチャーとして存在してはいた。しかし、第一次適応派(まじめ、優等生型)や教養読書派がキャンパスの規範文化を担う分、あくまでサブカルチャーないしは裏文化だった。レジャーランド大学は、ポスト全共闘世代の「第二次」適応がキャンパスの表文化になることによって誕生したものである。P224)との指摘が当て嵌まるキャンパスライフを過ごしていたように思う。「遊民型学生」とのネーミングを目にして、僕が高校時分に友人から何になりたいかと問われて「なりたくてなれるものではないが、なれるものなら“高等遊民”がいい」と言って呆れられたことを想起した。明治末を「高等遊民」という言葉が飛び交ったころ3章P92)として本書においても言及していた。同時に、本書に“旧制高校的教養主義の範型的人物”と記されている丸山真男の『日本の思想』<岩波新書>(1978年2月第29刷発行)が今も書棚に収まっていて、紐解いてみると鉛筆書きで棒線や波線などを入れて読んだ跡が残っている。巻末の著者紹介の余白には麻雀千回 はじめて 牌を知り 己を知り おぼろげに敵の聴牌を知り 場の形勢を知り 人に迷惑をかけず おさえるべきをおさえ ガメるべきをガメくる これ 斯界の初段であると書き込んでいた。書中の一節をもじって記したものなのだろうか、或いは読後感を当時耽っていた麻雀に擬えて記したものなのか、もはや記憶にない。

 特に面白かったのが、4章「岩波書店という文化装置」で、意表を突かれたのが、石原慎太郎の名が2章の章題の一部にまでなっていることだった。石原慎太郎こそは、十二年前に太陽の季節』['56]の映画日誌の冒頭に僕は、あまり人の好き嫌いが激しいほうではないつもりなのだが、どうにも嫌いな人物が五人いて、そのトップスリーが石原慎太郎と竹中平蔵、安倍晋三だ。と綴っている政治家だ。『太陽の季節』に先立つ処女作『灰色の教室』に対する酷評に関しての回想が引用されていて、小説の方は弟の放蕩の所産ともいうべき四方山話を基に、私たちの大学とはだいぶ違った雰囲気の慶応という学校を想定し、いろいろ印象的な挿話を綾なして、一種の青春群像を描いた。(同級生の)西村は最初は褒めてくれたが、そのうち学校内での書評会となって、当時大学の全てのメディアを独占していた左翼系の学生たちが乗り込んできて目茶苦茶に酷評したら頼りにしていた彼までが日和ってしまい、私としては憮然たるものだった。…人の苦労を無視したステレオ左翼どものいい気なものでしかなかった。私の観念左翼に対する生理的嫌悪感と軽蔑は、案外あの時造成されたものかも知れない2章P74)と記されていた。そして、石原が“案外”と書いていることに対し、著者がおそらくそうだろう。P75)と敢えて付言しているばかりか、執筆時の石原には、新しいプロレタリア文学という気負いさえあったかもしれない。…高校時代から左翼活動に関心をもっていたP75~P76)彼が同時に内在させていた疑問をこの酷評事件が一気に噴出させたと見ているようだ。著者の見立てによれば転向小説の芽と同時に新しいプロレタリア小説の芽もそなえていたとみるべきP77)処女作を酷評されたことへの反撥は、新しいプロレタリア小説の芽を殺ぎ、転向小説というより反左翼小説・反教養主義小説に向かわせる芽を急速に育てたP78)ということになるようだ。案外どころか確かに、そういうものなのかもしれない。

 転向絡みで言えば、戦前のほうの一九三六(昭和一一)年に思想犯保護観察法が成立し、「転向」認定の基準がきびしくなった1章P56)と言及されている思想犯保護観察法のことは、すっかり忘れていた。また、大正末から昭和初期の「モボ・モガ」は知っていたが、左傾学生は、「マボ」(マルクス・ボーイ)や「エガ」(エンゲルス・ガール)として、歌謡曲の詩に採り入れられるほどの社会風俗になっていた。 「マボ」も「エガ」も昭和になってからの用語であるが、「左傾」のほうはもっと古く、大正時代の造語である。モボ(モダンボーイ)やモガ(モダンガール)の風俗新語メーカーだった評論家新居格(一八八八-一九五一)によって作られた。1章P46)というのは、全く知らずにいたことだった。

 図表では「図5-1 近代日本のサブカルチャー」が目を惹いた。縦軸に「西欧文化への志向(+)(-)」横軸に「武士・農民文化―町人文化」を置き、第一象限を「ハイカラ」、第二象限を「教養主義」。第三象限は「修養主義」、第四象限を「江戸趣味」としていた。“刻苦勉励的エートス”によって武士・農民を括っているところがいい。

by ヤマ

'26. 1.31. 中公新書



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