100回、そして139本
学芸欄「フィルムの誘惑<高知映画鑑賞会の20年>@〜E」
('96. 6.21.〜26.)リレー掲載の第一回[発行:高知新聞社]


 高知映画鑑賞会が一九七七年に、第一回例会作品『わが心のふるさと』『アパートの鍵貸します』を上映してから十九年、ようやく第百回の例会を迎えることができた。この間、定期の例会だけでも百三十九本の映画を上映してきたことになる。運営委員も代替わりをし、ずいぶん前から発足当時の運営委員はいなくなっているが、県外に出た人は無理にしても、高知にいる人は今でも時折例会には姿を見せてくれたりする。
 それにしても、きちんとした組織的基盤を持つわけでもなく、自由参加・無報酬による緩やかな結合のまま、赤字を重ねながら二十年近くも活動が続いてきているのは奇跡的だというほかない。私が運営に関与しだしたのは八六年頃だから、鑑賞会の二十年で言えば半分ほどでしかないが、間近で目撃してきた者の率直な感想としては、この奇跡を支えてきたのは、経済的にも精神的にも労力的にも川崎康為氏だという気がする。ところが、川崎氏は、昨年の映画百年を機に第一線を引かれており、そのあたりのことを身にしみて感じている私としては、上映会が百回目を迎えるに当たって、何らかの形で会と関わってきた者が、こうしてそれぞれの立場からの思いを述べる機会を与えられたことについて、ひとしお感慨深いものがある。

 初期の頃の高知映画鑑賞会は、その運営形態や企画システムについては、高知市民劇場を手本にしていたそうだ。数人の会員から成るサークルを下部組織として持ち、サークル代表者と運営委員による企画運営が進められていたらしい。そして、会員を増やしていこうという、言わば、仲間作りがメインの活動だった。しかし、市民劇場のような成果をあげることができないままに、運営委員がより積極的に主体を担う鑑賞機会提供型の活動に変化してきた。
 私が関わるようになったときには、既にサークル組織はほとんど崩壊していて、個人会員を数十人かかえるだけになっていた。会員数自体については、その後も大きな変化はない。従って、一回一回の例会における作品選定と広報活動が、動員と採算に直結する。初期には、六〜七百人の動員を果たすこともあったようだが、今のような形態になってからは、三百人を超す動員を果たすのは、なかなかむずかしくなっている。

 サークル活動の紹介や会報的色彩の強かった機関誌「ぱん・ふぉーかす」も近年、会員だけではなく、自主上映活動を通じて形成してきた県内外のネットワークに向けて発信するようになってからは、高知の自主上映活動の記録や作品及び映画状況への批評や報告などジャーナル的色彩が濃くなってきている。
 また、高知アジア映画祭や高知シネマ・フェスティバルなどの実施に積極的に取り組むなかで、国際交流基金や県立美術館、高知県国際交流協会、高知県文化財団、高知新聞社などの公的機関あるいは県内外のさまざまなシネクラブとの交流も深まってきた。
 こうした変化によって高知映画鑑賞会の活動は、仲間作りを中心とした会員向けの活動というよりも、映画の状況に対する自主上映という形での自己表現に、その主眼が変わってきたように思われる。それは、市民劇場のようなサークル活動形態をとることができなかった結果でもあるが、それゆえに会としては、果敢な活動に取り組みやすくなったとも言える。
 そのことの善し悪しは別にして、高知映画鑑賞会が今後もそういった自己表現を続けられるかどうかは、ひとえにこの活動の存続を支持し、求めてくれる人たちがどれだけいるかということに懸かっている。すなわち会員・観客の方々の動員と公的機関の支援がどれだけ得られるかということである。
by ヤマ

'96. 6.21. 高知新聞学芸欄「フィルムの誘惑<高知映画鑑賞会の20年>@」



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